小金井公園にある江戸東京たてもの園には3軒の昔の農家が展示されています。農家を見ると戦争中の疎開生活のいろいろを思い出します。広い水田や田舎の小学校などを思い出します。終戦の玉音放送はその小学校の校庭で聞きました。
いろいろを思い出しますが印象深かったのはドジョウ汁でした。そこでドジョウ汁をご紹介したと思います。
私は弟2人と共に宮城県の北の農村に疎開しました。そこでドジョウ汁を初めて食べました。農家の夕飯によく出たのです。
江戸東京たてもの園の昔の農家を見る度にそんなことを時々思い出します。
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1番目の写真は私が疎開した宮城県の北の農村によく似た農村の風景です。写真はインターネットからお借りしました。
疎開した農家で馬を飼っていました。珍しいので草をよく食べさせました。
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2番目の写真は大鍋がぶら下がった囲炉裏の写真です。。写真はインターネットからお借りしました。
疎開した農家では朝と昼の2食には白米が出ました。夜は囲炉裏の大鍋でスイトンを煮て食べました。皆で車座になってスイトンを食べるのです。その時水田の水路で取ったドジョウをたくさん入れるのです。濃厚なドジョウ汁です。ドジョウには脂がのっていて芳醇な味わいです。
食糧難の仙台から疎開したのでドジョウ汁は大変美味しいご馳走でした。感動的な食べ物でした。
その感動は忘れられません。それから暫くして東京に住むようになりました。そうしたら東京にドジョウの専門店があったのです。浅草の「駒形どぜう」です。
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3番目の写真は浅草の「駒形どぜう」の本店です。写真はインターネットからお借りしました。
「駒形どぜう」の創業は1801年。徳川11代将軍、家斉公の時代です。初代越後屋助七は埼玉県北葛飾の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。それが現在の「駒形どぜう」の本店になったのです。
「駒形どぜう」で疎開先の農家で食べたドジョウの美味しさを思い出して浅草の「駒形どぜう」の本店に家内と一緒に行きました。
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4番目の写真は「駒形どぜう」の丸どじょぅ鍋です。
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5番目の写真は「駒形どぜう」の柳川鍋です。
「駒形どぜう」のドジョウは淡白で泥臭くないのです。妻は初めてドジョウを食べましたが泥臭くないので美味しいと言います。しかし私は少し泥臭い芳醇な味が忘れられません。疎開した農家で食べた味が忘れられません。
今日は戦争中の疎開生活で食べたドジョウ汁にまつわる思い出を書きました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)