後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

秋愁、霞ヶ浦の秋風を想い、亡き友を偲ぶ

2016年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム
来週は秋のお彼岸です。彼岸がすぎると秋が深まって行きます。
彼岸という言葉を見るとあの世に旅立った親、親類、恩人、友人のことを思い出します。もう此の世では2度と会えません。
そして朝夕が冷えてくると何となく心細くなります。そして悲しい空色のような思い出が湧き上がって来ます。
毎年、秋になると5年前まで楽しんでいた霞ヶ浦のヨットの風景を思い出します。秋空のしたで清涼な風を帆いっぱいに受けて走るヨットの光景です。

この写真は2010年の秋に撮ったヨットと秋の空の写真です。

ヨットの趣味は50歳の頃始めました。始めの2年ほどは江の島や葉山のマリーナから沖に出ました。
そして琵琶湖から小型クルーザー・Yamaha19を買い、霞ヶ浦マリーナへ陸送してきました。
霞ヶ浦マリーナは当時、「筑波水郷汽船株式会社」という古い名前の会社が経営していました。そのマリーナは経営者が変わり、最近は「ラクスマリーナ」という名前になっています。
私はすぐに茨城県の県庁の管理している係留場所へ船を移動し、そこに22年係留していました。
そして62歳の頃、少し大きなJoyrack 26を買いヨットを楽しんだものです。

しかしこの楽しかったヨットも体力の衰えで75歳で一切止めてしまいました。残念です。悲しいです。
悲しみはそれだけではありません。
猪苗代湖で何度もヨットに招待してくれた大学時代の友人が旅立ってしまったのです。
2010年の秋まで、一緒に私の艇でセイリングしたH君があっけなく消えてしまったのです。それはもう一度、霞ヶ浦に来る直前でした。下に2010年の秋に撮った写真を示します。

この写真の右側にH君が写っています。左側は同じく大学時代の友人のO君です。
O君とは相模湾を古い巡視艇で横断し、初島に一緒に泊まった思い出があります。
そしてH君とは猪苗代湖の花春カップ・レースに何度か出たことがあります。彼のヨットのキャビンは大きくて夜には一緒にビールを飲みます。窓の外の波の向こうには黒い磐梯山がそびえていました。
H君は私のヨットに来る時は毎回よく冷えたシャンパンの瓶を担いで来ました。シャンパンを美味しく飲むにはシャンパングラスが必要だと、そのグラスまで冷やして断熱バックに入れて持って来たものです。
そんな彼が2011年の秋にあっけなく亡くなりました。霞ヶ浦に来る直前でした。

来週は彼岸です。家内の実家の先祖の墓参りに行きます。そして自分の親、親類、恩人、H君などの友人の冥福をお寺のご本尊様に祈ってきます。全ての死者の冥福を祈ってきます。

下にもう3枚の霞ヶ浦の風景写真を示します。雲と水面の輝きの風景写真です。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





日本人の独創性の無さはその文化に由来する

2016年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「日本の高度成長はもう無い、日本人の価値観の大転換」という記事を掲載してました。その主張は、高度成長した日本がもう一度成長するためには独創的な新しい技術を開発しなければならないという主張でした。日本人自身が世界に先駆けて次々と新しい技術を開発し、新製品と新技術を外国へ売り出せば、再び経済の高度成長が可能なのです。
今日の記事は日本人には独創性が無く、その原因は日本の伝統文化にあるという主張です。
結論を先に描けば、この伝統的な日本文化を完全に否定して、アメリカ型の文化にしなければ日本には再び経済成長は有り得ないというものです。

さて、そのそも独創的な芸術や技術はどのような文化の国に生まれた来たのでしょうか?
それは個人の尊厳を大切に考える文化をもったヨーロッパやアメリカで生まれてきました。異端的な考えを持った人を排除しないで、その考えを尊重する文化から独創性が生まれるのです。
独創的な芸術はおもにヨーロッパ諸国で生まれました。一方、独創的な先端技術は主にアメリカ合衆国で生またのです。

それでは日本の伝統文化の特徴は何でしょうか?
一言で言えば、それは聖徳太子の「和を以って尊しと為す」という言葉が日本文化の特徴を明快に示しています。

これでは日本の会社から新しい独創的な技術はほとんど絶対に生まれません。
優秀が技術者が発明をして特許を取っても、その特許は会社のものになります。発明した技術者へは金一封で終わりです。
これでは優秀な技術者がバカバカしくて本気で新技術の開発の仕事に取り組めません。

唯一の例外が青色の発光ダイオードを発明した中村さんのケースです。
彼は自分の会社を訴えて、莫大な特許使用料を得たのです。
しかしその行為は日本の伝統文化にいろいろな意味で反するものでした。
その後、彼はアメリカのある大学の教授になって日本を離れました。

日本では異端的な考えの人は排除する傾向があるのです。それが日本の文化なのです。
結論ば、この伝統的な日本文化を完全に否定して、アメリカ型の文化にしなければ日本には再び経済成長は有り得ないということです。

皆様は日本がアメリカのような社会になることをお望みでしょうか?
胸に手をあてて静かに考えれば解答がおのずと明快になります。
今日の挿し絵がわりの写真は長野県、美ケ森野外美術館にある独創的な彫刻の写真です。
数年前に私どもが撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







秋、そして冬、季節の風物詩・・鮭の遡上、干し柿、塩鮭乾し、寒天乾しの風景

2016年09月14日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は9月14日で、中秋の名月も明日です。秋のお彼岸も間もなくです。
季節がめぐるのも老境になると速くなるのでしょうか?
季節の移り代わりに取り残されないように、今日は、これからの季節の風物詩をご紹介したいと思います。
鮭の遡上、干し柿、塩鮭乾し、寒天乾しの風景などの写真とともにご紹介致したいと思います。
ちょっと早すぎるようですがお楽しみ下さい。

数十年前から日本全国の川へ鮭を再び呼び戻そうという社会運動が静かに行われています。
稚魚を何万、何十万匹と川へ放流して、数年後に帰ってくるのを待つという社会運動です。遡上する鮭を取って食料にするのではありません。見て楽しんで環境の浄化の進み具合を観察しているのです。
ご存知のように鮭は秋になると川を遡上し、産卵をします。日本海側では北海道から北九州の川へ遡上します。太平洋側では北海道から東京の多摩川にかけて川に遡上し、産卵します。
川へ鮭を呼び戻そうという社会運動の結果、関東地方の河川にも鮭の遡上が増え続けています。
そうして利根川の大堰でも2011年には16000匹近くまで遡上しました。
私の故郷の仙台の広瀬川でも毎年5000匹も遡上しています。
多くの人はこの事実に気がつきませんでした。そこで以下に遡上増加の様子を示す図面を掲載いたします。

上の1番目の写真は遡上増加の様子を示す図面です。
図面の出典:http://blog.livedoor.jp/hitokoto2ch/archives/1630561.html です。
鮭の遡上は東京の真ん中を流れる多摩川でも見られるようになっています。

2番目の写真は多摩川の河口で取れた鮭の写真です。1997年10月15日に羽田付近で捕獲されたシロザケです。図面の出典:「多摩川鮭の会」http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/2024/hmng.html

3番目の写真は多摩川に放流したシロザケの数と発見されたシロザケの件数です。

関東地方は利根川だけでなく那珂川、桜川、鬼怒川と多くの川で鮭の遡上が見られます。中でも有名なのが茨城県筑西市の勤行川の鮭の遡上です。以下に関連の写真をしめします。


4番目の写真は茨城県筑西市の勤行川の鮭の遡上の祭り幟の写真です。
写真の出典:http://blogs.yahoo.co.jp/satyricon1968/folder/1144183.html です。

私の故郷の仙台の広瀬川でも鮭が遡上します。それはを推進しているのが、仙台市広瀬川サケプロジェクト:http://www.hirosegawa-net.com/mirror/taiken/new/v12/1202.html です。

5番目の写真は広瀬川に遡上してきた鮭です。

6番目の写真は広瀬川に遡上した鮭の泳ぐ姿です。
毎年、5000匹前後ものサケが遡上してくる広瀬川です。これだけのサケが遡上してくる大都市の川というのも、全国には他にありません。牡鹿半島沖に浮かぶ金華山で二分された潮の流れが仙台湾で合流し、真水と海水とがちょうどよく混じり合う条件の良さもあって、広瀬川(名取川)をはじめ阿武隈川や北上川など、宮城県内では遡上するサケが多いそうです。
なお広瀬川に遡上した鮭の動画:http://www.youtube.com/watch?v=9yq4wj0rMNA も是非ご覧下さい。
その他の全国の鮭の遡上に関する情報については、「サーモン・ミュージアム」:http://www.maruha-nichiro.co.jp/salmon/environment/10.htmlをご覧下さい。

今日は初冬の風物詩としての鮭の遡上に続いて、干し柿作りの風景、村上の塩鮭作りの風景、そして信州の寒天干しの風景もご紹介致します。
毎年、晩秋になると農家の軒先に干し柿が釣り下がります。その光景は見ていただけで心が暖かくなります。寛ぎます。そのような故郷の思い出があるのか都会の家でも干し柿を作る人が多いようです。

7番目の写真は干し柿が農家の軒先にある風景写真です。
干し柿の写真の出典は、 https://ssl.yamagatakanko.jp/gallery/…/img/food/food012.html です。

そして同じく晩秋になると新潟県の村上の三面川(みおもてがわ)での鮭の遡上が始まり、塩引き鮭が作られます。
鮭の町、村上ではそれぞれの家庭で塩引き鮭を作るそうです。村上市庄内町は「鮭塩引き街道」として有名です。

8番目の写真は大きな塩引き鮭が軒先にぶら下がっている村上の風景写真です。
こんな風景を見ると、東北海道の標津へ旅した時サーモンセンターを訪問したことを思い出します。なお村上の鮭の写真の出典は、
http://www.senamiview.com/blog/log/eid196.html です。

季節はめぐり、やがて寒い季節が到来します。雪が野山を覆う風景が広がるのです。
そうすると信州の雪の田圃に寒天干しが広がります。

9番目の写真は信州の寒天乾しの風景です。寒天とは冬の空を意味しています。
この寒天干しの写真の出典は、http://homepage1.nifty.com/hottayukio/syasin/KANTEN.htm です。
テングサをを大きな釜で煮溶かし、四角形のトコロテンを凍らせては干し上げるのです。カビたり腐る前に干しあげるためには寒風が吹き太陽光の射す信州でないとうまく行きません。昔、信州を旅した時に雪の田圃にえんえんと広がる寒天干しの光景を見たことがあります。そんな光景を懐かしく思い出します。

如何でしたでしょうか。初秋、晩秋、そして冬にかけての季節の風物詩をお送りいたしました。これから次第に寒くなってまいります。
風邪などひかれないようにして、この季節をお楽しみ下さい。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)








日本と中国のGDPが世界の3位と2位になったのは何故か?

2016年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は第二次大戦後に復興期があり、続いて経済の高度成長期があり、そのGDPが世界で2位になりました。
同じ様に中国は1966年から1976年の文化革命という凄惨な内戦があり、荒廃した中国の復興期があり、続いて経済の高度成長期があり、そのGDPは日本を抜いて世界2位になっています。
この日本と中国の高度成長を支えてきたのはどちらも欧米の技術を導入した工業技術の進歩によるものでした。

さて、ある国の経済の高度成長にはいろいろな要因があります。政府の経済政策、資金調達に関する法律の整備、工業団地の設置、アメリカ式の経営と品質管理方法の導入などなど多数の要因の相乗効果で経済の高度成長が起きると考えられます。

しかしそれらを支える優秀な人材が集まらなければ高度成長は達成できません。
必要な人材にはいろいろな分野の人材があります。その中で重要なものの一つは、優秀な技術者を集めることです。そしてそれを育てる大学の工学部の学生が熱心に勉強することが非常に重要です。
日本の復興期と高度成長期の工学部の学生は猛烈に勉強をしたものです。大学を卒業して会社に就職した後も、技術者は職場で熱心に勉強会を開催して欧米の技術書を原語で読むことをしていました。兎に角、工学部の学生はよく勉強しました。工場の技術者達も職務時間の後も会社に残って欧米の専門書を読み、輪読会もしていたのです。そんな時代があったのです。

今日は日本と中国の工学部の学生や技術者が猛烈に勉強していた様子を少し具体的にご紹介したいと思います。全て自分の体験にもとづいたご紹介です。

(1)日本の工学部の学生と技術者の勉強ぶり
日本の戦後の復興期の工学部は旧制の大学時代の教授が学生を教えていました。学生は勉強するのが当然な時代でした。授業の内容は欧米の工業技術を分野ごとに整理して教えます。そしてその分野の基礎科学を教えます。その上、実験教育の時間が長かったものです。その専門教育では英語の専門用語が徹底的に教え込まれました。会社に入ってから欧米の技術を学び、導入するために英語の専門用語が絶対必要だったのです。
その上、卒業論文は自分の実験に基づいて書かなければいけません。
4年生になるとあまり講義は無くなり、連日、卒業実験をさせられたのです。先輩の助手や大学院生が指導するのですが、実験ノートの書き方から始まって、それは厳しいものでした。そして卒論提出の期日が迫ってくると連日、徹夜で実験をするのです。
こんな教育を受けて会社に入り技術者になると会社の職務時間の終わった後に勉強会をするのです。工場勤務は3交代です。夜の勤務は暇があるので欧米の専門書を読むのです。このような猛烈な勉強のお陰で欧米の技術が素早く導入出来たのです。そして大量生産と品質管理で日本の高度成長が達成出来たのです。
このような事情は実は中国でもあったのです。それを実際に見たことを次にご紹介いたします。

(2)中国の工学部の学生と技術者の勉強ぶり
中国の凄惨な内戦は、毛沢東の死んだ1976年に終了しました。その直後に行った北京と瀋陽は丁度、戦争直後の日本のように荒廃していました。街路に汚物が散乱し、公衆便所は極端に汚くて使えません。町には人民服を着た栄養失調の人々が群れていました。その光景はあまりにも貧しいものでした。
中国の文革後の復興期は1976年から天安門事件の1989年までの鄧小平の時代と考えられます。
それに続く1990年から現在までを経済の高度成長期と考えて大きな間違いがないでしょう。
中国の学生と技術者の猛烈な勉強ぶりに圧倒されたのは1981年のことでした。
その年の秋に北京鋼鉄学院で集中講義をしました。聞いてくれたのは北京鋼鉄学院の学生と全国の鉄鋼会社から電報で呼び集められた技術者達でした。私の言葉の一言半句も聞き逃さないように真剣に聞くのです。講義は英語で、それを通訳が説明します。
通訳の説明をノートに書きつけてます。講義は1週間くらいでした。終了後、配った手製のテキストを瀋陽の東北工学院でも使おうと回収しました。ところが半部以上が返って来ません。周栄章教授が、「兎に角、専門書に飢えているのです。遠方から来たのですから勘弁して下さい」と言います。
そして周栄章教授が学生の猛烈な勉強ぶりと会社の技術者の自主的な勉強会の様子を縷々説明してくれたのです。
それは日本の復興期の猛列な勉強ぶりと同じだったのです。いえ、日本よりもすごかったのです。

北京鋼鉄学院と瀋陽の東北工学院で実際に見た彼等の勉強ぶりを思い出すと、その後の中国の高度成長も当然なように思えます。そして嬉しく思います。努力が報われるのを見るとだれでも嬉しく感じるのではないでしょうか。

今日の記事の構想は先週、相模湖畔を散歩しながら考えたことです。そこでその折に撮った相模湖の風景写真を挿し絵代わりに掲載致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)












「今日の日記、薬草園の花のトリミングをして掲載しました」

2016年09月12日 | 写真
朝に、「朝鮮の歴史と秀吉時代の李朝の白磁の簡略な紹介」という記事を掲載してから、スーパーに行きました。売り場が広く清潔なスーパーなので毎日のように行きます。珍しい食品も並んでいるので見るだけで楽しいのです。
午後からは気晴らしに浅間山と多摩墓地の中を車で回りました。
その後で先週、都立薬草植物園で撮って来た花々の写真をトリミングして整理しました。その花の写真をお送りします。
1番目の写真は八重のチョウセンアサガオです。その後は順々にツノゴマ、ヒメハマナデシコ、八重のキバナコスモス、ダリアの組み合わせです。

こうして初秋の一日も流れ行きます。秋が来ましたね。










朝鮮の歴史と秀吉時代の李朝の白磁の簡略な紹介

2016年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム
私の書く文章は長すぎて読みにくいという批評をよく頂きます。そこで今日は3つの部分に区切って、それぞれに小さな見出しをつけました。3つのどの部分から読んでも話が完結するように書きました。

(1)朝鮮の簡略化した歴史
日本人がよく知っている朝鮮の歴史は飛鳥、奈良時代に交流のあった百済、新羅、高句麗の三国だけです。その後のことはあまり学校では習いません。
その後はいろいろ戦乱があり、918年、後高句麗の豪族の健が新羅を滅ぼして王位を簒奪し、高麗を建国したのです。この高麗は現在の韓国の英語名のKorea になったのです。
この高麗は918年から、1392年に朝鮮王朝の開祖李成桂が開城で王に即位し李氏朝鮮が始まるまで続きました。
朝鮮の1392年以後の李氏朝鮮では焼き物の技術が発展します。
日本の歴史と朝鮮の歴史を比較すると非常に大きな違いがあります。
朝鮮は中国と陸続きです。いろいろな時代に中国大陸から強大な敵国が侵入し、北朝鮮のみならず南も占領されたのです。
北朝鮮は渤海、東丹国、元朝に支配され、特に元は朝鮮半島全部を支配し、日本へまで攻め込んで来ました。

一方、日本も秀吉の出兵により李氏朝鮮の首都、漢陽(現在のソウル)も陥落したのです。
それは1592年の 文禄の役(壬申の倭乱)と1597年の 慶長の役(丁酉の倭乱)です。しかし 李舜臣の活躍で日本軍は撃退されました。現在、韓国では李舜臣の銅像があちこちにあります。

さて話は変わって李朝の白磁のことになります。
(2)秀吉による朝鮮の磁器焼成技術の導入
日本では秀吉の朝鮮出兵まで磁器の焼成が出来ませんでした。
土器を焼いた須恵器という陶器しか出来なかったのです。それが連行されて来た朝鮮の陶工たちによって初めて磁器が焼成されたのです。それは革命的な技術革新でした。
この新しい技術には2つの絶対条件が要求されます。
(1)磁器になる岩石成分を多く含有する磁石(じせきと言い、ジシャクとは違う)を発見する技術。
(2)焼成する炉の熱効率を上げて摂氏1000度以上の温度が出る構造の焼成炉を作る技術。
この二つの技術が日本には無かったのです。
さて朝鮮から連行されて来た陶工達はどのようにして上の新しい技術を伝えたのでしょうか?

この問題を詳細に研究して発表している専門家がいます。彼は東京都の清瀬市郷土博物館の学芸員の内田祐治さんです。
以下は彼の2008年6月発表の研究論文(http://members3.jcom.home.ne.jp/nabari.u.y/imari.pdf)からの抜粋です。

佐賀県の一帯には、古来より須恵器からつづく窯が点在していました。その景観が一変する契機となったのが、秀吉による朝鮮半島への出兵でした。上にも書きましたが、文禄の役(1592 ~ 94)と慶長の役(1597 ~ 98)の結果として、磁器焼成技術が日本へ伝承されたのです。
 この文禄・慶長の二度の役により、数多くの朝鮮人を日本人武将が国へ連行して来たのです。そのなかに陶工達もいました。
もともと朝鮮半島での戦は恩賞としての領地を与えられぬ戦です。
そこで朝鮮陶工を帰化させることにり、諸藩へ新たな窯業を興させ、それをもって恩賞に代えることにしたのです。それが秀吉の政策でした。
彼らは付き従った諸藩へ帰化し、各々の領主の庇護を受けて陶器の製造をはじめたのです。
それらは唐津焼、上野焼、高取焼、薩摩焼、萩焼と呼ばれる窯業地帯を形成させていったのです。     
なかでも多数の朝鮮陶工をともない、後の唐津焼きの礎を築いたのが北九州の鍋島藩、平戸藩、唐津藩でした。
その陶工らは、松浦・佐賀・多久・武雄、平戸・諫早に陶土をみいだし、それぞれの窯を築いたのです。

やがて有田西部の乱橋に移住した李参平(日本名、金ヶ江 三兵衛)は、有田川上流の泉山の地で磁器原料となる磁石(じせき)を発見します。
上白川の天狗谷に窯を築き、磁器の試作を完成させたといいます。
これが我が国で磁器が初めて焼成された記録です。磁器焼成の新しい技術革新が起きたのです。
そしてその約50年後正保三年(1646)、酒井田柿右衛門が赤絵に成功したのです。
なお李参平の十四代目の子孫の金ヶ江三兵衛は現在でも磁器を制作しています。

国産赤絵の成功を契機に、藩は一方で磁器製法の秘術を守り抜くために有田皿山へ番所を設け商人の直取引を禁じ、他方で海上輸送の焼物の集積港である伊万里津へ買い付けの場を定め、販売の制度を確立してたのです。それで伊万里焼という名がついたのです。
美しい絵模様のついた磁器はやがていろいろな藩で焼成されるようになり藩財政を潤したのです。そして江戸時代の外国貿易の主要な輸出品になっていったのです。
その詳細は是非、清瀬市郷土博物館の学芸員の内田祐治さんの研究論文をご覧ください。

(3)朝鮮本土の李朝白磁の特徴
それはさておき日本で現在でも尊重されている朝鮮本土の李朝白磁の写真を見てみましょう。
李朝の陶磁器は、初期には粉青沙器が主流でしたが、17世紀以後は白磁に変わりました。
中国の元、明の白磁の影響を受けたものですが、17世紀には色が青味がかり、李朝末期には濁った白色に変わったのです。
李朝では、磁器の製造は官窯でである工匠が行っていました。
1752年に広州に分院の官窯が作られ生産の中心になっていましたが、1883年に分院が民営化され官窯の歴史は終わったのです。
下絵付はありましたが、上絵付はありませんでした。
コバルト顔料で下絵付した青花も作られましたが、コバルト顔料が不足したため、鉄絵具で下絵付する鉄砂や銅絵具で下絵付する辰砂(赤茶色)も作られたのです。

しかし、李朝白磁の95%以上は他の色による装飾がない純白磁であり、江戸時代に日本で作られていたような華やかな色絵磁器は李氏朝鮮には存在していません。以上の解説文は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%9C%9D%E7%99%BD%E7%A3%81#mediaviewer/File:Baekja-White_Ceramic.jpg から抜粋いたしました。

さて李朝の白磁は素朴で暖かみがあります。その上、上品な感じがします。見る人の心をなごやかにするのです。私も好きです。現在の日本人も尊重していますので、その写真を示します。

1番目の写真は李朝初期の白磁壺です。
1番目の写真の出典は上の解説文の出典と同じです。
2番目は李朝初期の白磁皿です。3番目は初期の白磁徳利です。4番目は李朝中期の貝文大徳利です。5番目は李朝後期の大白磁徳利です。1番目の写真以外の写真の出典は、http://www.nakamaga.com/newpage11.html です。

ついでに6番目、7番目、8番目の写真に世界遺産の済州島の王宮やお寺の写真を示します。観光客用に作ったものですが、韓国人の王宮の様子が理解出来て興味深い写真です。彼等はやはり中国の王宮やお寺に憧れていることが分かるのです。写真の出典は、http://mdavinci.exblog.jp/7132453/ です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)















===参考資料============
李 参平(り さんぺい、生年不詳 - 明暦元年8月11日(1655年9月10日))は、 朝鮮出身の陶工で、有田焼(伊万里焼)の生みの親として知られている。日本名は金ヶ江 三兵衛(かながえ さんべえ)。現在も直系の子孫が作陶活動などを行い、14代まで続いている。
現在の14代の陶芸家のホームページは下記をご覧くださ。
http://toso-lesanpei.com/owner/index.html
・・・ 十四代金ヶ江三兵衛の挨拶・・・・
草創期の有田焼から感じる陶工たちの想いと技術を蘇らせ、李参平の子孫として日々精進しております。
そして、その作陶活動から韓日文化交流の架け橋のひとつになりたいと思います。
また来る2016年は「有田焼発祥400年」という節目の年です。 ・・・以下省略

「今日の日記、ミサに行きました。長寿を祝う会に出ました」

2016年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。朝に田中一村の日本画を紹介する記事を書いて、掲載してからミサへ行きました。
ミサ後、長寿の記念撮影がおみ堂の祭壇の前でありました。
その後、地下ホールで「長寿を祝う会」がありました。家人は79歳、私は80歳になりました。

ディン神父さまが楽しそうにしていました。
静かに日曜日が過ぎて行きます。今日の日記です。











「老境に至って知る日本画の魅力(4)孤高の人、田中一村の圧倒的な日本画の世界」

2016年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム
これが日本画かと思うような強烈な印象を受けるのが田中一村の絵です。
彼は生きている間はまったく無名の画家でした。南の奄美大島に住み着いて困窮を克服しながらひたすら熱帯の植物や鳥や蝶を愛し精彩に描き上げたのです。
一生妻をめとらず、中央の画壇とも交わらず孤高を通したのです。
田中一村の生き方は凡人には真似の出来ない修行僧のような一生でした。
ですからこそ田中一村画伯の絵画は何度みても圧倒されます。

彼は1908年に生まれ、1977年に69歳で亡くなれりました。1955年のスケッチ旅行が転機となり奄美大島へ渡り1958年から住み着きました。
島では大島紬の染色工をして生計を立て絵を描き続けたのです。
しかし奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在でした。個展も実現しなかったのです。

没後に南日本新聞やNHKの「日曜美術館」の紹介でその独特の画風が注目を集め、10年前くらいから全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びるようになったのです。

その結果、奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」が2001年にオープンしのです。
その後生誕100年にあたる2008年には、奈良県立万葉文化館で「生誕100年記念特別展 田中一村展―原初へのまなざし―」が開催されます。

この幸い薄い田中一村の絵を私が見たのは数年前でした。横浜美術館での巡回特別展でした。田中一村の絵を前にして私は言葉が出ません。言葉では表現出来ない感動を覚えました。
写真に彼の絵画を謹んでお送り致します。
ここに掲載した絵画の出典は:http://www.ne.jp/asahi/yoshida/gaia/index.htm
 です。

今日は日曜日です。田中一村の絵画を眺めながらゆっくりお過ごし下さい。


今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


====田中一村、才能あるが落選続きの不運な経歴============
1908年、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。
若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得た。
1926年、東京市芝区の芝中学校を卒業する。東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学、同年6月に中退。同期に東山魁夷、橋本明治らがいる。しかし、自らと父の発病により同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。
『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。
1931年、それまで描いていた南画と訣別。
1938年、千葉に暮らす
1947年、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。このとき初めて一村と名乗る。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れる。
1949年、23歳の時、南画を離れて自らの心のままに描いた日本画「蕗の薹とメダカの図」は後援者には受け入れられなかった。
1953年、第9回日展に「松林桂月門人」として出品するが落選(この年12月25日奄美大島が日本に返還される)。
1954年、第10回日展に出品するが落選。
1955年、 九州・四国・紀州をスケッチ旅行して回る。 1957年、第42回院展に出品するが落選、1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。
1958年、第43回院展に出品するが落選中央画壇への絶望を深め、奄美大島に渡る(50歳)。
1958年、奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。
1977年 - 9月11日没。69歳没。墓所は満福寺。











「老境に至って知る日本画の魅力(3)優しい美を描く小野竹喬の世界」

2016年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム
日本画の世界は西洋画の世界とは非常に違います。そのどちらも芸術的な作品である以上、絵画として美しいうえに人間の考えや精神が深く描き込んであります。東洋と西洋では精神性が違うので絵画も違います。
日本画では人間と自然と調和しお互いに一体になりたいという精神が深く描き込んであります。西洋のように人間と自然が対立しているのではなく両者が調和し溶けあっています。自然に対する考え方の違いです。
ですから小野竹喬の日本画もそのように描かれています。そこで彼の日本画の特徴を考えてみましょう。
竹喬の画の特徴を一口に言うと柔らかさでしょう。なだらかな線、穏やかな色、それらが見る人の心にそっと浸みこみ、自然に平安な世界にいざなってくれます。
このような特徴は西洋画にはあまりありません。
人間の優しさを自然風景を柔らかく美しく描いて表わしているのです。絵は人間性を表わすとよく言いますが、小野竹喬は優しくてしなやかな人格者だったに違いありません。そして絵を描く技術も抜群の天才だったのです。
彼の絵画の世界の感想文はこれくらいにして、さっそく絵を見てましょう。
一番目の写真は「西の空」です。素描、1967年作。

空は少し暮れかかって茜色になり始めました。もう少し時間が経てば本当に鮮やかな茜色になると考えられます。なにかほのぼのとした幸せな気分になります。
二番目の写真は『夏の五箇山』 1933年(昭和8年)作、 笠岡市立竹喬美術館所蔵。

この絵は戦争前の昭和8年に描かれた四曲の屏風絵です。若い頃の作品なので山々の茂っている樹木の緑の濃淡が丁寧に描いてあります。この絵をしばらく見ていると自分の体が木々の緑色に染まってしまうようです。人間と自然が溶け合うのです。
三番目の写真は「池」、1967年(昭和42年)作、彩色・絹本、東京国立近代美術館蔵。

この絵は碧い池の中に葦が茂っている風景です。波が静かに漂います。私は仏教が好きなので、何故か仏画を見ているような気分になります。
四番目の写真は「沖の灯」 1977年作。

茜色の雲が湧き、そして暮れかかった沖には漁火が点々とまたたいています。手前の海の風波には夕日の光が反射しているようにも見えます。中央を大胆に横切る黒い線は潮目でしょうか。
自然の光景の変化の一瞬を捕え、大胆な色使いでいきいきと描いてあります。
自然の大きさと静謐さを感じられます。
五番目の写真は「春耕」、1924年作、 絹本着色,二曲一双 、笠岡市立竹喬美術館蔵 。

これは35歳の時の作品です。春先に農民が牛を使って田おこしでもしているのでしょうか。大きな犂を引くことに疲かれた牛が一休みしているようです。
周囲の樹木の春らしい緑の色調の違いが丁寧に美しく描いてあります。「春耕」という題目が納得されます。これで小野竹喬の画の紹介は終わりにします。
彼は90歳まで生き数多くの名作を描き文化勲章まで貰った幸福な一生でした。しかし悲しい思いは避けられませんでした。昭和17年に長男の春男が出征してすぐに戦死してしまったのです。
六番目の写真の画は遺作の屏風絵です。小野春男の屏風(びょうぶ)絵「茄子(なす)」、1941年(昭和16年)作。

信州、上田の戦没画学生の遺した絵画を展示している無言館にあります。
春男は父の才能を引き継ぎ日本画家として期待されていました。
1917年、京都市生まれ。41年に同市美術展覧会で入選を果たすなど活躍が期待されていたのです。
翌年に出征。43年12月2日、中国湖南省で26歳の若さで銃弾に倒れたのです。そのため、これまで知られていたのは、屏風(びょうぶ)絵「茄子(なす)」と自画像のみです。
息子が親より早く亡くなるというのは悲しいものです。小野竹喬もそのような悲劇に見舞われたのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料==================
(1)小野 竹喬
出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%AB%B9%E5%96%AC です。
小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11月20日 - 1979年(昭和54年)5月10日)は、大正・昭和期の日本画家。本名は小野英吉。
1889年(明治22年) 岡山県笠間市西本町に生まれる。1906年(明治39年)京都の日本画家・竹内栖鳳に師事。栖鳳より「竹橋」の号を授かる。1911年(明治44年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科修了。同校の同期生であった村上華岳、土田麦僊とともに1918年(大正7年)国画創作協会を結成する。1923年(大正12年)、号を「竹喬」と改める。1947年(昭和22年)には京都市美術専門学校教授に就任し、京都市立芸術大学と改組した後も教鞭を執った。同年、日本芸術院会員となる。 50歳前後で没した華岳、麦僊に対し、竹喬は戦後も日本画壇の重鎮として活躍し、1976年(昭和51年)には文化勲章を受章している。等持院の小野宅は、今も閑寂な空気につつまれ、庭や東隣に位置する名刹等持院境内には、小野竹喬の絵の素材になった木々が繁る。
代表作:
•「郷土風景」(1917年) - 京都国立近代美術館
•「波切村」(1918年)
•「波切村風景」(1918年)
•「夏の五箇山」(1919年) - 笠岡市立竹喬美術館
•「波濤」(1927年) - 笠岡市立竹喬美術館
•「青海」(1927年) - 笠岡市立竹喬美術館
•「冬日帖」(1928年) - 京都市美術館
•「溪竹新霽」(1938年) - 霞中庵 竹内栖鳳記念館
•「秋陽(新冬)」(1943年) - 大阪市立美術館
•「奥入瀬の渓流」(1951年) - 東京都現代美術館
•「奥の細道句抄絵」(1976年) - 京都国立近代美術館
(2)小野春男:
大正6年(1917)、日本画家・小野竹喬の長男として京都に生まれた。父の母校である京都市立絵画専門学校に入り、昭和15年に卒業した。翌年には京都市美術展に「樹林」を出品している。
昭和17年に伏見の京都連隊に入営し、敵飛行場を占領して破壊するための浙カン作戦に加わっていた歩兵第109連隊に補充された。翌年、常徳殲滅作戦に参加。10月初に漢口付近に上陸し、揚子江を渡河し、敵陣地を潰しながら洞庭湖の西端にある常徳に向かった。
11月30日に常徳城の総攻撃が行われ、激しい市街戦が展開された。おそらくその日、彼は歩哨に立ち、狙撃された。死亡は12月2日となっているのでしばらく生きていたのではなかろうか。享年27歳。
(3)無言館:
私共は巡礼のような気分で3度ほど訪れました。遠い所にありますが最近はバスが上田駅から出ています。その詳細は、http://www.city.ueda.nagano.jp/hp/shokan/0500/20100303105353073.html にあります。


老境に至って知る日本画の魅力(2)清冽、精神性の深い東山魁夷の世界

2016年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
東山魁夷の絵画は綺麗過ぎるほど美しいのです。すぐれて装飾的でもあります。
私の定義では芸術はまず人の心を打つことが肝要です。単に美しいだけでは芸術にはなりません。深い思索と精神性が加味されていなければなりません。
彼の絵画は日本画なのに西洋的な精神性が濃いと思います。その上、日本人の精神性も込められているのです。
それでは彼の精神性とは何でしょうか?
間違いを恐れずに言えば、ドイツ的なカトリックの信仰と、仏教、とくに禅宗的な静かな信仰心です。この二つが混然一体となっています。彼は風景画を描きながら、「祈り」を描き込んでいたのです。

東京美術学校卒業後すぐの1933年から1935年までベルリン大学に留学しました。寒くて暗いベルリンで芸術家になるための哲学、神学、美術史、ギリシャ文化、などを勉強したに違いありません。そして盛んに絵画制作にいそしんだのです。
彼がパリではなくベルリンへ留学したことが良かったと思います。パリに行った日本人画家のように印象派の模倣をする必要が無いのです。迷うことなく独自の画風を育てることが出来たのです。

なにせドイツの有名な画家と云ったらデユーラーしか居ないのですから。暗い細密な絵画をルネッサンス期に描いたデユーラーの記念館しかないのです。あとは暗い中世の宗教画を集めた美術館が数多くあるのです。
日本では東山魁夷のドイツ留学の影響をあまり言われていません。
しかし1971年に出版された彼のドイツ旅行記の「馬車よ、ゆっくり走れ」を読むと彼の若き日のドイツへ対する強い想いが書いてあります。
昔、スケッチをした街角に立って風景を描いているときの気持ちを思い出しているのです。
私は1970年前後に暗い寒いドイツに住み込んだ経験があります。とにかく冬が長く、低い雲が毎日空を覆い暗いのです。
そのようなドイツや北欧で馬車に乗ったようです。ゆっくり石畳を走る蹄鉄や車輪の音が、いろいろな思い出と響き合って書いてある随筆集です。
ベルリンの冬は暗く寒いのです。その風景が、そしてそこで学んだ宗教学や哲学が東山魁夷の絵画の精神性を深くしています。これが東山魁夷の精神性なのです。間違っているかも知れませんが、私にはそのように思われます。
下に彼の日本画を数点示します。

1番目の写真は 「緑響く」という題の日本画です。
1972年、魁夷は突然、白い馬を描き始めた。若葉が水面に映る川のほとり、山深い木々の間、ほの暗い森の中、紅葉の木々の間など、さまざまな風景の中に馬を置いた。それが、夢の中の出来事のような18枚の絵になったのだった。出典は、http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20110730/1311973474 です。


2番目の写真は、「行く秋」1990(平2)です。
・・・枯葉、落葉ということばには、一抹の淋しさがつきまとう。
だがここでは冬を目前に散り行く落葉樹の、たっぷりとした深みと実りを暗示させる。しきつめられた金のカーペットをかさかさと踏みしめるとき、きっと私たちには足の裏に、 燦然と輝く木々の生命の昇華を感じ取るのだろう。・・・この文章は、http://www2.plala.or.jp/Donna/kaii.htm より転載した文章です。

3番目の写真は、「年暮れる」という題の日本画です。
・・・これは生きている。屋根しか描いていないのに。人の静かなざわめきが聞こえて来る。カレンダーに描かれた彼の絵とは全く違う。荘厳な年が暮れるその姿が静かに描かれている。この画家を見直した絵である。・・・・ある人の感想文です。
出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/cksbg258/15270923.html です。

4番目の写真は、「谿若葉」です。 制作:1984年、技法:木版画、サイズ:35.1x45.5
暗い杉の谷を背景に、若葉が明るく浮かぶ山の斜面。原画は兵庫県立美術館に所蔵。2000年の10月に販売された日本経済新聞出の東山魁夷アートカレンダー2001年の3月にも収録された作品。 一色ずつ色を重ねて完成する木版画は、日本画の彩色技法にも似ており、東山魁夷は生涯に渡り多くの木版画を制作しました。 出典は、http://東山魁夷.com/sakuhin/121.html です。

5番目の写真は、「緑のハイデルベルグ」、1971年 です。
ライン河の支流ネッカー河のほとりに位置するハイデルベルク。初夏の緑に覆われた山腹の古城はドイツ・ルネサンスの重厚な面影と典雅な趣をあわせ持っています。街並みの景観の価値を重んじ、保存に努めるヨーロッパの落ち着いたたたずまいをとらえた東山魁夷の代表作です。

6番目の写真は、「道」です。
戦後、1947年の第3回日展で「残照」が特選を得たことが転機となり、以降、風景を題材に独自の表現を追求した。1950年に発表した「道」は、草の間を前方へとまっすぐに伸びる道、そして緩やかに右へ曲がり細くつづく道。それだけを描く作品で、単純化を極めた画面構成に新機軸が示されている。この「道」は種差海岸のスケッチがもとになっていると言われているが、東山魁夷の出世作として有名な作品です。

====参考資料=================
船具商を営んでいた父・浩介と妻・くにの次男として1908年に横浜市に生まれる。1999年に92歳で逝去する。
父の仕事の関係で3歳の時に神戸西出町へ転居。兵庫県立第二神戸中学校(現兵庫高校)在学中から画家を志し、東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科へ進学。結城素明に師事。在学中の1929年第10回帝展に「山国の秋」を初出品し、初入選を果たす。美術学校を卒業後、ドイツのベルリン大学(現フンボルト大学)に留学。1940年には日本画家の川小虎の娘すみと結婚。1945年応召し、熊本で終戦を迎える。召集解除後は小虎、母、妻が疎開していた山梨県中巨摩郡落合村(現南アルプス市)に一旦落ち着く。11月に母が死去すると千葉県市川市に移り、その後1953年には大学の同窓・吉村順三設計による自宅を建て、50年以上に亘りその地で創作活動を続けた。
戦後、1947年の第3回日展で「残照」が特選を得たことが転機となり、以降、風景を題材に独自の表現を追求した。1950年に発表した「道」は、前方へとまっすぐに伸びる道それだけを描く作品で、単純化を極めた画面構成に新機軸が示されている。北欧、ドイツ、オーストリア、中国にも取材し、次々と精力的に発表された作品は、平明ながら深い精神性をそなえ、幅広い支持を集めた。1960年に東宮御所、1968年に落成した皇居宮殿の障壁画を担当した。1970年代には約10年の歳月をかけて制作した奈良・唐招提寺御影堂障壁画「黄山暁雲」は畢生の大作となった。・・・・以下省略。・・・・詳細は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E9%AD%81%E5%A4%B7 にあります。
代表作:
•『残照』(1947年、東京国立近代美術館収蔵)
•『道』(1950年、東京国立近代美術館収蔵)
•『光昏』(1955年、日本芸術院収蔵)
•『青響』(1960年、東京国立近代美術館収蔵)
•『曙』(1968年、財団法人北澤美術館収蔵)
•『年暮る』(1968年、山種美術館収蔵)
•『花明り』(1968年、個人所蔵)
•『白馬の森』(1972年、長野県信濃美術館・東山魁夷館収蔵)
•『濤声』『山雲』『黄山暁雲』(1975年、唐招提寺障壁画)
•『朝明けの潮』(1968年、皇居新宮殿壁画)
•『夕星』(1999年、長野県信濃美術館東山魁夷館蔵) 絶筆
随筆集:
•『わが遍歴の山河』(新潮社、1957年)
•『私の窓』(新潮社、1961年)
•『森と湖の国 北欧画集』(美術出版社、1963年)
•『白夜の旅』(新潮社、1963年、のち新潮文庫、1980年)
•『風景との対話』(新潮選書、1967年)
•『朝明けの潮』(三彩社、1968年)
•『京洛四季』(新潮社、1969年)
•『馬車よ、ゆっくり走れ』(新潮社、1971年)
•など多数。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

老境に至って知る日本画の魅力(1)河合玉堂の美の世界

2016年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
年をとると月日がとても早く過ぎるように感じます。
2年前のある秋晴の日に家内と一緒に玉堂美術館に行ったのも昨日のように思い返されます。





上の写真はその時、撮った写真で、玉堂美術館とその前を流れる多摩川の様子です。
川合玉堂は明治6年愛知県に生まれ昭和32年に84歳で没しました。
昭和19年から32年まで美術館の前の多摩川の向側にある御岳駅のそばに住んでいました。
奥多摩の自然を愛し、数々の傑作を世に送り出したのです。それで奥多摩の人々は郷土の誇りのように思っています。

上は紅梅白梅図は大きな六曲一双 、琳派風の絢爛たる力作のうちの2面です。絵画の出典は川合玉堂美術館のHP(http://www.gyokudo.jp/)からです。
川合玉堂の絵画は自由闊達でのびやかです。上品で穏やかです。自然の風景、草木、小鳥などを愛する心が画面に温かい雰囲気をかもし出しています。
初め京都、円山四条派に学び、のち橋本雅邦に師事します。雅邦に学びながら次第に独自の境地を切り開いて行きます。

上の「行く春」という絵画は玉堂の生涯の傑作と絶賛される作品です。 出典は、川合玉堂名画集(http://www.u-canshop.jp/gyokudo/)です。
「行く春」を何年も前に国立美術館で見たときの感動を忘れられません。
ここに示した写真が小さすぎますので少々説明いたします。左から散りかけた桜花が画面中央へ伸びています。水豊かな山峡の流れに大きな水車を乗せた船が連なってしっかりと係留されています。激しい流れを使って水車を回す「水車船」なのです。船の中には臼がが並んでいて穀物を挽いているのが想像出来ます。雄大な自然と人々の生活が描がれているです。そして過ぎ行く春が時の流れのはかなさを暗示しています。

上は http://kaiseik.exblog.jp/14483265/ から転載させて頂きました。
「彩雨」という傑作で、「行く春」と並んで玉堂の二大傑作と言われている感動的な日本画です。
絵は原画を見るに限ります。この写真も画質が粗いので少し説明いたします。この絵の下の方に2人の傘をさした女性が小さく描いてあります。それで雨が降っていると判然とします。その女性が精密に描いてあり、嫁と姑のように見えるのです。
勿論、傘の2人を見なくても風景が雨もよいに描いてあります。何か懐かしい風景がのびやかに広がっています。玉堂の絵画の特徴を表している傑作です。

上の絵は、玉堂美術館で見た絵画の中で一番印象が深かった絵です。

上と下にもう2枚の作品を示します。

天才的な画家でも画風を変えようと苦悶する時期が一生の間に何度かあるものです。しかし玉堂にはその苦しみがなかったように見えるのです。自由に楽しみながら描いて一生を終えたのです。毎日、奥多摩を散歩してはスケッチし、画室に戻り絵筆をとり、楽しみながら描きました。その様子は美術館のロビーにある紹介ビデオで見ることができます。
是非一度、川合玉堂美術館へお出で下さい。新宿駅から御岳駅までJRで1時間30分です。
美術館は駅前の多摩川の上の大きな橋を渡って、左へ曲がり、美術館への遊歩道を谷へ下りるとあります。御岳駅から徒歩5分です。車の方のためには広い駐車場もあります。美術館の隣には風情のある和風レストランもあります。
今日は2年前に訪れた玉堂美術館のことを思い出しました。そして河合玉堂の絵画をあらためて見て静かな感動を覚えます。この秋にもまた行きたいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

陽賜里工房の恒例の秋のオープンガーデンのご案内

2016年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県、北杜市の甲斐駒の麓にある陽賜里工房ガーデンの恒例の秋のオープンガーデンが例年通り開催されます。
庭でお茶をゆっくり飲んで寛ごうという企画です。ホストは原田聖也さんという男性とその母上です。

日時:9月17日(土)と18日(日)の朝10:00時から午後4:00時ころまで、
ところ:山梨県北杜市武川町山高 3567-556の陽賜里工房ガーデンです。

連絡先:原田聖也さん、携帯電話:090-4170-0370 E-Mail:t-taraku@t-net.ne.jp

このオープンガーデンには私も家内と一緒に参加したことがあります。
私共は今年の春にも訪問しました。
6年前の春のオープンガーデンの報告記事を以下に掲載いたします。ご参考になれば幸いです。

======花の園の中の喫茶店・・・陽賜里工房というコーヒー店===
戦後に学生時代を過ごした方々にとっては喫茶店という言葉は懐かしいと思います。名曲喫茶とか純喫茶とか歌声喫茶とかいう名前で、コーヒーの香りとともに文化的な場所でした。当時、コーヒーは高価な飲みものだったのです。
それから幾星霜、不思議な喫茶店へ行ってきました。陽賜里工房という名前で、春と秋の2回しか開店しません。
春の花々、秋の花々に囲まれたコーヒー店です。店主は原田聖也さんという男性で、コーヒーの修業を重ね、特別のコーヒー豆焙煎工場のものを仕入れて使っています。食品衛生法を勉強をし、飲食店開業の資格も取りました。
この喫茶店は北杜市の真原桜並木のはずれにある花の園です。庭全体がなだらかな南向きの斜面になっていて満開の桜の木が2本、ピンクのユキヤナギ、水仙、ヒトリシズカ、イカリソウなどに囲まれて店主手造りの店があります。
花園の一番高い所にはロマンチックなデザインの木造の家があり店主が寝泊まりする場所になっています。お客は勝手に花の園を歩きまわり、花々を鑑賞します。そして花疲れしたら洒落た店に入って香り高いコーヒーを頂きます。
コーヒーを飲む場所には女主人が居て、つれづれの話し相手になってくれます。店の主人のお母さんです。上品な日本語を使う方です。花の園の作り方などのよもやま話です。私がカトリックの話をしましたら、ご自分の信仰のバプテスト教会の話を静かにして下さいました。亡くなったご主人はその教会の牧師さんで、ご自分も宣教活動をしながら幼稚園の園長さんもしていたそうです。兎に角、折り目正しい一生を過ごした方なのでお話をしていてもスッキリとした印象です。
下にこの花の園の中の喫茶店の写真をお送り致します。





雑木林の中の友人たちが消えて行き甲斐駒岳だけが残った

2016年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
老境の悲しみは親兄弟、親戚、恩人、友人が一人、また一人と旅立って行くことです。
親兄弟や恩人、仕事仲間など我が人生を大きく支えてくれた人々との惜別は深い群青色の悲しみです。そして感謝の気持ちが豊かに湧いてきます。
そしてその一方、人生の余暇に一緒に遊んだ友人たちとの別れには、そこはかとない悲しみを感じるものです。それは淡い水色のような悲しみです。
そんな友人たちの思い出を少し書いてみたいと思います。山梨県の雑木林の中の別荘地で一緒に遊んだ人々の思い出です。

その別荘地の25人くらいのメンバーで40年ほど前に「柳沢清流園管理組合」というものを作りました。
毎年、夏に総会と懇親会をして来ました。 その清流園のある場所は下の写真にあるような甲斐駒岳の手前の深い森の中です。

この別荘地ではいろいろな人と知り合いました。大工さん、庭師、会計士、会社員、ブドウ栽培家、不動産業者、そして共産党員などなどです。
大工さんの中川さんはこの地に独りで住み着いていました。別荘を10軒も建て、井戸も掘り 、小型ブルドーザーで悪路も補修して清流園の維持に大きな貢献をした人でした。
何度も彼の家に上がり込み他愛のない話をしました。彼はたまにしか人に会えないのでいろいろな話をたて続けに話していました。
小さな別荘を作るときの苦心談が主な話題でした。彼はロマンチストだったらしく作る別荘には必ず小さなベランダのついた屋根裏部屋があるのです。露天風呂をつけた家も建てました。
新築の別荘に入れてくれて説明してくれます。2階の屋根裏部屋のベランダに出ると森の梢の上に甲斐駒岳が透けて見えるのです。八ヶ岳も少しだけ見えます。下に、別荘地の傍の牧草地から見た八ヶ岳の写真を示します。

中川さんは自分の別荘の庭に大きな池を作り、鱒を育てていました。その鱒を何度か頂いてきてムニエルにしてビールを飲んだものです。
最後の年の春に会った時は、「娘が旦那と一緒にこちらに引っ越して来る」と言って、楽しみにしていました。奥さんが早く亡くなったので、娘の自慢話を何度もしていたものです。その中川さんがその同じ年の初夏に旅立ってしまったのです。
その直後の田植えの頃、私は清流園に遊びに行って彼の訃報を知りました。
下に田植えの頃の、清流園への道の入口の写真を示します。


この清流園では、もと代々木の共産党本部で働いていた追平 さんとも知り合いました。一人で住んでいて、よく散歩をする人でした。私の庭にも何度も寄ってくれて話し込んで行きました。北海道帝国大学を出た人で、卒業後から一生、共産党本部で働いていた人です。
徳田球一さんや野坂参三さんの人間的な側面を話してくれたときは大変面白かったものです。
彼は都会育ちなのでパンが好きで近所に美味しいパン屋が無いとこぼしていたものです。 家内が東京の美味しいパンを届けたら満面笑顔になりました。彼も何処かに行ってしまってもう6年くらにになります。懐かしい人です。

懐かしいと言えば勝沼のブドウ農家だった中村さんも面白い人でした。狩猟が趣味で犬と共に奥深い山々に何日間も入ってイノシシや鹿を撃つそうです。しかしあまり命中しないと言います。獲物の話より山奥で野営する苦労話は面白かったのです。
その彼からブドウ酒の密造方法を教わったのです。まず多量の規格外のブドウを勝沼から買ってくるのです。それを潰して、砂糖を加えて、広口ビンに入れて数週間発酵させます。時々、味見をし甘味がアルコールになったら完成です。新聞紙で濾して葡萄酒の完成です。直ぐに飲まないと発酵が進み酢になってしまいます。
密造です。官憲の取り締まりは無いのですかと聞きました。するとブドウの産地の勝沼では皆が自家用に作っているので、時々取締りがあるそうです。しかし取締り日は近所の人が皆知っているので見つからないと言ってました。
別荘地にも官憲が来ますかと聞いたら、こんな悪路の奥までは来ないと笑っています。その悪路の写真を下に示します。

この中村さんは60歳を過ぎてすぐに亡くなりました。旅立ってからもう17年くらいになります。

それから向かいにかなり立派な別荘を建てた大宮市の長倉さんも懐かしい人です。何度も長倉さんの別荘に行っては一緒に飲みました。気持ちがサッパリした人でした。
息子やお嫁さんが幼子をつれて私の小屋の小川で遊んでいました。その前後に長倉さんが急に亡くなったのです。今年の別荘組合の懇親会で長倉さんの孫に会ったら大学生の青年になっていました。嗚呼、長倉さんが旅立ってからもう15年もの歳月が流れ去ったのです。下に私どもの質素な小屋の写真を示します。

こんなにも質素な小屋ですが、そのお陰で数多くの友人が出来たのです。
こうして柳沢清流園の人々は一人去り、また一人旅立ってしまい創立当時のメンバーは庭師の谷崎さんと私達だけになってしまいました。
しかし別荘の持ち主の二代目がメンバーになって今年の夏の懇親会には三代目の子供も含めて22人も集まりました。そして組合の役員全員が2代目の人に代替わりしたのです。

別荘地の風景は年年歳歳同じようですが、人々は変わって行きます。
気がついてみると、昔一緒に遊んだ人々がみな消えてしまいました。淋しくなりました。老境の悲しみです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「秋は喨喨と空に鳴り」の風景写真を撮りに行きました

2016年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム
最近は空が高くなり透明に澄んだ虚空に秋の雲が流れています。
高い空はもう秋ですが、地上は残暑がまだまだ厳しいのです。
この季節になると毎年、高村光太郎、「秋の祈り」という詩を読みます。
そしてその詩に興奮して秋の空の写真を撮りにいきます。私の初秋の恒例行事です。
昨日も家人とともに村山貯水池の喨々とした秋の空の写真を撮りに行きました。
その前に丁寧に読んだ「秋の祈り」を示します。

高村高太郎、「秋の祈り」

秋は喨喨と空に鳴り
空は水色、鳥が飛び
魂いななき
清浄の水こころに流れ
こころ眼をあけ
童子となる

多端粉雑の過去は眼の前に横はり
血脈をわれに送る
秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
地中の営みをみづから祝福し
わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ
奮然としていのる
いのる言葉を知らず
涙いでて
光にうたれ
木の葉の散りしくを見
獣のキキとして奔るを見
飛ぶ雲と風に吹かれるを庭前の草とを見
かくの如き因果歴歴の律を見て
こころは強い恩愛を感じ
又止みがたい責めを思ひ
堪へがたく
よろこびとさびしさとおそろしさとに跪く
いのる言葉を知らず
ただわれは空を仰いでいのる
空は水色
秋は喨喨と空に鳴る

「秋は喨喨と空に鳴り」はこの詩の冒頭と終りの句です。
老人になり、この詩を読むと私も「わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ」ます。そして恥多い私の人生を神に「奮然としていのる」のです。神の祈り許しを願います。
その次の句「いのる言葉を知らず」が高太郎の悲しみの深さを暗示しています。
そして「よろこびとさびしさとおそろしさとに跪く」と続くのです。
空は水色
秋は喨喨と空に鳴る。

これは人が秋の空を見上げて我が人生を振り返りながら秋の空の美しさをうたい上げた詩ですね。「秋は喨喨と空に鳴る」という句が豊かな詩的情感をかもしだしています。
わたしの好きな詩の一つです。
下に昨日、撮った「秋は喨喨と空に鳴り」の風景写真を示します。









===参考資料=================
高村光太郎:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%91%E5%85%89%E5%A4%AA%E9%83%8E より抜粋しました。
高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年(明治16年)3月13日 - 1956年(昭和31年)4月2日)は、日本の詩人・彫刻家。東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現在の東京都台東区東上野一丁目)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読む。

日本を代表する彫刻家であり、画家でもあったが、今日にあって『道程』、『智恵子抄』等の詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もある。能書家としても知られる。弟は鋳金家の高村豊周。甥は写真家の高村規で、父である高村光雲等の作品鑑定も多くしている。

写真は千恵子と光太朗の写真です。

秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七草の花

2016年09月05日 | 日記・エッセイ・コラム
秋になりましたね。昼間は残暑がけっこう厳しいですが、朝夕は流石に涼しくなってきました。
ここ数日、秋の野に出て花々の写真を撮りに行こうと考えています。でもまだまだ暑いので家の中で秋の花の写真を検索して楽しんでいます。
そして山上憶良の万葉集の和歌を読み返しています。
家人の持っている岩波の「古典文学体系」や角川文庫の万葉集、上巻(武田祐吉校註)を見ると、花の名が書いてあります。芽子は萩のことで、朝貌は現在のキキョウのことと理解したうえで、山上憶良の和歌を楽しんでみましょう。

その原文を分かりやすくしたものを下に示します。
秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種の花
(山上憶良 万葉集 巻八 一五三七)七種は「ななくさと」読みます。

萩の花 尾花 葛花(をばな くずばな) なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花
(山上憶良 万葉集 巻八 一五三八)

これらの歌を読むと、秋風がわたる野にいろいろな花が咲いているのどかな情景が浮かんできます。二番目の歌は花の名前を羅列しただけですが、その順序と読んだときの音の響きが心地よいのです。2首続けて読むと優雅で気品のある作品のように感じられます。

それでは秋の七草の花の写真をしめします。

この写真の出典は、http://mariko789.exblog.jp/18059356 です。
  
これらの7枚の写真の出典は、https://www.bioweather.net/column/ikimono/manyo/m0509_2.htm です。
 




それにてもこの和歌が作られたのは天平時代の730年ころです。現在よりも1300年も昔のことです。しかし現代の日本人もこの歌を楽しむことが出来るのです。
やはり万葉集は確かに素晴らしい文化遺産です。
ついでに末尾の付録に山上憶良の他の和歌も示しておきました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=====================
山上憶良:斉明天皇6年(660年)? - 天平5年(733年)?
大宝元年(701年)第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する(この時の冠位は無位)。なお、憶良が遣唐使に選ばれた理由として大宝の遣唐使の執節使である粟田真人が同族の憶良を引き立てたとする説がある。和銅7年(714年)正六位下から従五位下に叙爵し、霊亀2年(716年)伯耆守に任ぜられる。養老5年(721年)佐為王・紀男人らとともに、東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられる。

神亀3年(726年)筑前守に任ぜら任国に下向。神亀5年(728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。天平4年(732年)頃に筑前守任期を終えて帰京。天平5年(733年)6月に「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を、また同じ頃に藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」を詠んでおり、以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したとされる。

いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(唐にて詠んだ歌)(『万葉集』巻1-63、『新古今和歌集』巻10-898)

憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も 吾(わ)を待つらむそ(『万葉集』巻3-337)

春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ(大宰府「梅花の宴」で詠んだもの)(『万葉集』巻5-818)

秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種(ななくさ)の花(『万葉集』巻8-1537)

瓜食めば 子供念(おも)ほゆ 栗食めば まして偲(しの)はゆ 何処(いづく)より 来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとな懸りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ(『万葉集』巻5-802)

銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子に如(し)かめやも (『万葉集』巻5-803, )

行く船を 振り留めかね 如何ばかり 恋しかりけむ 松浦佐用姫(『万葉集』巻5-874)

世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば(『万葉集』巻5-893)

以下省略。