後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、チューリップ畑へ行って来ました」

2017年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は青梅市の梅岩寺の枝垂れ桜の大木、2本の写真を撮りに行きました。しかし残念ながら散ってしまっています。
帰路、旧奥多摩街道を羽村の堰近くまで来たらチューリップ祭りをしていました。すぐに車をチューリップ畑の道路に入れて、家内が写真を撮りました。広い畑一面に色とりどりの花が咲いている光景は夢の境地をさまよっているような気分でした。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









北朝鮮に対する日米韓の強固な結束の重要性

2017年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム
北朝鮮は核兵器開発や長距離ミサイル開発を続行しています。それは独立国としてある程度当然な努力です。ミサイルの発射実験も韓国や日本に向けて発射しているわけではありません。
北朝鮮は他国を侵略しているわけでもありません。
従ってに日米韓の3国が結束して北朝鮮に対峙すれば、北朝鮮は韓国や日本へ軍事攻撃をする可能性が小さくなります。北朝鮮が軍事行動さえ起こさなければ韓国と日本は今まで通り平和です。
しかるに北朝鮮が国内で原爆の実験を行えば、アメリカ軍が先制攻撃を行う可能性があるようなトランプ大統領の政策があるのです。これはあくまでも『可能性』であり、日本では実行の確率は小さいと考えられています。しかし本当にそうでしょうか?
日本は韓国と結束してアメリカに強く働きかけ、アメリカ単独の先制攻撃を止めさせなければなりません。アメリカが単独でも先制攻撃をすれば韓国も日本も戦乱に巻き込まれることは必然です。
この状況では日本と韓国は運命共同体なのです。
この事実を示すのがペンス副大統領の韓国と日本の訪問です。
昨日は韓国を訪問してきたペンス副大統領が日本にも来て安倍総理と会談しました。
会談の目的は北朝鮮に対して日米が結束して対峙し、圧力をかけることを確認するためです。
会談では安倍総理は北朝鮮を攻撃するアメリカの戦闘機に給油することや日本製の弾薬の供給を約束しました。
アメリカに同意しつつも先制攻撃をしないように説得するのが安倍総理のなすべき事ではないでしょうか?その説得の件は今朝の新聞にはありません。危惧すべき状況のようです。
このような危険な状況では日本と韓国は従来の諸問題を捨てて結束し北朝鮮に対峙しながら、アメリカの先制攻撃を止めさせるべきではないでしょうか?
日本人は慰安婦像に感情的になり過ぎて現在起きている危険な状況を忘れています。まず戦争を防止するという視点から見ると「慰安婦像問題」はあまりにも矮小な問題です。それに引きずられて日本と韓国が結束出来ないとしたら、それは北朝鮮を利するだけです。
今回の危険な状況では日本と韓国とアメリカは運命共同体なのです。
もしこの三国がバラバラになってしまえば喜ぶのは北朝鮮だけなのです。
とにもかくにも日韓が結束してアメリカの先制攻撃を止める努力をすべきです。
大きな視野と長期的な展望で考えると、日本、韓国、台湾、そして中国の漢字文化圏は運命的な絆で繋がっています。北朝鮮だけが危険な軍事的冒険をしようとしています。
北朝鮮が現在の韓国、台湾、中国本土のように経済的に豊かになればこの軍事的冒険主義が自然と弱って行くでしょう。人々は豊かな自分の生活を守るためにも戦争をしなくなります。勿論、経済が発展すれば軍備も強化されますが、戦争はしたくなくなります。
そういう想定が正しければ、現在、中国が北朝鮮へ原油を供給し、経済発展を支援していることは良いことなのかも知れません。
インターネットを見ていると多くの日本人が「アメリカが軍事的に攻撃して北朝鮮を潰せ!」という意見を書き込んでいます。
これほど無責任な意見はありません。
韓国と日本は戦乱の修羅場になるのです。日本人は日米間の沖縄戦を忘れたのでしょうか?朝鮮動乱の悲惨さを忘れたのでしょうか?
戦争だけは絶対に避けるべきです。
トランプ大統領が狂気のように先制攻撃をしないように祈るだけです。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日撮って来た檜原村の山に咲くサクラの写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






非常に危険な状況になって来たアメリカと北朝鮮の睨み合い

2017年04月17日 | 日記・エッセイ・コラム
日本には72年間も平和が続いたので、日本人は戦争がどのようにして起きるのかをすっかり忘れてしまいました。
しかし自分達がした真珠湾攻撃のことは憶えているでしょう。
欧米に比較してまだ貧乏だった日本が、アメリカの石油供給停止と経済制裁を受けたのです。自暴自棄になった日本が真珠湾を先制攻撃したのです。
この太平洋戦争が起きた頃の日本を現在の北朝鮮に置き換えて考えて見ましょう。
今日の記事は4月15日掲載の「アメリカが北朝鮮を先制攻撃したら日本はどうなるか?」と題する記事の続編です。
今回の記事では、現在の北朝鮮とアメリカの対峙が非常に危険な状態に至った理由が三つあるという内容の記事です。

(1)朝鮮半島でアメリカと北朝鮮が戦争をしても中国は介入しない可能性がある
アメリカが一番恐れているのは中国軍の人海戦術です。中国軍が怒涛の如く朝鮮半島に攻め込んだらアメリカ軍と韓国軍の損害が甚大になります。その上、中国の航空母艦艦隊が朝鮮半島の沖でアメリカ海軍を攻撃するのは当然予想されます。
アメリカが中国の介入を恐れるのは軍事的な損害だけではありません。
戦争で中国の経済が崩壊すればアメリカの経済も大打撃をうけるのが明白です。
従ってアメリカは中国の軍事介入を阻止ししなければ北朝鮮を攻撃出来まいのです。
ところが最近の中国の王外務大臣が「朝鮮半島で戦争が起きたらその責任は当事者が負う」と言明したのです。中国は傍観するだけだと言わんばかりの発言です。
その理由にはアメリカと中国の外交的な妥協があったようです。
今迄、南沙列島のある南シナ海を巡航、警戒していたアメリカの航空母艦を中心にした攻撃艦隊を朝鮮半島の近海に移動させたのです。極端な言い方をすれば中国は北朝鮮を放棄して、南沙列島の軍事基地を安堵したのです。その上、アメリカは中国を「為替操作国」という非難をしないことにしたのです。

(2)アメリカの脅迫があっても北朝鮮は核兵器とミサイルの開発を続行する
北朝鮮はアメリカの航空母艦を中心とした艦隊の脅しを一切意に介していません。その脅しに屈服して核兵器開発を断念して、アメリカの査察を受け入れれば戦争は起きません。従来通りの平和が続きます。
皆様は北朝鮮が核兵器開発を止めると思いますか?
北朝鮮は真珠湾攻撃の前の日本のような軍事絶対優先の偏狭な思想に染まっている国家なのです。
戦後72年、中国やロシアが北朝鮮を自分の完全な勢力圏にしようと圧力をかけても屈しないで独立を守ったのです。そして原爆や核兵器を開発し続けた歴史があるのです。
北朝鮮は外圧によって無理に核兵器開発を止めさせれば自暴自棄になり暴発する国柄なのです。
それなのにアメリカは航空母艦艦隊を送り脅迫しているのです。これは非常に危険な状況です。

(3)アメリカは盾突く国を必ず粉砕するという国柄
アメリカを公然と悪し様に言い続けたイラクのサダム・フセイン大統領は逮捕され死刑にされました。イラクを占領してしまいました。
テロの首謀者のビン・ラ-デンを草の根分けても探し出し暗殺しました。
北朝鮮は何十年もアメリカ帝国主義に盾突いて悪口を言って来ました。
このような国家は早晩、アメリカの餌食になる可能性があるのです。しかし、それはアメリカの国内事情で延期されたりするのです。
オバマ大統領のように理想主義者が大統領になっている間は戦争は起きません。
しかしトランプ大統領のような差別主義者が大統領になりました。その上、政権担当者に軍隊の優秀な制服組の高官が数人入っているのです。これでば必ずのように正義の武力行使があると想定するのが自然ではないでしょうか?
武力行使が日本海の中でアメリカ艦隊のミサイル発射訓練にとどまっていれば戦争にはならないでしょう。
しかし偶発的な事件が起きうる可能性があるのです。その偶発的な事件が戦争に発展するのです。
日本人なら、盧溝橋事件や柳条湖事件が日中戦争の拡大のキッカケになったことを憶えている筈です。
ですからこそアメリカの航空母艦を中心とする艦隊が北朝鮮の近海にいること自体が非常に危険な状況なのです。

このように危険な状況を早く解消するように日本政府が外交努力をするように期待しています。
皆様のご意見を是非お聞かせ下さい。

今日の挿し絵代わりの写真は一昨日撮って来た遅咲きの桜の写真です。清瀬市の柳瀬川のそばの公園で撮って来ました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「教養としてのキリスト教・・・復活祭とは?」

2017年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教のことを知れば欧米人の考え方が分かると言います。文学や絵画彫刻や音楽がもっと味わい深くなるとも言います。ですから多くの日本人は教養としてキリスト教を身につけています。
今日はそのキリスト教における復活祭の日です。そこで復活祭の意味やその重要性について書いてみたいと思います。
簡単に書いてしまえば復活祭はキリストが金曜日に十字架にかけられ処刑され、3日後の日曜日にに生き返ったことをお祝いするお祭りです。
キリストが生まれた日はクリスマスとして日本でもお祝いの食卓を囲む人が多く、日本の重要な歳時記として定着しています。クリスマスの期日はヨーロッパの原始宗教の冬至祭を踏襲しました。
その一方で復活祭は日本ではあまり有名ではなく、一部のクリスチャン関係者だけが祝っています。
復活祭の期日は春の到来を祝う原始宗教のお祭りを踏襲していますので、日本でももっと有名になっても良いと思います。
しかし、「一旦、死んだ人が生き返る」という不自然さ、不合理さがあるので日本では受け入れらなかったのでしょう。

しかしキリスト教徒にとっては復活祭は一番重要な祭日です。クリスマスよりも非常に重要な祭日です。
その理由はキリスト教信仰の中心をなすのが、キリストが生き返り、その後、天に登って神の右の座に着いたという事実を信じることなのです。そして最後の審判の時が来ると、キリストは再び帰って来ます。そして全ての死者の肉体も蘇り、復活するのです。
復活祭とはイエス自身の生き返りを祝い、全ての死者の生き返りを祈る重要な祭日なのです。
上に書いたことはあまりにも荒唐無稽なことですね。少なくとも大部分の日本人には受け入れられない空想に過ぎません。私も本物の日本人ですから復活祭が日本へ受け入れらなかった事情は痛いほど良く分かります。なにせ仏教にはそんな空想論は皆無なのです。
さてそれはそれとして少し復活祭に関連した写真を見てみましょう。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E6%B4%BB%E7%A5%AD です。

上の1番目の写真の絵画は生き返ったキリストが弟子たちの中心に立っている光景です。ある弟子は本当に生き返ったキリストなのかと疑って眺めています。トマスはキリストの脇腹の傷跡に指を入れてみて、「これは本物の生き返ったキリストだ!」と納得します。

上の2番目の写真は復活祭のミサをしておいるあるカトリック教会の祭壇の光景です。

3番目と4番目の写真は復活祭の折に卵に絵を描いて祝う風習を示しています。ウサギは付き物です。

さて欧米人は本当にキリストの復活や全ての死者の肉体の生き返りを信じているのでしょうか?
これこそ欧米人の心の裏にある迷いなのでしょう。ある時は信じ、ある時は疑います。私はカトリックなのである時は確かに信じています。
100%そのまま信じている欧米人もいます。60%信じている人もいます。20%信じている欧米人もいます。しかしここで重要なことは欧米人なら皆が以上に書いた復活の話を知っているのです。

南米の有名な革命家のチェ・ゲバラでさえ、聖書の一句の「愛が無ければ、」を使った「愛が無ければ、革命家になれない」というセリフを言っていたのです。
昔のソ連のスターリンも知っていたのです。なにせ彼は若いころ神学生だったのです。そして聖書よりも共産主義が人々を救うと信じて転向したのです。
ですから共産主義はキリスト教の裏返しだと言われています。
このように欧米の文化や政治や社会現象の下敷きに、キリスト教があるのです。無意識のうちに欧米人はその影響を受けているのです。
それは我々日本人が仏教の影響を無意識のうちに受けているのと同様です。カトリックの私も仏教の影響を深く受け、仏教が好きです。

今日は復活祭です。これから教会の復活祭のミサに行きます。
皆様も気軽に教会に行って復活祭のミサを見てみるのも良いと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

アメリカが北朝鮮を先制攻撃したら日本はどうなるか?

2017年04月15日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカの世界最強の軍事力を国際外交に積極的に利用するのがトランプ政権の特徴と考えられます。この特徴は前のオバマ大統領のレベラルな外交政策とはきわだって対照的な性質を持っています。
シリアの政府軍基地へ巡航ミサイル、トマホークを59発打ち込みました。アメリカ単独の決断で攻撃したのです。
アフガニスタンの過激派の拠点に、今迄使用したことの無い強力な爆弾を落としました。重量10トンの爆弾で「爆弾の母」という名前です。
そして朝鮮半島に近い海域に航空母艦艦隊を派遣し北朝鮮に軍事的圧力をかけています。
航空母艦間隊は駆逐艦2隻、ミサイル艦数隻、原子力潜水艦、補給艦などによって編成された強大な打撃力を有する一大戦力であります。
その上、トランプ大統領は中國が北朝鮮の核兵器開発を止めることが出来なかったら北朝鮮へ先制攻撃をかける可能性を暗示しています。
この暗示が単なる暗示で済めば日本がそれほど心配する必要がありません。
しかしアメリカは度々軍事力使用の可能性を公言しています。
そこで今日はこの問題の日本に及ぼす影響について考えて見たいと思います。

(1)アメリカは北朝鮮へ先制攻撃をかけるか?

アメリカは北朝鮮の核兵器開発拠点と長距離ミサイル発射基地を徹底的に破壊したいのです。
北朝鮮が反撃しない限り、派遣した航空母艦隊からの地上攻撃型ミサイルで核兵器開発拠点と長距離ミサイル発射基地を破壊することは充分可能かも知れません。
しかしアメリカがこのような先制攻撃をしたなら北朝鮮は短距離艦隊攻撃ミサイルや戦闘機で、アメリカの航空母艦艦隊を攻撃するのは必然です。
さらに韓国の米軍基地や日本の米軍基地は北朝鮮のミサイル攻撃の可能性に準備しなければなりません。
そして、北朝鮮は「アメリカの先制攻撃」を理由にして韓国を侵略し、一挙に朝鮮半島を制圧し、悲願であった朝鮮半島の統一を実行する可能性も考えておく必要があります。
このシナリオは現在の彼我の軍事力を比較すれば不可能なシナリオです。しかし北朝鮮は狂気なのです。そのことを考えると昔の朝鮮動乱のようになる可能性があります。
アメリカはこのことを充分知っている筈ですから、うかつに先制攻撃はしないでしょう。
しかし北朝鮮が挑発的に日本海向けに打ち上げるミサイルを迎撃して撃ち落とす迎撃用ミサイルを航空母艦艦隊の駆逐艦から発射する可能性はあります。公海上のミサイル同士の戦いですから、それ以上の戦争に発展しないかも分かりません。

(2)中国に北朝鮮の核兵器開発を止めさせること期待するのは大間違い
中国にとって、その弟分のような北朝鮮が核兵器を開発しアメリカの脅威になることは中国の立場を強くさせます。
北朝鮮が中国の弟である限り中国にとって北朝鮮の核兵器保有は望ましいことと考えるのが自然な考え方です。
ですからアメリカがいくら中国へ北朝鮮の核兵器開発を止めて下さいと頼んでも無駄です。
中国が外交的礼儀上、「協力します。北朝鮮は核開発を放棄すべきです」と言います。
しかし本音は全く逆です。
それが証拠には、中国から北朝鮮へのパイプラインでの原油供給を止めないことです。
貿易を続行し北朝鮮の経済発展へ貢献しているのです。最近、平城の高層ビル街の竣工式典を盛大に行ったことは北朝鮮の経済発展の一つの証拠です。
日本人にも中国が北朝鮮の核開発を止めてくれると期待している人がいるようです。
それは現実的には無理な相談なのです。

(3)日本は今後、北朝鮮とどのように対峙すべきか?
以上のような状況を考えると北朝鮮は必ず核弾頭を装備した長距離ミサイルを戦力として数十発配備するでしょう。ですからその気になればその核ミサイルで日本全国を攻撃し、破壊することは可能なのです。
このような将来には日本はどうすれば良いのでしょうか?
誰も正解が出せない難しい問題です。
しかし2つのことだけは、すぐに重要だと考えられます。
1)軍事的にはアメリカとの同盟をもっと強化し、北朝鮮の軍事的攻撃の意志を弱める。
2)中国との外交に努力し、北朝鮮の狂気が自分達にとっても危険な考え方だと理解させるようにする。
このうように書いてみると1)は可能なようですが、2)は至極困難なことは明白です。
ですから今日は正解の無い問題提起をしています。正解は無いのですが日本の将来にとって非常に重要な問題だと信じています。
皆様からいろいろなご意見を頂けたら嬉しく存じます。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日撮って来た新緑の武蔵野の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









やはり日本の学校教育には問題がある

2017年04月13日 | 日記・エッセイ・コラム
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回もフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。
この連載の前回の13回目の記事は2月27日に掲載しましたので随分と間があいています。お忘れになった方々も多いと思い、末尾の「参考資料」として前回の記事を再録いたしました。
この前回の記事では問題児だった息子を飛び級させたフランスの温かい個人尊重の学校教育の話でした。
ところが帰国し、息子を日本の学校に転校させたら悲劇が起きてしまったのです。

日本の学校では個性無視の協調性強要の集団教育が行われていたのです。息子は挫折します。そしてその挫折を一生背負って歩くことになります。
しかしその長い暗いトンネルを母子ともに抜けて明るい世界に出たのです。達観の世界を静かに生きています。
こんな経験をした母親のEsu Keiさんは誰をも非難していません。日本の学校教育が間違っているとも言っていません。完全な教育などどこの国にも存在しないと言っています。自分と息子は全てを運命と思い静かな幸せをあじわっているのです。
今日の表題の「やはり日本の学校教育には問題がある」は私が勝手につけた題です。Esu Keiさんがつけた表題ではありません。

この14回目の文章をもって「パリの寸描、その哀歓」という連載を完結します。

今日の挿し絵代わりの写真は琳派の尾形光琳の燕子花図です。いかにも日本的な整然とした画と思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===「パリの寸描、その哀歓(14)外国人クラスの問題児のその後」Esu Kei著====
「外国人クラスの問題児」という拙文について、いろいろな方が読んでくださって感想をくださった。私は当時日本の教育と比較して考えるということをしなかったし、息子達が初等教育を日本で始めなかったということがどう影響するかについても特に考えたことがなかった。私達は鈍感だったのかもしれない。日本とヨーロッパの文化の違いを感じていたのにもかかわらず… 約35年たった今、日本の教育についても書いておくことにした

 私達家族は長男がフランスの小学校の最終学年の5年生、次男が幼稚園の最後の年の秋にドイツのハンブルクに引っ越すことになった。子どもたちが一貫した言葉の文化を持つようにと考えて、ドイツの現地校に入れずに、2年前にできたばかりだという日本人学校に入れることにした。フランスにいるときには日本人学校が遠いということ、外国語がまだ一つだけだったということで、近くの学校を選んだのだが、ドイツに移っていくつもの言葉があやふやに入ることは、将来何か影響がありそうだと判断したのだ。次の大きな転機は日本への帰国であった。長男は中学の入学時期になり、多感な年頃での転校の難しさも考えて、急遽帰国することになった。小学校3年になる次男と私と3人は夫をドイツに置いて日本に帰ることにしたのだ。
長男は集団には馴染みにくい質で、日本人学校に入ってから、苛められているようだったので、少しでも馴染むための配慮をしたつもりだった。けれども日本の学校に入るということは大きな逆カルチャーショックであった。私達には日本が外国以上に外国に思えた。当時、画一教育という言葉をよく聞いたものだが、協調性をもっとも重要視する教育だった。
日本ではまず、協調が先にある。日本でいう“協調性”は私には同調性のように思えた。日本とフランスの違いははっきりしていた。それはお国柄と言えるものだと思う。日本ではまず、協調が先にある。フランスではまず“個”が先なのだと言える。だからと言ってフランスで協調性が軽んじられているわけでもない。「Fais comme les autres!」(他の人と同じようにしなさい)は大抵のお母さんの口癖だ。フランスで日本人の子どもの印象を聞くと、よくdiscipline(統制のとれた、規律正しい)という言葉が返ってきた。よく言いつけを守る良い子というほどの意味で日常的に使われる。日本の子ども達の平均的な教育水準も高い方だと思う。それは良いことなのだが、皆がそろって同じ方向を向いているという日本流の教育環境は少なくとも長男には合っていないようだった。中学の3年間、全体からどうしてもはみ出してしまう長男はいじめられ続け(当時は苛める子には問題はなく、苛められる側に問題があるというのが学校の見解だった)、自由な校風を自ら選んで入った高校でも、人間関係を築くことはできないようだった。ずっと後になってそれは障害と呼ばれる長男の資質のためだと分かったが、高校を卒業するまでに、長男はすっかり意欲を失い、自分の進路について考えることさえ止めてしまった。長男がこの暗い時期の問題から抜け出るには長い長い時間が必要だったが、ある日「自分が苛められ続けたことも、ずっとくよくよめげていたことも自分にとってすべて必要な経験であった」と言った。私も長い間自責にも苦しみ、親として責められ続けもし、自滅しそうだった。悩む息子を助けるために何一つできなかったが、ある時それを詫びた私に、彼は「大丈夫、完全な親なんてどこにもいないよ」と笑った。私達は長いトンネルから出たようであった。私達には魂の救い手ともいえる人達がついていてくれたのだ。黙って見守ってくれる人達だった。

今になってみると、何もかも、誰にとっても、すべては運命なのだという気がしてならない。少年期に学校で過ごす時間の長さと、学校の力を考えると、その影響の大きさは怖いほどのものだ。教職にある人達はそれを考えてほしいと思う。ただ、学校でうまく行かなかったからと言って絶望することはないと思う。どこでどんな道が開くかは分からないのだから。私の経験と、見聞きした範囲では、息子の言い方の受け売りになるが、完全な学校や教育制度など、どの世界にもないだろう。どの学校にも良いところも悪いところもあり、良い先生に出会うかどうかも含めてやはり運命という言葉が浮かんでくる。世の中の子どもたちが運命を良く生きる力を持っていることが一番大事な気がする。その力を人生のごく初めに植えつけえるのは親なのではないか。私のような未熟なものが親であったことは今思い返しても怖くなる。そしてこんなに未熟な者でも母親という役目を与えられたことは何よりの幸せだ。(完結)

===参考資料;前回の文章======================
「パリの寸描、その哀歓(13)外国人クラスの問題児」Esu Kei著

外国人クラスには13人の新入生が入ると聞いた。国籍は様々で、ベトナム、マルチニック、マリ、中国、ポルトガル、ドイツや他の国からきて、初めて学校に入る子ども達である。驚いたことに6歳から12歳という年齢だという。12歳と言うと普通に行けば中等学校に行っている年齢なのに、小学校で学ぶのだという。担任のアリワット先生は30代の後半くらいに見える。美しく、理知的で、優しそうな、信頼できる先生だ。それにしてもそれぞれの年齢に合わせて13人もの子供を一年で普通クラスにはいれるように指導するのはさぞ大変なことだろう。クリスマス休みの前にはいろいろなことが分かってきた。びっくりしたことに、このクラスで一番の問題児はどうやら我が息子のようだ。
ある朝、息子を学校に送って行く途中で先生に出会ったときに、呼び止められてこう言われた。「サトルはちょっと難しいところがあります。彼がとても理解の良いことは分かっているのですが…文化の違いなのか、彼の性格なのか?今日、帰りにちょっとお母さんとお話しできますか?」これは困った。幼稚園の時は楽しそうに見えたのに...どういうことなのだろう。何か対策を立てなければいけないだろうか?昼食に帰ってきた夫に話すと、「時間がたてば慣れるよ」と簡単に言う。
夕方迎えに行くと、コンシエルジュが「マダム・エスは教室に上がってください。」というので、2階に上がっていった。アリワット先生が待っていてすぐに話し始めた。「ちょっと適応の問題があるのです。サトルはどうやら一人でいるのが好きなようなのです。(私たちが話している間彼は中庭で一人で遊んでいる。)昼休みの後教室に入るのを渋ったり、教室でも、分かっていても指名されると答えないのです。このクラスは国籍も年齢もちがう子ども達が13人ですから、時間がいくらあっても足りません。正直に言えばサトル一人にあまり時間を取られると、ほかの生徒に教える時間が足りなくなるのです。」私は自分の躾の至らなさを思い知らされた。「それで、私は彼が中庭で遊んでいたい時は無理に教室に入れないことにしました。暫くすると彼は教室に帰ってきます。教室でも他の生徒の邪魔をすることはなく、消しゴムや、筆箱で遊んでいます。不思議なことに勉強が遅れているようには見えません。」「私も今日お話を聞いて困惑しています。彼にどう話せばいいのか...」「彼は自由を愛しているのかもしれません。それで、私から2つの提案をします。明日から、彼に絵を描く紙と、色鉛筆かなにかを持たせてください。それから、算数は2年生のワークブックをお母さんに渡しておきます。宿題ではないので無理強いはしないで、彼の気が向けばお家で勉強するのもいいと思います。慣れるのに時間がかかっているだけかもしれないので、しばらく様子を見ましょう。子どもを幼稚園に迎えに行かなければならないので、これで...」と私に算数のワークブックを渡して、先生はあっさりと帰って行かれた。
我が子が問題児らしいことは分かった。ちょっとしたショックである。家では4歳違いの次男の方に注意が向いていて、あまり深く考えることがなかった。それに数年すれば日本に帰るので、学校の勉強のことに重きを置いたことがなかった。日本語を大切にということに気を使っている。毎晩本を読んでやるということが我が家での勉強だった。長男は確かにひとりで遊んでいるのが好きで、誰にも邪魔されなければそれが一番いいように見えた。学校でもそうしたいのだろうか。幼稚園の先生からは何も問題がないように聞いていたが、遊びが主な活動だったからなのだろうか。
翌日から彼はスケッチブックとクレヨンをもって登校するようになった。驚いたことに一日で一冊のスケッチブックを使い切ってしまう。ヨーロッパでは文房具や、紙類は大変値段が高い。こんなことが続くのだろうかと思っていたら、間もなく先生から「スケッチブックはもったいないので、何でもいいのです。ご両親が使う紙の裏とか、なにかあるでしょう?」と言われ、夫の使う紙の裏を使わせることにした。彼は絵を描いていていいと言われると一日中でも描いているらしい。ノートには一応フランス語が書いてあるから多少の勉強はしてはいるのだろう。一度だけ、しっかりノートに字を書いてきたことがあった。それは学校で先生がケーキを焼いてくださったときに、その作り方を日本語で書いたのだった。彼は日本語の読み書きは、5歳を過ぎた頃からできていたから、そのくらいのことはできるようだった。フランス語で書き取ることは難しかったのだろう。先生は、外国人クラスの子ども達が、語学の遅れから学校生活を楽しめなくなることがあってはならないと、時々給食室の隣のキッチンでお菓子を作って楽しませてくださっているようだった。素晴らしい先生だ。
長男は学校は好きなのだと思う。家の近くの公園でよく出会うクラスの子どもたちもいつも親しげに話しかけてくる。屈託なく、無邪気な仲間と言う感じだ。それでも彼はクラスに馴染めないのだろうか。
 算数のワークブックはどうなったか? 彼には2年生用ので良いと先生は言われる。無理強いすることはありませんとも。1学年が終われば2年生になるのだから、その時にやってもいいわけである、と私は解釈した。色刷りのきれいな数十頁のワークブックである。計算、文章問題、n進法の基礎、などである。フランスでは算数だけは国で進度が厳密に決められているそうで、他は先生の自由裁量に任される部分が多いと聞いている。家で見ていると、やはり文章で書かれた応用問題は単語の知識がないために時々分からないようだ。n進法は十進法と同じように息子にとっては苦にならないらしい。一週間もすると飽きたらしく算数はもういいという。応用問題のためばかりでなく、フランス語の単語を覚えるコツとして、想像力を使うと派生語の意味が分かるようになる(単語の親戚を探すという言葉を使って教えた) と教えた。どうなることやらと思っていたところ、 3学期の後半になって、先生に言われて週に何回か算数の時間だけ2年生の教室に行くようになったという。
 
 こうして1学年が終わり、進級審査のテストがあり、外国人クラスの生徒たちは新学期にどの学年に入るのがふさわしいかを決める。この審査は担任教師がするのではなく、市の視学官が担当する。アリワット先生は彼が飛び級することも考えて2年生のワークブックをくださったのだとこの時知った。結局数ページ勉強しただけで終わってしまったが…ところが進級審査の結果は先生の予想を超えて、4年生相当というものだった。アリワット先生は、4年生でなく3年生にと担任としての意見を視学官に伝えたと話してくださった。フランス語が母国語でない場合は、年齢が進むにしたがって言語能力は差が出てくるので2年の飛び級はしない方がよいと判断されたとのことだった。「あなたやご主人のお考えはどうでしょうか? 4年生に飛ぶことをご希望でしたら話を戻して、視学官に異議申し立てをできます。」もちろん私達に異論はない。日本に帰れば年齢相当のクラスに戻るのだからフランスでの飛び級は意味があるとは思えない。フランスにいる間の学校生活が息子にとって楽しいものであることが大事なのだ。それにしてもアリワット先生は考えの深い方だった。外国人クラスで一番の問題児に手を焼いていると言っておられたのに、教室では絵を描いているだけのお客様だった息子の力をきちんと見ていてくださったのだ。感謝あるのみ。(続く)

甲斐駒岳の麓の山里に花々と遊ぶ

2017年04月12日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は甲斐駒岳の麓の山里で花々と遊んで来ました。そこで今日は皆様へ花の写真をお送りしたいと思います。
麓の山里は昔、武川村と呼ばれていた場所です。現在は北杜市武川町になっています。
さて、まずこの旧武川村の写真をご覧下さい。

1番目の写真は甲斐駒岳と麓を流れる大武川の写真です。写真の中央に鉄橋のように見える橋がありますが、それが甲州街道です。
橋の上の方に広がる黒い森の向こう側に台地が広がり、旧武川村になっています。
そこには有名な神代桜のある山高集落と見事な桜並木がある真原集落があり観光バスが何台も来る所です。私の山小屋は真原の桜並木の西、約1Kmの山林の中にあります。この武川村の標高の低い地区は柳沢地区で水田地帯になっています。そこは昔から『武川米』の産地として有名な稲作地でした。
昨日はこの旧武川村の神代桜と真原の桜並木を見に行ったのです。毎年、東京の桜が散る頃に山里の桜が咲くのです。
しかし今年の山里は寒く、サクラが咲いていませんでした。そこで昨日撮ってきたいろいろな花の写真をお送りします。

2番目の写真は山林の中に住んでいる木内さんの山荘の庭に咲いている可憐なカタクリの花です。このように咲くまで8年もかかる貴重な花です。昔の人はこのカタクリの根から片栗粉をとったのです。

3番目の写真は真原の桜並木のかたわらに咲いていた紅白の梅とスイセンです。この場所から残雪に輝く甲斐駒岳が美しく見えるので毎年来る所です。

4番目の写真は同じ場所に咲いていた白梅です。この辺は標高が約800mの高原なので東京では散ってしまった梅が満開なのです。

5番目の写真は紅白の梅の根元にあるスイセンの花です。

6番目の写真は珍しい八重の白梅です。この場所に来ると毎年同じ様に紅白の八重の梅が咲き、根元にはスイセンの群落が楽しめる場所です。年々歳歳花相似たり、人同じからずと口ずさんでいます。

7番目の写真は桃の花です。帰り道に一宮で撮りました。標高の低い甲府盆地ではもう桃の花が咲いていたので驚きです。

8番目の写真も一宮でとったピンク色の桜です。甲府盆地のあちこちでは桜が満開でした。しかし旧武川村の標高の高い山里は梅やスイセンの季節だったのです。

こうのようにして梅桃桜を同時に楽しめたのは山国のお陰です。山々に感謝すべきです。
私は若い時から何故か森が好きでした。昨日も新芽の出ている雑木林を見て、すがすがしい気分になりました。
そこでジプシーの詩人、パプ-シャの『森の歌」という詩を最後にお送りします。

「森の歌」
ああ、私の森よ!
広大な大地の上の森。
私はおまえたちをなにものとも交換しないー
黄金とも、
宝石とも、
そう、キラキラと美しく光り
人々を魅了する
宝石とも。
 
私の岩山、
水辺にある私の石は
輝ききらめく
宝石よりもいとおしい。
 
私の森では夜になると
月の下で
たき火が燃え、
人々の指を飾る
宝石のように光がきらめく。
 
ああ、大好きな森、
健康の匂いがする森!
おまえたちはジプシーの子らを育てた、
まるで自らの灌木のように!
 
風は葉を揺するように心を揺すり、
なにものをも恐れない。
子供たちは歌う、
渇いていても、飢えていても
跳ねて踊る、
なぜなら森が彼らにそう教えたから。

(パプーシャ(本名プロニスワヴァ・ヴァイス)の詩、http://blog.goo.ne.jp/lesanges444/e/22b6a11aa3790c952a48e98424816d3b )

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:パプーシャの詩集========
http://eiga.com/news/20150321/2/
[映画.com ニュース] 201412月に急逝したポーランドの名匠クシシュトフ・クラウゼ監督の最新作「パプーシャの黒い瞳」の主人公として描かれる、史上初のジプシー女性詩人ブロニスワバ・バイスの詩集「パプーシャ その詩の世界」が、4月4日に発売される。
映画はクラウゼ監督の妻ヨアンナ・コスとの共同監督作で、ポーランドを旅するジプシーの一族に生まれ、“パプーシャ”の愛称で呼ばれたブロニスワバ・バイスの波乱の生涯と、激動のポーランド現代史を美しいモノクローム映像でつむぎ出す。
パプーシャの詩を初めて本格的に紹介する詩集の発売は今回が初。パプーシャが最も活発に詩を書いた1950年代の代表作を中心に、70年代にわずかに書かれた後期の傑作まで、貴重な詩の数々を紹介。また、パプーシャの詩の解説としても価値の高いフィツォフスキの著書「ポーランドにおけるジプシー」(1989)からの一章「ジプシー民族の口承文学とジプシーの詩人パプーシャ」の初邦訳、映画の場面写真なども収録される。
日本を代表する詩人の谷川俊太郎氏はパプーシャが描く生き生きとした詩のイメージに対し「金銭や地位や物欲とかかわりのない森や川や空から、パプーシャは生きる力を得ている。自然を失いつつある現代の私たちにとって、60余年前に発せられたパプーシャの言葉は、古くなっているどころか驚くほど新鮮に響きます」と称賛のコメントを寄せている。
詩集「パプーシャ その詩の世界」は1000円(税込み)ムヴィオラより4月4日発売。「パプーシャの黒い瞳」は2015年4月4日から岩波ホールほか全国順次公開。

小金井の桜の歴史と川崎平右衛門ものがたり

2017年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム
小金井桜は江戸時代の1737年(元文2年)に川崎平右衛門が幕命によって植えられたものが始まりです。
植えられた場所は小金井村の小金井橋を中心に玉川上水の両岸6㌔だったのです。山桜約2000本を植えたそうです。
その玉川上水に沿って現在は五日市街道という自動車道路があり、そこを車で走ると玉川上水の両岸に咲いている桜を車窓から楽しむことが出来ます。
しかしその場所は自動車の排気ガスでとてもゆっくり花見の宴など出来る場所ではありません。そこで上水の小金井橋の北側の都立小金井公園に桜を沢山植えて現在はそこを小金井桜の名所と言っています。
その写真を下の1番目と2番目に示します。この2枚は昨日撮ったものです。



さて幕命によって植えられたものなので、当然、江戸幕府は江戸の武士や町人が桜見物に行くように奨励します。
当時の江戸の人は新宿から甲州街道や五日街道を一日歩いて小金井村の桜を見物しました。そして帰りは小金井街道を南に歩き府中に出て甲州街道の府中宿に泊まった人も多かったようです。府中に泊まると、翌日は多摩川を舟で下って江戸への入り口の六郷橋で下船します。そこから品川を通って江戸に帰ったのです。勿論、船に乗らずに府中から甲州街道を歩いて新宿に帰る人もいました。

このように小金井桜は江戸の人々の遊覧の名所になっていたので、現在の観光案内書のようなものも売られていました。
当然、浮世絵師も小金井桜の絵を描き、版元が盛んに売っていたそうです。

3番目の写真は広重の小金井橋夕照という浮世です。

4番目の写真も同じく広重の玉川上水と桜を描いた浮世絵です。

何故、江戸から20Kmも離れた小金井村に桜を植えたのでしょうか?
それはその頃、幕府は川崎平右衛門に命じて小金井村から北西の武蔵野を広範に切り開き新田開発に大きな成果を上げていたのです。
その新田開発を宣伝し、幕府の善政を知ってもらおうとしたのです。
こうして小金井の桜は江戸時代から関東随一の桜の名所として知られるようになったのです。
嘉永年間には田無村名主・下田半兵衛によって大規模な補植が行われ、明治16年(1883) には明治天皇が訪れ、その記念樹である 「行幸松」が玉川上水沿いの海岸寺の山門前にあります。
そして桜の研究者として知られる三好学博士は小金井桜を調べ、36品種と亜種3品種による山桜大集植地として報告したのです。その結果「天然品種の植物群落」と評価され、大正13年(1924)に国の名勝に指定されたのです。

このように小金井桜の生みの親は川崎平右衛門です。
そこで彼の物語をご紹介したいと思います。
川崎平右衛門は現在の東京都府中市にあった押立村の名主の家の長男として、元禄7年(1694年)生まれ明和4年(1767年)に亡くなりました。川崎 定孝とも言います。
江戸時代の農村開発で活躍し、抜擢され江戸幕府の旗本となった人物です。
全国の各地で農村開発に大きな功績を残した二宮尊徳は全国的に有名で、小学校に銅像もあるので皆様もよくご存知のことと思います。
川崎平右衛門はそれほど有名ではありませんが、武蔵野地方で新田を広く開発し農村の繫栄をもたらした人物として地方的には知られた人です。
5番目の写真は府中市郷土の森博物館公園にある平右衛門の銅像です。

彼が現在でも尊敬されている理由は、私財を投じて武蔵野新田の窮民の救済を行ったことです。
そして押立村を含む多摩川の40キロに渡る治水工事を幕命で担当し、凶作時の農民を救済します。さらに生活を安定させる井戸掘り公共事業を普及させたのです。
私財を投じて六所宮(大國魂神社)の随神門修理などを行い、幕府内でもその人格が尊敬されていたのです。

その結果、平右衛門は宝暦4年(1754年)に美濃国の代官となります。そこでも新田開発や治水に貢献しました。更に明和4年(1767年)に勘定吟味役に昇進し、石見国の銀山の奉行を兼役します。そして同年6月6日に逝去します。享年74。故郷の押立村にある龍光寺(竜光寺)に葬られました。

農村の実情を熟知した平右衛門の打ち出した政策は、農民たちに深く感謝されています。
文化年中に武蔵野新田82ヵ村の農民が榎戸新田(国分寺市北町)に謝恩塔を建立し、美濃国にも彼の遺業を称える石碑(岐阜県本巣郡穂積町牛牧の興福寺)や神社(野田新田、川崎神社)が残されているのがその証です。

現在、花見客で賑わっている小金井公園の中にある「江戸東京たてもの園」では『川崎平右衛門展』が2017年2月7日から 2017年5月7日まで開催されています。この展示会を見ると、江戸時代の彼の農政や活動を詳細に記録した文書が実に多数展示してありました。

日本の歴史を振り返ると天皇や幕府の権力者のことが詳しく書いた本が多いのですが、川崎平右衛門のような農村振興に尽力した人の記録が無いのが残念です。地味な仕事に情熱を注ぎ一生を捧げた人のことを学校でもっと熱心に教えるべきではないでしょうか?
二宮尊徳の銅像を飾るだけでなく、「彼は何をした人物なのか?」を丁寧に教えるべきではないでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「今朝の小金井公園、満開のサクラの写真」

2017年04月10日 | 写真
「今朝の小金井公園、満開のサクラの写真」こ数日、雨の日が続きましたが、今朝やっと陽射しが見えました。
早速小金井公園に行きました。そこには満開のサクラが豪華に咲いていました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









重大な政治問題になっている各国の移民人口と日本の特殊性

2017年04月09日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ大統領はメキシコからの不法移民を非難し国境に壁を作ろうとしています。イギリスは移民が自由に自国に移住するのを嫌ってヨーロッパ連合から離脱しました。フランスでは移民を非難する極右政党のペロン党首が大統領選で人気第一だそうです。ドイツのメルケル首相だけが孤軍奮闘で移民を受け入れようとしています。しかしヨーロッパの各国は移民を排斥しようとする極右政党が勢力を伸ばしています。
現在の世界各国の移民問題はシリアなどの中東からの大量の難民問題に重なって非常に重大な政治問題になっています。
そこで今日は現在欧米諸国の移民人口を考えて見ようと思います。
まず1番目の写真をご覧下さい。
 
この図面の出典は、「図録 主要国の移民人口比率の推移」http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1171.html です。

この図面を見ると、驚くことに、2014年の欧米各国の人口の約13%位は移民なのです。厳密にはイタリアとデンマークは9%くらいです。スペイン、イタリアなど高失業率の国は横ばいあるいは低下傾向です。
この各国の移民人口はスぺイン以外の各国で年々増加しています。そしてスウェーデンやノルウエーでは急増し、それぞれ17%と15%に迫っているのです。

これに対して日本の移民人口は2009年に1.7%となっています。この数字は外国人登録をしている2009年末の人数、219万人から産出した数値です。
一方、国立社会保障・人口問題研究所の人口移動調査によれば外国生まれの人口比率は1.1%と2011年に報告している。
いずれにしても日本の移民人口比率がいかに欧米諸国と比較して低いかが明快に分かります。
これを日本の特殊性と考えることが出来ます。
日本の移民人口が少ないのは幸運なことです。そのお陰ででは移民問題が政治問題にならないのです。
しかしその一方で日本人は欧米各国の移民問題がもたらす社会不安や政治問題の理解が不足になります。欧米諸国の苦悩を理解しないと日本は国際的に孤立する傾向になります。ですから移民問題をもっと深く考える必要があると私は考えています。

そこで「移民についての欧米の世論」を、http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1171.html から抜粋いたします。
2番目の図面は「移民は重荷」と思っている各国の2014年の調査結果です。
この「移民は重荷」のグラフによるとイタリアやギリシャといった南欧で「重荷」感が強く、英国、ドイツではそれほどではない。ただし、各国の右派と左派では感覚にかなり大きな違いがあることも分かります。

 またドイツマーシャルファンドの意識調査結果が参考になるのでこれからさらに3番目と4番目の2つ図面を示します。


 まず3番目の図面では、「移民が多すぎるかどうか?」について、調査対象者を2つに分けて、この図録で紹介した各国の移民比率に関するOECDの推計数字を示した後に訊ねた場合と、示さずに訊ねた場合とでどのくらいの差が出るかを調べた結果を示しました。


 興味深いことに、だいたいどの国民も、数字を示されると、その実数の少ないことに驚いているのです。
つまり、実際の数字以上に移民が多いと各国の国民は感じているのだということが分かります。
この意識上の誤解が移民問題を重大な政治問題にしているのです。
日本の我々にとっては、移民人口が10%以上という数字自体に非常に多いという印象を持ちます。しかし驚くことに欧米各国では移民人口を実数よりも多いと信じられているのです。

4番目の図面は移民を問題視する国民の割合をしめした図面です。フランスでは上昇する一方であるのに対して、ドイツや米国では少なくとも2013年の段階では以前より少なくなっていることが分かります。
2008年から2013年まで各国の移民比率は増加しています。しかし問題視している割合が増加しなのは社会問題化していないからです。政策課題の処理がうまくいっているからでしょう。
このように問題視するかどうかは国民感情とも連動して変動するもののようです。
その一方で、2014年から15年にかけてイスラム過激派テロなどで中東・北アフリカからの難民が増えている現在の状況では、再度、問題視する比率が上昇している可能性が大きいと考えるのが自然ではないでしょうか?

以上のように今日は欧米の各国における移民問題の不安の増大につい概観的な説明をいたしました。
このような不安感がトランプ大統領を生み、フランスのペロン氏のような極右政治家を生んだのです。ペロン氏はまさか大統領にはならないでしょうが、ロシアのプーチン大統領と会談したりして勢力を増しています。
なにか波高い将来が予想されて困ったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考;移民人口の計算方法=============
 移民人口を統計的にあらわすには、2つの方式がある。すなわち、外国籍人口(外国人人口)を取る場合と外国生まれの人口を取る場合とがある。たとえば、日本におけるフィリピン人人口という場合、フィリピン国籍の外国人を指す場合もあれば、日本に帰化した者も含めてフィリピン出身の者を指す場合もある訳である。言葉の意味からすれば移民人口とは外国出身の人口であるが、日本の国勢調査では、国籍は調査していても出生地を調査していないので、厳密な意味での移民人口は分からない。ただし、日本の場合、日本生まれでも外国籍の在日韓国・朝鮮人、在日中国人がかなりの人数いるので注意が必要である。
欧米では外国生まれの人口を調査しているので、外国生まれという意味での移民人口の推移が得られる。

「ともえさとこ著、『フランスあれこれ』3、著者自身の人種的偏見の反省」

2017年04月09日 | 日記・エッセイ・コラム
フランスは第二次世界大戦の終了までアフリカに広大な植民地を有していました。戦後、それぞれ独立しましたが旧宗主国のフランスは寛大に黒人を受け入れて来ました。ですからフランスには日本よりはるかに多いアフリカ系の黒人が住んでいます。
また一方、昔から流浪の民であるロマ(ジプシー)はあちこちの都会の郊外などに治外法権的な集落を作り犯罪の温床になっています。
フランス人と結婚し、子供さんや孫のいる著者の ともえさとこさんは黒人やロマに対して偏見を持っていたのです。
以下の文章は著者自身の偏見に対する「反省の手記」です。
日本人の我々があまり知らない世界なので興味深いだけでなく、いろいろと考えさせられます。

===ともえさとこ著、『フランスあれこれ』・・・著者自身の人種的偏見の反省」====
(1)息子の学校の黒人の先生に対する偏見、そして反省

自分は人種というのはホモ・サピエンスだけであって、どの国の人にも差別という感情を持って対したことはないと思っている私ではあるが、それでも心の中に無意識に偏見が存在すると認めなければならないとおおいに反省したことが一度ある。

パリの大学を卒業してからは夫と地中海沿岸に近い小さな町に住んでいたが、バブル崩壊で仕事がほとんどなくなったため、家族を残して一人でパリで仕事をすることになった。
しばらくすると次男が中学を2回留年して、もう地中海沿岸の町の学校にはいられず、私のパリのアパートに住み、すぐ近くの学校に転校することになった。

登校拒否とかでは全くないので、中学内の治安の悪さに驚きながらもかなり楽しく新しい中学生活を始めたのだ。
その息子が担任の先生がとてもいい先生なので会いに行ってくれ、と言った。
行って驚いた。出迎えてくれた先生は見上げるような体格のアフリカ出身、漆黒の肌だった。話す言葉にもアフリカの訛りが残っている。
その時、何故その時私が驚いたのか分からない。が、驚いたことは確かである。今でも理解できない。
驚いた理由は、息子は自分の好きな担任の先生が黒人だと言わなかったからか?… そうではない。私の心の中に偏見があったのだ。
私は学校の先生というものはいわゆる「白人」だと信じていたらしい。アフリカ系でなく、アジア系の先生だったとしても驚いたかもしれない。現在に至るまで、この恥ずかしい偏見について反省している。
それはそれとして次男は黒人の素晴らしい担任の理解と協力のおかげで無事に中学を卒業できたのだった。

ここで微笑ましいエピソードをご紹介する。私の夫は純粋なフランス人だ。その夫の友人にフランス人の父親とアフリカ人の母親から生まれた兄弟がいる。
この3人兄弟は時々「ボク、あの先生だ~い好き。先週食べたけど、とっても美味しかったなあ。」と、アフリカのアクセントを真似て冗談を言っては皆を笑わせていた。
「鏡の前に黒い人間が立ってたんで、誰かと思ったらボクだったよ。」とも真剣に言ったりして皆を笑わせていた。
この子達は肌の色を全く気にしていない人なのだ。それに引き換え、私は息子の先生の肌が黒いからって驚いたのだ。恥ずかしい。。

(2)私のロマ(ジプシー)に対する警戒心と言い訳
私にはロマ(ジプシー)への警戒心がある。自分でも認めたくないが認めざるを得ない。
若いころ、ルーヴル美術館前で日本人観光客を黙って写真を撮って、それを法外な値段で売りつけようとしているジプシーを追い払ったことが最初の思い出だ。
それ以後、特にジプシーの子供たちのスリ現場は何回となく見たし、追っかけて捕まえても、仲間に獲物はとっくに渡しているので掏られたものは取り戻せないことがほとんどだった。
私自身も地下鉄の中で財布を掏られたことがある。

パリで長いこと病気の治療を受けていた夫の病気が直ったので以前の家に戻った。その家は南フランスの地中海沿岸にある。地中海沿岸はジプシー(ロマ)が多い地方である。
以前の家に戻ってきてから、自宅の敷地に数ヶ月おきに盗みが入る。まあ、うちは塀や囲いがないので仕方ないと言えば仕方ないのだが、こう頻繁に来られると幾ら「寛容」な我々でも頭に来る。
最近はいろいろな品物が盗まれ、ついにはヴィンテージ物の原動付き自転車が盗まれた。何故、犯人がジプシーと決めるのかというと、こういう盗み方はジプシーのやり方だからだ。そして、彼らは盗品を捌くルートを持っていて、探しても出てこないからである。
余りにもこういう盗難が多いので、警察に届けても探してくれない。昨日も警察に届けに行って、調書も取ってもらえなかった。財布を盗まれたからと言うと、きちんと探してくれる日本の警察とは大違いだ。
もちろんジプシーでもきちんと職に就き、盗みなどしない人も多いだろう。
しかし、このようにロマ(ジプシー)はフランスで無数の犯罪を行っている。その犯罪は強盗や殺人のような凶悪な犯罪ではないので警察も本気でとりあってくれない。このような理由で私はロマ(ジプシー)へ警戒心を持ち、彼等を嫌っている。

(3)ロマ(ジプシー)自身の強烈な排他性と他民族の差別が問題の根源
ジプシーは自分達以外の人々を激しく差別するのだ。彼らの差別の仕方は、モロッコやアルジェリアなどの、元フランス植民地であった北アフリカ系の人々より激しい。そして中央や南アフリカ系の人たちよりも人種差別が激しいのだ。
ジプシーは彼らの独自の社会を頑迷に守って、他を疎外している。
ジプシーでない人間はガッジョと呼ぶ。なんとなく日本語で「外人」といったり、ユダヤ系の人たちがユダヤ系でない人を「ゴイ」と呼ぶのにに似ている。つまり、「外の人」という意味において同じなのである。
ガッジョがジプシーの仲間に入るのは、ジプシーがヨーロッパ社会に入るより難しいと思う。
ロマ(ジプシー)自身の強烈な排他性と他民族の差別があるのでフランス人に差別されているのだ。問題の根源は彼等自身にあるのだ。

しかし、自己弁護のようだが、私はジプシーを差別してはいない。店などですれ違ったりすれば、お互いにきちんと挨拶する。ヨーロッパの田舎の特徴かもしれないが、パリのような大都市以外では、店に入るときにはすでに中にいる人たちに挨拶し、出るときにも「さようなら」「楽しい一日を」などと言うのが礼儀なのだ。ジプシーだからといって話すことも拒否しない。しかし警戒はしてしまうのである… これも反省するべきだと思っている。(続く)

今日の挿し絵はジプシーの人口の多い地中海沿いのコートダジュールの浜辺の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





「ともえさとこ著、『フランスあれこれ』2、何故ヴェールを被った女がいけないか?」

2017年04月08日 | 日記・エッセイ・コラム
世界史上はじめての市民革命はフランスで1789年に起きました。前近代的な社会体制を変革して近代的な市民社会を樹立した革命でした。市民の自由と平等をうたった画期的な革命でした。
そのフランスでイスラム教徒の女性が顔を隠すヴェールを被ってはいけないという法規制が出来たのです。
その事がマスコミで報道されると多くの日本人が、えっ!何故?と不審に思いました。
ヴェールを被った女を差別するフランス人の気持ちを日本人が理解出来なかったのです。

今回の ともえさとこ著の文章で何故、ヴェールを禁止したか、その理由が明快に分かります。
フランスは日本と比べものにならない複雑な事情を抱えているのです。
皆様のフランスへの理解が深まれば嬉しく思います。

===「ともえさとこ著、『フランスあれこれ』、2・・・何故ヴェールを被った女がいけないか?」===
夫は外国から移住して来た友人を何人か持っています。彼等のようにフランスの、あるいは住んでいる地域の文化を完全に吸収し溶けこんでいれば問題はなくなると私は信じている。
私がフランスに来た頃はもちろん、1986年あたりまではイスラム教の女性たちでヴェールを被っているのを見ることは少なかった。しかし、1989年に公立の学校にヴェールを被ってくる女生徒たちが問題となった。そもそも、フランスの公立の学校はLAIC、つまり無宗教を基礎にしている。夫の経験では、小学校の先生からは教会で公教要理(キリスト教の宗教教育)を受ける生徒は嫌味を言われた、という。学校の先生と教会が対立することも昔は多かった。スータン(カトリックの司祭の平服)を着た司祭や修道女たちは、共産党員の多かった時代には嫌がらせを受ける場合もあったらしい。また、首から十字架を掛けて学校に行くのも禁じられていた。
そういうところであるから、イスラムのヴェールが禁止されたのは当然である。
この問題が発生してマスコミを騒がせるようになってから、ヴェールを被る女性たちの数は皮肉にも増えて行った。そのあたりからイスラム教徒へ対する態度が変化してきたように思える。
一昨日まで我々と一緒の恰好をしていた洗濯屋のおばさんが急にヴェールを被り、手首まで隠す洋服を着ていたので誰か分からなかったということもあった。これは個人的に相当ショックだった。今では多くのイスラム教の男性は髭を伸ばし、「信心深くなる」と長い衣服をつけ、女性はヴェールを被って町を歩いている。フランスは建前では自由の国だから仕方ないかもしれない。しかし服装で自分の信じている宗教を他の人に押し付けるようにして着ているのはどうも私には理解できない。そして、何故イスラム教の女性はヴェールを被って手足も隠さなければいけないのかも理解できない。彼らは女性は魔物で、男を誘惑するからだと言う。そうコーランに書いてあるからだとも言う。しかし、コーランを読むとそんなことは一切書いていない… コーランでは、女性も男性も慎ましやかな態度を取るように、と言っているだけである。
中にはとても素晴らしくスカーフをアレンジして、どうやったらこう美しく被れるのだろうと聞きたくなる人たちもいるが。

ヨーロッパでも中世はもちろん、近世に至るまで女性は日常にヴェールを被っていた。教会ではヴェールか帽子を被って女性はミサに行っていた。今では帽子さえ被らない。服装が信仰とつながるというのは変な話だ。ヨーロッパ人がもしもヒンズー教を信じ、苦行をしようと思ってサドゥーになったら、真っ裸で町を歩くだろうか?すぐに警察に捕まるか、精神病院に強制的に入れられてしまうだろう。

うちの敷地にキャラバンを置いて住んでいるモロッコからの経済難民がいる。モロッコから出稼ぎに来たのだが、泊る場所もお金もなくて、スクラップできなかった廃車が数台置いてあったのを見て寝泊まりしていたのを、我々がパリにいる間にうちに住んでいた長女が見つけ、どうせだったら小型トラックに泊まれば、と言ったのが始まりだった。長女とは大の仲良しになり、兄妹の誓をしたのだそうで、我々にとっては息子である。その後キャラバンを彼にくれた人がいて、以来そこに住んでいる。夫が電気や水道を彼のところまで引いたので家賃の代わりにと言っていろいろな手伝いをしてくれる貴重な存在である。彼はイスラム教徒ではあるが、うちの町のモスクはイスラム強硬派のモスクだから絶対行かない、祈りもしないと徹底している。4年前にモロッコで結婚して、子供が3人いる今では一年に数回里帰りをする。奥さんには自分がいないときにはお化粧させないというところがイスラムだが、私はよく話しこみに行ってミントティーを御馳走になってくる。とても謙虚で働き者なので、フランス人から仕事を多く貰っている。モスクに行ってイマームに気に入られれば仕事は増えるだろうけれど、そんなことは絶対嫌だという。
彼は彼で、フランスにいても自分なりのモロッコスタイルを守りながら問題なく、差別もされず生活している。そういう人たちも多いのだ。
ところが、娘の会社に新しく入った社員がアルジェリア人で、初日に女社長の握手を「女とは握手しない」と言って断り、即首になった強硬派もいる。

その土地の文化に馴染んで、自分の家では祖国の習慣を守っていればそれでいいのではないかと思う。自分の信仰や考え方を人に押し付けるような態度は私には感心できない。

しかし、救いに思われるのは、「自分は北アフリカ人(フランスではアラブ人と一括して呼んでしまっている)が大嫌いだ」というフランス人たちにも必ず数人の親しい「アラブ人」が必ずいる。ユダヤ人が大嫌い、という人も親しい友人や掛かりつけの医師がユダヤ系だったりもするのである。つまり、・・・人はどう、・・・人はこう、と一まとめにして語ることは不自然なのだと思う次第である。(続く)
==============================
今日の挿し絵代わりの写真はルノアールのムーラン・ド・ラ・ギャレット(1876年 オルセー美術館)です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


人間は悲しみの器・続き

2017年04月07日 | 日記・エッセイ・コラム
桜の咲く頃になると何故か悲しいことを思い出します。

4月4日は「華やかに咲く桜花の向こうに見える淋しい風景」という記事を掲載しました。
そして4月5日には「しみじみとした人生、そして孤独な旅立ち」を掲載しました。

そこで今日は性的マイノリティの野津 一さんの手記の抜粋をお送りいたします。
手記の原文は昨年の9月1日に掲載したものです。
なお野津 一さんは体は男、心は女という性的マイノリティです。
深い内容の手記です。忘れてしまうべきではないと思い、もう一度お送り致します。
====================================
野津 一著、「私のこと、そして皆様のこと 」


(1)京都での初恋の思い出と四面楚歌

24歳の時、ある男性に紹介され、完全に一目惚れ。
それが恋愛に発展し、その関係は日本を離れるまでの6年間続きましたが、あれは、紛れもなく、生涯で唯一の純粋な恋愛でした。
そんなことは、後にも先にもないことでしたので、このこと、今、貴重な宝物として、大切にしています。
ただ、私、どちらかというと「意思のはっきりしない男」。その為、多くのお方に多大のご迷惑をおかけいたしました。
私が恋愛関係にあったお方にもご迷惑をおかけし、お怒りを買いました。
それもこれも、私がいけないのです。
モゴモゴと、嘘ばかり、。
その時、私、20代の後半とあって、縁談が、少なからず舞い込んできました。昭和40年代の日本では、まだそういう風だったのですよ。
「結婚する気ある?」と訊かれて、「エエー」とか、いい加減な返事をするからいけないのですね。
女性には、かけらも性的興味はなかったけれど、「いい家庭を持ちたい」という意味での結婚願望ならありました。
しかし、それは、正しく「本末転倒」というもの。基本的には、その女性が「好き」でなければ、上手く行く筈がありません、。
それやこれやで、図らずも、「あの人は、煮え切らない、訳のわからない男」という不名誉な烙印を押されてしまった私、日本人にとっては、とりわけ重要な「信用」というものを、決定的に失ってしまいました。
そして、多くの人が、私の許から去って行かれたのはこの時です。
事情は分るだけに、何も言うことはできませんでしたが、寂しかった、、。
四面楚歌、、。

(2)失敗を清算して「ヨーロッパ放浪」の旅へ出る
そこで、すべての失敗を清算して、一から出直すために、何も計画を立てない「ヨーロッパ放浪」の旅に出ることにしたのです。
1975年3月30日。
私、30歳。
日本にいた時は、私、大学を出てから、いわゆる定職に就きませんでした。
日本の会社が、何だか軍隊みたいに思えて、嫌だったのです。何しろ、団体生活が苦手だったもので、。
ただ、仕事はしていました。塾の先生をしたり、家業を手伝ったり、。
しかし、前述のように、色んな失敗を重ねていましたので、そんな泥沼から抜け出すために、長い、当てもない旅に出たのです、。

2ヶ月のユーレイルパスを使って、ヨーロッパ各地の主な美術館を見て回るということだけは決めていましたが、その他は、足の向くまま、気の向くまま、、。第一、ガイドブックさえ持っていなかったのですよ。
そのパスが切れた時点で、海路英国に渡り、更に2ヶ月過ごしました。
英国と言っても、ロンドンだけですが、日本にいた時から馴染みがありましたので、すぐに好きになりました。
訪れたところで、好感を持ったのは、他にウイーン、フィレンツェ、そしてハイデルベルグ、、。
パリにも勿論行きましたが、私には、もう一つでした、、。

(3)ロンドンでジャックさんに会い、一緒になる、そして絵描きになる
そして、気に入ったこのロンドンで、到着後間もなく、ジャックさんという英国紳士にお会いしたのです。
ジャックさんは、上品で、大らかな、いかにも英国人といった感じの、とても良い人でした。
ロンドンでは、まあ、そのジャックさんのところに厄介になっていたのですが、いつまでもそんなことをしている訳にはいかないので、一度、日本に帰ることにしました(1年間のオープンチケットを持っている者の強みです)。
そして、8ヶ月後の翌年4月、今度は、ジャックさんを頼って、ロンドンに舞い戻ってきたという訳です。
仕事は、フリーランスの絵描き。因みにジャックさんは画商でしたが、これは単なる偶然に過ぎません。
絵は、日本にいたときからずーっと描いていました。
諦めずに描き続けていますと、その内、展覧会にも通るようになり、少しは拙い絵も売れ始めました。
それでも、生活が苦しいことには変りありません。
その頃は、私のなけなしの収入と、ジャックさんの国民年金とで、糊口を凌いでいたのですが、そんな生活も、1998年5月1日、終焉を見ました。

(4)ジャックさんが亡くなり、自立のために働き出す
ジャックさんが亡くなったのです(その極めて「美しい」死のことは、他のところで認めました)。その時一緒に住んでいた英国南岸のブライトンのホスピスで。私、その時、52歳。
誰の目にも、私、定収入が必要なことは明らかです。
しかし、私、それまでに経験がありません。
調べていると「准看護師」になる方法が分ったのです。無資格の看護師ですね。お手伝いさん。
その3年目に病院から奨学金をもらい(そればかりか、准看護師としての給料も)、3年間、国立精神科病院附属の「看護科」大学に行きました(私、英国では何ら資格がないので、入試も受けました)。
それに入ったとき56歳、もちろん最年長です。そして、卒業したのが、何と59歳。
英国の大学は、看護学科と言えども厳しいので、出るのは簡単ではありませんでした。そして、そういい成績ではないものの、卒業できた時は、さすがに嬉しいでした(日本の大学を出た時より、はるかに、)。
卒業後、すぐにロンドン東部の精神科病院に仕事を見つけ、5年前、66歳で退職するまで、有資格の正看護師として、勤めました。本当は70歳まで行きたかったのですが、ダメだと言われました。
その前の、准看護師としての6年間を含め、実働期間たったの13年。
今は、それからの年金と、あと2つの年金(国民と個人)とで、まずまず生活はできていますから、有り難いものだと思います。
大体、こんなこと、日本では、不可能なのではありませんか。
私の勤めていたのが「国立病院」でしたから、私は国家公務員。それが、結果的に良かったのですね。
精神科の看護師という仕事、私には向いたものだとは思いませんでしたが(患者を肉体的に拘束することなど、私にはできない)、そういう点で、今となっては感謝しています。・・・・

(5)ジャックさんの死後、コリンさんという英国紳士と結婚した
私、コリンさんという良いパートナーを持ち、幸運です。いずれ、我々もそのうちもっと歳を喰い、様々な問題も露呈してくると思いますが、その様な将来のことは、今心配しても始まりません。かつて、ジャックさんが亡くなったら、自分は日本に帰りたくなるに違いないと思っていましたが、現実に、そのことが具現化してみると、少しもそんな風には思いませんでした。その時はその時、それまで、楽しく精一杯生きるだけです。

あまり長くなるので、ここで一応終りにします。
==================================

この手記を書いた野津 一さんとは昨年の10月に東京で長時間お会いしました。
教養のある人格者でした。こんなにも豊かな人間性の持ち主が悲しみの人生をイギリスで送っていることに胸が痛みました。世の理不尽さに怒りさえ感じました。

そして昨年の12月にまた悲劇が起きたのです。結婚していたコリンさんが病気で急死してしまったのです。
野津さんは毎週のように電話をよこし悲しい、淋しいと訴えていました。
最近、やっと電話の声が少し明るくなりました。

『人間は悲しみの器』という言葉は野津さんのような人のことなのでしょうか。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日撮って来た村山貯水池の桜と風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)