蒋介石は1887年に生まれ1975年に台湾で没しました。88年の人生でした。
一方、張学良は1901年に生まれ2001年に100歳の人生をハワイで終えました。
この2人は日中戦争で中国が敗けないような戦いを進めた非常に重要な人物でした。蒋介石は重慶に首都を移し、頑強に日本と戦いました。
一方、張学良は1936年に西安で上司の蒋介石に反逆し、彼を拘留し、共産党軍と協力して日本と戦うことを強要します。それまで日本との全面戦争に消極的だった蒋介石が急に共産党と組んで日本との総力戦を決意しました。
日本がどうしても日中戦争で勝てなかったのは張学良の力ずくの蒋介石の説得のおかげだったのです。考え方によっては張学良こそ日中戦争のキーパーソンだったのです。この2人の写真を下に示します。
上の左は1928年中国を統一し、国民党の頭として独裁権を確立したときの蒋介石の写真です。右は父、張作霖の死後、その後継者として意気盛んだったころの若い時の張学良の写真です。
私はこのブログ記事で1928年から1975年まで47年間にわたって中華民国の独裁者であった蒋介石の親日家としての2つのエピソードと、張学良の反逆後の悲劇的な後半生を簡略に描いてみたいと想います。
蒋介石は明治維新で近代化した日本に憧れ、20歳の時の1907年(明治40年)に東京振武学校へ留学します。そして1909年に大日本帝国陸軍の将校として迎え入れられ陸軍第十三師団の高田連隊の野戦砲兵隊の将校として訓練を受けたのです。それは1909年から1911年までの3年間でした。この時の野戦砲兵としての訓練がその後の中国の統一戦争に役に立ったことは間違いありません。
そして1911年に辛亥(しんがい)革命が起きると急ぎ帰国し、辛亥革命で活躍し、孫文が自分の後継者と考えるようになったのです。
蒋介石は日本と敵対せず満州国を容認し、終始一貫、日本人に親近感を持っていたのです。
その一つのエピソードは抗日戦争中の1938年(昭和13年)の「日本国民へ告ぐ」という声明にもあります。(http://www.geocities.jp/yu77799/shoukaiseki.html)
その一部を転載すると以下のようになります。
======日本民衆は敵視せず===============
これを要するに、中国の抗戦は単に生存自衛のためのみならず実に中日両国国民の未来の幸福を実現するにある。而して貴国の暴戻なる軍部は単に中国の敵人のみならずまた日本国民諸君の公敵でもある。
中国は抗戦してより今日に至るまでただ日本の軍閥を敵として認め、日本国民の諸君を敵視してゐない。中国軍民は平和を愛好し、軍閥の圧迫を受けてゐる諸君に対し始めより利害の共同する良友と認め満腔無限の熱情と期待を抱くものである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そしてもう一つのエピソードは、日本の敗戦後の発表した「賠償放棄」声明です。
これには敗戦で意気消沈していた日本人が非常に勇気づけられたのです。吃驚もしました。古今東西、戦勝国が敗戦国へ戦争賠償を要求しないことは稀れなことだったのです。中国を蹂躙した日本人は巨額の賠償を覚悟していたのです。
その賠償を放棄した蒋介石に対して日本は武力で勝って、徳で敗けたのです。
その結果、日本は国民党の支配する台湾と友好関係を築いたのです。
蒋介石は戦争中、日本の新聞や雑誌でさんざん蔑まれました。多くの日本人は彼を軽蔑していました。それは日本の軍部の宣伝に過ぎなかったのです。
しかし戦後になって、そして現在振り返ってみると蒋介石は中国の生んだ傑出した独裁者でした。日本人は最近、蒋介石へ好意的ですが、彼は独裁者の悪は背負っていたのです。台湾の民衆を武力で弾圧し続けたのです。それが独裁者の宿命です。
このような独裁者へ反逆し、武力で拘留したのが張学良だったのです。それが1936年の西安事件なのです。
張学良は共産主義者ではありません。それが共産党の周恩来たちに説得されて国民党軍は共産党軍と仲良くし、抗日戦争に勝利すべきと信じるようになったのです。そして西安に督戦に来た蒋介石を拘留し、力ずくで彼を抗日戦争に引きずり込んだのです。
蒋介石は共産党と共闘する約束をしたので釈放されます。そして張学良を反逆罪で裁判にかけ10年の実刑判決を与えたのです。
張学良の悲劇はそこから始まりました。その後10年たっても、彼は釈放されず台湾へ連行され、1975年に蒋介石の死まで軟禁され続けていたのです。
中国の共産党は張学良を本土に帰し、平穏な余生を送るようにと招待しました。
しかし彼はそれを丁重に断り続け、1991年にハワイに渡り、最後の10年間は平穏な生活をしました。
しかし張学良は日本へ対して最後まで厳しい態度で政治家の靖国神社参拝を厳しく非難し。あくまでも抗日の姿勢を崩さず没しました。満州を事実上支配していた父の張作霖を関東軍が爆死させたのですから当然です。
1936年の西安事件から2001年の死までの間の65年間は失意の生涯だったのです。政治家として復活出来なかったのです。これも戦争の悲劇の一例です。
下に蒋介石の関連の写真と張作霖の爆死事件の写真を示します。
(写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3 です)
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
上は前列左から頭山満と一人おいて犬養毅と蒋介石の写真です。1929年、蒋介石が一時失脚し日本へ亡命し日本側の絶大な支援を得たときの写真です。
上は1928年に関東軍の河本大作が張作霖の乗った列車を爆破したときの写真です。
私は毎朝、ブログ記事を書いて、その最後に、祈ります。今朝は最初に祈ります。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
何故このようにお祈りするのでしょうか?
一つの理由は皆様が今日も健康で平穏に過ごせるように願うからです。
そしてもう一つの理由は、キーボードを叩いてこの文章を書いている間は、私自身がとても幸せな気分になるからです。
人間が祈っていれば、少なくともその間だけは平穏な気分や、幸せな気分なれるのです。自分自身のために祈っても他人のために祈っても同じように心が豊かになります。
神様へ祈っても、お釈迦様へ祈っても、あるいは馬頭観音やお地蔵さまへ祈っても同じように平安な気分になります。
昨日の富士山の世界文化遺産登録は日本人の富士山へ対する憧れや祈りの行為が文化遺産として認められたのです。それは自然遺産としてではなく、文化遺産として認定されたのです。
富士山へ対する祈りは日本独特な珍しい文化なのです。それを人類の文化遺産として大切にしようとするのが今回の世界文化遺産認定の意味です。
神社や神道は日本古来の宗教です。山や木や、偉い人がご神体として祀ってあります。
家内安全や五穀豊穣を願ってお祈りします。自分の死後、天国へ行けるようにと欲張りなお祈りはしません。日本という土地に自然に生まれ、人々に自然に親しまれてきた宗教です。それが世界的に見て貴重ななので認定されたのです。
下に2011年6月に私が撮影した忍野村から見た富士山と富士吉田市にある浅間神社の写真をお送り致します。
下の2枚の写真は富士吉田市にある北口浅間神社の参道と社殿です。富士山を神とあがめ、信仰する神社で、特に江戸の人々の信仰を集めた神社です。
・
浅間信仰(富士浅間信仰)の核となる浅間神社は、富士山の神霊として考えられている浅間大神を祀る神社です。
静岡県および山梨県を中心として全国に約1300社の(富士神社)が分布しています。
富士山8合目以上の大半は富士山本宮浅間大社の境内と考えられています。
「富士山本宮浅間大社」は静岡県富士宮市に総本社があります。
東口本宮富士浅間神は静岡県駿東郡小山町にあります。
一方、上の写真で示した北口本宮富士浅間神社(山梨県富士吉田市)を総本社とする考えも強く、どれが総本社かは判然としません。
浅間大神は、木花咲耶姫命のことだとされるのが一般的です。
浅間神社の祭神がコノハナノサクヤヒメとなった経緯としては、コノハナノサクヤヒメの出産に関わりがあるとされ、火中出産から「火の神」とされることがあるそうです。
富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「水の神」とされているようです。
しかし、いつ頃から富士山の神が木花開耶姫命とされるようになったかは明らかではありません。
多くの浅間神社のなかには、木花咲耶姫命の父神である大山祇神社や、姉神である磐長姫命を主祭神とする浅間神社もあります。
浅間神社の中には、浅間造りと呼ばれる特殊な複合社殿形式を持つものもあります。浅間大神は神仏習合によって、浅間大菩薩と呼ばれることもあります。
そのような故事来歴の詳細は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E4%BF%A1%E4%BB%B0をご覧下さい。
今回の富士山の世界文化遺産認定で、観光客が増え、地元の経済が潤うと喜ぶのは大変結構ですが、今回の認定の意味も忘れないようにしたいものです。
最後に富士山を信仰の対象として、祈りながら登っている人々の写真をお送りします。
(写真の出典は、http://www.fusokyo.org/activity.html です。)
今日は気楽に和牛の話を書いてみます。
昨日、テレビで和牛が世界中に広がって飼育され、多くの外国人も和牛の味に感心しているという報道を見ました。
さっそくあれこれ検索してみるとオーストラリア、カナダ、アメリカやヨーロッパでも飼育されているようです。
始めは日本の大商社が日本へ輸入するために和牛の飼育をオーストラリアの牧場へ奨励したのがキッカケで、その後、現地の人々が好んで食べるようになったようです。そして下の図面の左のように世界各国へ輸出されています。右はその和牛の肉です。(写真の出典は、http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2012/05/0530.html です。)
そして現在はフランスでも好んで食べられています。http://www.youtube.com/watch?v=-eV-NYKbak0 をご覧ください。
現在、日本では和牛、和牛と言って大変高価に売っていますが、その風潮を私はいささか冷やかに見ています。
何か軽薄な食文化のように感じられて好きになれないのです。
本音は食べたいのですが、高価過ぎるのと、脂肪が多すぎると家人に牽制されているからです。滅多に食べられないので憧れているだけです。
何故、「軽薄な食文化」と非難するのでしょうか?
理由は簡単です。純粋の和牛など市場に出回っていないからです。三大和牛といって松坂牛や神戸牛や近江牛などをやたらに珍重していますが、それらは明治維新以来何度も体の大きい西洋牛と交配しています。要するに血統が正しくないのです。
本当に純粋な和牛を、「西洋種の牛の血が混じっていない日本古来の牛」 と定義すると」、現在は2種類の牛だけになってしまいます。
萩市の沖合の離れ島の見島に生存している天然記念物の見島牛(みしまうし)と鹿児島県の離れ島に居る口之島牛だけです。
見島では7戸の「見島牛保存会」の農家が純粋種を守り続けています。食肉用として市場へ出荷されるのは年間12頭から13頭と言います。これこそが現在賞味されている全ての「霜降り肉」の元祖なのです。下に写真を示します。
そして下は昭和4年の見島牛のセリ売りの様子です。
(写真の出典は、http://www.mishimaushi.com/mishimaushi.htmlです)
さてこの「見島牛(みしまうし)とは」というHPを見ると、「和牛の変遷」というスライドショーが右肩についています。良く出来た説明です。
それによると和牛は中国から朝鮮へ伝わり、そして見島へ伝わったそうです。やがて見島から日本全国へ伝わったと説明されています。
すると、「見島牛(みしまうし)」は「朝鮮牛」と呼んでも間違いがありません。
しかしこれも変な話です。中国の福建州や満州沿岸から直接日本へ運ばれてきた牛もいた筈です。それらは「中国牛」と呼ぶべきではないでしょうか?
しかしもっと本格的に考えると日本には旧石器時代からオーロックスという野生の牛が跋扈していたのです。それこそが本当に純粋な和牛ではないでしょうか?
ですからこそ私は和牛、和牛と騒ぐ食文化をいささか冷笑しているのです。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日は、鹿肉や猪肉を食べる食文化の歴史を想う という記事を書いてから、10時過ぎに家を出て、雨の中を上野の東京芸術大学で開催されていた「夏目漱石の美術世界展」へ行きました。
200点余りの書物・絵画・彫刻が整然と7室に分類されている非常に見ごたえある展覧会です。
橋口五葉が装幀した美しく洒落た初版本のかずかずや、漱石肉筆の原稿・書や日本画の掛け軸など多数あります。その上に漱石と関連の深い古今東西の絵画の展示も多くあり、実に内容が充実しています。
面白かったは、第6回(1912年)の「文展」の出品作を並べ、それぞれに漱石の批評が添えられている室でした。彼らしいかなり辛口の評もあり、読んでから改めて絵を見るとなるほどそう見えると頷いてしまうものもありました。
文学好きの家内が大そう感動していましたので、展示の順序・分類や内容が漱石文学をより深く理解できるようになっていたのだと思います。
企画内容もさることながら学芸員の努力と精進ぶりには頭がさがりました。
7月7日までですので、漱石の小説が好きな方々は是非お出掛け下さい。
下に関連の写真を示します。
上は今日の梅雨さなかの会場。
小説「虞美人草」のラストシーンに立てられたケシの花の屏風 (このような絵かと想像して描かれた物です)。
上の絵画は漱石自筆の作品です。 南画も書もとても深い趣があります。
「坊ちゃん」で小島の松の枝ぶりが似ていると言われたターナーの画です。
ウオーターハウス作「人魚」の絵です。 「三四郎」で熱心に見られていたもの?
(上の写真の出典は、http://www.museum.or.jp/modules/jyunkai/index.php?page=article&storyid=102 です。尚、一番上の2枚は今日撮って来た写真です。)
八ヶ岳や甲斐駒岳には現在でも数多くの鹿や猪が棲んでいます。周辺の農作物が甚大な被害をこうむるので猟銃で撃って数を調整しています。
ですからその周辺の肉屋さんへ行くと一年中冷凍にした鹿肉や猪肉を売っています。同じように北海道では農作物の被害が大きいので鹿肉や猪肉をインターネットで全国へ販売しています。下に八ヶ岳の鹿の群れの写真を示します。
(写真の出典は、http://www.p-albion.jp/sika.htm です)
私も鹿肉や猪肉を食べる食文化の歴史に興味があるので山小屋に行ったおりに現地の肉屋さんから鹿肉や猪肉を買って来ます。
それを賞味しながら、日本でそれらの肉を大量に食べていた旧石器時代や縄文時代の食文化を偲んでいます。
そして現在でも鹿肉を大切に食べている北欧やヨーロッパ北部の国々の食文化を想っています。
そこで下に鹿肉(左)と猪肉(右)の写真を示します。
(写真の出典は、http://www.newsdigest.fr/newsfr/images/region/lotetgaronne/110221_02.jpg とhttp://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/53f88afa5eecfe3f376d2d98e7a6e3b33899ce20.57.2.9.2.jpeg です)
日本人が鹿肉や猪肉を多量に食べた時代は4万年前から16000年前まで続いた旧石器時代と16000年前から1、3世紀ごろまで年間続いた縄文時代でした。合計38000年間も続いたのです。
縄文時代の日本人の人口は総数で26万人と推定されています。
それに対して鹿や猪のような野生の動物の数は圧倒的に多数だったので鹿肉や猪肉は日常的に食べられていたと考えられます。勿論、栗や胡桃などの木の実や毒性の無い柔らかな野草も沢山食べられていました。
中国大陸から水稲の栽培や漁網が伝承された弥生時代からは獣肉の需要が減少し、人々は米と魚貝類の食文化に次第に変わっていったと思われています。
そして仏教の伝来とともに4つ足の獣肉は戒律で禁止され、山奥の村落以外では食べられなくなったのです。しかし、ほんの少しの愛好家が町でも味わっていたのです。例えば江戸時代の「ももんじ屋」などです。
旧石器時代と縄文時代の猪と鹿の捕獲方法は圧倒的に落とし穴だったと思われます。その他に集団で石刃をつけた槍で殺傷し捕獲する方法もありました。
私の家の近所の小平史跡資料展示室の縄文時代の落とし穴の精巧さを見ると納得します。
深く狭い縦型の穴を一か所に多数作っておくのです。そしてその穴は上の開口部が広くなっていて、下にゆくほど少しずつ狭くなっているのです。
こうするとどんな大きさの猪や鹿がスポッと落ちても胴体がピッチリと挟まってしまい動けなくなります。あとは石刃のついた槍で刺して殺せばよいのです。
穴が多数掘ってあるので猪や鹿の群れを追い込むと一挙に数頭捕獲できるのです。
旧石器時代や縄文時代の生活に関してこのブログでは、以下のような記事が掲載してあります。合わせごて笑覧下さい。
この日本に4万年前の昔から、人々はどんな暮らしをしてきたのでしょうか?
相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中
さて猪肉や鹿肉の味です。結論を先に言えば牛肉や豚肉よりかなり不味いのです。野生のアクの味がする上に、野獣なのでとても固いのです。
このように書くと料理方法が悪いと反対する人が必ずいます。
そしてジビエの野獣としても、その風味と歯ごたえが堪らないと言う人もいます。
食文化は人それぞれですから、そのような批評はその人にとっては真実です。疑う必要はありません。
鹿肉を赤ワインに漬けたり、圧力鍋で柔らかに煮て、生クリームやチーズを加え市販のシチューの素を加えて長時間煮込みます。そうすると美味と言えば美味になります。しかし牛肉にはかないません。とくに牛の尾肉のシチューと比較すると雲泥の差です。
あるいは猪肉をショウガと味噌に一晩漬けて、炭火で焼いたものは美味です。しかし九州の黒豚のロースにはかないません。
ところが石器時代人や縄文時代人にとっては最高の贅沢だったのです。他に美味しい肉が無くて、その上、常にタンパク質に飢えていたのでしょうから最高のご馳走だったはずです。
料理方法は石器時代は塩をつけて焚火でジックリ焼いて食べたのでしょう。
縄文時代になってからは土鍋で根気よく煮て、塩で味を調えて、香りの良い野草を入れて単純なシチューのようにして食べたと想像できます。勿論、焼肉の好きな人は焚火で丁寧に焼いて食べた筈です。
下に2万年前に日本人が食べたと考えられる動物の図面を示します。
とくにナウマン象の骨は人間の焚火の周囲に多数散乱していたので焼いて食べてのは明確な事実でした。
(この写真は相模原市の田名向原遺跡公園の展示図面を私が撮影したものです)
このような野生の動物の肉を食べる食文化は4万年前から約2000年前まで、実に38000万年という長い歴史を持った日本の食文化だったのです。
随分と昔の1972年に、私はスエーデンに住んだことがあります。そこの名物料理に野生の鹿肉のシチューがありました。牛肉より不味いのですがスウエーデン人に聞くとそれが伝統的な食文化ですといささか威張っていました。日本人が鯨肉にこだわるような雰囲気の会話思い出します。
私もその気分が少し分かります。不味い、不味いと言いながら毎年一回くらい鹿肉や猪肉を食べるのは日本人の悠久の歴史を想い、なんとなく心が豊かになるからです。それは説明の出来ない幸福感なのです。それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げませ。後藤和弘(藤山杜人)
武田信玄の三代目の勝頼は豊臣秀吉によって滅ぼされました。
しかし徳川家康は武田家の遺臣を迎え入れ才能にしたがって活用しました。
例えば、このブログで以前ご紹介したように、武田信玄の下級武士が八王子の千人同心になって活躍したのです。(私の郷土史(3)八王子千人同心の半分武士・半分農民の不思議な歴史)
以下にも一つの例を示します。
小生の北杜市の山小屋の住所は「柳沢」という地名がついています。
戦国時代にここに柳沢一族が住んでいました。
その子孫が徳川幕府で重用されたのです。
以下に順々に写真を楽しみながらご覧頂ければ嬉しく存じます。
まず最初に山梨県旧武川村の柳沢の水田のそばに立っている柳沢氏の記念碑の写真を下に示します。背景の雲の中に甲斐駒岳があります。私の山林の中の小屋へ行くたびにここを必ず通ります。
この上の写真の真ん中に立っている戦国時代からの柳沢氏の説明板を下に拡大して示します。
上の説明文にある信俊が現在の埼玉県の寄居町へ徳川幕府によって迎え入れられたのです。 そして、信俊の孫が柳沢吉保なのです。
この柳沢吉保のことは、埼玉県の川越へ遊びに行くとき通過した三芳町で偶然、発見したのです。
古い農家の展示場の説明板の中に柳沢吉保が近辺の新田を開発したと明記してあったのです。
この吉保の祖父の信俊が遠く離れた山梨県の甲斐駒岳の麓の旧武川村の柳沢の出身なのです。
この発見によって三芳町が急に身近に感じられるようになりました。
新田を開発した時、柳沢吉保は川越城主でした。それは元禄7年(1694年)に柳沢吉保が川越城主に任命されてからすぐのことです。2年後の1696年に検地が行われ、180世帯の新しい村が完成したのです。
そしてその後の宝永元年(1704年)に柳沢吉保は先祖発祥の地、甲府藩15万石の藩主になるのです。そこでも新田開発に取組み大きな業績を上げたと言われています。
以上の歴史で面白い事は武田信玄に仕えた柳沢一族が徳川の世になると徳川に仕え、甲州の城主に返り咲いたということです。
柳沢吉保は優秀な行政能力を持っていたに違いありません。
徳川幕府は才能のある人材を民間からも抜擢して活用したのです。
柳沢吉保の3人の息子は郡山藩主、三日市藩主、黒川藩主などになっています。
なおその他の柳沢一族の江戸時代の活躍については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E5%90%89%E4%BF%9Dをご覧ください。
上の写真は三芳町の欅並木ですこの三芳町には三富(さんとみ)新田の農家が展示してあります。以下の写真で説明します。
1804年から1829年に少しずつ大きくして作られた島田家です。中に入って見ると農家とは違い大きな座敷が幾つか広がっています。パンフレットに理由が書いてあります。
1830年から1874年に上富小学校が開校するまでの44年間寺小屋として三富の教育をした家です。師匠は島田伴完で延べ300人の子供を教育したと言われています。
勿論住居でもあったので炊事用具は完備しています。
寺子屋の師匠は普段は農作業をしていました。農具やカゴが並んでいます。
教室に使われていた座敷へ繋がる廊下です。今は静かですが当時の子供達の声が聞こえるようです。
一つだけ蛇足を言わせて下さい。江戸時代は幕府が直轄領の関東平野の新田開発を盛んに進めたのです。それまで萱原や雑木林が広がっていた武蔵野が農村地帯になったのです。結果人口が増加しました。
(出典:http://www.nexyzbb.ne.jp/~omnika/jinnkou_suii.html )
江戸時代の始めは1200万人いた日本人が江戸の中期には3300万人に増加したのは江戸幕府や各藩による新田開発によると考えられます。
このように視点を日本全体に拡大すると江戸時代が日本の近代化の準備段階として大変重要な時代だったことが理解出来ます。
郷土史を単に限られた地域に限定しないで全日本的な視野でつなぎ合わせると大変重要な発見が出来ると改めて感慨深い思いをしました。
次回は多摩地区の新田開発で功績を上げた川崎平右衛門のことをご紹介したいと思います。(この項終わり)
日本人の心の中には高原の湖が原風景として住みついているのかも知れません。
わたしもそのようで、時々静かな湖の岸辺を意味も無く歩いて帰ってくるという旅をすることがあります。
中央線に飛び乗って、茅野駅で下車、白樺湖や蓼科湖を回るバスで岸辺を散歩して帰ってくる日帰りの旅です。
白樺湖の岸辺のホテルや蓼科湖近くの温泉旅館に一泊するのも良いものです。蓼科山、車山や霧ヶ峰まで足が延ばせます。
茅野駅から少しの上諏訪駅で下車するのも楽しいものです。駅から歩いてすぐの湖岸に出て遊歩道を何処までも歩きます。北澤美術館を見て、片倉製糸の古いレンガ建ての館の中の深いお風呂に入ります。
岸辺を諏訪湖ヨット・ハーバーまで歩いて行って係留されているヨットをしげしげ眺めます。ここにはレース専門艇のJ24がずらりと並んでいます。ハーバーは公園のように出入り自由です。
諏訪湖周辺は見るところが多いので上諏訪の油屋旅館に一泊したことがあります。昔風の小奇麗な宿で湖側の部屋に泊まると夕陽に染まる空が見えます。
あれは結婚してすぐの1962年から東京オリンピックのあった1964年までの間でした。
その頃は冬になると白樺湖も蓼科湖も諏訪湖も全面に凍ってスケートが出来たものです。スケートが好きだった家内と何度かスケートに行きました。
天然の湖面はデコボコに氷結するので下手な私は上手く滑れません。そんな湖面でも家内が快調に滑って行くので驚いたものです。
その後は子供達も連れてスキーやスケートに行きました。
最近は暖冬で湖はスケートが出来るほど厚く氷結しなくなりました。
東京に住んで方々には白樺湖、蓼科湖、そして諏訪湖には懐かしい思い出を沢山お持ちと思います。
そのような方々の為にその写真をお送り致します。梅雨の晴れ間に曾遊の高原の湖を巡るのも良いと思います。
それhそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。後藤和弘(藤山杜人)
新宿駅や東京駅から出る特急あずさが早くて快適です。上の写真があずさです。一泊する旅なら高尾駅発の普通列車ものんびりして良いものです。
上は白樺湖です。背後の山は蓼科山で、若い人なら簡単に頂上まで登れます。
上が諏訪湖です。後の山々は車山、霧ヶ峰などの山並みです。白樺湖、蓼科湖、諏訪湖の写真はWikipedeaのそれぞれの項目の写真をお借りしました。
1939年から1975年までスペインの独裁者として36年間君臨していたフランコは、1892年にスペインンの軍港で軍人の子として生まれ、陸軍士官学を卒業し、独裁者になり、1975年に83歳の生涯を終えました。
少尉任官後は植民地、モロッコの反乱軍の鎮圧に功績をあげ少佐に昇進します。
そして1935年には陸軍参謀長になりました。
1936年に共産党などの左翼勢力が政権を取ったのを粉砕するために軍事クーデターを起こし、その後3年間にわたるスペイン内戦に勝利し、1939年からスペインの独裁者になりました。
その独裁権の確立までの複雑な経過は下の3つの記事でかなり詳細に説明しました。
ピカソの「ゲルニカ」と、ヘミングウエイの「誰がために鐘は鳴る」
1939年後のフランコの外交政策は中立という立場でした。しかしドイツが勝っている間はドイツ、イタリアを支援し、ドイツが劣勢になると英米などの連合国側に親しくするという実に日和見的な中立でした。首尾一貫性に欠け、思想やイデオロギーなどには関心が皆無な現実主義者でした。
ドイツがソ連へ侵攻し華々しい進撃を見せると10000人のスペイン人義勇部隊をドイツに送ったのです。
日本の勢いの良い時代には満州国を承認し、真珠湾攻撃では日本へ祝電を送ったのです。当然アメリカは気分を悪くしスペイン制裁を試みます。
しかし戦後、冷戦状態が厳しくなると防共の旗手としてアメリカに急接近し、1953年にはアメリカとスペインの共同防衛協定を締結し、アメリカから多額の軍備援助を貰い、完全に自由主義陣営の勢力圏に入るのです。そしてソ連や東欧圏の共産主義と対決姿勢を取ります。
1959年はアメリカのアイゼンハワー大統領を訪問し親米国家として国際社会に認められたのです。
このような風見鶏のような外交姿勢から日本人はフランコを、そしてスペイン人を軽く見る傾向があります。
しかし1975年にフランコが亡くなるとスペインは自由な議会制民主主義を急速に発展させ、王政復古も行い日本と同じような緩やかな意味での立憲君主国になったのです。(立憲君主国とは形式的な王が居て、憲法で議会の権限を認めた民主国家と定義します。これは広義の定義です。)
その結果、現在はヨーロッパ連合、EUの中核をなす国家になったのです。
さて思想やイデオロギーを無視したフランコは、本当に軽蔑に値いするような権力亡者だったのでしょうか?
私には判りません。しかしカトリックの自分の立場から見るとフランコの全てを否定出来ないのです。
彼は生涯、終始一貫してカトリック教会を保護したのです。
彼が独裁者になるとすぐにカトリックだけをスペインの唯一の合法的な宗教にしました。カトリック教会だけが本を出版できたのです。他の宗派の教会はその礼拝を宣伝出来なかったのです。
政府はカトリック教会を支援するために聖職者の給与を支払ったのです。公立学校でもカトリックの教義を教えるように義務ずけられたのです。
バチカンのローマ法王とは密接な協力体制にありました。それは1953年のコンコルダートという協定として集大成されます。
この協定でカトリック教会は様々な特権を手に入れたのです。結婚式は全て教会で行うべしという政府の指導が徹底されました。教会は全ての納税義務を免除され、その上、新しい建物を建てるときは政府が経済援助したのです。
カトリック教会だけが新しい大学を作る権利を得ました。教会がラジオ局を運営し、新聞や雑誌を発行しました。聖職者の兵役義務も免除されたのです。
警察はカトリック教会に介入できず、教会の自治が守られたのです。
これはフランコの個人的カトリックの信仰を政治に直結した政策だったと私は思っています。信仰はあくまでも個人の問題として政治的権力を利用してはいけません。
ローマ法王側もこのフランコの宗教政策の不健全さを是正する動きに出ます。
1965年の第二バチカン公会議では信教の自由を認め、スペインでも他の宗教も平等に扱われるようになったのです。しかしフランコは1975年に死ぬまでカトリックの特権をいろいろな形で守ろうとしたのです。
しかし独裁者がカトリックを守れば、カトリック側が迷惑します。独裁者が守ってくれなくてもイエス様の権威は厳然として神が認めているのです。
フランコは少し思う上がってしまったようです。それよりも、独りで足しげく教会を訪れ静かに祈ったほうが良かったと私は思っています。(続く)
以下にフランコ関連の写真を示します。
毎日、雨、雨、雨。
暗い空からいつ止むとも知れない水滴が落ちて来ます。水滴は米粒のように大きいものもあり、絹のような霧雨の時もあります。
この季節はとかく暗い気持ちになります。
そこで人生を明るく駆け抜けた人々のことを想い、少しばかり暗い気持ちを撥ね退けています。
しかしどんなに素晴らしい人生でも、決して明るい場面だけではありません。よく調べると必ず悲しいこと、暗いこと、不運な出来事が混じっているのものです。
そこでやっぱり自然へと回帰して行きます。
自然にある樹木や花々や野生の動物のことを書いていると何故か心が明るくなり、幸せな時間が流れます。このようなことを書いている今が至福の時なのです。この感じを読んで下さる方々へもお送りします。
そのような気分で書いた最近の記事は以下のようなものです。
このような性質のブログは意外に多いのです。その中から一つだけご紹介いたします。
それは北海道の富良野の あとみん さんのブログです。「富良野健康生活」というブログ(http://furano2008.blog95.fc2.com/ )で、いつも素晴らしい北海道の風景写真を発表していらっしゃいます。
あとみんさんは何時も元気溌剌で毎日ご主人と息子のような愛犬と3人で暮らしています。
地域の人々へ「ノルディック・ウオーキング」を指導していて、富良野の野山を歩き回っています。水泳も指導しているようです。
お孫さんがいます。しかし彼女のブログは若々しい文章と四季折々の富良野の美しい風景が掲載されています。熊野古道でお孫さんを抱いた最近の写真を拝見するとスラリとした美しい方です。
彼女のブログはもう5年間も見て、時々お写真をお借りしてこちらのブログで使わせて頂いています。
今日は梅雨空の暗さをはねのけるような北海道らしい爽快な写真を4枚お送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。
出典は、http://furano2008.blog95.fc2.com/ です。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。後藤和弘(藤山杜人)
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この小屋の周囲にはモリアオガエルが沢山棲んでいる筈ですが静止した水のある池や沼が無いので卵を生みに来ません。来年あたり池でも作ってみようかと思っています。下の写真の小川の左側は木が生えていて湿地になっていますので「少し穴を掘ったら小さな池が出来る」と太平楽な家内が云っているのですが・・・・・
モリアオガエルの鳴き声と映画は、http://www.youtube.com/watch?v=Gjo1mjG2U8Y に御座います。
水が流れているとオタマジャクシが下流へ流れてしまうのでカエルは卵を生みません。しかし不思議に青ガエルはこの川を泳いでいます。何処に卵を生み、、何処でオタマジャクシが成長して蛙になるのかが不思議です。そして東京の自宅の庭にも毎年ガマカエルが出て来ます。何処でオタマジャクシが育つのか不思議です。近所に池や沼が一切存在しません。
何方か教えて下さいませんでしょうか?
1936年から1939年のスペイン内戦は共産革命をしようとしていた勢力(共和国側)とそれを粉砕しようとしたフランコの軍人部隊の間の国内戦争でした、。
ソ連共産党はドイツの軍事力に怖れていたので、ドイツの背後に共産国家のスペインを作ろうとします。それは当然の戦略です。
そこで国際共産党組織のコミンテルンを利用して4万人の志願兵をスペインへ送り込んだのです。
それを「国際旅団」と称します。
ソ連はその軍隊の共産主義的色合いを隠して、「フランコの軍事独裁主義」へ対抗する自由主義者の国際義勇兵として宣伝しました。
その宣伝は功を奏してヘミングウエイなどのそうそうたる知識人が参加したのです。
その国際旅団の総数は延べ6万人と言われていて、その出身国は以下のようになっています。
全体で延べ6万人ほど。
フランス 10000人
ドイツ 5000人
ポーランド 5000人
イタリア 3350人
アメリカ合衆国 2800人
カナダ 2000人
イギリス 2500人
チェコスロバキア1500人
ユーゴスラヴィア 1500人
ハンガリー1000人
メキシコ 1000人
デンマーク 500人
スウェーデン 500人
アイルランド 250人
フィンランド 300人
中国100人
オーストラリア 60人
アルバニア 27人
ニュージーランド 12人
日本 1人
上の表で驚くべきことは「フランコの軍事独裁主義」側を国家として軍事支援していたドイツとイタリアからそれぞれ5000人、3350人も国際旅団側へ参加している事実です。
中国も100人も参加しています。
そして日本は記録に残っているのはただ一人のジャック白井だけだったのです。
これらの内、何割が共産革命をしようとしたか、何割が自由主義国家のスペインを作ろうとしていたか不明です。
ジャック白井は1900年ごろ函館近辺で生まれ、両親に捨てられ、函館の孤児院で育ちました。少年のころ年齢を偽り外国航路の貨物船で働き出します。
そしてニューヨークに流れ着きコックとして働いていました。労働者を助ける政治運動をしていたので、当然、共産主義に染まっていたはずです。
しかしソ連共産党の大規模な粛清や農民の大量餓死などについては知らなかったはずです。スターリンが厳重な情報管理をしていた時代でした。
ジャック石井はスペインの軍事独裁に反対し、虐げられていた農民や労働者を救済するために「国際旅団」へ参加したのでしょう。
ソ連の共産党独裁政治の実態を知らないロマンチストだったのでしょう。
スペインの戦場では戦友に尊敬され愛された存在でした。そして37歳で戦死してしまいます。
戦友が彼の死を悼み2編の詩を捧げています。
孤児として孤児院で育ち、アメリカへ渡り、家族を持ち、そのまま長寿を全うすれば彼の名前は世に知られず終わったことでしょう。その方が幸多い人生だったのかも知れません。
しかし彼の名は歴史に残りました。
1989年には朝日選書で、川成洋が「スペイン戦争/ジャック白井と国際旅団」という本を出版しています。
ジャック白井と親交のあった石垣綾子が1989年に「スペインで戦った日本人」という本を朝日新聞出版社から出しています。
インターネットでも「ジャック白井」を検索するといろいろな資料があります。
若くして華々しく戦死して歴史に名を残すのが良いか、あるいは家族を持って幸せな長寿を全うするのが良いか、どちらが良いのでしょうか。
私には分かりません。しかしジャック白井の生き方は悲劇的だったと私は感じています。深い同情を禁じ得ません。
最後に上に書いたスペイン内戦の描き方は雑駁過ぎることを強調しておきます。
下に関連の写真を示します。(終わり)
モリアオガエルは本州と佐渡カ島にしか棲んでいない日本固有種で、深山にしか棲息しない珍しいカエルです。
木の枝に産みつけられた、白い泡の大きな塊の中にある数百の卵が、オタマジャクシになると下の水溜まりへ落下して小さな可愛いカエルになります。まだ尻尾が付いている間に樹木の枝に這い上がり、一生、樹上生活をします。
飛び跳ねる力が強く一回に3メートル位を飛びます。ですから樹から樹へと、猿のように飛び回って、虫を食べて大きくなります。大きくなるとガマ蛙くらい大きくなります。手足に吸盤がついていて木の葉にしがみ付きます。
今年も森深く入ってモリアオガエルの樹上の卵塊の写真を撮りに行ってきました。山奥に住んでいる木内正夫さんが山荘の敷地の木の枝に数個の卵塊が今年も生み付けられたと言います。さっそく行ってみました。写真の順に説明します。
モリアオガエルは農地の広がる里には棲んでいません。
上の写真の白い雲の山々の中腹の森深く棲んでいます。悪路を根気よく車で登って行きます。
山荘に着いたら木内さんが幾つもある池の上の枝に生み付けられたモリアオガエルの卵塊を見せてくれました。直径が20cm以上もある大きな白い泡の塊で、中に数百個の卵が入っているそうです。
生み付いてから1週間ぐらいになるのでオタマジャクシが下の池に落ち始めているようです。生み付けた直後は下の写真のように形もしっかりしていて純白です。
オタマジャクシになって下の池に落ちて数週間すると手足が出てきて木の上に登り始めます。そして一生樹上の生活をします。樹上生活を3、4年すると親になり卵を産みに池や沼の上に差し掛かっている枝に帰ってきます。
谷川や疎水のように動いている水の上の枝には決して生みません。
オタマジャクシが流れてしまって水田や川原のような樹木が無い所に行ってしましまえば、モリアオガエルは生育出来ないのです。
ですから森の奥に自然に出来た沼が無ければ繁殖できないのです。
さて育ったモリアオガエルは樹上に居て、緑色の保護色なのでめったに肉眼では見えません。そこで木内さんが自宅で、2009年に育てたモリアオガエルの写真を下に示します。
飼育方法の詳細は、神秘的な生き物、モリアオガルと共に深い森の中に生きている人 にあります。
このカエルはめったに見ることが出来ません。それだけに神秘的な生き物です。それを見るために木内正夫さんは自宅の敷地の森の中に池を数個作り、卵を採取して、箱の中で飼育し、そしてまた森へカエルを放したのです。
そのお蔭で私も数多くのモリアオガエルをまじかで眺めることが出来たのです。兎に角かわいい不思議な生き物です。
さてモリアオガエルの鳴き声はどのようなものでしょう。
それは、http://www.youtube.com/watch?v=Gjo1mjG2U8Y にあります。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。後藤和弘(藤山杜人)