後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ベネズエラのジャングル奥地のスペイン料理」

2023年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム
ジャングル奥地のスペイン料理を食べた思い出です。
早朝のカラカスの街を、四輪駆動車で出発する。舗装の無いジャングルの道を4時間。鉄鉱石を露天掘りしている鉱山に着く。

スペイン本国から来ている技師が英語で説明しながら採掘現場をあちこち案内してくれる。見学後、会社のゲストハウスで一緒に昼食をとる。案内してくれたスペインの技師がワインを勧めてくれる。良く冷えた辛口の白。スペインのある地方から取り寄せたと彼が説明する。アペタイザーに、透きとおる細長い小魚のカルパッチョ風の皿がでる。

味が良い。感心して褒める。それまで悲しそうな顔をして一度も笑顔を見せなかった技師が始めて笑顔になる。これはアンギュラスと言ってスペイン独特の魚です。これが無いとスペイン料理になりません。本国から取り寄せました。日本人がスペインから輸入して、養殖してウナギにするので高くなりなかなか食べられません。

急に饒舌になり、説明してくれる。ジャングルの奥地に住んでいると、料理の材料をスペインから取り寄せる以外、何の楽しみも無いと、寂しそうに話し続ける。

食後はシエスタ(長い昼寝)をしますと言って別れた。彼は本国の故郷の夢でも見るのかも知れない。我々は赤茶けた凸凹道を車に揺られながらカラカスへ帰る。

道路沿いには幹がスラリと高い椰子類のような樹木が茂り、木の下には見慣れない草が生えている。鉄鉱石を運ぶ長い無蓋貨物列車がゴットン、ゴットンと熱帯樹の向こうを走って行く。スペインから来た技師の寂しさが身にしみる風景である。
1976年の思い出でした。写真はベネズエラのジャングルの風景です。

「ベネズエラの首都カラカスを流れるオリノコ川」

2023年05月17日 | 写真
カラカス滞在中に毎日見に行ったのはオリノコ川の雄大な滝でした。ナイガヤラの滝のように雄大な滝がまじかに見えるのです。高さはナイガヤラの滝より低いのですが幅は同じくらいありました。

写真を探しましたがありません。仕方なく上流地域の写真をお送りいたします。
写真の出典は、https://venezuela.or.jp/trivia/el_soberbio_orinoco/ です。 


「100年に一度だけ咲く花アガベ・ベネズエラの写真」

2023年05月17日 | 写真
100年に一度だけ咲く花です。
本当に珍しい花です。日本でも咲いた花の写真です。
出典は、https://blog.goo.ne.jp/hana018/e/f0ef4569be3ef2dd95fe7828385c9e49 です。

アガベ・ベネズエラはリュウゼツラン科 アガベ属 ベネズエはです。
アガベの中ではあまり葉が肉厚でなく、トゲもなく柔らかな品種です。葉が緩く内巻きにカールしていて、優雅な雰囲気を醸し出しています。アガベの中では日当たりをあまり必要とせず、また成長も早く育てやすくなっています。 


「南米の貧民街に足を踏み入れ、その光景に胸が痛む」

2023年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム
南米は多くの民族が暮らす混沌とした大陸です。その様子は昨日の記事、「多民族で構成される南米のインディオとマヤ民族」で説明しました。
南米のもう一つの特徴はあちこちに貧民街があることです。南米の貧民街はファヴェーラと言います。ブラジルにおいてスラムや貧民街を指す言葉です。
ブラジルの都市の郊外に不法居住者の建てた小屋の並ぶファヴェーラが必ずあります。この都市の貧民街はブラジルに限らず南米中の都市にあります。
今日は私自身が足を踏み入れたベネズエラの首都、カラカスのファヴェーラについてご報告いたします。
ベネズエラは南米大陸の北の部分を占める大きな国です。その南には広大なブラジルが広がっています。
あれは随分昔のことですが、私はこのベネズエラに1976年に、2週間ほど滞在しました。
その首都のカラカスで胸が痛む光景を見てしまったのです。近代的な中心街を外れた山の斜面に貧しい人々がビッシリと住んでいたのです。それは南米特有の山の斜面にある貧民街だったのです。
私はベネズエラに行く前は、その国は豊かで幸せな国だと思っていました。熱帯特有の青空の下で人々は陽気で明るく生きていると想像をしていました。しかし、来てみると貧民街のひどい光景に度肝を抜かれたのです。
好奇心の強い私はその実態を知りたくなって、カラカス市で開催された国際研究会で知り合った現地の研究者に案内をお願いしました。偶然にも彼は山の貧民地帯の出身だと言います。
山の斜面の下の入り口に、蛇口の壊れた水道が一個あり、水が流れています。半身裸の男の子が水の入ったヤカンを2個持って坂道を登って行きます。レンガやシックイで固めた不揃いの小さな家々が重なるように斜面を埋めて、上へ、上へと続いているのです。
誰も居ません。ガランとした空虚な路地を乾いた風が吹いているだけです。悪臭もせず清潔な感じです。中腹まで登ったら家の前で老婆が編み物をしていました。我々をとがめるように険しい目つきで見ます。案内してくれた彼が何か現地語で挨拶すると途端に笑顔を見せたのです。彼と老婆が何か話し合っています。
後で彼に聞きました。ガランとして誰も居ないのは、日雇いの仕事で皆な出た後だからと。そして観光客が現地の案内人なしで来ると殺されるから私へ注意するようにと言ったという。
その数日後の土曜日に、ホテルの受付でキリスト教のミサに行きたいと相談しました。それなら裏にある競技場へ明日の朝7時に行きなさいと教えてくれました。
翌朝行ってみると、荒れて崩れかかった巨大な闘牛場の観客席を人々が埋め尽くしています。清潔そうですが、みんな貧しげな身なりです。闘牛場の真ん中の土の上に小さな赤い絨毯をしいて神父さんが2、3人と、白い服を着た20人くらいの侍者の姿が見えます。
普通のカトリックのミサですが、スペイン語です。でも雰囲気や式次第が日本のカトリックと同じです。
回りの人々は黒人が多く、混血のような人もいました。そんな現地の人々の中へ溶け込んでしまい、一緒に祈りました。賛美歌も一緒に歌ったのです。「この山の斜面の貧民街を何とか助けて下さい」とお祈りしました。
私の訪れた貧民街の人々と一緒に祈ったのです。荒れた闘牛場での野外ミサでした。
金持ちの人々は中心街のヨーロッパ風の立派な教会のミサに行き、山の斜面の人々は荒れた闘牛場の野外ミサに来るのです。
それ以来、私は時々、カラカスの山の斜面の光景を思い出しては胸が痛みます。
何故、南米の貧民街は解消出来ないのだろうかと考えています。
ブラジル在住の平峰盛敏さんが貧民街について説明してくれました。
・・・アフリカから連れてこられた奴隷は1888年に解放されました。しかしその子孫は130年近く経った今でもその大部分が、最底辺生活から抜け出すことが出来ずにいます。この貧困層の存在は人種差別による貧困では無く、生活能力不足による貧困と考えられています。彼等が山の斜面の貧民街に住んでいるのです。・・・

5枚の写真にブラジルのリオデジャネロの貧民街の写真を示します。写真の出典は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A9 です。
ベネズエラの貧民街の写真も示すべきでしょうが、あの時はあまりの光景に胸が痛み、カメラを取り出すことが出来ませんでした。ブラジルの風景と同じと言われています。南米全体の都市の郊外には同じような貧民街が広がっているようです。

今日は私自身が足を踏み入れたベネズエラの首都、カラカスのファヴェーラについてご報告いたしました。そして南米中にある貧民街にも言及しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真はリオデジャネイロ市のヴィディガル(ビジガル、Vidigal)の貧民街です。イパネマ海岸のシェラトンホテル(右)の裏に広がっています。
2番目の写真はリオデジャネイロ最大の貧民街(ファヴェーラ)のホシーニャ(Rocinha)という場所です。
3番目の写真もリオデジャネイロ最大の貧民街(ファヴェーラ)のホシーニャ(Rocinha)という場所です。
4番目の写真は貧民街(ファヴェーラ)で警戒する武装警官の様子です。
 
5番目の写真はリオデジャネイロ市のコンプレクソ・ド・アレマンの貧民街(ファヴェーラ)です。6万人以上が住むが、2007年には憲兵隊とギャングの市街戦も起きた場所です。