4月30日の掲載記事は「日本の地方、地方の歴史は非常に違い興味深い」でした。この記事では東北地方の岩手県と宮城県と秋田県の歴史や文化の一端をご紹介致しました。
今日は青森県の津軽に生まれた大宰治と彼を育てた女中の「たけ」さんの話を書きたいと思います。4月30日の掲載記事の続編のようなものです。
かつて太宰治は「津軽の金木のごじゃらし(恥さらし)」と言われていたのです。
近年はその生家が「斜陽館」になり、電車を「走れメロス」号と名付けて観光資源とし津軽地方の経済が助かっているので、太宰治の悪口を言うひとは少なくなりました。しかし太宰治は尊敬されてはいないようです。
尊敬と云えば、むしろ青森県知事を3期9年も務め、その後衆議院議員や参議院議員を務めた兄の津島文治氏のほうが皆に尊敬されています。
太宰治の子守をしていた越野タケさんも、彼の中学生以後の放蕩と4回もの自殺や心中未遂事件の噂に困惑し、悲しい思いで過ごしていました。
彼女は小作の年貢米の代わりに津島家の子守になったのです。太宰が2歳の時でした。その家で、我が子のように愛した修治が、「金木のごじゃらし」と言われて非常に心を痛めていました。
太宰治は1909年生まれで、1948年に心中して果てました。一方、越野タケは1898年生まれで1983年に85歳で亡くなっています。
太宰治は1944年に30年ぶりに越野タケさんを訪ね、会っています。この時、太宰は35歳でタケさんは46歳でした。
この30年ぶりの再会を太宰は「津軽」という小説で以下のように書いています。
===「津軽」よりの抜粋:http://www.geocities.jp/sybrma/index.html
「龍神様(りゅうじんさま)の桜でも見に行くか。どう?」と私を誘つた。
「ああ、行かう」と私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登つた。砂山には、スミレが咲いてゐた。背の低い藤の蔓も、這ひ拡がつてゐる。たけは黙つてのぼつて行く。私も何も言はず、ぶらぶら歩いてついて行つた。砂山を登り切つて、だらだら降りると龍神様の森があつて、その森の小路のところどころに八重桜が咲いてゐる。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取つて、歩きながらその枝の花をむしつて地べたに投げ捨て、それから立ちどまつて、勢ひよく私のはうに向き直り、にはかに、堰を切つたみたいに能弁になつた。
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかつた。修治だ、と言はれて、あれ、と思つたら、それから、口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて、庫(くら)の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺(むがしこ)語らせて、たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて、手かずもかかつたが、愛(め)ごくてなう、それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでゐないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言ふたびごとに、手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で、むしり取つては捨て、むしり取つては捨ててゐる。
「子供は?」たうとうその小枝もへし折つて捨て、両肘を張つてモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人。」
私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかつて、ひとりだ、と答へた。
「男? 女?」
「女だ。」
「いくつ?」
次から次へと矢継早に質問を発する。私はたけの、そのやうに強くて無遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。・・・・・
太宰治が1948年に死んでタケさんは悲しんで、しかし少しホッとしたでしょう。肩の重荷を下ろしたたように感じたかも知れません。もうこれ以上、恥さらしな事件が起きなくなったのですから。
しかしそれから年月が流れていくにしたがって、タケさんの心の中に悲しみの情がしだいしだいに大きくなっていったと思います。自分の子供のように育てた人間の非業の死を憐れに思ったに違いありません。悲しんだに違いありません。
私はタケさんにもう少し長生きして貰いたっかと思います。太宰治が多くの人々にしたわれて彼の生家の金木の斜陽館に多くの訪問者が絶えない様子を見てもらいかったと私はむなしい思いをします。私は斜陽館を訪れてそんなことを考えていました。
今日は青森県に生まれた大宰治と彼を育てた女中の「たけ」さんの話を書きました。
添付の写真は青森県の小泊にある太宰とタケさんの像と晩年のタケさんの写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)