後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

馬場駿著、「朴(ほお)の葉の落ちるころ」

2016年09月04日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログではいろいろな方々に随筆や小説や紀行文などを寄稿して頂いています。
今日は馬場駿さんという小説家から寄せられた「朴(ほお)の葉の落ちるころ」という短編小説をご紹介いたします。 
馬場駿さんの出版歴は、平成18年『小説太田道灌』、平成24年『夢の海』、平成26年『孤往記』などがあります。伊東市にお住まいで「岩礁」という文学会のお世話を長年されている方です。
それでは馬場駿の文学の世界をお楽しみ下さい。     
===馬場駿著、「朴(ほお)の葉の落ちるころ」===
 あらすじ
 六十七歳の田原雄三に二百キロ離れた里山に独り住む七十六歳の兄真一から頼みがあるから来てくれと連絡が入る。山荘に着くと、両目が緑内障に罹っている兄が、失明したら自死をするので後を頼むという。田舎の医療の実態を知らされ困惑した雄三は介護施設を調べ、頼りになる五十四歳の姪万里子と共に再び里山へ向かう。二人は真一が僅かに残っている視野を維持し少しでも全盲の危機が先に延びるようにと苦慮するうち、手術を望まないのは心の問題だと気がつく。生まれてこの方独りで生きてきた兄の矜持がそうさせるのだとも。衰弱している長姉にも手紙での説得を依頼し、人に支えられる日々の意義を伝える。ようやく大学病院での手術を受けた真一。雄三は一連の自らの動きの中で自分の老後を検証する形になった。それは生きるとは何かということだった。退院した真一と雄三、万里子は里山で、春に真一の喜寿を祝う話で盛り上がった。
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 目の前に深い滴るような緑がある。光が木々の間を縫って苔むした岩や、群れた篠竹や、生い茂った雑草の上に降り注いでいる。耳の存在を疑うほど静かだった。
 頼みたいことがあるから来てほしいと、里山に独り住む兄の田原真一から電子メールが入ったのは二日前だった。
私はアルバイト先に身内の容態が悪いからと頼み込んでシフトを外してもらい、押っ取り刀で二百キロあまりの道をやって来たが、まさか不安が的中するとは思わなかった。
「葬式代を渡すから預かってくれ。誰もここまで来ないかもしれないけどな、それはそれでいい。死んだらただの骨の粉だ、誰が来てくれたか確認もできないけど式は出してくれ、密葬でいい。坊主はいらないから、宗教は信じてないし」
 相続が開始すると、銀行その他の口座は相続人が確定するまで閉じられてしまう。遺族に立て替えさせるわけにもいかないと、兄は大まじめで現金が入った封筒を寄こし、それを皮切りに自分の死後に実行してほしいことを並べ始めたのだった。
「治らないにしても、まだずっと先のことじゃないの?」
「いや、もうほとんど見えない。覚悟は決めた」
 兄はそう言うと、私の隣に腰を掛けて医者通いの経緯を話し始めた。断片的には聞いたことがあるが、詳しい事情は初めてだった。
 十年ほど前に左目の視野が狭くなったと感じて、田舎にしては大きい病院に行き診察を受けた。結果は所見無しで、気のせいかとそのままにして数年が経ったころ、やはり変だと再び診察を受け、重症化した緑内障と診断された。通院をして目薬と服用薬で治療を続けたが、症状は好転せず、そうこうしているうちに右目の視野狭窄も始まった。医者は大きな病院へ行って手術をしなければ無理だと言ってくる。ところが効果を聞くと「治らない」と応える。治りもしない手術で親類や他人に迷惑はかけられないと同じ治療を続けてきたのだが、ここにきて、左目はほぼ失明、右目の視野も四分の一以下にまで狭まり、さらに進行は速まっているという。
 兄の全盲は、もうすぐそこまで来ていたのだ。
「この里山に住んで全盲かさぁ」と私はうなった。生活が不可能だからだ。
「だから心配するな、覚悟はできてる」
 兄が私の肩を叩くようにして立ち上がった。
「もう、白い装束も刃物も用意をしたよ」
 七十六歳の小柄な男が、それでも胸を張って小さく笑ってみせた。
「ここを買ってから、もう四十年になるかな、あの頃はこんなに長く生きられるとは思ってなかったよ。当時小さかった朴の木な、もう高さ三十メートルだぜ雄三」
 幹が数本に分かれてはいるが特大の葉を茂らせて朴は、ゆったりとしていた。

 兄は本気で言っている。強がってみせて同情を買うような性格ではないのだ。
 現地では何も言えなかった。言い合いをしてはそれきりになる。できる何かを探してからじっくり話そう。そう思ったのだ。
帰宅するとすぐインターネットで全盲の老人介護施設の有無を調べ出した。まず全国的な連絡組織が見つかり、その質問欄からメールをしたところ、兄の山荘がある県内に二つの公的施設があるとの回答を得た。施設にアクセスしてみると各種の費用も入居者の収入によって決まり、負担ゼロ円の場合もあるという。正直なところ灯りが見えたようでホッとした。
ホームページを読み進めていて「うん?」と息を止めた。地域の福祉課からの申請によるとあったのだ。申し込みを直接には受け付けていない。当然だなとは思ったが困った。兄の話では、地域の福祉課とはうまくいっていない。
 兄は目と心臓の治療のために往復で25キロほどの起伏の激しい道を自転車で通院していた。心臓の方は内科でワルファリンなどの処方をしてもらう必要があったようだ。通院ルートには薄暗いトンネルが二つもある。路線バスの連絡は無く、病院の送迎コースにも入っていなかったので、やむを得ずにとった手段だった。車の免許は数年前に返納している。自転車はアシスト付きにして体への負担を減らしたが、目のアシストは無い。体のすぐ脇を通る車は恐怖でしかなかったという。ブログ仲間の声援もあって幾度となく福祉課に相談はしたらしい。答えは、自転車に乗って自力で遠くまで通院できる人は障害者ではない、現段階では福祉の対象者ではない、というものだった。
全盲にならなければ保護されないのか。苦痛を伴おうが自力で動けることが却ってハンデキャップになるという理屈に兄は憤ったという。

「いっしょに住もうとしてる? わたしは無理だと思う」
 妻の佳子がパソコンを覗きこむようにして言った。
「ああ、確かにいっぱい居る親族の中で、あそこで暮らせるのは俺だけだ」
 もう三十五年以上も前になるが、今よりもっと不便で山荘も小さかった状態で、たった一人で一年半も居たことがあるのだ。
「離婚すればだけどな」と、言いかけて止めた。かといって夫婦が別れて暮らし、二重生活ができるほどの経済的な余裕もない。それに、十年近く続いた単身赴任を終え、老夫婦二人だけの日々を取り戻してから、まだ二年しか経っていないのだ。私一人が山に入れば、家庭は壊れ短時日で形を失うだろう。
「いい施設にはいれるといいね、お義兄(にい)さん」と妻は、私がひっこめた台詞を推測したのか、表情を強張らせてから机のそばを離れた。
 資料を刷るプリンタが時々ためらうように止まるのは何かを察してだろうか。

 ひと月ほど経ってから、今度は五十四歳になる姪の万里子を伴って里山に行き、兄と二日間を過ごした。万里子は数年前に母親の美穂を末期癌で亡くし、同じ年に父親の徳雄を心筋梗塞で失った。年老いて病気がちだった両親の面倒を見続けた経験が彼女の心を強くしている。またごく最近、姪自身も急性疾患で生死の境をさまよったあげくに、医療の力で助かっている。入院、介護、見舞いのノウハウにも詳しい。
 山荘では万里子が掃除と炊事、私が力仕事と草刈りを担当して、食事のたびに二人で全盲施設に入ることを視野に説得をしようと試みた。幼児の頃の姪の話や亡き姉美穂の話では笑い声も絶えなかったが、肝心な説得は不首尾に終わった。
「年老いて全盲になって、人の世話で生きて、何ができるんだ、そういう余生にいったい何があるんだ?」
 その一言に、返す言葉が無かった。立場を交換してみた場合私自身も、老いて視力を失って生き続ける意味を容易には見いだせない。そういう自分に説得が可能なわけがない。たぶん姪も同じだったのではないか。
 時折襲ってくる沈黙が息苦しかった。生きるとは何か、現実的なかたちで、それが問われているからだ。
「何にもできずに死なれちゃう俺たちの気持ちも考えてくれよ」と、もう少しで口にするところだった。でもそれは、できなかった。「じぁあ、どうする」と言われたら先が見えてこないからだ。人の生き甲斐など他者が創りだせるものではない。
 結局、突然失明に近い状態になったときの手当てを予めしておく支援を約束することで話がついた。当初の「援助は要らない」からみれば、一歩前進ではあった。この中途半端な決着でも、全盲でも生きるという大前提が隠されてはいる。
「ほんとに死んじゃうのかなぁ」と帰りの車の中で姪が言った。
「ああ、俺達には想像もできない人生を送ってきた人だからね。武士みたいなところがある。言ったとおりにすると思うよ」
「真一叔父さん、可哀想」
「それは違うな…彼に合う想いは哀れみじゃなくて尊敬だよ。小さい頃からずっと独りぼっちを貫いて、過ち一つ犯さず、晩年のボケ始めたおふくろを里山で一人介護した。自力で建てた山荘に三十年も居てボケもせず狂いもしない。七十六にもなるのにビルダーも使わずソースでホームページを創るしブログも続けてる」
「ほんとだ。雄三叔父さんの言うとおりだ。失礼しました」
「そういう人だから心配なんだよ、有言実行の人だからこそ」
 なぜか私と姪は、一緒に大きく息を吐いた。
「でもね、もしかしたら自分のことなんか誰も気にしていない、自分が死んでも誰も困らない、哀しまない。そんなふうに想ってるからじゃないかなあ」
「さすがだ、それだよ突破口は」
「死ぬな」と言うから否定するのだ。もともと死は誰にでも訪れるし、誰が先かすら分らない。死を決意させた全盲という事態の到来を先へ延ばす努力をしようと、兄にアプローチするべきだったのだ。手術すれば完治はしないとしても、失明を先送りすることはできる。まさに思考の落とし穴だった。兄を、心を動かすには「生きていてほしい」という周囲の、数多くの人の「想い」が要るのだ。
 いや、気付かずにではあっても三人とも、そこに向かっていたかもしれない。もっともそれは全盲に近づく今冬への対策ではあったが。
 家族割りで契約をして携帯電話を渡し、新しい電子レンジを寝室に入れるべく購入する。さらに狭い空間を動くだけで緊急時に食事が可能なように保存食品の送付を繰り返す。私が籠っていた頃は郵便を含め何一つ配達されなかったが、宅配すら可能ないまは事情が違うのだ。私と姪はすでに昨夜、役割分担を決めていた。
 兄もこれには応じて、二人に経費を手渡してくれている。人に迷惑をかけない。実はそれが、彼の人生の一貫した姿勢だったのだ。
「万里子、とにかく手術をする気になってもらおうよ」
 私はハンドルを摑む手に力を入れて言った。
「いつまで見えてるの、目。何か言ってた? 真一叔父さん」
「庭の朴の木見ただろ、あの葉っぱが落ちて木が丸裸になるころだろうって。冬支度どころか、もう時間が無いんだ。いまも相当症状がひどいらしい。何とかしないと」
「うん、今度行くの、いつごろになる?」
「一か月後、だな。呼ばれたらもっと前になるけど。その間にいろいろやってみる」
 運転中の前方注視の目でも、助手席の姪が大きくうなずくのは見えた。
 私の視界は、とりあえずだがまだ広そうだ。

 亡父田原源蔵は比較的若くして脳卒中で他界し、亡母峰子は長男真一に看取られて臨終を迎えた。七十五歳、脳軟化症寸前で且つ肺線維症だった。兄弟姉妹は五人だが、次女の美穂が死んでいるので八十六の勝子、真一、七十一の多恵、六十七の私雄三の順になる。あらためて書き出してみると皆高齢者で、盲目になった真一を傍に置いて生活をカヴァーできる環境下にいるものは一人もいない。年齢だけではない。勝子は全身が衰弱してほとんどベッドで横になっている生活、多恵は糖尿を患い骨粗鬆症でもある。最も若い私でさえ、軽めとはいえ喘息と糖尿の患者なのだ。
「ねえ、お義兄さんとこ行って用事が続いたら何日間か連続で泊まってきていいよ。目がそんなじゃ心細いと思うのよ。山での滞在費、わたし出すからさ。うちのおばあちゃんの時も援助してもらったし」
 机でメモをしている私の肩に触れて妻が言った。
 そう言えば、九十九で他界した妻の母親は、認知症に加え二十数年にわたる要介護生活を送っていた。自分も含め、名状し難い輪の中で大勢が生きている。そう思った。
「ありがと、そういうときは頼む」と応えながら私は、一計を案じていた。
 長姉の勝子は最高齢だが、今年の年賀状を読み、頭は確かだと判っている。
「佳子、便箋持ってるか、それと封筒」
「あるけど百均だよ、ぺらぺらの」
「十分十分、どうせ宛て先は身内だ」
 勝子は中学を卒業しないうちに親に奉公に出され、波瀾万丈の人生を送った女で、世間知に長け、文字も文章も綺麗だった。
 『お変わりありませんか。ご無沙汰をしています。じつは姉貴にお願いがあってお便りしました。兄貴が両目とも緑内障で全盲になるかもしれず、いまは独り死を見つめています…』と、私はペンを走らせた。
 弟の私では無理だが、姉なら兄の気持ちを傷つけずに助言できるのではないか。そう思ったのだ。
 三日と空けずに速達で返信がきた。読んで確認した後で私から兄に送るようにとしたためてあった。
『真一さん、掛け値なしのご無沙汰でした。里山の生活が長いようですけど、心お元気でお過ごしでしょうか。まだ伺ったことが無いところですが、夜はどこまでも暗く静かで、陽の指す昼でさえ小鳥の声ぐらいしか聞こえてこないんでしょうね。私にはとてものことできないひとりぽっちの生活です。
 雄三に聞きましたが、両目の失明が近づいている由、心中お察し申し上げます。緑内障の手術はしても治らないと諦めて自死まで考えているそうですね。親族間の付き合いまで捨てて自分の生活優先で閉じこもってしまったおまえが何を言うかと真一さんは思うかもしれませんが、わたしは間違っていました。年老いて、わずかな蓄えしか無い身で田原の家を背負えなくなり、独り離れて皆に迷惑がかからないようにと、周囲を救ったつもりでした。非力な者同士でも甘えたり甘えられたりの輪の中で、あれやこれやと心配しあい、お節介をしあいながら残りの人生を過ごす。そういうほうが人間らしい老後かもしれないのにね。
真一さん、手を差し伸べられたら片意地を張らずに甘えてあげる優しさも大事にしてください。わたしにはできませんでした。あなたは最期まで、そういう輪の中に居続けてくださいな。
老いた命の引き取り手は、急がなくても必ず来てくれるのですから。勝子』
文の中で何度も兄の名前を呼んでいるのは姉の深慮だ。
読み終わってすぐに涙が出てきた。親族の冠婚葬祭にも親睦の会合にも出ず、電話連絡にも応じない。反応があるのはハガキや手紙だけ。みずから閉じこもった長姉の寂しさが伝わってきたのだ。
私はどうするのだろう。節約を重ね、削ぎ落としを重ねて初めて成立する老後の生活。そうであれば、姉や兄のようにかたくなに自分の生き様を貫くしかないのではないか。むしろそれが年寄りの礼儀とさえ思えてくる。
貧しさの阿弥陀引きが辿り着く先は、一つしかないのではとも。

「勝ちゃん、元気そうだな。自分で投函したのかな」
 姉の手紙を読み終えて、兄が顔を上げた。
「いや、あの娘(こ)かもな。いまも一緒に暮らしてるらしいから。いやこれ、想像」
 私は勧められた三百五十CCの缶ビールを手にして苦笑いをした。いい加減な推測を口にして恥じたのだ。
「ありがと、いろいろと」と兄はなぜか深呼吸をして、「雄三、俺がなぜここに場違いなほど大きい山荘を造ったか分るよな、いまだに未完成だけど」と唐突に言った。
「おふくろの供養墓も建てて、親族が集まれる場所にってことだったよね」
 呼びかけたのだが、兄弟姉妹はそれぞれ生活が苦しかったらしく結局分担金は集まらなかったと兄は言った。むろん私も出せなかった。
「できたらでいいんだけど、志だけは引き継いでくれないかな。地震とか津波とか大災害の時に、運よく生きてたらここは、とりあえず住む場所にもなるしな」
 自分が危機状態のときに、ほかの親族のことを考えている。正直なところ驚いた。
「分った。兄貴の想いが伝わるように広い意味での始末と引継ぎはするよ。でも俺が兄貴の後になるとは限らないよ、なにしろ車運転して生活してるし」
「確かに。俺が先の場合だけだよ、あの世から出てきてまでとは言わない」
 長めの沈黙が起こった。「死」の一文字を消そうとするための時間だと感じた。
十月初旬でまだ薪ストーブを焚くのは早いと思ったのだが、日暮れとともに冷えるので弱めながらも火を絶やさないようにしていた。私は立ち上がってストーブをのぞきこみ、炎の赤を顔に受けてから言った。
「明日すぐに医者の紹介状もらえるのかな、あの診療所行ってさ」
「ああ、大学病院へ行けって毎回言ってるくらいだから、どっちかっていうと厄介払い、待ってました、だと思うよ」
「とにかく失明するのを先に延ばすための手術ってことでさ」
「ああ、手術はするよ。悪いけど車の運転、頼む」
 一度診療所の眼科診察室を視た。医療器具がほとんど無かった。巡回してくる医師も週に一回程度か。おそらく処方箋を書くのが主な任務なのではないか。それでも法制上、大学病院で診察や手術を受けるには担当医師の紹介状が要るのだ。
「俺は誰とも一緒に住まないから」
「えっ」と、兄の唐突な台詞に私は目を瞬かせた。
「病気のおふくろと一緒にここで生活して確信したよ。介護で共倒れになる」
 言葉の裏に、迷いの中に居る私への配慮があると感じた。
 前回一度会った福祉課の担当者が小声で私に言ったものだ、「一緒に住んであげるわけにはいかないんですか」と。
「無理なんです」と答えた私に、一瞬目をそばだてた課員。
「離婚しなくちゃ来られないしね。かみさんにはここの生活は無理だから。かといって二重生活も無理。要するにうちは二人とも行くところも帰るところも無いんだ」
 私は兄に向かって言いながら、過日の福祉課員にも応えていた。
「俺は大丈夫だよ。だいいち独りになってここに来れば結局いまの俺と同じになる」
 兄は、少し黒ずんできた目の周りをこすりながらうなずいた。
「それにしても処方された点眼剤で目が変になるって何なんだ」と兄。
 点眼で目の周りに色素沈着することがあることは家庭用の医学の本で知った。何とかという緑内障の、その薬の名は憶えていない。
「雄三、万里子が送ってきた食品の中にツマミになそうなものあったぞ」
「もういいよビールは、一缶で」
私は大きな音を立ててストーブに薪をくべ、座布団の上に戻った。
「そうそう多恵から携帯に電話がかかってきた。万里子から聞いたって言ってな」と兄が、溶けて短くなった歯を見せて笑った。
 体調がすぐれないらしく自分の近況報告に二十分以上もかけたらしい。
「最後にお大事にって言うからお前だろそれはって大笑いしてやったよ」
「いいとここあるじゃん、小姉(ちいねえ)も」
「ああ」と兄は微笑しながら天井を見上げた。 
 万里子はしっかり自分の考えで動いてくれていた。それが嬉しかった。

 大学病院五階にある面会室の窓から周辺の景色を見ていた。
 右目の緑内障と白内障の手術が五人の医師によってすでに行われている。
 静かだった。たまたまなのか、誰も室内に居ない。
 この日は、紹介状を得て兄と共に来院し検査・診察を済ませた日から丁度一と月後にあたる。最初は手術室のあるフロアで待っていたのだが、姪の万里子が来て病棟で迷うのではないかという心配があった。手術は二時間かかると予想したので、フロアを外して待つ余裕は十分にあった。
 前回私は手術担当の一人になった若い女医に聞いてみた。視覚という五感の一つが失われたとき、他の四つの感覚がそれを補う働きをするのかと。
「高齢ですから無理です。五感全てが劣化しているわけですから」
 笑顔が綺麗な人なのに、回答は小気味いいほど辛辣だった。
 万里子は手術開始後三十分の段階で待合室に着いた。立ち会うというよりは、当日姿を見せることに意義がある。そう考えての今日の見舞いだという。
「え、白内障も同時に手術しちゃうの、すごい」
 女医によれば、緑内障は眼球の圧力を保っている眼房水という水がたまりすぎて圧力が上がり視神経をつぶしてしまう病気、白内障は眼の水晶体が濁ってみえなくなってしまう病気、同時に手術しても何ら問題はないという。
「てことはね、視野が狭くなったことだけじゃなくて水晶体の濁りもあっていっそう真一叔父さんは見えにくかったのよね。きょうの手術で、視野を現状維持にして白内障が治れば、ずっとよく見えるようになるわけだ」
 その通りだと思いたい。そのうえで眼圧の管理を続けていれば里山での生活は何とか担保できるのだ。それこそ先が見えてくる。
「よし、そうとなればこれ少し食べません?」と姪はバッグからおにぎりを出した。さらには、目ざとく自動販売機を見つけ、ペットボトルのお茶を二つ買ってくる手際の良さだ。梅干しとおかか入りだと言うから確かにおいしそうではある。
「朝食べてなくて、用事済ませてすぐ電車に飛び乗ったからおなか空いちゃって」
 さすが病院通いのベテラン、胆が据わっていて明るい。
 どちらかというと最悪の場合を想定しがちな私は、胸のつかえが落ちていくのを感じた。 
 二種類の手術は、一時間五十分をかけて無事に終わった。

 山荘の薪ストーブの周りは、兄と私だけの時と違って、明るい笑いに包まれた。
 術後に入院していた間に、左目の眼圧を下げる手術もしたという。左目の失明は大学病院で確認されたが、視力の有無如何にかかわらず高すぎる眼圧は好ましくないのだという。
「で、どうなの手術の結果右目の方」と万里子があらためて聞いた。
 退院の日に私も同じ質問をしたが、まだ成果が明確になっていないときで、兄も「どうかな」と首を傾げていた。
「よく見えるよ、四分の一の視野でも。パソコンのネット情報、小さめの字でもしっかり判読できる」
「よかったね。やっぱり大病院は違うわ、これでこの冬も元気で越えられるし」
「ああ。雪が積もったりするから、雄三もいいよ、春まで来なくても」
「じゃあ何かあったらすぐに携帯で電話して」
 景色のいいところは生活が厳しい。免許を返納して車と言う足を捨て、さらには視力をほとんど失った七十六歳の独り暮らしの老人にはさらに辛いものがある。
 兄が結婚も子どもも諦めて、その分の資金で購入した五百坪を超える広すぎるほどの山林・原野、しかし今目の前に居るのは、「起きて半畳、寝て一畳」の老人だ。七年後の私とて心の居場所は同じ広さだろう。兄が見つめた死の底にあったものを想った。自分が育てたものはあるのか。掘り下げた人生の深さはどうか。築き上げたもの、いま引き継ぐに足るものはあるのか。否定的に評価すれば生きる意味は消える。
いまはそんなことなど考えずに、すべてを笑い飛ばし時に任せたくなる私がいる。
「ねえ、来年春の叔父さんの誕生日に喜寿のお祝いをしようよ」
 突然こぼれんばかりの笑顔で万里子が言った。
 顔を見合わせて、目を瞬かせている老人が二人。
「祝いごとなんて一回もしてもらったことない、照れくさいこと止めてくれよ」
 そう言う兄の顔が少しく嬉しそうにほころんでいた。
「初めてならなおさらやりましょう。だって危険も病気もいっぱいあるのに七十七までずっと頑張って生きてきたんだもの」 
 精一杯に過ごしてきた過去へのご褒美、たしかに必要かもしれない。
 ふと目を移すと、締め切ったサッシのガラス戸の向こうに、すべての葉を落とした丸裸の朴の木が居て、深い秋の風に揺れていた。
(終り)



秋立ぬ、紅葉が待たれる季節がめぐってきました

2016年09月03日 | 日記・エッセイ・コラム
あんなに暑かった夏も過ぎ朝夕が涼しくなりました。嗚呼、秋が始まったのだなと感じる今日この頃です。
この季節になると何故か堀辰雄の「風立ちぬ」という小説を思い出します。そして紅葉が待ち遠しい時期です。

この「風立ちぬ」とはポール・ヴァレリーの詩の一節だそうです。
「海辺の墓地」という作品の最終節です。
この詩を、http://ameblo.jp/quarts7/entry-11587655268.htmlを引用し、その一節を示します。

L'air immense ouvre et referme mon livre,
La vague en poudre ose jaillir des rocs!
Envolez-vous, pages tout éblouies!
Rompez, vagues! Rompez d'eaux réjouies
Ce toit tranquille où picoraient des focs!

「風が立つ!・・・生きる努力をせねばならぬ!
広大な大気が私の本を開いては閉じ、
波が飛沫となって岩をほとばしる!
飛び去るがいい、光にくらむページよ!
砕け、波よ!砕け 喜びに沸き立つ水で
三角帆が餌をついばんでいた穏やかな屋根を!」
(ポール・ヴァレリー 海辺の墓地より) 
岩波文庫フランス名詩選 [ 安藤元雄 ]

冒頭の「風が立つ!」を「風立ちぬ」として堀辰雄が自分の小説の題名にしたのです。さらにその作品の第3章の題にもしています。
この章は秋の季節です。ですから堀辰雄の「風立ちぬ」の風は秋風なのでしょう。
そのせいで秋が始まると毎年この堀辰雄の「風立ちぬ」を思い出します・

美しい小説なので、そのあらすじを示します。
あらすじは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%AC_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC) から引用しました。

序曲
秋近い夏、出会ったばかりの「私」とお前(節子)は、白樺の木蔭で画架に立てかけているお前の描きかけの絵のそば、2人で休んでいた。そのとき不意に風が立った。「風立ちぬ、いざ生きめやも」。ふと私の口を衝いて出たそんな詩句を、私はお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返していた。それから2、3日後、お前は迎えに来た父親と帰京した。


約2年後の3月、私は婚約したばかりの節子の家を訪ねた。節子の結核は重くなっている。彼女の父親が私に、彼女をF(富士見高原)のサナトリウムへ転地療養する相談をし、その院長と知り合いで同じ病を持つ私が付き添って行くことになった。4月のある日の午後、2人で散歩中、節子は、「私、なんだか急に生きたくなったのね……」と言い、それから小声で「あなたのお蔭で……」と言い足した。私と節子がはじめて出会った夏はもう2年前で、あのころ私がなんということもなしに口ずさんでいた「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句が再び、私たちに蘇ってきたほどの切なく愉しい日々であった。

上京した院長の診断でサナトリウムでの療養は1、2年間という長い見通しとなった。節子の病状があまりよくないことを私は院長から告げられた。4月下旬、私と節子はF高原への汽車に乗った。

風立ちぬ
節子は2階の病室に入院。私は付添人用の側室に泊まり共同生活をすることになった。院長から節子のレントゲンを見せられ、病院中でも2番目くらいに重症だと言われた。ある夕暮れ、私は病室の窓から素晴らしい景色を見ていて節子に問われた言葉から、風景がこれほど美しく見えるのは、私の目を通して節子の魂が見ているからなのだと、私は悟った。もう明日のない、死んでゆく者の目から眺めた景色だけが本当に美しいと思えるのだった。9月、病院中一番重症の17号室の患者が死に、引き続いて1週間後に、神経衰弱だった患者が裏の林の栗の木で縊死した。17号室の患者の次は節子かと恐怖と不安を感じていた私は、何も順番が決まっているわけでもないと、ほっとしたりした。

節子の父親が見舞いに2泊した後、彼女は無理に元気にふるまった疲れからか病態が重くなり危機があったが、何とか峠が去り回復した。私は節子に彼女のことを小説に書こうと思っていることを告げた。「おれ達がこうしてお互いに与え合っている幸福、…皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ、おれ達だけのものを形に置き換えたい」という私に、節子も同意してくれた。


1935年の10月ごろから私は午後、サナトリウムから少し離れたところで物語の構想を考え、夕暮れに節子の病室に戻る生活となった。その物語の夢想はもう結末が決まっているようで恐怖と羞恥に私は襲われた。2人のこのサナトリウムの生活が自分だけの気まぐれや満足のような思いがあり、節子に問うてみたりした。彼女は、「こんなに満足しているのが、あなたにはおわかりにならないの?」と言い、家に帰りたいと思ったこともなく、私との2人の時間に満足していると答えてくれた。感動でいっぱいになった私は節子との貴重な日々を日記に綴った。私の帰りを病院の裏の林で節子は待っていてくれることもあった。やがて冬になり、12月5日、節子は、山肌に父親の幻影を見た。私が、「お前、家へ帰りたいのだろう?」と問うと、気弱そうに、「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」と、節子は小さなかすれ声で言った。

死のかげの谷
1936年12月1日、3年ぶりにお前(節子)と出会ったK村(軽井沢町)に私は来た。そして雪が降る山小屋で去年のお前のことを追想する。ある教会へ行った後、前から注文しておいたリルケの「鎮魂曲(レクイエム)」がやっと届いた。私が今こんなふうに生きていられるのも、お前の無償の愛に支えられ助けられているのだと私は気づいた。私はベランダに出て風の音に耳を傾け立ち続けた。風のため枯れきった木の枝と枝が触れ合っている。私の足もとでも風の余りらしいものが、2、3つの落葉を他の落葉の上にさらさら音を立てながら移している。
(あらすじは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%AC_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC) から引用しました。)

そして今日は昨年、北海道で撮った紅葉の写真を何度も眺めています。下にその写真をしめします。









昨年の10月17日、羽田から帯広空港に飛び、十勝の「さほろリゾート」のホテルとウトロのホテルに泊まる2泊3日の旅を致しました。 十勝平野を見下ろす狩勝峠から、幸福駅、鶴居の里、阿寒湖、知床五湖、網走のオホーツク流氷館などを巡る旅でした。その道すがら撮った紅葉の写真をお送りいたします。

いよいよ秋が喨々と空に鳴る季節になります。良い季節です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

韓国や中国のことに感情的になる日本人が多いのは困った問題

2016年09月01日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、中国人や韓国人の悪口を言う日本人が増えています。その言い分は、常に相手が日本に対して意地悪いことをするからだというものです。しかし冷静に客観的に考えれば先方も同じ言い分なのだと考えるのが正しい判断というものです。

関係3国の政府の考えは別にして、将来の日本の真の平和を確実に守るためには防衛力の整備をしただけでは不十分です。
隣国の韓国と中国との友好が絶対的に必要になります。
国際間の友好は国民一人一人の友好も非常に重要なのです。あなた自身が韓国や中国を憎んでいたら平和を確実には守れません。
その上、あなたの憎悪は自分の人格を傷つけているのです。
外国を憎むより、外国を大切にすることが平和の基本になるとお考えになりませんか?

上記のようなものを机上の空論と言います。
もっと身近で切実な話をすることが重要だと思います。
例えば、「あなたは近所付き合いをしていますか?近所の人々は良い人ですか?」という問いを考えてみましょう。

近所の良い人々に囲まれて暮らしていれば安心です。良い場所に住んでいると幸せな気分になります。
私は近所付き合いが苦手です。なるべく付き合わないようにしています。これはいけないことです。分かっています。
ところが幸運にも家人が近所付き合いを見事にしてくれるのです。適切な距離をおいて近所の家の冠婚葬祭に礼儀を尽くしています。亡くなった方の命日やお盆には心を込めて花を贈ります。
私は家人のお陰で近所と良い関係を持っています。そうすると近所の人が皆善い人に思えます。嗚呼、良い住宅街に住んでいると感謝の気持ちが湧いてきます。
一言、付け足しますが、近所と全く交流が無くても良いのです。近所の人は皆良い人だと考えていれば、それで充分です。道路で会ったとき無理に挨拶しなくても、あなたの好意は顔に表れます。

日本人と韓国人、そして中国人との関係は「政治」というものが関係しますから上に書いた近所付き合いがそのまま応用されません。
各国の政治家は自分の権力を強めるために国家間の憎しみを煽り立てるものです。しかしそれに惑わせられて韓国や中国の一般の人々を憎むとしたら大間違いです。
兎に角、彼等は自分と同じような喜怒哀楽をもって生きているのです。
ですから彼等の飾らない日常の生活の写真を眺めれば自然に親近感が湧いて来るものです。
例えば下の1番目の写真は中國の蘇州にある道教の玄妙観の前を歩いている人々の写真です。

この写真には25人くらいの人間が写っています。是非、一人、一人の姿を眺めて下さい。あなたはこのような人々を憎めますか?

2番目の写真はこの玄妙観の道教の神様へお祈りしている女性の後ろ姿です。家族の幸せを祈っているに違いありません。

3番目の写真もお祈りしている女性の後ろ姿です。何を祈っているかは分かりません。
私はこのような写真をみると中国人に親しみを感じます。嗚呼、善い人々が隣国に住んでいると感じます。

すると日本人はすぐに尖閣諸島の中国海軍の嫌がらせ行為を持ちだします。私はそれを行なっているのは中國共産党の幹部だけだと理解するのです。一般の中国人は関係ないと理解するのです。

韓国人に関しても同じように考えています。
下の4番目の写真は韓国の朴壽根(1914~1965)という画家が描いた韓国の農村風景です。

右側に3人の子供が遊んでいます。左の女は頭の上に物を載せて運んでいます。平和な農村風景ですね。この絵に描いてある4人の人間をあなたは憎めますか?

そして5番目の写真は朴壽根と妻と幼い娘の写真です。ささやかな幸せにつつまれた家族の写真です。

もうこれ以上、クダクダと書くべきではないでしょう。
以上の写真は以下の二つの記事で掲載したものです。
「厳しい共産党独裁下の中国にもある宗教の自由」8月9日掲載記事
「こんなしみじみとした人生があるのですね、もう一つのお話」8月6日掲載記事

今日は皆様が中国や韓国の人々に親近感を一層強く持つようにお祈りいたします。 藤山壮人(後藤和弘)


野津 一著、「私のこと、そして皆様のこと 」

2016年09月01日 | 日記・エッセイ・コラム
ブログを始めたのは2007年の11月でした。それ以来、毎日のように拙い記事を書いてきました。
そしていろいろな経緯で知り合いになった方々へ寄稿をお願いして、数多くの素晴らしい作品をご紹介してきました。
今日、ご紹介する野津 一さんはインターネットを通じて6年前に知り合いました。
知的で人間性の溢れる魅力的な方です。日本を離れて長年、イギリスに住んでいらっしゃいます。
最近、何故イギリスにお住まいですかとお聞きしました。そしてそのご返事をブログに掲載したいのですがとお願い致しました。
以下はそのお願いにもとづいて書いて下さいました。完成度の高い一つの文学的な作品です。
その上、人間とは何であるかと深く、深く考えさせる内容です。
それと日本の社会とイギリスの社会の比較に興味深い描写があります。
いろいろと考えさせられました。
以下の作品のご感想をお送り頂けたら嬉しく思います。私も別稿で感想文を書いてみたいと思っています。
お忙しいなかご寄稿して下さった野津 一さんへ深甚の謝意を表します。
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野津 一著、「私のこと、そして皆様のこと 」


こんなことを言うと、怒られるかも知れません。
しかし、私、人間は基本的に「性的動物」だと思います。
更に言えば、この「性的衝動」を(少しでも)持つということが、実に「生きている」ということなのでは、とさえ思います。
そして、その「衝動」というの、「多くの場合は」は異性に向けられているのですが、それが、そんなに単純ではありません。
例えば、「男は女が好きなもの」というのは、「既成観念」もいいところ。
それ程、複雑なのです。
身体の一部分だけを見て、その個人の性別は決められるかもしれませんが、性向まで決めてしまうというのは、非常に短絡的です。
性別から性向を決めるとして、それが、「通り一遍」の判断から下されたものであったしても、大抵の場合、それで十分であることは確かです。
しかし、問題は、「十分でない」場合です。
今回のリオ五輪、陸上女子800米で金メダルを取ったカスターセメンヤ(Caster Semenya 南ア)。この人など良い例です。
誰が見ても、肉体的には、まず男(ただ、何か男としても変な感じですが)。でも、戸籍上は「女性」ですから、女性として、陸上800米の世界を蹂躙しているのです。
この女性は、いわゆる「両性具有者」の好例でしょうね(これは、医学的に証明されました)。
このカスターセメンヤ嬢の性別が、何か「変」というのは、誰の目にも明らかでしょうから、この場合は、皆様、人間の性別、そして性向を特定することの難しさはお分かりになられることと思います。
しかし、本当の問題は、その他の多くの、いわゆる「ゲイ」または「レズビアン」と呼ばれる人たちのことです。
「身体」だけから言えば、ごく普通に男とか女なのだけれど、その性欲対象が、異性ではなく、同性であること(ここで取り扱っている人達の大多数は、一般的に言って、この部類に属します。そういう私も、)。
その他に、。
バイセクシュアル。両性愛者(日本語でいう両刀使いですね)。
日本人に多いように思います。しかし、それは、日本人は、同性愛者であっても、結婚していることが多いですから、その様に感ずるだけだということかもしれません。
純粋な「バイ」もおられますが、ですから、自分の本当の性向を知らぬまま、結婚して子供をもうけたというゲイの人達も、この部類に入れておきました。
そして、最後のトランスジェンダー。この頃、日本でも、よく問題になる「性同一性障害症(Gender Identity Disorder)」です。
これは、これまで述べてきた人達と違って、自分の持って生まれた肉体及び性別に非常な違和感を感じ、手術をして迄、それを変えたいと思う人のこと(私、自分の持って生れた身体は好きではありませんが、それは、それが不細工だからのことです。しかし、だからと言って、別に変えたいとまでは思いません)。
そして、ここで重要なことは、この人達の「性欲対象相手の性別」が、さして問題にはならないということです。
テニスの女王、マルチナナブラチロバのかつての相方がそうでした。この人は、元々男性だったのですが、性転換し、マルチナの恋人になりました。ですから、彼は、普通に女性の好きな男性だったのを、敢えてレズビアンになってしまったのですから、何とも複雑です。
さて、私のことですね、。
私、早くから、自分が、他の男の子達と何か違っているとは、思っていました。
だって、その子達がすることを、殆んど何もしなかったのですからね。ただ、女の子と遊ぶということもありませんでした。まあ、話をすることもなかったですけれどね、。
しかし、それが一体どういうことを意味するのかはわかりませんでした。というより、そんなことを思ってもみませんでした。
元々、他の子たちと同じようになりたいという観念の希薄な子供でしたのでね。
まあ、それがはっきりし始めたのは高校生の時でした。ある人に出会ったからなんです。その時、初めてすべてのことが分りました。「ああ、こういうことなのか!」
それまでは、初心そのもの、本当に何も知りませんでしたもの、。
それから、20代に入りますと、それはもう全開といいますか、。
今思うと、私、その時、「罪悪感」というものが、全くありませんでした。
まあ、女性と接するということが、考えられなかったからだと思います、何故かと言えば、、。男か女かと迷うことがなかった、。
そして、24歳の時、ある男性に紹介され、完全に一目惚れ。
それが恋愛に発展し、その関係は日本を離れるまでの6年間続きましたが、あれは、紛れもなく、生涯で唯一の純粋な恋愛でした。
そんなことは、後にも先にもないことでしたので、このこと、今、貴重な宝物として、大切にしています。
ただ、私、どちらかというと「意思のはっきりしない男」。その為、多くのお方に多大のご迷惑をおかけいたしました。
私が恋愛関係にあったお方にもご迷惑をおかけし、お怒りを買いました。
それもこれも、私がいけないのです。
モゴモゴと、嘘ばかり、。
その時、私、20代の後半とあって、縁談が、少なからず舞い込んできました。昭和40年代の日本では、まだそういう風だったのですよ。
「結婚する気ある?」と訊かれて、「エエー」とか、いい加減な返事をするからいけないのですね。
女性には、かけらも性的興味はなかったけれど、「いい家庭を持ちたい」という意味での結婚願望ならありました。
しかし、それは、正しく「本末転倒」というもの。基本的には、その女性が「好き」でなければ、上手く行く筈がありません、。
それやこれやで、図らずも、「あの人は、煮え切らない、訳のわからない男」という不名誉な烙印を押されてしまった私、日本人にとっては、とりわけ重要な「信用」というものを、決定的に失ってしまいました。
そして、多くの人が、私の許から去って行かれたのはこの時です。
事情は分るだけに、何も言うことはできませんでしたが、寂しかった、、。
四面楚歌、、。
この時、欲しいと思ったのは、誰か、本当のことを一部始終打ち明けられるお人でした。でも、両親はすでに亡く、年の離れた兄姉は、私のこと、何か「腫れもの」に触るようにして、何も言わないし、。いわゆるゲイの人は知っていましたが、そういう人は、殆んどすべて結婚されていて、話にならないし、。
「何かあるのと違うのん?」の一言が、どんなに欲しかったことか、(まあ、誰にでも何かあるものですよ。、ましてや、行動の不可思議な人なら尚のこと)。
亡き母が、クリスチャンであった関係で、私も、かつてキリスト教の教会に行っていたことがあるのですが、米国に本部を持つ、この新教の教会、教義が余りに厳格で、つき離さんばかり、。その牧師さんには、とてもとても、こんな私の「悩み」など、言う気にはなれませんでした。仰ることが、分っていたからです。
そこで、すべての失敗を清算して、一から出直すために、何も計画を立てない「ヨーロッパ放浪」の旅に出ることにしたのです。
1975年3月30日。
私、30歳。
日本にいた時は、私、大学を出てから、いわゆる定職に就きませんでした。
日本の会社が、何だか軍隊みたいに思えて、嫌だったのです。何しろ、団体生活が苦手だったもので、。
ただ、仕事はしていました。塾の先生をしたり、家業を手伝ったり、。
しかし、前述のように、色んな失敗を重ねていましたので、そんな泥沼から抜け出すために、長い、当てもない旅に出たのです、。
只、これは単なる”思いつき”などというものではなくて、もっと若いときから、是非やりたいと思っていたことなのです。
(皆様の中にも、そういうことしてみたいとお思いの方、少なからずおいででしょう。でも、私の場合は、それを本当にやってしまうところが、非常識というか、バカというか、)
そして、それ以前は、経済的にまず不可能でした。
でも、そんなことを言っていると、絶対にできない。又、私、その少し前、30歳に手が届いてしまっていましたので、「今だ!!」。
なんでもいいから、そんな風にでも思わないと、絶対に出られない、、。
私、生来向こう見ずの横着者ときています。
皆様からすれば、余りに型破りで、無謀に見えることだとは思いますが、私自身は、不安など全くなく、生れて初めて日本を離れるという事にワクワク、、。
結果的にこの4ヶ月の「放浪旅行」は大成功でした。
2ヶ月のユーレイルパスを使って、ヨーロッパ各地の主な美術館を見て回るということだけは決めていましたが、その他は、足の向くまま、気の向くまま、、。第一、ガイドブックさえ持っていなかったのですよ。
そのパスが切れた時点で、海路英国に渡り、更に2ヶ月過ごしました。
英国と言っても、ロンドンだけですが、日本にいた時から馴染みがありましたので、すぐに好きになりました。
訪れたところで、好感を持ったのは、他にウイーン、フィレンツェ、そしてハイデルベルグ、、。
パリにも勿論行きましたが、私には、もう一つでした、、。
そして、気に入ったこのロンドンで、到着後間もなく、ジャックさんという英国紳士にお会いしたのです。
それも、奇妙な、全くの偶然から、路上で、(それには、非常に面白いエピソードが絡んでいるのですが、それについては、いずれ機会があれば、お教えします)。
ジャックさんは、上品で、大らかな、いかにも英国人といった感じの、とても良い人でした。
ロンドンでは、まあ、そのジャックさんのところに厄介になっていたのですが、いつまでもそんなことをしている訳にはいかないので、一度、日本に帰ることにしました(1年間のオープンチケットを持っている者の強みです)。
そして、8ヶ月後の翌年4月、今度は、ジャックさんを頼って、ロンドンに舞い戻ってきたという訳です。
仕事は、フリーランスの絵描き。因みにジャックさんは画商でしたが、これは単なる偶然に過ぎません。
絵は、日本にいたときからずーっと描いていました。
これは、「何か、一人でできる”絶対的な”生き方がいいな」という、何とも「青臭い」考えから出た選択でした。団体生活の苦手な人間、そしてゲイの男の考えそうなことです。
しかし、これは、まさに「世間知らず」もいいところというものではありませんか。
生活は、勿論楽ではありませんでした。だって、収入がほとんどないんですもの。
しかし、諦めずに描き続けていますと、その内、展覧会にも通るようになり、少しは拙い絵も売れ始めました。
それでも、生活が苦しいことには変りありません。
そして、ある時、あることがきっかけで、「鬱」症状になってしまったのです。
只、絵を描くことで、何とか生きているという状態がしばらく続きました。
しかし、そういう時にも、ジャックさんは、私にあくまで親切でした。
ある日、思いました。
「そうだ、日本へ行こう!」
私の「鬱」症状はたちどころに霧散してしまいました。
(そうすると、「鬱」の人というのは、要するに、どこにも「希望」が見いだせない人ということになるのでしょうか)
只、日本へ単に遊びに帰るのでは、つまらない、またそんな経済的余裕もない、。じゃ、「個展」をやろう、、。
そう決めると、余計に希望が湧いてきました。
しかし、私、何もかも(額造りまで)自分でやりましたので、日本に行くと決めてから、2年の準備期間が要りました。
そして、1976年に日本を離れてから、初めて、また祖国の土を踏みました。
日本の人に、どんな風に受け入れられるだろうかと考えると、不安でした。1989年10月のことです。
末期とは言え、いわゆる「バブル経済」の最中でしたから、実に13年ぶりに見る日本は、いかにも元気が良く、清々しく、、。
又、この京都での個展も幸い大変盛況で、多くの人に来て頂きました。
これで、少々自信がつき、精神的にも立ち直ることができました。
その後、もう2回、同じ京都で個展を開催し、主にそこから得た収入で、何とか英国での生活を続けていました。
しかし、何もかも自分でやっていたのですから、もうクタクタ、、。
又、いつも、経済的不安は覆うべくもありませんでした(それでも、何とか借金もせずに生活していたのですよ)。
そして、そんな「綱渡り」みたいな曲芸生活が、私の性格に投げかける「影」は大きく、その頃の私は、随分捻くれた、暗い人間でした。何かにつけて否定的。そして、その不安を一時的にしろ紛らす為に、人様に奇妙なことを口走ったり、またはのべつ幕無しに質問したり、、。
今から思えば、厭な男だったでしょうね。
「窮すれば、鈍する、、」
その頃は、私のなけなしの収入と、ジャックさんの国民年金とで、糊口を凌いでいたのですが、そんな生活も、1998年5月1日、終焉を見ました。
ジャックさんが亡くなったのです(その極めて「美しい」死のことは、他のところで認めました)。その時一緒に住んでいた英国南岸のブライトンのホスピスで。私、その時、52歳。
誰の目にも、私、定収入が必要なことは明らかです。
しかし、私、それまでに経験がありません。どうしていいのか分りません。しかも年齢が年齢で、と来ています。
只、ジャックさんがホスピスにおられた時(2日間だけでしたが)、そこの看護士さんの働きぶりに感銘を受けましたので、こういうことをしたいな、これなら出来ると、思ってはいました。
然し、この時も又、どうしていいのか分りません。
そこで、近所の職業紹介所に行って、病院の掃除夫の仕事を探してきました。
これなら、まず誰でも雇ってくれます。
はじめは「エイズ病棟」に行く積りをしていたのですが、結局総合病院に落ち着きました。ジャックさん没後、丁度5ヶ月の時。
この病院の掃除夫という仕事、真面目に手を抜かずにやると、非常にきつい仕事で、目に見えて、ゲソゲソに痩せました、。
ブライトンの病院で2ヶ月働いた後、ロンドンに戻り(私には、矢張りロンドンでないとダメなのです)、また病院の掃除夫として働き始めました。
「ロイヤルマースデン」という有名な癌病院でしたが、掃除夫にとっては、冷たい厭な病院だと思いました。
マネージャーも監督も好きではありませんでした。然し、そこで何とか更に9か月勤め上げ、ブライトンの時から言うと、11か月、掃除夫として働きました。
今思うと、本当によくやれたと思います。おまけに随分スマートにさえしてもらって、。ただ、この仕事で喜びが一つありました。それは、患者さんとお話ができることでした(ブライトンでは、お友達さえできました)。
掃除夫の仕事を辞めることが出来たのは、「准看護師」になる方法が分ったからです。無資格の看護師ですね。お手伝いさん。
主に、「老人科」で6年間、准看護師として働きましたが、初めから「もっと出来る」と思っていましたので、その3年目に病院から奨学金をもらい(そればかりか、准看護師としての給料も)、3年間、国立精神科病院附属の「看護科」大学に行きました(私、英国では何ら資格がないので、入試も受けました)。
それに入ったとき56歳、もちろん最年長です。そして、卒業したのが、何と59歳。
英国の大学は、看護学科と言えども厳しいので、出るのは簡単ではありませんでした。そして、そういい成績ではないものの、卒業できた時は、さすがに嬉しいでした(日本の大学を出た時より、はるかに、)。
卒業後、すぐにロンドン東部の精神科病院に仕事を見つけ、5年前、66歳で退職するまで、有資格の正看護師として、勤めました。本当は70歳まで行きたかったのですが、ダメだと言われました。
その前の、准看護師としての6年間を含め、実働期間たったの13年。
今は、それからの年金と、あと2つの年金(国民と個人)とで、まずまず生活はできていますから、有り難いものだと思います。
大体、こんなこと、日本では、不可能なのではありませんか。
私の勤めていたのが「国立病院」でしたから、私は国家公務員。それが、結果的に良かったのですね。
精神科の看護師という仕事、私には向いたものだとは思いませんでしたが(患者を肉体的に拘束することなど、私にはできない)、そういう点で、今となっては感謝しています。
ジャックさんの亡くなったのは1998年でしたが、その翌年、コリンさんという人と出会い、今はそのコリンさんと一緒に暮しています。とてもいい人です。
二人で家を買いました。ロンドンのグリニッヂ。
幸せです。
私、小さいときから、暖かい家庭を持つということに憧れていましたので、これが、私の望みうる、最高の家庭かもしれません。
日本からのお客様もよくあります。
これで、子供があれば、言うことはないのですが、こればかりはどうしようもありません。残念ながら、。
ジャックさんが亡くなってから、絵を描いていませんが、その分、絵をはじめ、芸術一般のことも、少しは分るようになったと思います。自分の絵の至らなかったところも、今は分ります。他の、もっと才能のあるお方は、そういうこと、早くからわかっておいでだと思いますが、愚鈍な私には、こんなに時間がかかってしまいました。
ところで、私にも、一度だけですが、「結婚」経験があるのです。
40代の末でした。まだ、ジャックさんご存命の頃。
女性には何の性的興味も抱かない私ですが、「良い家庭を持ちたい」という意味での「結婚願望」だけは人一倍強く、そんな私でも、何とか活路を見出せないだろうかと思い始めたのが、その発端です。
それと、何しろ高齢のジャックさん、そのジャックさんとの生活で、将来に対する不安は隠しようもありませんでした。ジャックさんが亡くなったら、余りの寂しさと不安とで、日本に帰りたくなるに決っている、それには「伴侶」が必要というわけで、京都で二度目の個展をした時に、まだ独身だという昔の絵描き仲間の女性に再会したのを幸い、帰英後、生れて初めて「ラブレター」なるものを書いたのが始まりでした。
然し、あれは、とてもとても「結婚」などと呼べたものではなく、お互いに日英間を往復していただけですから、「別居結婚」などという言葉ですら、生易しく響く程です。
土台、私のような、女性にこれっぽっちも性的魅力を感じない男は、「結婚」などという大それたことをしてはいけない、幾ら良い家庭を持ちたいという意味での「結婚願望」があったとしても、それは「本末転倒」というものです。
「結婚していないと、社会的信用がない」というのであれば、私は、残念ながら、その「信用」を享ける資格のない男なのです。
異性に性的魅力は感じないけれど、異性の友達を持ちたいのであれば、何らかの方法はあった筈です(それまで、私、自分の人生は「半円」だと感じていましたのでね、完全なる「円」ではなくて)。
只、私の場合、結婚にまで持っていかないと、決して異性と交わることは無いであろうと感じていましたし、それと、結婚して「普通の」世界に住み、日本の皆様のお仲間入りをしたいという願望も強かったものですから、。
私の犯した根本的な過ちは、まず打開策として、事前に彼女に全てを「告白」しさえすれば、それで全ては解決するだろうと多寡をくくったこと。そして何よりも、あらゆることを頭の中だけで計算し、それに感情が伴っていなかったことです。
矢張り、結婚の第一条件は、その異性が「好き」でなければ、、。
私の「性向」のことは、周りの人たちから、「彼女に決して言ってはならない」との”助言”を受けましたが(その時までに、日本の特定の人達には本当のことを言ってありました)、しかし、私にはどう考えても、避けて通れないことだと思えましたので、ある日、意を決して彼女に告白することにしました。
その時、彼女、殊更表情を変えるでもなく、寧ろ、私のことがもう少し分って、安心したようでした。私の「正直さ」を買って呉れたのかもしれません。
然し、実のところ、性的に初心な彼女、同性愛がどういうものか、全く分っていなかった様です。
彼女とは、曲がりなりにも「性交渉」はありましたが(ただ、喜びはありませんでした)、然し、そんな不自然な生活は、もとより先が見えていて、結局、彼女の方から別れ話が出ました。
「ああ、これで、人生の落伍者か」と思うと、暫くの間、気が滅入りましたが、矢張り、自分は結婚には向いていない人間だったのだ、とはっきり思い知らされ、落伍者の烙印を、甘んじて受けることにしました。
私の、この様な余りにも変則的な「結婚」は、かれこれ5年続きましたが、結局、一人の女性を不幸にし、その周囲の人たちにご迷惑をお掛けし、私はといえば、日本人にとっては分けても大切な「信用」というものを決定的に失ってしまいました。
ただ、この「結婚」から得る所もあり、その5年間、日本では、世間の人から「一人前」に扱って頂きましたし、家庭というものの雰囲気も少し味わうことが出来ました。女性も、少しは知った積りです。
然し、何にもまして大きかったのは、自分が結婚できない、また結婚してはいけない男であると分ったことです。
寂しいけれど、こればかりはどうしようもありません。
私の目下のパートナー、コリンさんとは、2006年の7月16日、Civil Partnershipを結びました。男女間で言う「結婚」とほぼ同じです。
ただ、それ以降、矢張り、自分の意識の中に変化が見られ、以前よりは「拘束感」がある。然し、それもその筈、土台、それを望んでのパートナーシップではなかったのでしょうか、。
いやましに、コリンさんが愛おしくなって来ます。本当にいい人です。最後まで、大事にしてあげようと思います。
私、目下71歳。コリンさんはその14歳上ですが、幸い、我々、二人共元気です。
最後に、、。
ここまで書いてきましたことは、私の筆名を除き、すべて本当のことです。
ただ、この様な私のもの言いも、大体、私の生き方そのものも、日本の表立った文化の中にはありません。日本人の「美意識」にそぐわないからです。
周知の通り、同性愛は、古今、日本という島国の至る所に存在してきました。
しかし、日本は根本的に「建前社会」。そこでは、同性愛は、あくまで「裏文化」であり、三島の愛した「葉隠」の世界です。
隠されているから、美しいのです。
本音が建前と違うからと言って、悪いということにはなりません。
それを西洋流に、何でも思っていることを堂々と言うとすると、日本人の感覚では「面白くない」ということになってしまいます。完全な裸より、何か一糸まとっている方が、逆に官能的ということですね。
昨今の日本では、結婚していない男性というものも別に珍しくなくなりましたが、私の年代の者にとっては、矢張り、結婚は大切な「社会の取り決め」であり、自分の性向の如何に拘らず、大抵、皆結婚していました。
それ程、結婚は重要なものであったのです。
従って、私と同年代かそれ以上の人は、たとえ同性愛者でも、概ね皆結婚していて、何とか子供を産み、それらも皆結婚させて、「社会的任務」を果せば、家庭外で何をしていようと構わないというのが、一般のケースでした。
私が、昔、日本に住んでいた時に知っていた同性愛者の人たちは、大抵そうでした。
そりゃ、私だってそうしたかったのは山々でした。そして、その人たちと同じ様に、社会の成員として受け入れられ、その上で「隠れた美」を味わいたかった、。
しかし、それがどうしても出来ませんでした。一度勇気を出して、試してみましたが、当然のごとく、失敗に終りました。
かの三島由紀夫だって、結婚して子供にも恵まれ、彼は、結婚というものに、概ね肯定的でした。だったら、この自分にも出来ないことはないだろうと、思ったのです、。
英国人の同性愛に対する姿勢は大分違います。
土台、これは、完全なる社会問題、人権問題、ひいては政治問題。
それ程、常に表舞台に引っ張り出されるのです。
大体、英国では、同性愛は、1957年「ウォルフェンデン報告」というものが出される迄、違法でした。従って、この国、それまで、密告、ゆすり、たかりの類が、後を絶たなかったのです。
ビクトリア朝の、著名なアイルランド人劇作家、オスカーワイルドの凋落ぶりをご存知の向きも多かろうと存じます。
彼は、結婚して、子供を二人儲けこそしていましたが、家庭を離れると、人目憚らぬ”クィーン”。しかし、恋人のアルフレッドダグラス卿の父親に摘発され、挙げ句の果て、投獄の憂き目に遭い、結局、パリで哀れな最後を遂げました。
信じられないことに、嘗て同性愛は「精神異常」の一つに数えられていたのですよ。それが、アメリカのDSM (Diagnosis & Statistical Manual of Mental Disorders 精神異常便覧)から取り除かれたのは、何と1973年のことでした。たった43年前です。
そして、昨今のCivil Partnership (及び、同性結婚)の導入。
これは、少数派ではあっても、何ら自分の責任ではない「性向」が基で、社会的に不公平な仕打ちを受けるのはおかしいと、様々な「圧力団体」が懸命に働きかけて、勝ち取られたものです。
その不公平さを、もう少し具体的に言いますと、例えば、その最も顕著な例は、「相続税」です。
この税金は、英国でも日本でも、普通の結婚している男女間では、一銭もかかりませんね。婚姻届さえ出してあれば、極端な話、形だけの夫婦でもいいわけで、いかに長年一緒に住んできた相思相愛のカップルでも、彼らが同性である場合には、相続額から控除額を引いた残高に、40%もの税金がかかるというのは、どう見ても不公平だというわけです。
この様に、英国での同性愛者が、今日与えられた地歩を獲得するまでには、斯くなる忍従の歴史があったのですよ。
日本でも、いつの日にか、そういう日が来ると思われますか。
私、そのことに関しては、概ね悲観的です。
一体、日英間では、人間の性向に関する、認識(捉え方)の土壌がはっきりと違うからです。
日本でも、昨今、ことに若い世代の中に、同性愛を社会的問題として取り上げたいという人達がおられる様ですが、根本的には、日本での同性愛は、まだ「美意識」の範疇でのみ扱われる事象の様に思われます。感覚の世界といいますか。
日本の、ストレートの人(異性愛者)の口吻にこういうのがあります。
「ボク、そんな”趣味”ないねん、」
それと、日本では、同性愛というと、性的行為の中でしか捉えられない人が多いのではありませんか。そうだとすると、それは如何にも、皮相な考え方です。
男女の恋愛をいうとき、それを性行為のみに限っては、誰も考えませんね。
それと同じことを、どうして、同性間の恋愛について考えられないのでしょうか。同性間にも真の恋愛感情が存在するということが理解されていない証左だと思います。
英国人から、よく受ける質問です。「日本では、同性愛、どの様な扱いを受けているの?」 返答に困ります。
最近のニューズで、一橋大の学生の自殺の話を知りました。
彼、自分のゲイとしての性向を、友人に告白したところ、それがネットで、広く皆なに知らされてしまったからというのです。学校に相談しても、取り合ってくれなかったとか。
これなど、日本では、同性愛のことが、きちんとまともに考えられていないからのことだと、私は思います。
(日本人は、何か社会的問題がある時、それを抜本的には考えない傾向があるのではありませんか。何とか、表面的にしろ、体裁が整えば、それでいい、。大きく波風を立てるようなことはしない、)
同性愛者であるというのは、別に恥ずかしいことでも何でもない、ましてや、それで自殺するほどのことでは更々ない。また、彼の友人も、それを人に言いふらすようなことではない、、。
それで、それに関して、私、ある人に、ネットを通じて「日本は遅れている」と言いましたところ、こんな答えが返ってきました。
「日本では、”奥ゆかしさ”という美徳があるのを、君は知らないのか!」
その人は、既婚者。家族には秘密で、同性愛者としていろんな活動をしておられるお方。よくあるパターンです。
私、その人の言われたことは分ります。日本人同性愛者の考えられておられることも、行動様式も理解できます。
しかし、自分は、どうしてもそれに与することができず、今こうして、英国で、この様に、自分の信念を通し、言いたいことを言って生きているのです。
大体、日本にいた時は、自分に、そして人様に嘘ばかり吐いて生きていたために、うまくいきませんでした、。ですから、私には、真っ当に、すくっと生きようと思えば、こんな生き方をするより手がなかったのですね。
少しも奥ゆかしくなどありません。
日本では、すべてのことが余りに奥ゆかしいので、多くのことが、表沙汰にならないという様なことが、よくあります。この「同性愛者」のことなど、典型的な一例です。
自分自身が、同性愛者であると人に知られるのが怖くて、私みたいな人間の言うことには、いくら、内心では賛同されていても、決してそうは言われません。
そういうお方、日本にいくらでもおられると思います。悶々として、、。上記の一橋大生など、そうだったのかもしれませんね。
英国では、今や、シビルパートナーシップはもちろん、同性結婚も存在するのですから、同性愛者が、ますます表に出てくるようになり、ゲイの有名人というのは、いくらでもおられます。
スポーツの世界でも(大英圏で、豪州水泳のIan Thorpeとか、または、英国飛び込みのTom Daleyとか)、また、政界でも経済界でも、。芸能界は言うまでもありません(ただ、面白いことに、芸能界の人は、自分の性向について、余り正面切っては言われません。何か、それをはっきり言うと、不利なことでもあるのでしょうね)。
英国の国会議員でゲイの人は、非常にたくさんおられます。その人たち、自分でそうはっきり公言されたのですから、本当のことです。カミングアウトですね。以前、大臣でそういう方がおられました。
(そして、英国のいいところは、そういう有名人が、一旦カミングアウトすると、それに関してのゴシップ記事がピタリと止ることです。いかにも大人)
ですから、同性愛者というのはいくらでもいるということですね。そんな土壌の国で、私如きがゲイであってもなかっても、それは、勿論どうでもいいことです。
まあ、慎ましい日本で、こういう状況が到来するとは考え難いですが、それでも、そういう人、水面下にいくらでもおられるということだけは、覚えておいてくださいね。
私、コリンさんという良いパートナーを持ち、幸運です。いずれ、我々もそのうちもっと歳を喰い、様々な問題も露呈してくると思いますが、その様な将来のことは、今心配しても始まりません。かつて、ジャックさんが亡くなったら、自分は日本に帰りたくなるに違いないと思っていましたが、現実に、そのことが具現化してみると、少しもそんな風には思いませんでした。その時はその時、それまで、楽しく精一杯生きるだけです。
そうとは言え、私、美しい祖国日本も、奥ゆかしい日本人も大好きですので、毎年、秋に日本に帰ります。今年も、10月に、。コリンさんも一緒です。
どうぞ宜しく。

インターネットに宗教の話題を書く時の私の姿勢

2016年09月01日 | 日記・エッセイ・コラム
世界的にはいろいろな宗教があります。
仏教、神道、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教などなどがあります。道教や儒教もあります。その上、宗教を一切信じない無宗教の人も少なからずいます。
ですから宗教のことをインターネットで取り上げるときは全ての宗教に公平な姿勢で書くようにして来ました。また無宗教の人にも不快感を与えないように、無宗教も良いと何度も書きました。無宗教の人を尊敬しているとも書きました。

このような姿勢は「どのような宗教にも絶対に優劣は無い!」という私の信念にもとづいているのです。そして宗教を信じる人も信じない人にも絶対に優劣が無いのです。
しかし例えばキリスト教のことを話題にしてその長所や短所などを書くと、他の宗教を信じている人々の中には「無視された!」と誤解して不愉快に感じる人もいます。
宗教の話題を取り上げて、真面目に書き進んで行くと、無宗教の人は、宗教を題材にして書いていること自体に反発します。
兎に角、宗教のことをインターネットの上で話題にして書くといろいろな誤解を生じる場合が多いものです。

しかしそれでも何故、私は宗教のことを書き続けるのでしょうか?
理由はたった一つです。「全ての宗教の間の相互理解を深め、無用な対立を少しでも無くす!」という目的で書いているのです。そして宗教を信じている人と無宗教の人との無用な対立や抗争を少しでも無くすためにに書いているのです。
この私の姿勢や目的をご理解して、好意的なコメントを下さる方々も沢山います。

なんでもそうですが、物事には善い側面と悪い側面があります。
全ての宗教の教義は皆善いものでしょう。しかしそれを人間が信じると問題が起きるのです。教義の一部分だけを自分の都合の良いように勝手に拡大解釈して、その宗教を利用して他民族を殺戮するのです。

それは現在でも中東で起きています。イスラム過激派のテロ行為もその一例です。
これはイスラム教が悪いのではないのです。イスラム教は絶対に良い教えなのです。単にその教えを、自分の都合の良いように勝手に拡大解釈して、その宗教を利用して他民族を殺戮している一部の人だけが悪いのです。宗教が悪いのではなく、人間が悪いのです。

このように書くと多くの日本人は一神教が悪いと異口同音に言います。そうして多くの日本人がイスラム教を、そしてイスラム教徒を嫌います。
同様にキリスト教やその教徒に違和感を持ちます。
やっぱり多神教の神道や仏教は平和的で良いと断言します。
そこで私は「ちょっと待って下さい」と言います。その態度は一神教を悪と決めつけて差別する態度に繋がります。
多神教と言えば中国も仏教と道教と儒教との多神教の国です。韓国も仏教と儒教と原始宗教の多神教の国です。しかしこの日本と中国と韓国の3国は過去の歴史において残忍な戦争を何度も行っているのです。

よく宗教が原因で戦争が起きるから宗教は無いほうが良いと言います。これは間違った理解です。悪い意図を持った一部の人間が宗教を利用して戦争を行なうのです。悪いのは宗教ではなく人間なのです。

宗教が悪いという人は宗教に対する理解が皆無なのです。
宗教が悪い、悪いと言いながら現在の世界から宗教を根絶することは非常に困難なことです。
何故かと言えば宗教には善い面があり、人々が熱烈に宗教を求めているからです。
宗教を信じていると此の世が楽しくなるからです。幸せな生活が送れるのです。こんな魅力的なものはありません。
よく宗教は、死が怖いから信じていると言う人がいます。宗教のことが分かっていないのです。宗教は死後の為にあるのではなく、如何に幸せに生きるかということを教えているのです。

お釈迦さまは此の世のことは一切空(くう)だと教えました。そして自分が死んだら骨を野に捨てよと言いました。一切、仏像は作るなと言って亡くなりました。死後、仏像の無い仏教が約500年間続いたのです。

最後にもう一つだけ書かせて下さい。
無宗教の人はよく言います。「宗教は人間の妄想が作ったものだ。神も妄想の産物だ。」とよく言います。正しいと思います。
しかし私は妄想の作った神の存在を信じています。妄想で作った宗教を信じています。
そうすると此の世が幸福に感じられるからです。それを戦争に絶対に利用しないことを守る限り宗教は悪くなりません。悪作用はありません。
如何でしょうか?皆さまの忌憚のないコメントを大歓迎いたします。
今日の挿し絵代わりの写真は先日、富士山の麓の忍野八海のそばの「花の都公園」で撮った花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)