今日は我が町、小金井で何時も食料品を買う店をご紹介致したいと思います。JR中央線の小金井駅の南口にある商店街です。
三浦屋、トンカツの和幸、西城石井、魚の山助、スーパーのFoodway 、イトーヨーカ堂の食品売り場などです。それらの写真をお送りいたします。
1番目の写真は三浦屋の小金井店です。
2番目の写真はトンカツの和幸の小金井店です。
3番目の写真は西城石井の小金井店です。
4番目の写真は魚の専門店の山助です。
5番目の写真はスーパーのFoodway です。
日常の買い物は小金井でしますが、たまには立川のデパートの高島屋まで行きます。
6番目の写真は高島屋の地下にある美濃吉のいろいろな京料理のショウケースです。綺麗な弁当を買って、家で食べながら以前に訪ねた京都の街を思い出し家内としゃべります。
7番目の写真は京料理 をつめた美濃吉の弁当です。美濃吉は 300年前の享保元年1716年に創業しています。
写真を示したような豊かで綺麗な食品売り場を見ていると戦後の食料難の時代を思い出します。ひどい食料難の時代でした。餓死する人も絶えませんでした。飢餓の時代だったのです。
その飢餓の時代には不味いカラス以外は野鳥も捕って食べました。鴨や雉や山鳥は勿論、罰当たりの人は神社の鳩まで捕って食べました。鳩はフランス料理で使われるくらい美味しいそうです。
美しい白鷺が全国で見られるようになったのは食料難の時代が過ぎてからです。
私もシジュウカラやメジロやスズメを焼き鳥にして食べた強烈な経験そのがあるのです。少しそのいきさつを話しましょう。
戦後すぐの頃、少年だった私は近所の「不良のあんちゃん」に可愛がられていました。不良のあんちゃんの子分だったのです。そのあんちゃんは私より年上で背が高く敏捷でした。いろいろ悪戯をし、大人の言うことを聞かないので「不良のあんちゃん」と呼ばれていたのです。
この「あんちゃん」は裏山でシジュウカラやメジロやスズメを捕る名人でした。
棒の先に強いねばり気のある「とりもち」を巻きつけて裏山の雑木の枝に取り付けるのです。そしてそばに囮の鳥を入れた鳥籠をつるすのです。そうするとシジュウカラやメジロやスズメが簡単に沢山捕れるのです。
小鳥の羽を取り去って、割いて、竹串に刺してイロリの火で醤油をつけながら焼くのです。それは実に美味しいものでした。特にスズメは美味しかったのです。
私を可愛がってくれた「不良のあんちゃん」は美味しい焼き鳥を食べさせた後、何処かに消えてしまいました。それ以来、杳として消息がわかりません。器用で、その上子分を可愛がる性格ですから、それなりに幸せな一生だったと信じています。
豊かで綺麗な食品売り場を見るたびに「不良のあんちゃん」に可愛がられた少年の頃を思い出します。イロリの火で醤油をつけながら焼いた小鳥の美味しかったことを思い出すのです。
その経験は私に不良少年に対する暖かい気持を持たせたのです。この世の不良少年は必ず優しい気持ちを持っていると信じているのです。
親鸞は歎異抄のなかで、「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」と書いています。
不良少年は学校の成績が悪くて非行をするものです。先生の敵です。しかし私は不良少年に恩義を感じています。この世に元来悪い人などいないのです。
不良のあんちゃんの一生が幸多かれと祈っています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==========================
「1000万人が餓死するといわれた終戦直後の日本」
終戦直後の食料難である。このとき、供給面では、米は大凶作だといわれた。東京・深川の農林省の倉庫には、東京都民の3日分の米しかなかった。多くの人が海外から引き揚げてくるので、需要は増加する。輸入はゼロである。戦前は、朝鮮や台湾という植民地からの米輸入があったが、それもなくなった。巷間こうかんでは1000万人が餓死するといわれた。
米、麦、イモなど多くの食料は政府の管理下に置かれ、国民は配給通帳と引き換えに配給公団から食料を買った。配給制度である。ただし、このときは、アメリカからの穀物援助で糊口ここうをしのいだ。また、1945年は、農林省の統計が予測したほどの不作ではなかった。