後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「興味深い地方の歴史(7)国宝松江城、不昧公の茶室、そして小泉八雲」

2022年07月05日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は山陰の松江市をご紹介したいと思います。国宝の松江城、不昧公の茶室、そしてとラフカディオハーン(小泉八雲)の短編小説をご紹介いたします。
松江城は堀尾忠氏によって1611年に建てられました。山陰地方で唯一の現存天守であり、国宝指定された5城のうちの一つです。国宝指定された5城とは松江城、犬山城、松本城、彦根城、姫路城です。余談ながら私は皆訪れています。松江城の天守からは宍道湖が見えます。松江城の写真を示します。
1番目の写真は国宝松江城の天守閣です。写真の出典は、https://www.kankou-matsue.jp/kankou です。
1638年(寛永15年) に信濃国松本藩より徳川家康の孫の松平直政が出雲18万6千石で入りました。以後、明治維新まで松平家が藩主として続いたのです。
2番目の写真は松江城のお堀と遊覧船です。私どもも2001年にこの遊覧船に乗り見事な松江城の天守閣を見上げたものでした。写真の出典は、https://www.kankou-matsue.jp/kankou です。
3番目の写真は宍道湖です。(https://4travel.jp/travelogue/10771244 )
4番目の写真は宍道湖の夕焼けです。
(https://www.kankou-matsue.jp/omoshiro/sunset/264 )
さて江戸時代中期の七代目藩主の松平治郷は茶人でした。不昧公と号しました。
彼が家老の有澤家の本邸に造った茶室が有名な「明々庵」です。島根県指定有形文化財です。現在は松江城から徒歩10分ほどの武家屋敷等が立ち並ぶ丘の上に建っています。

5番目の写真は有名な「明々庵」です。( http://www.meimeian.jp/ )
不昧公は他にも茶室を作りました。国指定重要文化財の茶室『菅田庵』です。
 
6番目の写真は茶室『菅田庵』です。国の重要文化財です。https://oniwa.garden/kandenan-%E8%8F%85%E7%94%B0%E5%BA%B5/ 
茶道の指導をしたのが松江藩家老の有澤弌通でした。不昧公の幼少期に茶道の指南役となり茶道を教えたのです。
「明々庵」と『菅田庵』は松平不昧公が有澤弌善のために1779年(安永8年)に建立したものと言われています。

山陰の松江へ旅したのは2001年のことです。旅の目的は茶人の松江七代藩主の松平不昧公を偲び、そしてラフカディオハーン(日本名、小泉八雲)の旧宅を訪ねることでした。
松江では不昧流の茶室「明々庵」で茶と菓子を楽しみました。その後に散歩しながら宍道湖を眺めました。家内が長年茶道に親しんでいたので不昧公のことをいろいろ聞いていたのです。
松江では茶室で「若草」という菓子が出ました。鮮やかな緑色の「若草」は柔らかな求肥で上品な甘みです。若草とは不昧公の和歌から命名されたものです。
松江の彩雲堂で「若草」を買い、そして風流堂の紅白の「山川」、さらに三英堂の黄色の地に白い蝶の舞う「菜種の里」を購入しました。帰京後味わいましたがどれも上品で美味でした。松江は美味しい和菓子の町でした。
さて小泉八雲旧居はそのまま彼の記念館になっていました。

7番目の写真は小泉八雲旧居の記念館です。
記念館記念館には八雲の子供や孫、曾孫が遺品を持ち寄って展示しているのです。
八雲や妻のセツさんが使っていた文房具や原稿の下書き、子供の為に描いた絵や説明文が沢山あるのです。その温かい家庭的な雰囲気に圧倒されました。
八雲の生涯は不遇な一生でしたが、セツという素晴らしい女性と結婚したお陰で最後の14年間は幸福になります。セツから聞き出した数々の怪談話を文学作品として英語で発表したのです。
しかしその文学作品が翻訳され日本で有名になったのは彼の死後10年以上経過した大正時代の末頃でした。平川 呈一などの名訳でさらに広く読まれるようになったのです。そのような悲しい、そして幸せな人生もあるのかと考えながら彼の旧居と記念館を見てまわりました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料====================
(1)小泉八雲の一生をかいつまんでご紹介しておきます。
ギリシャで生まれ父母の離婚で親類に引き取られ、その親類も倒産しラフカデオ(小泉八雲)はアメリカに渡ります。恵まれた文才で新聞社で働きます。間もなく黒人の女性と結婚し、その理由で新聞社を馘になります。でもその妻ともすぐに離婚。浪々の身で横浜に流れ着いたのが1890年です。松江の学校の英語教師の職を得ます。この不遇な男の人生を一転 明るい日々に変えたのが小泉セツという賢い女性です。情愛に満ちた女性です。小泉八雲と名前を変え帰化します。子供にも恵まれラフカデオは初めて幸福な家庭を持ちます。職場が変わり熊本、東京へと移り住みますがセツは子供と一緒に付いて行きます。1904年東京の自宅で狭心症で死にます。満54歳でした。戒名は正覚院殿淨華八雲居士で墓は東京の雑司ヶ谷墓地にあります。
小泉八雲の一生の前半は不遇でしたが後半は幸せでした。

(2)小泉八雲の短い作品『鳥取のふとんの話』の紹介です。
家主が貧乏な兄弟を家賃が払えないからといって雪の中に追い出してしまったのです。色々なことを考えさせる悲しい物語です。出典はフリー百科事典「ウイキペディア(Wikipedia)」の「鳥取のふとんの話」の項目です。
『鳥取のふとんの話』は小泉八雲が発表した怪談です。『知られざる日本の面影』という本に所載されており、妻の小泉節子が語って聞かせた鳥取市に伝わる古い昔話です。

物語
鳥取の町に小さな宿屋があった。ある雪の日、この宿屋に一人の男が泊まったが、深夜ふとんの中から聞こえてくる「あにさん寒かろう」「おまえこそ寒かろう」という子どもの声に目を覚まされた。主人はこうした幽霊話を否定していたが、その後もたびたび怪異が起き、とうとう宿屋の主人もふとんがしゃべる声を聞いた。主人がこの怪異を調べようとふとんの持ち主を調べていくと、次のような悲しい話が明らかになった。

そのふとんは、古道具屋が鳥取の町はずれにある小さな貸屋の男から手に入れたものだった。その貸屋には、貧しい夫婦と2人の子どもが住んでいたが、夫婦が子どもを残して相次いで死んでしまった。2人の兄弟は家財道具や両親の残した着物を売り払いながら何とか暮らしてきたが、ついに1枚の薄いふとんを残して売るものがなくなってしまった。大寒の日、兄弟はふとんにくるまり、「あにさん寒かろう」「おまえこそ寒かろう」と寒さに震えていた。やがて冷酷な家主がやってきて、家賃を払えなくなった兄弟を雪の中に追い出してしまった。かわいそうな兄弟はゆく宛もなく、少しでも雪をしのごうと追い出された家の軒先に入って2人で抱き合いながら眠ってしまった。神様は2人の体に新しい真っ白なふとんをかけておやりになった。もう寒いことも怖いことも感じなかった。しばらく後に2人は見つかり、千手観音堂の墓地に葬られた。

この話を聞いて哀れに思った宿屋の主人は、ふとんを寺に持って行き、かわいそうな2人の兄弟の幽霊のためにお経を上げてもらった。それからというもの、ふとんがものをしゃべることはなくなったという。(終わり)