桜の咲く頃になると何故か悲しいことを思い出します。
4月4日は「華やかに咲く桜花の向こうに見える淋しい風景」という記事を掲載しました。
そして4月5日には「しみじみとした人生、そして孤独な旅立ち」を掲載しました。
そこで今日は性的マイノリティの野津 一さんの手記の抜粋をお送りいたします。
手記の原文は昨年の9月1日に掲載したものです。
なお野津 一さんは体は男、心は女という性的マイノリティです。
深い内容の手記です。忘れてしまうべきではないと思い、もう一度お送り致します。
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野津 一著、「私のこと、そして皆様のこと 」
(1)京都での初恋の思い出と四面楚歌
24歳の時、ある男性に紹介され、完全に一目惚れ。
それが恋愛に発展し、その関係は日本を離れるまでの6年間続きましたが、あれは、紛れもなく、生涯で唯一の純粋な恋愛でした。
そんなことは、後にも先にもないことでしたので、このこと、今、貴重な宝物として、大切にしています。
ただ、私、どちらかというと「意思のはっきりしない男」。その為、多くのお方に多大のご迷惑をおかけいたしました。
私が恋愛関係にあったお方にもご迷惑をおかけし、お怒りを買いました。
それもこれも、私がいけないのです。
モゴモゴと、嘘ばかり、。
その時、私、20代の後半とあって、縁談が、少なからず舞い込んできました。昭和40年代の日本では、まだそういう風だったのですよ。
「結婚する気ある?」と訊かれて、「エエー」とか、いい加減な返事をするからいけないのですね。
女性には、かけらも性的興味はなかったけれど、「いい家庭を持ちたい」という意味での結婚願望ならありました。
しかし、それは、正しく「本末転倒」というもの。基本的には、その女性が「好き」でなければ、上手く行く筈がありません、。
それやこれやで、図らずも、「あの人は、煮え切らない、訳のわからない男」という不名誉な烙印を押されてしまった私、日本人にとっては、とりわけ重要な「信用」というものを、決定的に失ってしまいました。
そして、多くの人が、私の許から去って行かれたのはこの時です。
事情は分るだけに、何も言うことはできませんでしたが、寂しかった、、。
四面楚歌、、。
(2)失敗を清算して「ヨーロッパ放浪」の旅へ出る
そこで、すべての失敗を清算して、一から出直すために、何も計画を立てない「ヨーロッパ放浪」の旅に出ることにしたのです。
1975年3月30日。
私、30歳。
日本にいた時は、私、大学を出てから、いわゆる定職に就きませんでした。
日本の会社が、何だか軍隊みたいに思えて、嫌だったのです。何しろ、団体生活が苦手だったもので、。
ただ、仕事はしていました。塾の先生をしたり、家業を手伝ったり、。
しかし、前述のように、色んな失敗を重ねていましたので、そんな泥沼から抜け出すために、長い、当てもない旅に出たのです、。
2ヶ月のユーレイルパスを使って、ヨーロッパ各地の主な美術館を見て回るということだけは決めていましたが、その他は、足の向くまま、気の向くまま、、。第一、ガイドブックさえ持っていなかったのですよ。
そのパスが切れた時点で、海路英国に渡り、更に2ヶ月過ごしました。
英国と言っても、ロンドンだけですが、日本にいた時から馴染みがありましたので、すぐに好きになりました。
訪れたところで、好感を持ったのは、他にウイーン、フィレンツェ、そしてハイデルベルグ、、。
パリにも勿論行きましたが、私には、もう一つでした、、。
(3)ロンドンでジャックさんに会い、一緒になる、そして絵描きになる
そして、気に入ったこのロンドンで、到着後間もなく、ジャックさんという英国紳士にお会いしたのです。
ジャックさんは、上品で、大らかな、いかにも英国人といった感じの、とても良い人でした。
ロンドンでは、まあ、そのジャックさんのところに厄介になっていたのですが、いつまでもそんなことをしている訳にはいかないので、一度、日本に帰ることにしました(1年間のオープンチケットを持っている者の強みです)。
そして、8ヶ月後の翌年4月、今度は、ジャックさんを頼って、ロンドンに舞い戻ってきたという訳です。
仕事は、フリーランスの絵描き。因みにジャックさんは画商でしたが、これは単なる偶然に過ぎません。
絵は、日本にいたときからずーっと描いていました。
諦めずに描き続けていますと、その内、展覧会にも通るようになり、少しは拙い絵も売れ始めました。
それでも、生活が苦しいことには変りありません。
その頃は、私のなけなしの収入と、ジャックさんの国民年金とで、糊口を凌いでいたのですが、そんな生活も、1998年5月1日、終焉を見ました。
(4)ジャックさんが亡くなり、自立のために働き出す
ジャックさんが亡くなったのです(その極めて「美しい」死のことは、他のところで認めました)。その時一緒に住んでいた英国南岸のブライトンのホスピスで。私、その時、52歳。
誰の目にも、私、定収入が必要なことは明らかです。
しかし、私、それまでに経験がありません。
調べていると「准看護師」になる方法が分ったのです。無資格の看護師ですね。お手伝いさん。
その3年目に病院から奨学金をもらい(そればかりか、准看護師としての給料も)、3年間、国立精神科病院附属の「看護科」大学に行きました(私、英国では何ら資格がないので、入試も受けました)。
それに入ったとき56歳、もちろん最年長です。そして、卒業したのが、何と59歳。
英国の大学は、看護学科と言えども厳しいので、出るのは簡単ではありませんでした。そして、そういい成績ではないものの、卒業できた時は、さすがに嬉しいでした(日本の大学を出た時より、はるかに、)。
卒業後、すぐにロンドン東部の精神科病院に仕事を見つけ、5年前、66歳で退職するまで、有資格の正看護師として、勤めました。本当は70歳まで行きたかったのですが、ダメだと言われました。
その前の、准看護師としての6年間を含め、実働期間たったの13年。
今は、それからの年金と、あと2つの年金(国民と個人)とで、まずまず生活はできていますから、有り難いものだと思います。
大体、こんなこと、日本では、不可能なのではありませんか。
私の勤めていたのが「国立病院」でしたから、私は国家公務員。それが、結果的に良かったのですね。
精神科の看護師という仕事、私には向いたものだとは思いませんでしたが(患者を肉体的に拘束することなど、私にはできない)、そういう点で、今となっては感謝しています。・・・・
(5)ジャックさんの死後、コリンさんという英国紳士と結婚した
私、コリンさんという良いパートナーを持ち、幸運です。いずれ、我々もそのうちもっと歳を喰い、様々な問題も露呈してくると思いますが、その様な将来のことは、今心配しても始まりません。かつて、ジャックさんが亡くなったら、自分は日本に帰りたくなるに違いないと思っていましたが、現実に、そのことが具現化してみると、少しもそんな風には思いませんでした。その時はその時、それまで、楽しく精一杯生きるだけです。
あまり長くなるので、ここで一応終りにします。
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この手記を書いた野津 一さんとは昨年の10月に東京で長時間お会いしました。
教養のある人格者でした。こんなにも豊かな人間性の持ち主が悲しみの人生をイギリスで送っていることに胸が痛みました。世の理不尽さに怒りさえ感じました。
そして昨年の12月にまた悲劇が起きたのです。結婚していたコリンさんが病気で急死してしまったのです。
野津さんは毎週のように電話をよこし悲しい、淋しいと訴えていました。
最近、やっと電話の声が少し明るくなりました。
『人間は悲しみの器』という言葉は野津さんのような人のことなのでしょうか。
今日の挿し絵代わりの写真は昨日撮って来た村山貯水池の桜と風景です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)