後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「佛教のアジア諸国への展開と日本仏教の将来」

2020年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様お気付きの通リインターネットの発展はいろいろな分野に広がり貴重な情報が瞬時に知ることが出来ます。もう百科事典は必要なくなりました。図書館にも足を運ぶことが無くなりました。しかしインターネット情報は玉石混交です。貴重な情報を選び出す賢明さが要求されます。
例えば、私が使用している貴重な情報源の一つに次のものがあります。
「佛教へのいざない」(http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/30.html )です。
少し長くなりますが内容をご紹介します。
第01回 ブッダの悟りから仏教へ
第02回 原始仏典とは何か
第03回 原始仏典を読む
第04回 原始仏教の様相
第05回 大乗仏教の発生
第06回 龍樹の思想
第07回 大乗仏教の展開
第08回 密教の世界
第09回 インド仏教の滅亡と再興
第10回 ガンダーラ仏教の隆盛
第11回 シルクロードの仏教
第12回 玄奘三蔵の旅
第13回 チベット仏教の形成
第14回 ダライ・ラマの誕生
第15回 中国に伝わった仏教
第16回 中国仏教の広がり
第17回 漢訳仏典を読む
第18回 隋・唐の仏教
第19回 宋代から清代まで
第20回 朝鮮半島への伝来
第21回 朝鮮仏教の展開
第22回 戦後の東アジア仏教
第23回 南伝仏教とは何か
第24回 スリランカの仏教
第25回 タイの仏教
第26回 ミャンマーの仏教
第27回 日本への仏教伝来
第28回 旅する僧侶たち
第29回 南伝仏教との出会い
第30回 日本仏教のゆくえ
以上の内容で分かり易い図表を3枚だけ示します。

1番目の写真は佛教のアジア諸国への展開の様子を示す図面です。日本へは538年に百済から伝承しました。佛教は紀元前6世紀に現在のネパールで釈迦によって作られた世界宗教の一つです。

2番目の写真は紀元前1世紀頃、インドで大乗仏教が発生し紀元1世紀頃にシルクロード諸国や中国などに伝承すたことを示す表です。この表にある「東アジア」とはシルクロード諸国や中国などのことです。

3番目の写真は朝鮮における仏教の展開を示す表です。少し専門的になりますが、「第21回 朝鮮仏教の展開」の一節を転写します。
・・・ 六七六年に朝鮮半島を統一した新羅は、仏教文化を花咲かせた。この時期を代表する者として次の僧侶が注目される。第一に、元暁(六一七~六八六 年)は和諍という教えにより、すべての仏教の宗派を統一する原理を提示しようとした。彼の思想は、中国の華厳思想を大成した法蔵に大きな影響を与えた。・・・

これは朝鮮仏教の奥深さを示す一例です。

さて「佛教へのいざない」の最後は「第30回 日本仏教のゆくえ」です。
われわれ日本人が考えるべき問題を提起していますので以下に原文のまま引用いたします。
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「第30回 日本仏教のゆくえ」
日本の仏教は、アジアの中でも随分と異色のところが多い。第一に、僧侶の肉食妻帯。厳格な地域では一般の信者でも精進料理しか食べないのに、 僧衣を着た坊さんが平気で肉を食べているのは、随分と異様に見えるようだ。第二に、葬式仏教。仏教寺院というとふつうには墓地があり、僧侶のいちばんの仕事は墓地の管理をして、 葬式や法要をすることだと思われている。これも他の仏教国には見られない。第三に、神仏習合。神社でもお寺でも同じように参詣して手を合わせる。 二つの宗教をかけ持ちしているようで、日本人はきわめていい加減だ、ということになる。このように、日本の仏教のあり方は外から見ると相当に奇妙で、しばしば顰蹙を買うことになる。
 しかし、それではそのような日本の仏教はおかしいと、簡単に否定してしまっていいのかというと、それほど単純でもない。僧侶の肉食妻帯は確かに 他の仏教国ではあまり一般的ではない。しかし、明治以後の近代化の流れの中で、肉食妻帯することによって僧侶もふつうの人と同じような生活をし、 世俗社会の中に溶け込んで活力を得てきた。明治の頃には、積極的に僧侶の結婚を勧め、夫婦を単位とした新しい仏教を作るべきだという主張もなされた。 このような動向は中国や朝鮮の仏教にも影響を与えた。
 葬式仏教も悪いとばかりはいえない。葬式や墓地は、人が死や死者と関係を持つきわめて得難い機会であり、場所である。人は死すべきものだということこそ、 仏教のもっとも根本の認識であり、出発点のはずである。ところが、近代化の中で、人はともすれば死の問題を遠ざけ、生を貪ることをよしとしてきた。

 仏教が近代的な人間観に疑問を突きつけることが可能とすれば、まず葬式や墓地の見直しから出発しなければならないのではないだろうか。
 神仏習合にしても、日本に仏教が伝来して以来の長い経緯を持つもので、それが二つの別々の宗教に分けられたのは、明治の神仏分離によるきわめて人為的で無理な政策によるものであった。 日本のみならず、東アジアにおいては仏教は単独の宗教ではなく、儒教や道教などと交渉しながら発展してきている。 とりわけ日本の神仏習合は、神仏が緊密な構造を構成していて、近代に外から持ち込まれた宗教観で切り分けることはできない。
 このように、日本の仏教のあり方はそれなりの必然性をもって展開してきているのであり、他の地域の仏教と違っているからといって、単純に否定的に見る必要はない。 しかしまた、過去の仏教の形態がそのまま惰性的に未来に続いていくというわけでもない。
 日本の中だけでなく、世界の中で仏教への関心が高まりつつある現代に、伝統を生かしながらも、世界に目を向けた新たな仏教の構築が求められている。 それは、与えられた既存の制度を墨守することではなく、ひとりひとりの切実な願いから新たに作り直され、生み出されていくものでなければならないであろう。
(文・末木 文美士 すえき・ふみひこ 一九四九年、山梨県生まれ。専門は仏教学。著書に『日本仏教史』『思想としての仏教入門』など。東京大学大学院教授)
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今日は日本の大乗仏教がどのようにして生まれ、現在の日本仏教の特徴を概観しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「今日の小金井の桜の写真です」

2020年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は暖かい日和で快晴です。昨日下見をしておいた桜の花の写真を撮りに行きました。
小金井市の野川沿と上野原公園と多磨墓地の桜が咲いてました。
小金井公園はまだ2分咲きです。しかし全体的に桜の咲き出しが例年より1週間早いようです。
今日の櫻花の写真をお楽しみください。









「今年も小金井の桜が咲き出しました」

2020年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム
小金井の玉川上水の堤の山桜は江戸時代から有名でした。
毎年今頃になると小金井市のあちこちへ行き、桜の開花の様子を観察をします。
昨日の午後に開花状況を調べに行きました。そうしたら例年より早く咲き出しています。5分咲きの桜木もありました。
今日は一日中晴天のようです。小金井市のあちこちへ行き桜の写真を撮ることにしました。
ここには広重の小金井堤の桜の版画の写真と昨年の3月29日に撮った小金井公園の染井吉野の桜の写真をお送りします。





小金井桜は江戸時代の初期に、玉川上水完成後まもなくの約280年前に、上水の堤に山桜が植えられたのが始まりと言われています。
有名になったのは江戸後期に長谷川雪旦の「江戸名所花暦」や「江戸名所図会」、そして歌川広重の「武州小金井堤満花之図」や「小金井橋夕照」という版画が江戸で売り出されてからのようです。そのお陰で、桜見物が流行って、江戸、明治と見物客によって賑わうようになりました。
現在、堤の桜は車の排気ガスで勢いがなくなりましたが、小金井公園に植えた染井吉野が勢いよく咲いています。そして、他に山桜、深山桜などなどが咲いて行きます。
昨日見に行ったら少し咲き出していました。桜花の競演はまだです。でも今日は桜の写真を撮りに行きます。
小金井公園はJR中央線、武蔵小金井駅北口から花小金井や清瀬方面行きのバスに乗り、7分くらいで公園西口前の停留所で降りるのが便利です。歩いても20分くらいでしょうか。
広重の小金井堤の桜の版画野写真の出典は、http://www.ndl.go.jp/exhibit/50/html/wa33-5/wa33-5-005-l.html です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「アメリカの輝き(3)ソ連共産主義に勝ち民主主義を守る」

2020年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
民主主義のアメリカと共産主義のソ連との冷戦は1945年から1991年迄続きました。
1991年にソ連が崩壊し民主主義が勝利しました。
冷戦で勝利した原因はアメリカの先端軍事技術がソ連より優位に立っていたこととソ連の経済が苦境にあったことの2つと言われています。
ヨーロッパで米軍主導のNATO軍がソ連圏と対峙し西側を守っていました。
一方アジアでは米軍が軍事行動を展開し朝鮮戦争とベトナム戦争を主導しました。
朝鮮戦争は1950年6月25日から 1953年7月27日まで続行され、アメリカ軍 の戦死者と失踪者の合計は54000人でした。
ベトナム戦争 は1965年11月 から 1975年4月30日 迄でした。
アメリカ側の被害は戦死者が5万8千人で戦傷者が30万人でした。
この様にアメリカは血を流して民主主義を守ったのです。

今日は朝鮮戦争とベトナム戦争を写真で振り返って見ようと思います。
初めの3枚の朝鮮戦争関連の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮戦争 です。
続く4のベトナム戦争関連の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/ベトナム戦争 です。

1番目の写真は朝鮮戦争の5つの場面です。
上段:長津湖の戦いで撤退する米第1海兵師団
中段左:アメリカ空軍のF-86
中段右:仁川上陸作戦で揚陸中のLST
下段左:仁川に上陸するバルドメロ・ロペス中尉率いる海兵隊員
下段右:M26戦車の前に立つ韓国人難民

2番目の写真は韓国に到着したダグラス・マッカーサーを迎える李承晩大統領です。
朝鮮戦争は北朝鮮の奇襲攻撃で始まりました。
1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始されたのです。30分後には朝鮮人民軍の約10万の兵力が38度線を越えます。
また東海岸道においては、ゲリラ部隊が韓国軍の後方に上陸し韓国軍を分断しました。状況を楽観視していたアメリカを初めとする西側諸国は衝撃を受けたのです。

3番目の写真はソウルで行われた大韓民国の国家成立記念式典です。1948年8月15日、ソウルで李承晩が大韓民国の成立を宣言し、金日成はこれに対抗し、9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させたのです。
休戦協定は1953年7月27日に出来ます。38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時の終結をしたのです。現在も停戦中です。

4番目の写真はベトナム戦争で 空母「レンジャー」の艦上に駐機するノースアメリカンRA-5偵察機やマクドネル F-4戦闘機です。
ジョンソン大統領はベトナム近海に派遣していたアメリカ海軍の攻撃空母「コーラル・シー」や「レンジャー」、「ハンコック」などを中心としたアメリカ海軍第7艦隊の艦載機を中心とした航空機で、首都のハノイやハイフォン、ドンホイにある兵員集結地などの北ベトナム中枢への爆撃を命令しました。3月26日には、初の大規模な北爆を発令し、北ベトナム沿岸部の島々とヴィン・ソンなどにある北ベトナム軍の基地を、空軍のF-100やF-105などの戦闘爆撃機などで爆撃させたのです。

5番目の写真はソ連から北ベトナム軍に貸与されたミコヤンMiG-21初期型です。アメリカの北爆に対応した戦闘機です。

6番目の写真は米軍の前線基地です。北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、旧正月下の1968年1月29日の深夜に南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃(テト攻勢)を開始します。サイゴン市のアメリカ合衆国大使館を一時占拠し、その一部始終がアメリカ全土に生中継されたのです。アメリカ軍の敗北でさう。

7番目の写真は爆弾を投下するアメリカ空軍のボーイングB-52戦略爆撃機です。
アメリカ軍は戦死者5万8千人と戦傷者が30万人でベトナムを放棄したのです。
ベトナム戦争は1973年のパリ和平協定が出来1975年に完全に終了します。
1976年4月にジュネーブ協定以来の懸案であった南北統一選挙が行われ、7月1日、南北ベトナム統一とベトナム社会主義共和国樹立が宣言されました。
ベトナム戦争の結果、中国は改革開放し市場経済化を実施しアメリカと平和な関係になります。
ソ連はその後も冷戦を続行しましたが遂に1991年に崩壊したのです。
アメリカは共産主義の勝利したのです。それは「アメリカの輝き」です。
しかし朝鮮戦争とベトナム戦争で何百万人のアジア人の血も流れたのです。
それは悲惨な殺戮でした。
「正しいのはわれわれで、彼らはまちがっている」という考え方が国家間、人種間、民族間、宗教間、イデオロギー間の激しい紛争の原因になるのです。
真の平和を祈らざるを得ません。嗚呼。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「アメリカ人をもう少し深く理解しよう!」

2020年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
現在この欄では 次のような「アメリカの輝き」という連載記事を掲載しています。
「アメリカの輝き(1)民主主義と個人の尊厳の確立」
「アメリカの輝き(2)黒人差別の撤廃と黒人大統領の選出」
「アメリカの輝き(3)ソ連共産主義に勝ち民主主義を守る」
「アメリカの輝き(4)世界の覇権は握るが他国の主権を尊重」
「アメリカの輝き(5)世界一の科学技術を創造」
昨日は、「(2)黒人差別の撤廃と黒人大統領の選出」について書きました。

今日は一休みして番外編としてアメリカ人を深く理解するために彼等の信仰心について書いてみたいと思います。
アメリカ人の宗教に対する考え方を書いてみたいと思うのです。
アメリカの文化の特徴といえば世界一進歩している科学や技術の他にキリスト教に対する強い信仰があることです。
アメリカ人の80%がキリスト教を信じているのです。
アメリカ社会における人間関係にはその下敷きにキリスト教への信仰があるのです。
アメリカは弱肉強食の社会で、貧富の差が大きいので人間関係は殺伐としていると誤解しがちです。しかしアメリカに暮らしてみると助け合いの精神が溢れていて、実に暖かい人間関係があるのです。殺伐とした社会というより、アメリカの社会は人間的で温かい社会なのです。
ですからアメリカ文化を万遍無く公平に理解しようとしたら彼らのキリスト教への帰依を理解しなければなりません。
勿論、アメリカにはイスラム教徒もユダヤ教徒も仏教徒も数多くいます。しかし話を簡明にするために今日はキリスト教だけを取り上げます。

それではアメリカのキリスト教はどのようなものでしょうか?
カトリック教徒も20%と多いのですが、アメリカの特徴はいろいろなプロテスタントが大部分で、プロテスタントが多いのがアメリカの特徴です。
しかしその宗派の多くはキリストの教えを書いた福音書を大切にする福音主義なのです。
ですからアメリカ人は以下のことを単純に信じ切っていて疑いません。
1、聖書の霊感と無謬性(旧約聖書も新約聖書も間違っていない)
2、キリストの処女降誕(キリストは処女マリア様から生まれた)
3、キリストの贖罪(キリストは全ての人間の罪の解消のために十字架につけられ死んだ)
4、体の復活(キリストも全ての死者も何時かは生き返ってくる)
5、数々の奇蹟物語(水上歩行、水を葡萄酒に変えたなど数々の奇蹟話)

アメリカ文化の福音主義は仏教国の日本に導入されにくいのです。彼らの物質文明は間単に日本へ入ってきますが、アメリカのキリスト教は日本へ導入され難いのです。
よくアメリカには物質文明はあるが精神文化が無いといいます。これは大変な間違いです。
正しくは「日本人の理解しにくい精神文化がある」と言い直すべきです。
私自身はカトリックです。しかし般若心経や大悲心陀羅尼経も大好きです。キリスト教と仏教のバイリンガルのようなものです。ですからアメリカの精神文化もある程度は理解出来ます。
アメリカ文化がこんなに溢れている日本ですが、アメリカから入りにくいものもあるのです。アメリカ人の宗教心です。

「アメリカの輝き」という連載記事をお読み頂く時、あわせてこのアメリカ特有の精神文化もお考え頂きたいのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


今日の挿し絵代わりの写真は先日、京王フローラル・ガーデンで撮って来た花の写真です。





「今日の日記、春のお彼岸の墓参りに行きました」

2020年03月18日 | 日記
昨日は春の彼岸の入りでした。今日は午前中から墓参りに行きました。
日野市の大昌寺の墓地には墓参りの人が何人も来て、花々と線香を供えてました。
写真は今日撮った大昌寺の風景です。皆様が故郷のお寺を思い出すようにとお送りいたします。
お寺の風景は何故か郷愁を感じさせますね。









「アメリカの輝き(2)黒人差別の撤廃と黒人大統領の選出」

2020年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカの1960年頃の黒人差別は酷いものでした。
私は1960年から二年間、オハイオ州立大学に留学し州都コロンバス市に住みました。バスに乗ると、白人は前半分の席、黒人は仕切りの後ろ。遠慮して黒人の席に座ったら、白人男性が寄って来て、君は前半分に座れと言う。それ以来、白人席の末席に座るようにしました。
コロンバス市の南半分は黒人街、北半分は白人が住む場所と厳格に分かれていた。白人街にある映画館やレストランは白人専用で、黒人はよほどのことがない限り立ち入らない。
オハイオ州立大学には黒人学生がいたが、その数は圧倒的に少ないのです。教授は皆白人でした。実験室の掃除人はメキシコ人で、黒人はいませんでした。初めのころは差別に心が痛み暗い気持ちになりました。しかし、少し経つと慣れてしまい、当然と思うようになったのです。怖い変化でした。
アメリカは自由と平等の国というが、60年前には凄い黒人差別が厳然としてあったのです。

このような厳しい黒人差別がキング牧師の公民権運動の結果、完全に撤廃されたのです。
その上2009年にはアメリカ史上初の黒人のオバマ氏が大統領に選出され8年間もアメリカ大統領の座についたのです。
1960年代の悲しい黒人差別の実態を見た私にとってはアメリカの人種差別撤廃と黒人大統領の選出は感無量の出来事でした。
アメリカが輝いたのです。

そこで今日はキング牧師の黒人差別撤廃運動でアメリカの黒人差別が消えてしまった経緯を簡略に書いてみました。なお公民権とは公の社会生活のなかの諸々の個人の権利のことを意味します。
キング牧師は1929年に生まれ、1968年4月4日に暗殺されました。バプテスト派の牧師でした。
アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者でした。
「I Have a Dream」(私には夢がある)で知られる有名な演説を行った人物で、1964年にノーベル平和賞を受賞しました。
アメリ人も彼を尊敬しており、2004年には議会名誉黄金勲章を授章します。彼の暗殺後、各州では彼を記念する祝日が制定されます。
まず関連の写真をご覧下さい。

1番目の写真はキング牧師と妻のコレッタです。(1950年代)

2番目の写真は1963年8月、ワシントン大行進にて、“I Have a Dream”の演説を行うキング牧師です。

3番目の写真はウェストミンスター寺院に飾られている「20世紀の10人の殉教者」のレリーフの一部です。左からロシア大公妃エリザヴェータ、キング牧師、ロメロ大司教、ボンヘッファー牧師です。

キングの提唱した運動の特徴は徹底した「非暴力主義」でした。インド独立の父、マハトマ・ガンディーに啓蒙され一切抵抗しない非暴力を貫いたのです。
公民権運動にあたっては、主として南部諸州における人種差別的取扱いがその対象としました。公民権運動は州政府などの地域の権力との闘争という側面も有していました。従ってキング牧師の運動は警察の妨害を受け困難な展開になります。
しかしキング牧師は演説で白人も含めた大衆の心を掴んだのです。
特に、1963年8月28日、ワシントン大集会で、“I Have a Dream”という演説を行います。
この演説はリンカーン記念堂の前で、20万人の聴衆の前で行いました。
内容が人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を簡潔な文体で訴えたものでした。歴史的な名演説だったので白人にも広く共感を呼んだのです。それはアメリカ国内のみならず世界的に高く評価されたのです。
この演説の冒頭だけを下に示します。

"I have a dream that one day on the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slave-owners will be able to sit down together at a table of brotherhood."
「私には夢があります。いつの日にか、かつての奴隷の子供たちと、かつての奴隷を使っていた人の子供たちが、兄弟愛というテーブルに一緒に座れるようになるという夢が」

"I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character."
「私には夢があります。いつの日にかこの国が、私の4人の子どもたちが、肌の色でではなく、その人となりで評価されるようになるという夢が」

私はテレビで何度もこの冒頭部分を聞きました。キング牧師の声で。何度聞いても胸が熱くなります。
キング牧師の運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がり、ついにリンドン・B・ジョンソン政権下の1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定されたのです。それは建国以来200年間はじめてアメリカの法律よる人種差別が終わりを告げるものでした。

そしてキング牧師は1968年4月4日にメンフィス市内のロレイン・モーテルのバルコニーで撃たれて死亡したのです。39歳の若さでした。
犯人のレイは国外に逃亡し、数ヵ月後、ロンドンのヒースロー空港で逮捕され、懲役99年の判決を受けます。その後、彼は服役中の1998年4月23日にC型肝炎による腎不全で死去しました。

さて公民権法でアメリカ人はどのように変わったでしょうか?その後、何度も渡米した私は見ました。白人と黒人が一緒に公園でバーベキューをして楽しそうにしている場面を。白人と黒人の若者が一緒になってダンスパーティをしている場面を。レストランで同じテーブルに坐り楽しげに食事をしている場面を。
その度に私は彼の演説の冒頭部分を思い出し、胸が熱くまります。
「私には夢があります。いつの日にか、かつての奴隷の子供たちと、かつての奴隷を使っていた人の子供たちが、兄弟愛というテーブルに一緒に座れるようになるという夢が」

アメリカの黒人差別の撤廃は世界の国々の黒人差別に影響を与えるのが自然の成り行きではないでしょうか?
これで人間の心の中の人種差別が無くなったわけではありません。しかし少なくとも社会生活の中で黒人差別が撤廃されたことは人類の大きな進歩です。善い改革です。
そして2009年1月20日正午、アメリカ合衆国大統領就任式における宣誓を以てオバマは第44代大統領に正式に就任しました。
オバマはアメリカ合衆国建国以来、初の非白人の大統領であり、初のアフリカ系アメリカ人(アフリカ系と白人との混血)の大統領であり、また初のハワイ州生まれの大統領であり、かつ初の1960年代生まれの大統領であったのです。
オバマ大統領は2期務め2017年に退任しました。

キング牧師の黒人差別撤廃の公民権運動でアメリカは黒人差別が無くなり、黒人のオバマ大統領が選出されたのです。
アメリカが輝く歴史的展開です。1960年の頃の悲惨な黒人差別の実態を知っている私にとって感無量の出来事です。
アメリカは力強く善い方向へ大きく舵を切ったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日は花々の写真をお楽しみ下さい」

2020年03月17日 | 日記
何も考えずに美しい自然の風景を眺める。楚々と静かに咲いている花々を長い時間見ている。こんな時の過ごし方が人生で一番幸せなことではないでしょうか?
先週、調布市にある京王フローラルガーデンで撮って来た写真をお送り致します。









今日は花々の写真をお楽しみ下さい。

そうして今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「アメリカの輝き(1)民主主義と個人の尊厳の確立」

2020年03月16日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日まで「 ヨーロッパ文化の闇」という連載記事を5回掲載しました。ヨーロッパの中世の暗い歴史を強調し非難した内容でした。
しかしどの民族の文化にも明るい部分と暗い部分があるのです。ヨーロッパ文化の暗い部分だけを強調して書くのは公平ではありません。暗い歴史は日本にも同じようにありますというコメントも幾つか頂きました。読者は公平な気持ちで読んで下さるのです。
そこで今日からヨーロッパ文化の明るい部分を連載したいと思います。ヨーロッパ文化を代表してアメリカを取り上げました。そこに4年間住んでいたのでアメリカ文化の良さを実感していたのです。
連載は「アメリカの輝き」と題して、アメリカに好意的な立場で次のような順序で書いて行くつもりです。
「アメリカの輝き(1)民主主義と個人の尊厳の確立」
「アメリカの輝き(2)黒人差別の撤廃と黒人大統領の選出」
「アメリカの輝き(3)ソ連共産主義に勝ち民主主義を守る」
「アメリカの輝き(4)世界の覇権は握るが他国の主権を尊重」
「アメリカの輝き(5)世界一の科学技術を創造」
今日は(1)民主主義と個人の尊厳の確立です。まず1776年のアメリカの独立宣言を読んでみましょう。
アメリカ独立宣言 (1776年)、(https://ja.wikipedia.org/wiki/民主主義 )
「われわれは、以下の事実を自明のことと考えている。つまりすべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき権利を与えられている、その権利には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれている。その権利を保障するものとして、政府が国民のあいだに打ち立てられ、統治されるものの同意がその正当な力の根源となる。そしていかなる政府といえどもその目的に反するときには、その政府を変更したり、廃したりして、新しい政府を打ちたてる国民としての権利をもつ。」
この民主主義と個人の尊厳の重要性を明記した内容はアメリカ憲法も同じです。
こんな国は欧米では初めてでした。
人民主権を強調し、「すべての主権の根源は、本質的に国民にある」と明記したフランス革命後の憲法は1793年に制定されました。
アメリカ独立宣言 の17年も後だったのです。
1793年憲法では、抵抗権、直接民主主義的要素などを含む憲法が制定されましたが実際には施行されずに終わったのです。
その「人および市民の権利の宣言」は以下のようなものでした。
第1条 人間は、自由かつ権利において平等として生まれ、かつ生存する。(後略)
第3条 すべての主権の根源は、本質的に国民にある。(後略)
第6条 法律は一般意思の表明である。すべての市民は、個人的、または彼らの代表者によって、その作成に協力する権利を持つ。(後略)
この様な民主主義の主張のおかげで欧米は中世の封建時代から抜け出したのです。
18世紀から20世紀にかけて、欧米の主要各国で男性普通選挙や、女性も含めた完全普通選挙が普及します。特に第一次世界大戦や第二次世界大戦は総力戦となり女性の社会進出が進み、また民族自決を掲げて第二次世界大戦後は植民地の独立が続き、多数の主権国家が誕生したのです。
そして一方、19世紀以降、社会主義の潮流の中より暴力革命を唱える共産主義(マルクス・レーニン主義)が登場します。
共産主義陣営は資本主義陣営を帝国主義と批判し、資本主義陣営は共産主義陣営の共産党一党独裁を批判しました。
更に第二次世界大戦頃になるとイタリアではファシズム、ドイツではナチズムが台頭し、国家主義や民族主義を掲げて民主主義を批判したのです。
しかし1991年のソ連の崩壊によりアメリカの民主主義が最終的に勝利したのです。
2007年、国際連合総会は9月15日を「国際民主主義デー」とし、すべての加盟国および団体に対して民主主義に対する意識向上に勉めるように決議をしたのです。
アメリカのフランシス・フクヤマ氏は1991年のソ連崩壊後に、「国際社会において最終的に民主主義が勝利したと述べ、社会制度を巡るイデオロギーの対立が終わり、民主主義が政治体制の最終形態となり永遠に存在し得る制度となった」と高らかに宣言しました。

これらの歴史はアメリカの民主主義の勝利でした。アメリカ文化が燦然と輝いたのです。
しかし民主主義と個人の尊厳とはどういうことなのでしょうか?個人の尊厳などと抽象的に言われてもさっぱり分かりません。
私どもは1960年からオハイオ州に住んでいた体験から、「個人の尊厳」を具体的に説明します。
道路で会った知らないアメリカ人が例外無く挨拶してくれるのです。結婚したばかりの家内に聞くと重い買いもの荷物を持って歩いていると知らないアメリカ人が助けてくれるのです。当時の日本ではありえないことでした。
日本では知っている人に会ったら挨拶します。アメリカでは知っている人も知らない人も平等に大切にします。個人の尊厳を大切にするのです。
その家内が赤ん坊を生む前に現地の赤十字社が妊婦を集めた講習会に参加しました。個人個人の心配を聞き相談に乗ってくれるそうです。日本人もアメリカ人も平等に大切にします。これも個人の尊厳を大切にする一つの例です。
生まれた赤ん坊と家内と車で遊びに行きました。帰りの車が故障してしまいました。道端で途方に暮れて居たら見知らぬアメリカ人が救助してくれました。故障した私の車を遠方の修理工場まで牽引してくれました。アメリカでは知らない人も救助してくれるのです。
私が留学していた大学の先生たちや同級生にも親切にしてくれます。その親切の精神が日本の場合と少し違うようなのです。
日本では親しい人に親切にします。アメリカ人は親しくない同級生もこちらが困っているとごく自然に助けてくれます。
親しい人も親しくない人も平等なのです。嗚呼、これが平等というものかと納得します。
こんな実例を書いていると長くなります。止めます。

今日の挿し絵代わりの写真はアメリカの首都、ワシントンDCの風景と留学したオハイオ州立大学の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










「今日の日記、万葉集の多摩の横山の写真を撮りに行く」

2020年03月15日 | 日記
今日の午後に万葉時代と同じ風景を探しながら「多摩の横山」の写真を撮って来ました。
「多摩の横山」という名前は万葉集の歌に出てくるのです。

「赤駒を山野にはかし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」
――宇遅部黒女―万葉集・巻20-4417―――

意味は、山野に放牧していた馬をどうしても捕まえることが出来なかったので、出征する夫を徒歩で出発させてしまった。尚、巻20にはこの他に数多くの防人にちなんだ歌があります。

この歌は武蔵の国の防人(さきもり)の妻の歌です。武蔵の防人は、まず府中にあった国府に集合し、多摩川を南岸へ渡り、相模の国の国府があった現在の平塚市へ向かったのです。その道筋は現在の多摩市にある山々の東西に連なる尾根の上にあり、見晴らしの良い道です。
現在、この尾根道には「多摩尾根幹線道路」と「多摩の横山遊歩道」が整備されています。
この「多摩尾根幹線道路」をドライブして行くと、西には相模平野の向こうに丹沢の山並、その後ろに高く聳える富士山が見えます。その右方向に目を転ずると武蔵の国が広がり、遠方に奥多摩の山々、さらに右奥には秩父の山が見渡せるのです。
先程、撮って来た写真をお送りします。
1300年前の万葉集の出来たころと同じ風景を撮ろうとして自然林の遠景を写して来ました。

1番目の写真は「多摩尾根幹線道路」です。大部分は4車線の広い自動車道で渋滞の無い気持ちの良いドライブウエイです。

2番目の写真は「多摩尾根幹線道路」から少し入った雑木林の風景です。

3番目の写真も雑木林の風景ですが、昔の防人たちはこんな風景を見ながら故郷を後にしたのです。

4番目の写真は雑木林の入り口に咲いていた雪柳です。

5番目の写真も雑木林の入り口に咲いていた雪柳です。何故か淋しげに咲いていました。

府中の国府を出た出征兵士は平塚から箱根を越えて、数十日かけて、やっと難波の港へ着いたのです。
難波の港からは船旅で九州の防備へ行ったのです。
一旦武蔵の国を出ると何年も故郷へ帰れません。疫病にかかって死んでしまう者も多かったのです。
そんなことを考えながら写真を撮ってきました。




「 ヨーロッパ文化の闇(5)1000万人もの奴隷貿易と広大な植民地」

2020年03月15日 | 日記・エッセイ・コラム
ヨーロッパ文化の悪口を書くのは簡単なことです。しかし書きながら日本文化の暗い闇を考えています。人間やることは似たりよったりと思いながら書いています。しかし彼らのやることはスケールが圧倒的に大きいのです。もし善悪に大小があるならヨーロッパの悪は抜群に大きいのです。
例えば「奴隷貿易」で奴隷として売買されたアフリカの黒人の総数は、いろいろな研究によると900万人から1100万人となっています。
「奴隷貿易」は15 世紀から19世紀前半まで続行されましたが、それに関わる国は、スペン、ポルトガルから次第にイギリスへと変わりました。
奴隷を集めるのは主にアフリカ人自身で、仲買をするのがアラブ人。船で運んで売るのがヨーロッパ人。買う人はカリブ海の諸島や南北アメリカのヨーロッパ人農園経営者。こんな構図で行われていたようです。
それではまづ平和なアフリカの村の様子を写した3枚の写真を見てみましょう。

1番目の写真はアフリカのヤシの木に囲まれた伝統的な村の遠景です。ウガンダのサバンナです。
写真の出典は、https://jp.123rf.com/photo_88978953_アフリカの小屋、日の出、ウガンダでサバンナの村のヤシの木。アフリカ.html です。

2番目の写真はジンバブエのアフリカの典型的な家です。藁葺屋根と泥壁です。
https://jp.123rf.com/photo_23206182_ジンバブエのアフリカの典型的な村で住宅のわらぶき屋根の泥のビュー.html?写真の出典は、写真の出典は、fromid=RHFlZko4NHRMczQ0TmJTUmJDT3NuQT09 です。

3番目の写真はケニアのトウルカナ湖の近くのアフリカの伝統的な小屋です。
写真の出典は、https://jp.123rf.com/photo_17950284_伝統的なアフリカの小屋、ケニヤのトゥルカナ湖.html です。

写真が示すように平和な村々に突如として圧倒的な武力を持った西洋人たちが現れ奴隷貿易が始まったのです。15 世紀のことでした。
この奴隷貿易は人道上許されるものではありません。
流石に欧米人もそのことに気づき、イギリスは1807年に奴隷貿易禁止を決め、その後、カリブ海の植民地の島々では19世紀中ごろまでに奴隷貿易が禁止されました。北アメリカでも南北戦争で北軍が勝つと奴隷制度の廃止が宣言されました。
奴隷貿易や奴隷制度は廃止されましたが奴隷の子孫たちは差別され、北米では黒人差別として長く残ったのです。
アメリカ大統領に黒人のオバマ氏が就任しましたが黒人差別は完全に無くなった訳ではありません。

さてもう一つの「ヨーロッパ文化の闇」は世界中に植民地を作って、他民族を搾取したことです。
特にイギリスはカナダ、オーストラリア、ニュージーランドを連邦国として併合し、アジアでは香港、シンガポール、マレーシア、ボルネオの一部、ミャンマー、インド、パキスタンなどを植民地にしたのです。そしてオランダはインドネシア、フランスはベトナム・ラオス・カンボジアを植民地にしました。フィリッピンはアメリカの植民地です。この趨勢ではやがて日本も欧米の植民民地になるのは時間の問題だったのです。

現在のイスラム過激派のテロ行為は欧米が地中海南岸のアフリカ地域と中近東のイスラム教圏を保護領にしたり植民地にして、中世の十字軍国家を再び再現したことが大きな原因になっているのは明らかなことです。

フランスはスペインの対岸のモロッコとアルジェリアを植民地にし、イギリスはエジプトを保護領にします。そして現在紛争の絶えない中近東地域をフランスとイギリスはモザイク模様のように保護領という名称の植民地にしたのです。
その上、イギリス、フランス、ドイツなどはアフリカ全土に植民地を持ったのです。
この地域のイスラム諸国が欧米を恨みに思い、機会があれば復讐しようとするのは人間としての当然な考え方です。
その上、イスラム圏のパレスチニアにユダヤ教のイスラエルという国家を欧米の力で無理やり作ってしまったのです。これがイスラム諸国の反感を一層かきたてたのです。
このような「ヨーロッパ文化の闇」を考えると20世紀末から21世紀にかけてのイスラム過激派のテロ行為には長くて深い歴史的な原因があるのです。
そのテロ行為の復讐戦としてアメリカはアフガニスタンとイラクを占領し、そこに親米傀儡政権を樹立しています。そしてパキスタン西部に潜むイスラム過激派を無人機で攻撃し、その幹部を殺戮し続けているのです。
これではイスラム過激派と欧米のテロによる局地戦はいつまでも続くはずです。

この21世紀の戦争も「ヨーロッパ文化の闇」が生んだ一つの鬼っ子とも言えます。
この ヨーロッパ文化の闇と同じような欲望は私の心にも日本文化にも隠れています。決してヨーロッパ文化だけではないのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
======奴隷貿易に関する参考資料================
奴隷貿易とは?(出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93です)

大航海時代に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主にヨーロッパ(イギリス)とアフリカとアメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開され、南北アメリカとカリブ海諸島の農園経営に必要な労働力となったのです。
人数についてです。
約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋をわたったアフリカ原住民は1,500万人以上と一般にはいわれていますが、学界では900万人-1100万人といいます。・・・・以下省略致します。

「マグノリアの花の写真をお楽しみ下さい」

2020年03月14日 | 日記
ここ数日は気温が20度近くまで上がる春の日が続いています。
京王フローラルガーデンのマグノリアも満開になったと思い昨日行って鑑賞して来ました。
マグノリアは西洋モクレンの総称で色とりどりの花が咲いています。
京王フローラルガーデンには多数の種類のマグノリアがあることで有名な花園です。
昨日撮って来た写真をお送りいたします。お楽しみ下さい。









京王フローラルガーデンへは新宿駅から京王線に乗り調布駅で乗り換え次ぎの「京王多摩川駅」で下車すると駅前にあります。新宿から25分位です。詳しくは、http://www.keio-ange.info/ をご覧下さい。
このような花を見に行ったのは連載記事を書いて私の心が疲れたからです。
ここ数日、西洋の暗黒の歴史を書いて疲れ暗い気持ちになったのです。
連載記事は次のようなものです。
ヨーロッパ文化の闇(1)ユダヤ人排除と殺戮はヨーロッパの伝統文化
ヨーロッパ文化の闇(2)ハプスブルグ家の異常な領土欲と近親結婚の悲劇
ヨーロッパ文化の闇(3)ドイツを荒廃させた30年戦争とドイツの思い出
ヨーロッパ文化の闇(4)ドイツ騎士団が武力で異教徒をキリスト教へ改宗させる
そして次は以下のものを書く予定です。
ヨーロッパ文化の闇(5)1000万人もの奴隷貿易と広大な植民地

この連載は西洋の中世の歴史が主です。キリスト教の西洋がキリストの教えに反する事をした歴史的事実を「ヨーロッパ文化の闇」として列挙したのです。
私の意図は読者の皆様に考えて頂きたい問題を提起したかったのです。
それは仏教国日本がお釈迦さまの教えに反する事をした歴史的事実を考えて頂きたいのです。
例えばハプスブルグ家の問題は平安時代の天皇の任免権まで左右した藤原家に似ています。
ドイツを荒廃させた30年戦争は応仁の乱によく似ているのです。
ドイツ騎士団に見るローマ法王と領主たちの癒着は高野山や比叡山の佛教勢力と京都の権力者との関係に似ています。
すなわち「ヨーロッパ文化の闇」は「日本文化の闇」とよく似ているのです。
似ているのは歴史や文化の闇は同じ人間の心から発するからです。
そうです。私は人間の心の闇を明快にしたかったのです。
賢明な読者はこの私の意図を理解してくれました。そして「ヨーロッパ文化の闇」は「人間の心の闇」ではないかというコメントを送って下さったのです。この慧眼に感服します。
そんな訳ですので、これからもよろしくお願いいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

ヨーロッパ文化の闇(4)騎士修道会とローマ法王の間違い

2020年03月13日 | 日記
十二世紀末に創設されたドイツ騎士修道会、テンプル騎士修道会、聖ヨハネ騎士修道会の三大騎士修道会と1143年のローマ法王ケレスティヌス二世の騎士修道会の重用はイエスの教えを冒涜するものでした。
騎士修道会では修道僧が騎士を兼ねているのです。そして領主や王様に雇われ、騎馬軍団として彼等の権益を守ったのです。
この事実を当時のローマ法王は承認し法王ケレスティヌス二世はドイツ騎士修道会を重用したのです。
これらのことを私は「ヨーロッパ文化の闇」と思います。

1番目の写真はドイツ騎士です。
写真の出典は、http://www.hobbyshop-sunny.co.jp/www/scale/view.php?id=13190 です。

2番目の写真は1143年、ローマ法王ケレスティヌス二世が騎士修道会のメンバーと会っている場面です。
写真の出典は、http://www.gregorius.jp/presentation/page_80.html です。

3番目の写真は「マルボルクのドイツ騎士団の城」です。現在のポーランド北部の都市マルボルクにあります。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/マルボルク城 です。
中世の騎士修道会を私が何故、「ヨーロッパ文化の闇」と書くのでしょうか。
それはイエス様が武力を使うことを禁じたからです。「私はローマ人をエルサレムから追い出すために、武力を使わない」と言って、武力蜂起を期待していた人々へ宣言したのです。
イエス様の役目は全ての人々の罪の償いのために十字架につくことだったのです。
イエス様は、「騎士の武力で異教徒をカトリックに改宗させなさい」とは絶対に言わなかったのです。武力行使はこの世の欲望に弱い人間が勝手にすることなのです。

さてドイツ騎士修道会はどこからその潤沢な活動資金を得たのでしょうか?
それは中世のヨーロッパの数多くの領主や王族が進んで寄付をしたのです。
この世の権力者達はイエス様の教えの、「肉欲を捨て、隣人を助け、神に祈れ」という言葉を守れないのです。
しかし騎士修道会は自分の領土を守ってくれるのです。ですから騎士修道会に資金が集まりました。
ドイツ騎士修道会は現在のリトアニア、ポーランド西北部、ロシアのカリーニングラード、に跨るバルト海東南沿岸を占領し、プロイセンという国家を作ってしまったのです。
その大義名分はバルト海沿岸に住む異教徒を征服し、カトリックに改宗させることにありました。当然、ローマ法王も大きな支援をします。

1309年、ドイツ騎士団は本部をヴェネツィアからマリーエンブルク(現マルボルク)に移します。これによってプロイセンが名実ともに騎士団の本拠地となります。
ドイツ騎士団は、選挙で選ばれる総長を統領として、選挙君主制国家ないし宗教的共和国とも言える統治体制の「ドイツ騎士団国」を築きました。
騎士団国家は十四世紀には最盛期を迎え、騎士団の勃興と同じ時期に経済的に発展し始めた西欧に穀物を輸出し、経済的にハンザ同盟都市と深く結びついていました。
ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)やエルビンク(現エルブロンク)は、ドイツ騎士団の下で貿易都市として発展を遂げました。これらの都市は、大河の河口に位置し、川沿いの穀物を集散して栄えました。
3番目の写真は最盛期の「ドイツ騎士団の城」です。
さて現在でもドイツ騎士団は活躍している国があります。
ハンガリーで救急車を呼ぶとよくドイツ騎士団の救急車が来るそうです。他の組織の救急車は来るのが遅くてあてにならないそうです。
驚きは、とっくに消滅したと思われているドイツ騎士団が現在でも存在していることです。ドイツ語のHPも持っています。(http://www.deutscher-orden.at/content/site/home/index.html)
騎士が馬のかわりに救急車に乗って急病人を助けに来るのです。

日本では中世のヨーロッパで騎士修道会が重要な役割をしていたか詳しく知られていません。
重要な存在でしたが私はこれもヨーロッパ文化の闇の一つと感じています。私のカトリックとしての感じ方です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=======参考資料============
(1)ドイツ騎士修道会:増永純也の研究資料:http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~tamaki/joyama/joyama99/99msng.htm#hajimeni
十二世紀末に創設されたドイツ騎士修道会(ドイツ修道騎士団、ドイツ騎士団とも通称される)は、十字軍運動のただなかにあったこの時代に成立した特殊な宗教的・軍事的組織です。

(2)ドイツ騎士団 http://kotobank.jp/word/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3
中世の三大宗教騎士団は十字軍時代に、騎士道精神と修道院精神との結合を目ざし、聖地巡礼の守護を主任務として結成された修道会です。
テンプル騎士団・ヨハネ騎士団・ドイツ騎士団などがあり、対異教徒戦や辺地の開拓に活躍しました。

(3)北方十字軍(ほっぽうじゅうじぐん)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%96%B9%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
あるいはバルト十字軍は、カトリックのデンマーク、スウェーデン、リヴォニア帯剣騎士団、ドイツ騎士団によって開始された十字軍のことです。北ヨーロッパおよびバルト海沿岸の異教徒に対して行われたカトリック教会諸国の同盟による遠征でした。
http://drupal.cre.jp/node/1719 とhttp://blog.goo.ne.jp/abc88abc/e/00f8149ad182dce6515fa7b249b697dd もあります。

(4)ドイツ騎士団の活躍
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E5%8C%97%E6%96%B9%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D_%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3
1226年、異教のプロイセン人の度重なる侵入に悩んでいたポーランドのマゾフシェ公コンラート1世は、騎士たちに東部国境守護とプロイセン平定を依頼した。ドイツ騎士団はマゾフシェ公国の傭兵としてプロイセンを征服すると、リトアニア大公国と戦った。

ヨーロッパ文化の闇(3)ドイツを荒廃させた30年戦争とドイツの思い出

2020年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム
ある民族の歴史にはそこに住んでみないと本当には判らないものもあります。
1969年から1970年にかけて一年余、ドイツのローテンブルグとシュツットガルトに家族と共に住んだことがありました。

1番目の写真はシュツットガルトの中心にある宮殿広場の風景です。
写真の出典は、http://blog.goo.ne.jp/charomo/e/2c42d6c042d6fe6f8429fcc07bd93bac です。
このシュツットガルトへ引っ越す前に3カ月間、中世のままの古い街並みのローテンブルグに住んでいました。すべての建物が赤屋根で高い城壁に囲まれていました。
この美しい中世の町が、「三十年戦争」(1618~48年)の時、攻め込んで占領した敵に破壊されそうになりました。敵将が市長へ大ジョッキでワインを一気飲みをしたら町の破壊をしないと言います。
市長は見事、一気に飲み干してこの美しい町を救ったのです。
それを記念して市庁舎の大きな仕掛け時計には大ジョッキを飲み干す市長の人形が出てきます。
そして毎年キリスト教の聖霊降臨祭の祝日(5月下旬から6月上旬頃)に町を救った市長を称えて祭りが開催されます。その写真を示します。

2番目の写真は町を救った市長を称えた祭りの様子です。民族衣装をまとった市民がダンス をしている光景です。写真の出典は、http://allabout.co.jp/gm/gc/45500/ です。
そこで私はローテンブルグのドイツ人に敵将の名前を聞きました。「そんな名前なんか知らない。なにせ混戦、混戦の30年戦争だから複雑すぎて分かりません」、これが答えでした。
ローテンブルグで私は30年戦争という名前を初めて聞いたのでした。
それ以後シュツットガルトで、「30年戦争」のことはドイツ人からさんざん聞かされました。ドイツ人の歴史にとって「30年戦争」は日本の「応仁の乱」のように大変な内戦だったのです。そのことが住んでみて、はじめて身に沁みて理解出来ました。
例えば「アルト・ハイデルベルグ」という恋物語で有名なハイデルベルグ城に行くと、ガイドがこの城は「30年戦争」であちこちが破壊されました。その傷跡はこれですと城壁の壊れた部分を指さすのです。

3番目の写真は三十年戦争の爪痕が残っている ハイデルベルク城です。写真の出典は、http://gensun.org/?img=tabidachi%2Eana%2Eco%2Ejp%2Fstorage%2Fphoto%2F978%2F179901_2%2Ejpg です。
働いていたマックス・プランク研究所のドイツ人達と一緒に度々ビールを飲みました。
酔ってくると彼らは、決まって何かを大声で議論を始めるのです。何を議論しているか聞いてみると、「30年戦争」のことだと言います。
「30年戦争」の何を議論しているのかと聞くと、「敵味方が複雑に入り組んでいてドイツ人にしか分からない問題を議論している」と答えます。
そして、「実はドイツ人にもよく分からないのです」と自笑しています。
帰国後、折りにふれて「30年戦争」のことを少しずつ調べました。
簡単に言ってしまえばその戦争は宗教改革の後の1618年から30年続いた戦争です。当時のドイツ人の総人口1800万人が700万人に減少し、国土を荒廃させた大戦争だったのです。
それでは誰が誰と戦ったのでしょうか?それが判然としないのです。
勇気を出して簡略化して書けば以下のようになります。
前の記事でも書いたウイーンのハプスブルグ家の支配下にあったカトリック側の神聖ローマ帝国(当時のドイツの国名)とそれに反発するドイツ国内のプロテスタン領主達の反乱と言えます。
しかしこれはこの戦争のほんの一面に過ぎません。実態は宗教戦争を装った領主たちの領土拡大と権益拡大を主目的にしたおどろおどろしい戦争でした。それにスウェーデン、ノルウエイ、フランス、デンマーク、スペインなどの国々も参加し、領土拡大を狙った国際戦争でもあったのです。

4番目の写真は白山の戦いです。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/白山の戦い です。
三十年戦争中の1620年11月8日、プラハ近郊ビーラー・ホラであった大規模な戦争でした。
カトリックのハプスブルク軍勢力とボヘミアのプロテスタント貴族との間で勃発した戦闘でした。

5番目の写真は白山の戦いの後、勝利したハプスブルク軍勢力によるプロテスタント側の公開処刑の様子です。
プロテスタント軍を指揮した貴族・騎士・市民など47人は裁判にかけられ貴族3人と騎士7人、そして市長・市会議員・弁護士など20人、合わせて27人がプラハの旧市街広場で処刑されたのです。旧市街広場の石畳には犠牲者に対する敬意として、玉石で作られた27本の十字架が現在でも残されているそうです。
このような 戦争がヨーロッパの各地で30年間続いたのです。戦争には道義もルールも皆無でした。傭兵が主体の文字通りの内戦です。両側の傭兵たちがドイツの農民を殺し、略奪をしつくしたのです。ドイツ全土が傭兵たちによって荒廃させられたのです。
そして戦争には残虐も付きものです。各地で木の枝に吊るした死体があったそうです。
人間の領土欲、権力欲、殺戮欲などの低次元な欲望が恥も外聞もなく発揮された戦争でした。ですから私はこれを、「ヨーロッパ文化の闇」の一つと言うのです。末尾に少しだけ参考資料を付けました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
========参考資料=====================
(1)世界史講義録(http://www.geocities.jp/timeway/kougi-65.html)「ドイツの混迷」をご覧下さい。
民衆を含む死者は800万人。ドイツ(神聖ローマ帝国)の人口が1800万人から700万人に減少したのです。
(2)30年戦争の実態は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89 をご覧下さい。
30年戦争には以下の 4つ段階があったのです。
第1段階:ボヘミア・プファルツ戦争(1618年 - 1623年)
第2段階:デンマーク・ニーダーザクセン戦争(1625年 - 1629年)
第3段階:スウェーデン戦争(1630年 - 1635年)
第4段階:フランス・スウェーデン戦争(1635年 - 1648年)