後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「この平和を守るために第二次世界大戦の莫大な犠牲者数を忘れない」

2023年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和の大きな戦争、第二次世界大戦が終わってから78年間、日本は平和でした。経済の高度成長もあって豊かになりなました。日本は豊かで平和な国になったのです。
この豊かで平和な生活を守るために第二次世界大戦の莫大な犠牲者数を忘れないことが重要だと思います。私は第二次世界大戦の莫大な犠牲者数を絶対に忘れません。310万人の日本人が尊い命を落としたのです。
それは日本民族の最大の悲劇であり二度と繰り返すべきではありません。そして悲劇は日本ばかりでなく全世界ではもっと多くの人命が失われたのです。全世界では合計6000万人の死者があったのです。

大二次世界大戦に関して日本ではあまり知られていない事実が沢山あるのです。それを順に記します。
(1)日本の占領地のフィリピンとインドネシアで民間人の死者がそれぞれ最大、100万人と150万人だったのです。
(2)日本領だった朝鮮の人が兵士や軍属として最大47万人以上死にました。
(3)インド人は英国兵として87000人死にましたが、民間人も250万人死にました。民間人の250万人の死は戦争によって起きた飢饉によるものです。
(4)中国人は400万人の兵士が死に民間人を含めた合計が2000万人となっております。これが世界の常識になっています。
(5)ドイツに占領されたソ連では合計2400万人の人が死にました。
(6)日本人はあまり知りませんが犠牲者の多かった国々は次の通りです。
ブルガリア、チェコソロバキア、フィンランド、ギリシャ、ハンガリー、ラトビア、リトアニア、オランダ(インドネシアに居た人も含む)、ポーランド、ルーマニアなどです。これらの国々の幾つかはドイツ側に立って戦争をしたのです。
(7)全世界の総合計です。兵士の死者は15,00万人で民間人の死者は45,00万人でした。総合すると全世界で6000万人の人が死んだのです。

下に第二次世界大戦の国別の犠牲者数の表を示します。
この一覧表では1、国の名前、2、軍人と兵士の死者数、3、民間人を含めた死者数の総合計の3項目が順に示したあります。
(https://www.nationalww2museum.org/students-teachers/student-resources/research-starters/research-starters-worldwide-deaths-world-war  より)

Japan、日本
 212万人(兵士の死者数)
 260万人ー310万人(民間人も含めた死者の総合計)

Korea(朝鮮出身の日本兵や軍属)
  38万人-47万人

Canada カナダ
 45,400
 45,400

China、中国
 3-4,000,000
 20,000,000

インドネシア
 --
 3-4,000,000

France、フランス
 217,600
 567,600

仏領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)
 --
 1-1,500,000

Germany、ドイツ
 553万人
 660万人-880万人

India、インド
 87,000
 1,500,000-2,500,000

Italy、イタリー
 301,4003
 457,000

Malaya、マレー半島
--
 100,000

Philippines、フィリピン
 57,000
 50万人-100万人

Poland、ポーランド
 240,000
 5,600,000

Soviet Union、ソ連
 8,800,000-10,700,000
 2400万人

United Kingdom(イギリス)
 383,600
 450,700

United States(アメリカ)
 416,800
 418,500

全世界の総合計、6000万人の死者
内訳、 Battle Deaths、15,000,000
    Battle Wounded、25,000,000
    Civilian Deaths(民間人の死者)、45,000,000

脚注;Worldwide casualty estimates vary widely in several sources.
The number of civilian deaths in China alone might well be more than 50,000,000.

ここで第二次大戦の太平洋戦争の写真を5枚示します。
1番目の写真は1946年12月8日、真珠湾攻撃のため日本の航空母艦上で準備中の攻撃機です。
2番目の写真は日本の攻撃機で炎上する真珠湾のアメリカ艦艇です。この日、日本軍はフィリピン、インドネシア、ニューギニアなどを攻撃し、短期間で占領してしまうのです。
3番目の写真は沖縄の日本軍へロケット弾砲撃をしているアメリカ軍の駆逐艦です。このような徹底的な攻撃の後でアメリカ軍の海兵隊が上陸して来るのです。
4番目の写真は上陸したアメリカ軍の塹壕の光景です。アメリカ軍の兵士が日本軍を攻撃し上陸した直後なので緊張しています。
5番目の写真は日本軍を火炎放射器で攻撃しているアメリカ軍です。

さて写真で示したように日本軍は初戦の短期間は連戦連勝しました。しかしアメリカ軍の反抗が強力で日本の占領地が奪還されてしまったのです。そして本土の200以上の都市が空襲で焦土になります。とどめの広島と長崎の原爆投下で終戦になります。それは1945年8月15日でした。

一方、第二次大戦後、責任を取って自殺したドイツの民間人の数は直後の4日間だけで;ベルリンで1200人、ライプチッヒで600人、ハンブルグで450人、ケルンで300人が自殺したと新聞に出ていたそうです。4日間だけでの総計が2550人です。それに比較して日本では愛宕山にこもった民間人10人位とその他に僅かと言われています。
さらにシベリア抑留でドイツ兵が55万人死に、日本人は5万人以上が死んだのです。

昭和時代の人類は狂気のように殺しあったのです。国家対国家の大規模な戦争によって殺しあったのです。

昭和という時代は以上のような戦争の時代でした。現在の平和な日本で生まれ育った人はこの膨大な戦争犠牲者を知らない人も多いと思います。

戦争では命を落とした人の数倍の負傷者も出るのです。そして戦争は人の人格をも破壊してします。戦争は絶対してはいけません。

この平和な生活を守るために第二次世界大戦の莫大な犠牲者数を忘れないことが重要だと信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「北海道の最果てのトドワラの荒涼と不気味さ、その東にある北方四島」

2023年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の東の端に根室市があります。その北に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。その標津川と根室市の間に野付半島があります。半島は幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た半島です。湾曲しながら26kmも伸び野付湾を囲んでいます。砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。
そして野付灯台の手前にはトドワラとナラワラという枯れたトドマツの原とナラの原が広がっている場所があります。地盤沈下で海水に漬かってしまったトドマツの木とナラの木が枯れて、白い骸骨のように立っています。荒涼としていて不気味です。白骨のような林が野付湾を一層荒涼とさせています。人間の住む世界ではありません。
しかし野付湾には美味しい縞エビが棲んでいて、夏と秋にはその味を楽しむことが出来ます。
今日は荒涼とした最果てのトドワラ、ナラワラの不気味な風景と野付湾の縞エビ漁の白帆の打瀬帆舟の写真をご紹介したいと思います。そしてそこから見える北方四島の国後島への想いを記したいと思います。
まず下に野付湾の全体の風景写真を示します。
1番目の写真は野付湾です。この野付湾の写真の出典は、http://betsukai.jp/blog/0001/archives/2009/06/images/1245371831.jpg です。
写真のような野付湾を右手に見ながら細い砂洲の上の舗装道路をえんえんと辿って行くとやがて右手にナラワラがあります。下にその光景を示します。
2番目の写真はナラワラの光景です。よく見ると写真のようにナラ林全てが立ち枯れになっている場所です。ナラワラを通り過ぎ、野付灯台の傍まで行くと立派なビジターセンターがあります。
その駐車場に車を停めて、ハマナスの紅い花と実を見ながら、ぬかるみの小道を1.2kmほど歩くとトドワラがあります。下の写真です。
3番目の写真はトドワラです。立ち枯れたトドマツの木があります。木道は高く狭いので、強い海風が吹き付けると落ちそうになり怖かったと家内が言っておりました。
4番目の写真は木道の先端から見た荒涼としたトドワラの風景です。
トドワラのある半島を野付半島と言いますが、その内側は野付湾と言います。地元では尾岱沼(おだいとう)と呼んでいます。その野付湾では帆舟の打瀬帆舟による縞エビ漁が盛んなのです。
初夏と秋が北海シマエビ漁の猟期です。舟の舳先から船尾にかけて幅の広い網を海中に降ろし、船を横向きにして幅広い網を帆の受ける風の力で静かにゆっくり引っ張って行くのです。雄大な海の中に浮かんだ白帆の風景が素晴らしいのです。
5番目の写真は北海シマエビ漁の打瀬帆舟です。出典は、http://ugk70671.blog117.fc2.com/blog-entry-282.html です。
夏漁は例年6月中旬~7月中旬で、秋漁は例年10月中旬~11月上旬です。
6番目の写真は野付湾に散らばった打瀬帆舟の風景です。この打瀬帆舟の風景は季節の風物詩として有名です。出典は、http://www.hokkaidolikers.com/articles/180 です。
ビジターセンターに戻って、シマエビ定食を昼食として食べました。茹でたシマエビが美味しかったです。
さて、この野付半島の向かい側、16km沖には北方四島で一番大きな国後島があります。野付港は国後島の町や村に行く船の発着場として戦前は賑わっていたそうです。
訪れたビシターセンターの2階には戦前の択捉島や国後島の町や村落の写真が沢山展示してあります。丁寧に見て行くと択捉・国後には多くの日本人が住み、鮭やニシンを取っていたことが判ります。
7番目の写真は野付半島のビシターセンターの2階から家内が撮った国後島です。日本人の先祖代々のお墓も沢山残っているに違いありません。ロシアは返還しません。
墓参りくらいは行けるのでしょうか?そんな事を考えながら砂洲にに伸びた道を帰って来ました。

今日は荒涼とした最果てのトドワラ、ナラワラの不気味な風景写真と野付湾の縞エビ漁の帆船の写真をご紹介しました。そしてそこから見える国後島への想いを記しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。後藤和弘(藤山杜人)

====何故北方四島はロシア領になったか?===========
(出典は、http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h13/jog203.html です。)
1945年8月24日早朝、ロシア軍のアリモフ少将が戦車隊を従えて、樺太の豊原に到着し、日本軍の施設をすべて接収し、樺太庁の行政も停止させた。これにて樺太の占領は完了した。
千島列島に関しては、24日以降、順次、日本軍将校を同船させて小型艦艇数隻からなる偵察部隊が南下し、各島で日本軍の降伏を受け入れながら占領を続けていった。
択捉、国後については、当初は「アメリカ軍がやってくるはずだから我々は手をつけずにかえるのだ」と言って、上陸しなかった。この二島はかつてロシア領になった事はなく、日本固有の領土であった。したがって、ヤルタ協定でソ連に「手渡される」ことになっていた千島列島にこの2島が入っておらず、日本本土の一部として、アメリカ軍の占領地域に入っていたと 解釈されても不思議はなかった。
しかし、アメリカ軍が来ていないと知ると、ソ連軍は8月28日に択捉島に、9月1日に国後島に上陸した。さらに千島列 島に含まれず北海道根室半島の延長である歯舞諸島、色丹島にも、ソ連軍はそれぞれ9月1日、4日に占領した。歯舞諸島占領が行われた9月4日は、降伏文書正式調印の二日後である。