後藤和弘のブログ

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「30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画」

2023年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム
人間の才能は不思議なものです。80歳、90歳と齢を重ね平々凡々と生涯を終える人がいれば、一方で油彩画の花を咲かせ30歳で旅立つ人もいます。神は全ての人を愛していますが、それぞれのさだめを与えておられるのです。。今日は30歳で亡くなった佐伯祐三の油彩画を7点をご紹介したいと思います。
佐伯祐三の原画の数十枚をまとめて見たことがありました。2008年、横浜そごうデパートでの特別展でした。
油彩画の原画には絵の具が盛り上がり、画家の熱い息づかいが感じられたのです。30歳で客死した佐伯祐三の情熱が直接伝わって来るのです。
彼はパリに魅せられ憑かれたように絵を描き続けました。最後は文字通り狂って彼の地の精神病院で息を引き取りました。たった6年間ほどの画歴でした。
今日も粛然とした想いで佐伯祐三の油彩画の写真をお送りいたします。
1番目の写真は「パリ街景」です。原画の大きさは38.1×45.4cm です。
2番目の写真も「パリ街景」です。1927年作で大きさは65×81cm です。
3番目の写真は「郵便配達夫」です。1928年の作品です。原寸は80.8×65.0cm です。
4番目の写真は「ラ・クロッシュ」です。1927(昭和2)の作品で原寸は、52.5×64.0cm です。
5番目の写真は「広告“ヴェルダン” 」です。1927年作で大きさは54.0x65.0cmです。
6番目の写真は「靴屋(コルドヌリ)」です。1925年作で原寸は,72.5x59.0cmです。.
7番目の写真は「滞船 」です。1926年作で大きさは51.5x64cm です。

絵画の写真について解説は不要です。命を削るようにして描いた作品群の前では、どんな美辞賛辞も空々しくなります。
2008年、横浜そごうデパートでの特別展で一番感動した絵は3番目の写真の「郵便配達夫」でした。パリの自宅に来た郵便配達夫をモデルに80.8×65.0cm の大きな油彩画にしたのです。彼の描いた人物画の最後になりました。彼の死後奥さんの米子が手を加えて完成したと言います。何故感動したのか分かりませんがこの大きな絵にグイグイ引きつけられたことが忘れられません。

さて佐伯祐三の略歴を記します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/佐伯祐三 からの抜粋です。
1898年4月28日 に生まれ 1928年8月16日にパリで没しました。
佐伯は大阪府西成郡中津村にある光徳寺の男4人女3人の兄弟の次男として生まれました。1917年(大正6年)東京の小石川にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事します。
旧制北野中学を卒業した後、1918年(大正7年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し1923年(大正12年)に卒業します。
東京美術学校の在学中に結婚した佐伯の妻・佐伯米子(旧姓・池田)も絵を描き二科展などにも入選していたのです。
佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し代表作の多くはパリで描かれたの絵です。
第1回のパリ渡航は1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在でした。この第一次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景を描いたもので、ヴラマンクとともにユトリロの影響が明らかです。
佐伯はパリに長く滞在することを望んでいましたが佐伯の健康を案じた家族らの説得に応じ1926年にいったん日本へ帰国します。
2度目の滞仏はそれから間もない1927年(昭和2年)8月からであり、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかったのです。
1928年3月頃より持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となります。
「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品で「描ききった」と家族に説明していたといいます。屋内では偶然訪れた郵便配達夫をモデルに油絵2点を描きました。
自殺未遂を経てセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院します。
一切の食事を拒み、同年8月16日衰弱死しました。墓所は生家である大阪市の光徳寺と東京都千代田区の心法寺にあります。
現在、佐伯の作品は大阪中之島美術館50点、和歌山県立近代美術館14点など、日本各地の34か所に所蔵されているそうです。

下にユトリロとヴラマンクの絵画を示します。
8番目の写真はユトリロの「サン・ルスティーク通り、モンマルトル」です。

9番目の写真は山梨県立美術館特別展「ヴラマンク展絵画と言葉で紡ぐ人生」 で展示されたヴラマンクの風景画です。

今日は30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画を7点をご紹介いたしました。ついでにユトリロとヴラマンクの油彩画もご紹介いたしました。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========================
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日 - 1955年11月5日)は、近代のフランスの画家。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%AD )
生活環境に恵まれなかったが、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親であるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリリョに認知されて、「モーリス・ユトリロ」と改姓した。
ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人だったという。
彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界大戦後まで余命を保つが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高い。パリ郊外のサノワにはモーリス・ユトリロ美術館がある。またモンマルトルにある墓には献花が絶えない。

モーリス(モリス)・ド・ヴラマンク(Maurice de Vlaminck , 1876年4月4日 - 1958年10月11日)は、フォーヴィスム(野獣派)に分類される19世紀末~20世紀のフランスの画家、文筆家。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AF )
1876年、パリで音楽教師の子として生まれるが、16歳の時には家を飛び出してシャトゥーに住んだ。18歳の時に結婚し、自転車選手をしたり、オーケストラでバイオリンを弾いたりして生計を立てていた。
ヴラマンクは、徹底した自由主義者で、自分の才能以外の何ものも信じず、何ごとにも束縛されたり、服従することを嫌った。こうした性格から、絵画についてもあらゆる伝統や教育を拒否し、少年時代に多少絵の手ほどきを受けた程度で、ほとんど独学であった。
1900年、シャトゥー出身の画家、アンドレ・ドランと偶然知り合って意気投合し、共同でアトリエを構える。1901年には、パリのベルネーム・ジュヌ画廊で開かれていたゴッホ展を見に行き、そこでドランを通じてアンリ・マティスに紹介されている。
第一次世界大戦で兵役に着き、復員後はパリ郊外に拠点を移し、自身の住む村や周辺の町の風景画、静物画を多く描いた。