後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日は終戦の日、追悼と平和と憲法を想う日」

2020年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は戦後75年目の終戦の日です。戦没した310万人の日本人の追悼を祈る日です。そして日本軍の犠牲になった1000万人以上の中国人と数百万人のアジア諸国の犠牲者と家族の悲しみに心を寄せる日です。
戦争の犠牲者はアジアだけではありません。ロシアの2000万人、そしてヨーロッパ諸国の数百万人の犠牲者も忘れることが出来ません。悲しみが山並みのように続いているのです。今日は戦没した全ての人々の追悼の日です。
そして戦後75年間続いた平和を想う日です。日本の平和はアメリカとソ連の冷戦で幸運にも保たれたのです。
この平和は戦争放棄と再武装しないことを明記した日本の憲法と関係があるのでしょうか?現在の憲法が戦後アメリカ占領の間にアメリカ側が作ってくれたものです。
そこでこの憲法の改正問題を現在の日本人はどのように考えているのでしょうか?以下に最近の世論調査の結果を簡略にまとめてみました。
結論を先に言えば憲法の改正には強い世論の反対があるのです。ですから憲法改正は進んでいないのです。
それでは最近のNHKによる世論調査の結果を少し詳しく見てみましょう。
NHKは、2019年1月12日から3日間、全国の18歳以上の男女を対象に、コンピューターで無作為に発生させた固定電話と携帯電話の番号に電話をかける「RDD」という方法で世論調査を行いました。調査の対象となったのは2166人で、56%にあたる1206人から回答を得ました。
その結果、世論は明確に憲法改正急ぐなと言っているのです。図を用いて説明しましょう。

1番目の図は2019年の調査結果です。安倍総理大臣は、2020年を新しい憲法が施行される年にしたいとして、憲法改正に意欲を示して来ました。しかし国会での憲法改正に向けた議論について、「早く進めるべき」が23%、「急いで進める必要はない」が50%、「憲法改正の議論をする必要はない」が14%でした。

2番目の図は2018年の調査結果です。
国会で憲法改正に向けた議論を早く進めるべきかどうか聞いたところ、 「早く進めるべき」が17%、「急いで進める必要はない」が50%、「どちらともいえない」が24%でした。
2018年の調査では「早く進めるべき」が17%でしたが、2019年には23%と増加しています。
しかし2018年も2019年も「急いで進める必要はない」が同じ50%もあったのです。その上2019年には「急いで進める必要はない」の50%と「憲法改正の議論をする必要はない」の14%を合計すると64%になるのです。
世論は明確に急ぐなと言っているのです。

3番目の図は2019年秋の臨時国会に自民党の憲法改正案を提出すべきか否かを聞いた結果です。
安倍総理大臣は2019年度の臨時国会に自民党の憲法改正案を提出できるよう党内議論を加速させたい考えを示しています。これについて聞いたところ、「提出すべき」が17%、「提出する必要はない」が36%、「どちらともいえない」が38%でした。「提出する必要はない」が36%もあったのです。

4番目の図は安倍内閣が、今後、最も力を入れて取り組むべき課題を示しています。
結果は「社会保障」が28%、「経済政策」が20%、「地方活性化」が14%、「外交・安全保障」と「防災対策」が11%、「憲法改正」が6%で最下位なのです。世論は明確に急ぐなと言っているのです。
そして2018年9月の政治意識月例調査の結果でも世論は明確に急ぐなと言っているのです。

安倍総理が急いでいるのに世論は急ぐなと言っているのは何故でしょうか?
理由は憲法改正で憲法9条が削除され平和憲法でなくなる恐れがあるからです。
憲法9条を示します。
第九条【戦争放棄と自衛のための軍備】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
  国の交戦権は、これを認めない。

日本が戦後75年間平和だったのはこの9条のお陰だと感じている国民が多いのです。
ですから憲法改正で戦争が起きる可能性が増大すると考える人が多いのです。世論調査結果はこのことを示唆しています。
しかし現実には日本が戦後75年間平和だった理由はアメリカ軍のお陰だったのです。アメリカ軍が日本の各地に基地を持ち日本全土を守っていたからなのです。
この9条に関する世論調査結果は次のようになっています。
憲法9条への自衛隊の明記について、どうすべきだと思うか聞いたところ、◇「9条2項を維持して、自衛隊の存在を追記する」が16%、◇「9条2項を削除して、自衛隊の目的などを明確にする」が30%、◇「憲法9条を変える必要はない」が38%でした。
驚くべきことに「憲法9条を変える必要はない」が38%もあったのです。
強力な自衛隊の存在は明らかに「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」に矛盾しているのです。
矛盾しているのにこの2項を永久に保持しようとしているのは日本人の言霊信仰にあると思います。
現実に合致していなくても「祈りの言葉」として保存したいのです。平和のお守りとして持っていたいのです。平和への祈りの言葉なのです。これも言霊信仰の一つなのです。

私の改正案です。
第九条【戦争放棄と自衛のための軍備】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。ただし自衛のための武力行使はこの限りではない。
2 前項の自衛のための武力行使目的を達するため、陸海空軍その他の戦力を保持する。

今日は終戦の日です。戦没した310万人の日本人の追悼を祈る日です。そして日本軍の犠牲になった1000万人以上の中国人と数百万人のアジア諸国の犠牲者と家族の悲しみに心を寄せる日です。悲しみが山並みのように続いているのです。今日は戦没した全ての人々の追悼の日です。
その上で日本の平和憲法に対して現在の日本人がどのように考えているか考察しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「受恩刻石、恩を受けしは石に刻むべし」

2020年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム
なかなか実行出来ないことですが、懸情流水 受恩刻石という教えがあります。
「 情を懸けしは、水に流し、恩を受けしは、石に刻むべし」と読むそうです。短縮して刻石流水の四文字熟語もよく使われているようです。
そこで今日は「恩を受けしは、石に刻むべし」の教えに従って東日本大震災を支援した国々の恩を石に刻むような思いでお送りいたします。東日本大震災は2011年3月11日に起きました。
この東日本大震災は1000年に一度という大地震と大津波でした。その上福島原発が4基も爆発したのです。
死者、行方不明者は2万人といわれ東北、関東地方の太平洋岸の市町村は津波で跡形もなく流されてしまったのです。
これに対して世界各国から多額の暖かい支援が送られ、多数のボランティアが来たのです。この支援の詳細は末尾の「参考資料、世界の191ケ国からの支援」に掲載してあります。

今日はアメリカ軍による「ともだち作戦」という迅速な救援、支援活動をご紹介したいと思います。
3月11日の大津波は仙台空港をも襲い壊滅します。その滑走路の瓦礫を取り除き、たった5日間で、再び大型輸送機が着陸出来るようにしたのはアメリカ軍と自衛隊の共同作業でした。特に沖縄から来た海兵隊は大活躍したようです。
そして横田基地から救援物資を満載した輸送機が着陸したのです。これにより東北地方の救援物資の輸送が迅速に流れだしたのです。まだ空港の外には瓦礫がある中を、米軍輸送機が土煙を上げて着陸する姿を見て、仙台出身の私の胸が熱くなりました。

1番目の写真は土煙をあげて着陸している米軍輸送機の様子です。
2011年3月12日以後の新聞にはアメリカ軍の大規模で、多岐にわたる救援活動が毎日のように報道されています。この作業をアメリカ軍は「ともだち作戦」という名前をつけて大規模に展開したのです。
2011年4月1日の読売新聞一面には、「日米、不明者を一斉捜索」と題した記事が出ていました。米海軍と海上自衛隊と海上保安庁の艦艇が一斉に三陸沖、仙台湾、福島沖に展開し海上に流れ出た生存者や遺体の発見に努力したのです。
特に三陸沖にある空母・ロナルド・レーガンからはヘリ20機を飛ばして海上の捜索に当たるのです。艦艇は15隻ていどが展開し、捜索にあたります。

2番目の写真はこの空母・ロナルド・レーガンの写真です。

3番目の写真は空母ロナルド・レーガンから捜索のために飛び立とうとしている軍用ヘリです。

その他に2011年4月1日の読売新聞の28ページ全面を使って、「『日本の力に』眠らぬ艦船、」と題した記事では米軍の救援活動の全てを紹介しています。特に普天間基地の海兵隊の港の瓦礫撤去や水・食料の輸送が感動的に書いてあります。強襲揚陸艦エセックスやトーテュガの活躍が報告されています。

4番目の写真はの写真は空母ロナルド・レーガンの上でヘリコプターに救援物資を積み込んでいる写真です。

5番目の写真は駿河湾を通過して被災地に向かうアメリカ軍の駆逐艦です。

大地震発生から3月28日までの米軍の活動は出動艦艇19隻、航空機133機、人員18000人、輸送した救援物資240トンとなっています。この数量の大きさにはあらためて感激せざるを得ません。そして日本人に協力して瓦礫の整理作業をしている2人のアメリカ海兵隊の兵士の姿には頭が下がります。

6番目の写真はアメリカ軍兵士が被災地の後片付けのために汗を流している様子です。

7番目の写真もアメリカ軍兵士が被災地の後片付けている様子です。
そして港が津波で破壊された離島には上陸用舟艇で緊急上陸して食料を運び、後片付けに汗を流したのです。あるアメリカ海軍の小型艦艇は壊れていない港に接岸して船内のシャワーと風呂を泥まみれの被災者へ提供したのです。これは津波で家が流された被災者に非常に感謝されました。
私はこのような在日米軍の献身的な救援活動を書きながら再び深い感動を覚えます。胸が熱くなります。日米が戦後75年間、えいえいと培って来た友情の温かみが感じられます。嬉しい事です。救援活動にあたった全ての米軍将兵へ改めて深い敬意と感謝の意を表します。

ここで米軍の支援の一部を分かり易く整理して列挙します。
(1)空母ロナルド・レーガンが三陸沖から艦載ヘリを15往復して被災地へ救援物資を直接運んだのです。救援物資は非常食、牛乳、果物、医療機器、衣服などです。
(2)普天間基地の海兵隊2200人とヘリコプター部隊は強襲揚陸艦「エッセック」など3隻で出発し、東北地方の酒田港沖へ到着しました。これにより米軍ヘリは合計70機体制になりました。海兵隊は被災地の瓦礫整理や仙台空港や小松基地の復旧作業をするほか、救援物資輸送、医療支援もしたのです。
(3)第7艦隊の強襲揚陸艦「トーティガ」は苫小牧港へ到着し、陸上自衛隊の青森側への輸送に協力しました。。
(4)福島原発で苦戦している高圧送水ポンプも米軍が提供しました。佐世保基地にある4台を発送し、横須賀基地を経由して16日には横田基地へ到着しています。17日中には現地で日本側へ引き渡しました。

アメリカ軍は以上のように、大規模な軍隊を動かし迅速に救援活動を展開したのです。
この活動は「ともだち作戦」と命名され在日米軍が自衛隊と協力しながら実行したのです。このアメリカの暖かい友情で心が熱くなった人々は多かったと思います。

今日はこれで止めて下の参考資料に東日本大震災の復旧を支援した世界の191ケ国、34地域のことを書いておきます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈いたします。後藤和弘(藤山杜人)

====「参考資料、世界の191ケ国からの支援」==================
「東日本大震災の復旧を支援した世界の191ケ国、34地域」
(1)台湾政府からの緊急援助。
馬英九総統は3月11日当日に「日本側の要請を受けたら、すぐに救援隊を出動したい」と語り、緊急救援隊を翌日3月12日に世界のどこよりも早く派遣してくれたのです。
物資支援として、3月14日~6月6日の間に発電機801台、毛布8735箱、寝袋3487箱、スリーピングマット236箱、衣類(防寒具、レインコート、手袋、マフラーを含む)6866箱、食品(クッキー、ポップコーン、米、缶詰等を含む)16.5㌧+18941箱などなどを送ってくれたのです。
日本側では北海道、青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県、東京都、新潟県、埼玉県、山梨県の災害対策本部、被災地、避難所等に至急送ったのです。

(2)中国の支援。
中華人民共和国の温家宝首相は「中国政府を代表して日本政府と日本国民に対しお見舞いを申し上げる」という電報を菅直人総理に送るとともに、必要な援助を提供する意思があることを表明しました。
胡錦濤国家主席は「犠牲者の方々に深い哀悼の意を表し、一日も早い復興をお祈り致します」との電報を今上天皇に宛てに送ったのです。
中国地震局は3月12日夜、日本の被災者に、人道援助を提供するため国際救援隊15人を同月13日朝に派遣すると発表しました。国営新華社通信は「四川大地震で日本から支援を受けた恩に報いたい」という論評記事を配信しました。
中国赤十字会は同日、日本赤十字社に100万元(約1260万円)を緊急援助し、必要に応じた人道援助をすることを決定しました。
一般市民の間でも支援の声は高まり、北京の大学生や会社員ら、有志の若者が仲間に義援金を呼び掛け、既に約5000元が集まったのです。同日午後、中国国際援助隊は生存者の捜索に必要な設備や救急医療物資など4トンの物資を携行し、羽田空港に到着します。
中国政府商務部は14日、毛布2000枚、テント900張、手提げ式応急灯200個などといった3000万元(約3億7500万円)相当の援助物資追加支援を決定し、初回分は14日、上海から空輸され、宮城県登米市に提供されたのです。第二陣は28日にミネラルウォーター6万本やゴム手袋325万組がそれぞれ茨城県、日本赤十字社に提供され、第三陣は31日にゴム手袋1万組、仮設トイレ60個、スニーカー2万5000足が提供されたのです。
さらに別枠で、3月16日、中国政府は日本政府の要請に応じてガソリンと軽油各1万トンを日本政府に対して提供することを決定、それぞれ4月2日、3日に日本に到着、被災地に送られました。
また新聞は「過去の遺恨による民族主義は天災や人道とは関係ない」とし、四川大地震の際に日本が援助したことを受け「民族の感情を超越した人道主義」と評し「必要なのは学ぶことと助け合うこと」と伝えたのです。
3月19日、東京電力は中国外務省を通じて中国の三一重工業集団有限公司に高さ62メートルから放水できるポンプ車の購入を打診すると、三一重工が無償での提供を申し出ます。
この巨大なポンプ車は1台約8500万円で、運搬にかかる費用を含めた約1億円を同社が提供し、24日に日本到着後、陸路で福島に向かい、31日より福島第一原子力発電所の原子炉冷却作業を開始します。
4月1日、中国政府はガソリン1万トン及びディーゼル油1万トンを緊急支援物資として被災地に提供しました。
そしてその後、温家宝首相は東北の被災地をつぶさに訪問し、直接、被災者を励ましたのです。
上記で中国の支援をご紹介したのは以前に韓国と台湾の支援を詳しくご紹介したので、その続きです。

(3)タイからの支援。
タイのプミポン国王夫妻は3月12日に、「地震と津波で甚大な被害が出たことを深く悲しんでいる。両陛下と全ての日本国民に心からの弔意を表す」と弔意を表する書簡を送って来ました。
アピシット・ウェーチャチーワ首相は、国民向けテレビ番組で「日本は長年にわたる開発のパートナーであり、重要な友好国」と述べ、支援する姿勢を明確にしたのです。また、毛布や食料など救援物資のために2億バーツ相当の予算を組む予定だと明かします。
同月13日にはレスキュー隊員と捜索救助犬の派遣を決め、日本の大学を卒業した医師35人の派遣も検討しました。
タイ政府は義援金の送付をすでに決め、国民からの援助物資の受付や義捐金を受け付ける銀行口座を設置しました。
3月25日までに政府より500万バーツ、国王夫妻より500万バーツが日本赤十字社に寄付された他、支援物資としてワチラーロンコーン皇太子より毛布2万枚、パチャラキティヤパー王女より救助袋15,550セット、寝袋1000式、缶詰9000缶、タイ政府・国民から即席麺2万4000個、缶詰1万9200個、飲料水1万5000本、懐中電灯400個を贈って来ました。
タイ政府は5月9日にも日本語が話せる医療支援チームの派遣して被災者、特に小児に対する感染症防御のための支援活動をしたのです。
その他の世界各国の支援の状況は以下のように掲載されています。

(4)「東日本大震災に対するアジア諸国の対応 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災に対するアジア諸国の対応...
に、東日本大震災に対するアジア諸国の対応について記述してあります。

(5)「東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応 - Wikipedia」
「東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応」を検索すると東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応について記述してあります。

(6)「東日本大震災に対する北アメリカの対応 - Wikipedia」
「東日本大震災に対する北アメリカの対応」を検索すると支援の内容が記述してあります。

またメジャーリーグベースボール (MLB) およびメジャーリーグベースボール選手会 (MLBPA) が併せて50万ドルを、日本の地震と津波の被害に対する義捐金として国際連合児童基金 (UNICEF) に寄付すると発表した。また、MLBの「Japan Relief」特設ページで寄付しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
世界各国からの支援の全てを書きつくすことは大変なことですが概略をまとめてみました。

「東日本大震災後の韓国人の支援を我々は絶対に忘れない!」

2020年08月12日 | 日記・エッセイ・コラム
終戦の日が近づきました。戦後のいろいろを想う今日この頃です。そのいろいろの中から今日は東日本大震災にまつわる写真をお送りいたします。写真は東日本大震災が起きた後に韓国で撮られた写真です。出典は、https://cadot.jp/impression/1794.html/1 です。
2011年の3月11日の東日本大震災の後で、韓国人は我々を激励するメッセージを韓国の町中に掲示し、多額の義捐金や救援物資を送ってくれたのです。その上多数のボランティアの韓国人が被災地の復興に汗を流してくれたのです。日本民族は韓国の人々のご恩は絶対に忘れません!本当に有難うございました。
そして台湾をはじめ世界中の国々から篤い支援があったことも絶対に忘れません!
今日、ここに掲載した写真には説明は要りません。静かなお気持ちご覧ください。

東日本大震災は大きさ悲劇でした。亡くなった方々のご冥福を心からお祈りいたします。









「自由に花を摘める花園のある公園」

2020年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の三鷹市の「花と緑の広場」という公園では年に数回花を植え替えます。植え替える時、それまで咲いていた花を自由に摘んで良いのです。花を切るハサミを事務所が貸してくれます。また時には事務所の人が刈り取ってバケツに花束を入れておきます。その花束は自由に持って帰れるのです。
実に有難いサービスです。楽しくなります。
昨日は家内が1番目の写真のような花束を貰って来ました。
昨日、「花と緑の広場」の写真4枚と共にお送りいたします。









「江戸時代と同じ明治時代の庶民の生活、その実態を示す写真」

2020年08月11日 | 写真
学校で習う日本の歴史は天皇や貴族のことばかりです。万葉集も源氏物語も全て上流階級のものです。庶民や地方に住んでいる人々の生活の実態は教えません。
しかし奈良時代になっても農民は縄文時代とあまり変わらない家に住み石器と鉄で出来た道具を併用していたのです。
支配者層の文化的な生活と農民の原始的な生活には大きな格差があったのです。この格差は明治、大正、昭和になっても同じようにありましした。格差が無くなったのは戦後の経済の高度成長の後になってからです。
ですから明治維新で近代化した筈の日本でも、庶民の生活は江戸時代とほとんど同じでした。今日はその実態を示す写真をお送りいたします。
農村における写真は130年前の明治時代にエドワード・モースが撮った写真です。カラーは後から彩色したものです。出典は小学館の「百年前の日本」(1983年初版発行)という写真集です。

1番目の写真は1900年に撮った易者です。易者はむしろを地面に敷いて座っています。高下駄をはいた老婆が跪いて易者の話を真面目に聞いています。この光景は江戸時代と同じように見えます。

2番目の写真は1900年に撮った托鉢僧の行列です。こんな光景は仏教が伝来した飛鳥時代から連綿として見られた光景です。現在の日本でも見られます。

3番目の写真は1890年に撮った八百屋です。野菜からタケノコや洗った里芋など豊富な品揃えです。店の中に夫婦と男の子が写っています。子供は手伝しながら商売を覚え稼業を継いだのです。この八百屋も江戸時代の光景とあまり変わっていませんね。

4番目の写真は1880年に撮った亀戸天神の藤棚です。数人のお客が床几に座り飲食し藤の花を楽しんでいます。亀戸天神は江戸時代から現在まで藤棚の名所です。

5番目の写真は1890年に撮った子供達です。男の子の頭はみな丸坊主で木綿のかすりの着物を着ています。子供達が笑って幸せそうにしているのは左奥の駄菓子屋の屋台が来ているせいかも分かりません。

それはそれとして、今日は江戸時代と同じように見える明治時代の庶民の生活の写真を示しました。
日本の生活が本当に大きく変ったのは終戦後ではないでしょうか。そして都会と田舎の格差の無くなったのは経済の高度成長のお陰ではないでしょうか。
130年前の明治時代にエドワード・モースが撮った写真を見ながらそんな感想を持ちました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の平和旬間「平和を願うミサ」は動画配信で与りました」

2020年08月09日 | インポート
今日は2020年平和旬間「平和を願うミサ」です。ミサを動画配信であずかりました。
日本の全てのカトリック教会はコロナ感染予防のためにミサを止めていましたが、制限しながら教会でのミサが始まりました。けれども高齢者は出席しません。
東京大司教区では土曜日の夜に行う主日のミサを動画配信しています。
古い伝統では土曜日の夜に日曜日が始まるのです。ですから土曜日の夜に日曜日の主日のミサも行えるのです。
私どもは何時ものように今日の午前に昨日の土曜日の夜の平和を願うミサにあずかりました。
何時もながらタルチシオ菊地功神父の信者への愛の深さや優しさに感動しました。
そして説教も格調高く、しかも分かりやすいのっです。
写真3枚は今日の動画配信のミサの場面です。





以下は今日の菊地功神父さまの説教の全文です。
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」
カトリック関口教会 -YouTube、https://www.youtube.com/channel/UCc2LbUPcHohKUgO2dYhrCvw/videos

主ご自身の、この言葉から励ましと勇気をいただき、わたしたちは平和の実現を目指しています。とりわけ、今年、2020年の夏は、1945年に広島と長崎で核兵器が使用され、多くの人命が奪われた悲劇と、それに続く太平洋戦争の終結をもって、第二次世界大戦が終わりを迎えてから75年という節目の年でもあります。

「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、教皇ヨハネパウロ二世は、1981年に広島で述べています。

この75年の間、戦争の悲惨な現実が繰り返し多くの人によって語られてきたのは、戦争が自然災害のように避けることのできない自然現象なのではなく、まさしく教皇ヨハネパウロ二世が広島で指摘されたように、「戦争は人間のしわざ」であり、「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものでは」ないからこそ、その悲劇を人間は自らの力で避けることが可能であるからに他なりません。

教会はこの節目の年の平和旬間にあたり、教皇フランシスコの昨年の広島における言葉を引用して、こう主張します。

「戦争のために原子力を使用することは、……これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の所有は、それ自体が倫理に反しています」

教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」を、次の言葉で始め、教会が考える「平和」の意味を明らかにしています。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

教会が語る「平和」とは、神の定めた秩序が実現している世界、すなわち神が望まれる被造物の状態が達成されている世界を意味しています。

教皇ヨハネ23世は「地上の平和」において、自然法に基づく人間の権利と義務について触れ、その権利がすべからく実現していることこそ、神の望まれる世界の実現であると説きます。

教皇が指摘する人間の権利とは、「生存と尊厳ある生活水準への権利、倫理的および文化的価値に与る権利、良心に従って神を礼拝する権利、生き方を自由に選択する権利、経済における権利、集会と結社の権利、移住および移民の権利、政治に関連する権利」であります。そして教皇は、わたしたちには、他者の権利を尊重し互いにそれを実現していく義務があるのだと説かれます。すなわち、そうした様々な権利が実現していない限り、神の定めた秩序はこの世界に実現していないのであり、「平和」はもたらされていません。

今年の初めから、わたしたちは経験したことのない事態のただ中におります。新型コロナウイルスの感染拡大のため、日常生活や仕事にも大きな影響が出る中、教会も今年の平和旬間行事を含め、その活動を中止せざるを得なくなりました。

感染症は一つの国に留まらず、いまや世界中を巻き込んで拡大し、各地に多大な影響を与えています。多くの方が大切ないのちをなくされた国も多数存在し、今この時点でも、いのちの危機に直面している人は少なくありません。いのちを守るために努力を続ける医療関係者に、敬意を表したいと思います。

世界を巻き込んで発生したいのちの危機は、その解決のためにも、世界全体の視点から連帯が必要であることを明確にしています。しかし残念なことに、世界的規模の連帯は、この事態にあっても実現せず、かえって、多くの国が自国の安全と利益だけを優先する事態にもなっています。資金的にも医療資源でも乏しい、いわゆる途上国の多くは取り残されようとしています。

教皇フランシスコの指示を受けて、この危機に総合的に対処するために、教皇庁には特別な委員会が設置されました。その責任者であるタークソン枢機卿は、7月7日に会見を開き、次のように述べておられます。

「現在の互いに関連した危機は、世界が互いに結びあわされている事実を反映して、連帯のグローバル化が緊急に必要であることを示している。わたしたちの世界には、一致のきずなを回復し、誰かをスケープゴートにせず、互いの批判合戦を止め、卑劣な国家主義を否定し、孤立化を否定し、そのほかの利己主義を否定するようなリーダーが必要だ」

その上で、枢機卿は今回の感染症といういのちの危機は、教皇フランシスコが強調する、共通の家を守る必要性にあらためて気づかせるとして、こう述べています。

「(人類は)第二次世界大戦以降最大の人道的危機に直面している。現在、これまでにないような金額が軍事目的で支出されているもかかわらず、病人、貧困者、排除された人、紛争の犠牲者が、比較にならないほど現在の危機の影響を受けている。現在、健康、社会経済、環境において互いに関連した危機が、富める者と貧しい者の間だけでなく、平和、富、環境正義を享受している地域と、紛争、貧困、環境破壊に直面している地域の格差も広げ続けている」

教皇フランシスコは、回勅「ラウダート・シ」で、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を求めています」(137)と指摘し、総合的エコロジーへの取り組みを提唱します。

総合的エコロジーは、単に環境問題への配慮だけではなく、貧困の解決、健康の確保、基本的人権の確立、武器の放棄、紛争の停止を包摂した概念であり、すなわち平和構築を目指す道の、別の名前に他なりません。

すべては、わたしたちの共通の家の未来をどのように描き、それをわたしたちがどのように実現しようとするかにかかっています。平和の問題は、複雑に絡み合った人間の生の営みと、被造物との関係、そして創造主である神との関係を、一つ一つ解きほぐして、神が望まれる有り様に紡ぎ直していく、途方もない作業であります。たまものであるいのちに関わるすべての課題は、密接につながっており、複雑に絡み合っています。解決のための近道はありません。地道な取り組みが必要です。

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」

わたしたちは、あらためて主のこの言葉に励まされ、平和を実現するために、様々な課題に地道に取り組んでいく決意を、今日、戦後75年の平和旬間にあたり、新たにしたいと思います。(終わり)

「今日は75年前に長崎に原爆が落とされた日、そして祈りの言葉」

2020年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は75年前に原爆が長崎に投下された日です。原爆の投下により、当時の長崎市の人口24万人のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊しました。
長崎の犠牲者のご冥福を謹んでお祈りします。
キリスト教の国のアメリカが隠れキリシタンが後に建てた長崎の浦上天主堂に原爆を落としたのです。私は宗教の無力さを感じ心が痛みます。宗教の無力さを感じながら、それでも私はキリスト教を信じています。ですからキリスト教の話を少しだけ書かせて下さい。

キリスト教で現在、祈りの時唱える言葉は2000年も前に、イエスが教えた祈り方なのです。
当時、人々がイエスに質問しました。
「神に祈る時はどう言えば良いのですか?」
イエスが答えて、「自分が祈る時に、神にこういうふうに祈ります」と。
それが現在、世界中で「主の祈り」と呼ばれ以下のように唱えられています。

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。

キリスト教の信者はこの祈りを一番大切にしていて、ミサの中でも必ず唱えます。
特に歌ミサではメロディをつけて、https://www.youtube.com/watch?v=ubD4e_-hmG4 のように歌います。

みこころが天に行われるとおり地にも行われていれば長崎に原爆に落とされなかった筈です。本当に心が痛みます。

今日の挿絵代わりの写真は「遥かな五島列島への旅(1)訪れた5つの天主堂の写真」(2015年04月13日掲載記事)にある 5つの教会の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は井持浦天主堂です。

2番目の写真は堂崎天主堂です。

3番目の写真は青砂ケ浦天主堂です。

4番目の写真は頭ケ島天主堂です。

5番目の写真は中ノ浦天主堂です。

五島列島は本当に遠い離れ島です。遥かに憧れて数十年、やっと2泊3日の旅で訪れることが出来ました。長崎の活水大学の教授だった片岡弥吉氏のキリシタンに関する数々の本や遠藤周作氏の「沈黙」などのカトリック関連の著書を読んで以来一度は訪れるべき場所として長らく心に決めて憧れていました。
長崎から小さい旅客機で下五島の福江に渡り、そこに一泊しました。2日目は海上タクシーで上五島に渡りそこに泊まりました。
3日間、観光バスで五島列島の険しい山々を越えて岬と岬の間にある小さな集落を幾つも巡り5つのカトリック教会を訪ねました。五島列島には全部で50ケ所のカトリック教会がありますので、訪問したところはそのほんの一部にすぎません。」(2015年04月13日掲載記事の冒頭部分です)

「コロナ問題と風が吹けば桶屋が儲かる」

2020年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム
コロナの感染拡大で産業界は大きな経済的な打撃を受けています。その悪影響はリーマンショック以上と言われています。外出自粛で飲食店や居酒屋は虫の息です。人々は自宅に籠って耐乏生活です。
観光客の乗る航空機の会社やホテル、旅館は赤字転落で倒産するところも出ています。
新聞によるとこの4月から6月の四半期の日本の産業界全体の利益率は前年同期に比較すると75.9%下落したそうです。
産業界の製造業は84.4%の下落です。その中食料品製造は11.6%の減少です。
非製造業は66.0%の下落です。特に小売店は56.8%の減少です。
このように産業のあらゆる分野でコロナの打撃を受けているのが現状です。
しかしコロナの感染と何の関係もない業種でも影響を受けているのです。
理由を考えると、「風が吹けば桶屋が儲かる」といういきさつなのです。この分かりにくい俚言の意味は意外なところに影響が出ること、また、あてにならない期待をすることのたとえなのです。
風が吹くと土ぼこりがたって目に入り盲人が増える。 盲人は三味線で生計を立てようとするから、三味線の胴を張る猫の皮の需要が増える。 猫が減るとねずみが増え、ねずみが桶をかじるから桶屋がもうかるということです。

今日は私が経験した意外なコロナの影響をご紹介します。
自分のコンピューターが故障した時に私は日頃使っている「遠隔コンピューター修理」の会社に電します。先日も故障したので電話したら話し中です。やっと繋がったら今度は「コロナ問題で忙しいから暫く待ってください」という声が流れてきます。その後故障は何時ものように簡単に直してくれました。
しかし私は釈然としません。何故、コロナ問題が「遠隔コンピューター修理」を忙しくするのでしょうか?
きっと風が吹けば桶屋が儲かるようなまわりくどい関係があるのでしょう。
それは外出自粛で家に居ることが多くなる。退屈だから日頃使っていないコンピューターで遊び始める。日頃使っていないからすぐに分からなくなったり故障する。あわてて「遠隔コンピューター修理」の会社へ電話する。こんな人が急に増えたから「遠隔コンピューター修理」の会社の電話が繋がりにくくなる。コロナ問題のお陰で「遠隔コンピューター修理」の会社の儲けが増大するのです。
どうでしょうか。こんな推理は?

もう一つはコロナの影響でヨットが売れなくなるという推量です。
先週の土曜日に9年ぶりに昔自分が乗っていたヨットを霞ヶ浦に訪れたのです。その時撮った写真を示します。





この3枚の写真を見て驚くべき事は土曜日の午後なのに人っ子一人いないという事実です。写真に写っている場所は週末になるとヨットマンで賑わっていたのです。それが人影が皆無なのです。これではヨットが売れる筈がありません。日本の大手のヨット製造会社のヤマハは打撃を受けていることでしょう。その上自動車も売れていないので自動車よりも役に立たないヨットが売れる筈がありません。
最後の写真の右側のヨットは9年前まで私が乗っていた愛艇です。現在の持ち主があまり来てないようで荒れた様子です。コロナ問題はヨットの趣味の衰退を促しているような感じがします。

コロナ問題は鉄鋼製錬業の大会社へも大きな減収をもたらしています。コロナ菌は鉄鋼と関係がありません。しかし自動車が売れなくなります。
自動車の全重量の90%は鉄鋼で出来ています。自動車が売れなくなれば鉄鋼も必要性が減少します。大手の鉄鋼製錬会社が減収になります。
このようなコロナ問題の悪影響はあらゆる産業分野で起きています。

しかし私は産業界の素早い復興を信じています。一面焼け野原になった日本の復興を見た私にとっては日本人がコロナ菌に敗けないことを信じています。
しかしその一方で不運にも倒産した人々の再起をお祈りしています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、美味しいパン屋さんを探す」

2020年08月07日 | 日記
美味しいパン屋さんを探すためインターネットで検索し、ムッシュイワン日野店を見つけました。午後から車で行きました。
場所は北野街道の高幡不動の少しの先の右側にありました。広い駐車場があります。
いろいろなパンを買い、その後店内でコーヒーとパンを味見しました。美味しかったので帰宅後、バケットを味見しました。麦の香りが強く、塩味が強く美味です。美味しいのですが少々高いのです。
店員は愛想がありません。美味しいパンを作る職人ワザを売り物にしている店のようです。
撮って来た写真を掲載します。正確な場所は「ムッシュイワン日野店」を検索するとHPにあります。店には派手な看板も出ていないので見落としがちです。







「今年の夏は各地の祭りも花火大会も盆踊りも中止で淋しい夏」

2020年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム
今年の夏は静かで淋しい夏になりました。各地の祭りも花火大会も盆踊りも中止になるのです。
そこでこの欄では以前の「青森のねぶた」と各地の「花火大会」の以前の写真を次のように掲載しました。
「コロナで中止の青森ねぶた祭を初めて見た時の驚きと感動」(2020年07月14日 )と「夏の風物詩の花火大会、コロナでも開催予定の所」(2020年07月16日)。写真を1枚ずつ示します。

1番目の写真は巨大な青森のねぶたです。ねぶたがゆらゆら揺れながら通りをやって来ます。前後に威勢の良い「跳人」が鈴を鳴らしながらラッセラーと激しく踊っています。

2番目の写真は熱海の花火大会です。山に囲まれ花火が海に写って美しい光景になります。

今日ご紹介する盆踊りは「おわら風の盆」です。10年ほど前に何度か見に行きましたが、その美しさと深い宗教性に感動しました。
盆踊りは、ご先祖や亡くなられた方の霊を迎え入れて供養する行事です。佛教の教えが結びつき現在まで伝わってきた日本の伝統行事です。
5枚の写真の出典は「富山市の観光ホームページ」(http://visit-toyama.com/jp/entry.php?nid=20001 )からです。









この富山県富山市八尾町の「風の盆」は非常に静かで優雅なのです。哀調さえ感じさせます。
帰ってきた先祖の霊魂を慰めようとする踊り手の気持ちが心に伝わります。
「おわら風の盆」の踊りの所作はあくまでも上品です。ゆっくりした音曲が八尾の町並を流れます。
胡弓は寂しげな音色でかなでます。
女の踊り手は笠を深くかぶり決して顔を見せないのです。皆、細身の姿勢が揃っていて、その姿が楚々として美しいのです。
一方、男衆の踊りはあくまでもキビキビとしていさぎよいのです。
町の家々は軒の低い昔風の造りで、人々は明かりを消して家の奥へ引きこんでいます。
観光客だけが踊りの列を囲んでいますが、誰も声を上げないので町中が静かです。
嗚呼、盆踊りとは元来、仏教の行事だっだと理解しながら楽しい時間を過ごしました。
車の駐車場は町の下の川沿いにあります。観光客はその駐車場から高台にある八尾の町へ歩いて登って行きます。夏の夕風にゆれる提灯のような灯の列の下をゆっくりと登るのです。風の盆を以前に見た人々が混じっているのでしょうか、人々の歩き方も優雅になっています。帰りにこの坂を下る人々は一層静かに歩いていました。
おわら風の盆の起源は、江戸時代の元禄期にさかのぼると伝えられています。
「風の盆」の名称の由来については、風鎮祭からともお盆行事からともいわれています、はっきりとしたことはわからないそうです。
日本各地には数多くの盆踊りがありますが、今日は最も優雅なことで有名な富山県の「おわら風の盆」をご紹介しました。
尚、風の盆の動画は、https://www.youtube.com/watch?v=TfjZmZeW6cY にあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の原風景、水稲栽培の農村の130年前の風景」

2020年08月05日 | 写真
日本の原風景は水稲栽培をして農村の風景です。
2000年前の登呂遺跡の稲作の水田が復元されています。その風景が現在の水田風景と同じなのです。日本に水稲栽培が広がるようになったのは2300年前の弥生時代になってからです。

1番目の写真は静岡県の登呂という場所にある遺跡を復元した風景です。正確に言えば1900年前の稲田の風景です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/登呂遺跡 です。
写真の左奥に写っている高床式の建物は村の祭殿です。写真の奥に3軒の農家の屋根が写っています。農家は縄文時代と同じ竪穴住居です。向こうの白い鉄筋のアパートや邪魔な電柱は存在していませんでした。こんな農村風景が2000年以上連綿と続いたのです。それは正しく日本の原風景です。

今日はこの農村風景の130年前の写真をお送りします。
エドワード・モースが撮った写真です。カラーは後から彩色したものです。出典は小学館の「百年前の日本」(1983年初版発行)という写真集です。

2番目の写真は1900年撮影です。踏車で田植えの準備として水を上げている光景です。親子三代が何やら話し合っている微笑ましい光景です。私も疎開先の田舎でこの踏車で水を汲み上げたことがあります。子供でしたが 踏車の上に登って足で踏車の羽根を回すのが面白く何度も登ったものです。

3番目の写真は2人の女性が稲の苗を苗代から取って小さな束にしている光景です。1890年撮影されたものです。この小さな束にした苗を田圃に持って行き田植えをします。

4番目の写真は村人が協力して田植えをしている光景です。揃いの笠が懐かしい風景を作っています。1880年撮影です。

5番目の写真は成長した稲の間に入って子供達が稲の害虫「髄虫」の卵を捕っている光景です。稲の害虫捕りと田の草取りを何度もしないといけないのです。私も暑い真夏の水田に入って草取りをしました。ヒルが足に食いつき辛い作業でした。

6番目の写真は刈り取った稲から千歯こきで脱穀している場面です。1900年の撮影です。若い夫婦が協力して作業している微笑ましい写真です。1945年に疎開した農家ではもう千歯こきは使っていませんでした。歯のついたドラムを足で回転させる脱穀機を使っていました。

7番目の写真は唐臼で籾殻を取り除いて玄米を作っている場面です。1870年の撮影です。この作業の後で玄米を計量して4斗(40升)ずつ俵に詰めて出荷します。玄米は精米所で白米します。
以上のような作業の順序は現在でも同じです。しかし田植え機や稲刈り機が普及し辛い作業の一部は楽になりました。

そして日本の農村の現在も稲田が広がっています。その風景は2000年以上変わらない日本の原風景なのです。日本には何度も天災がありました。権力者の興亡が何度もありました。しかし稲作農業は天災や権力者の興亡に何の関係も無く悠々と続いているのです。深く感動します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「人間が傲慢になったので、神がコロナで試練を与えたのか?」

2020年08月05日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の経済の高度成長によって新幹線や高速自動車国道が全国に普及しました。国内の観光旅行にも飛行機を使う人もいます。IT技術が一般に普及し生活が非常に便利になりました。スーパーマーケットには美味しいものが多種多様に溢れています。
現在の日本の生活ほど豊かで便利になったことは画期的なことです。この便利な時代は日本の歴史を考えると初めてのことです。
最近、私は感じています。今回のコロナ禍の世界的蔓延は経済成長で傲慢になった人々へ神が与えた試練ではないかと感じています。旧約聖書で神が人間に与えた試練を想起しています。
2011年に起きた東日本大震災の時にも私は同じような感じがしました。
人間が傲慢になると神は時々試練を与えるのです。皆さまはそのように感じていらっしゃいませか?

そこで今日は、一切の近代文明を拒否して素朴に生きているアーミッシュ民族の生活の様子をご紹介したいと思います。
アーミッシュ民族はアメリカの田舎に住んでいます。そして自動車や電気・ガス・水道のような近代文明を一切拒否して、牧畜と農業だけで生活をしているのです。
彼等はアメリカのペンシルベニア州やオハイオ州の中西部やカナダ・オンタリオ州などの農村に住んでいるキリスト教の一派です。その総数は約22万人で、年々増加しているようです。
私は1990年の前後に2年間ほどオハイオ州に住んでいました。その時、アーミッシュ民族の村へ数回遊びに行きました。一度はアーミッシュの村のランプの宿に泊まる体験もしました。
それでは写真に従って彼らの生活ぶりを見ていきましょう。写真は全てインターネットで検索し転載しました。

1番目の写真は古い納屋と箱型の馬車です。アーミッシュの村に入るとこのような馬車とよくすれ違います。馬車には決まったように老人が乗っています。若者は屋根のある馬車には乗ってはいけないのです。馬車の老人に手を振って挨拶をすると、わずかに手を上げて挨拶を返します。

2番目の写真は黒服の正装をして教会の礼拝に行く様子です。若者は歩き、老人は馬車で行きます。

3番目の写真は手作業で収穫した牧草を運んでいるようすです。農業は小麦の栽培や野菜を作っています。そして牛を飼って牛乳やチーズを作っています。

4番目の写真は屋根の無い馬車に女性が3人と男の子が二人乗っています。楽しそうな雰囲気なので、何処かにピクニックにでも行くのかも知れません。

5番目の写真は犂を2頭の馬で引かせて畑を耕している光景です。農業ではトラクターや耕運機を一切使いません。全て人力か馬を使います。

アーミッシュ民族には戒律があり、原則として快楽を感じることは禁止されるのです。ですから賛美歌以外の音楽は聴いてはいけないことになっています。
その他、戒律として、喧嘩をしてはいけない。読書をしてはいけない(聖書と、聖書を学ぶための参考書のみ許可)。義務教育以上の高等教育を受けてはいけない。化粧をしてはいけない。派手な服を着てはいけない。離婚してはいけない。などなどが守られています。
アーミッシュ民族は近代以前の生活様式を基本に農耕や牧畜を行い自給自足の生活を営んでいるのです。

最後に私の泊まった民宿の様子をご紹介します。
それは日本によくあるペンションのような建物でした。食堂と炊事場だけは自家発電の電気がついています。寝室に行く廊下とベッドルームはランプでした。寝室にはベットがあるだけで、トイレや洗面所は廊下にあります。
食事の間に女主人にいろいろ聞きました。炊事場で電気が絶対に必要なのは冷蔵庫と冷凍庫だそうです。炊事の燃料はプロパンガスです。
自分と夫はアーミッシュではなくプロテスタントだが、アーミッシュの人々を尊敬しているので民宿を経営しているそうです。そしてアーミッシュ・キルトやチーズの土産物屋を経営している人も皆アーミッシュではない普通のアメリカ人なので、ガレージの中には自動車があると教えてくれました。
そしてこのような人々から税金も取らずに自由にさせているアメリカは立派な国だと自慢するのです。
夜も更けたころ、女主人はランプを手渡してお休みなさいと言います。
暗い寝室の窓からは星空が見えました。村中が暗いので星がよく見えたのを憶えています。

最近、私は今回のコロナ禍の世界的蔓延は経済成長で傲慢になった人々へ神が与えた試練ではないかと感じています。旧約聖書で神が人間に与えた試練を想起しています。
そこで今日は一切の近代文明を拒否して素朴に生きているアーミッシュ民族の生活の様子をご紹介しました。アーミッシュ民族は一人もコロナ菌に感染した人は居ないと私は信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「宗教は無力だが、それを信じ毎日が楽しい」

2020年08月02日 | 日記・エッセイ・コラム
今回のコロナ感染で世界中の死者が66万7千人も出ています。世界には仏教やキリスト教やイスラム教を信じている人々が何千万人といます。私は宗教はコロナに対して無力であると感じています。
Face Bookで友人の中村 裕一さんが次のようなコメントを投稿してくれました。
『私は今回のコロナ禍の世界的蔓延を見るにつけ、旧約聖書で神が人間に与えた試練を想起します。追放されたアダムとエヴァ、ノアの箱舟の洪水、バベルの塔の崩壊、アブラハムに与えた試練など、人間が誘惑に負けたり、傲慢になった時、神は人間に常に試練を与えます。東日本大震災の時に石原都知事が「天罰」と発言し、不評を買ったのも記憶に新しいですが。ヒトは常に謙虚であらねばと思い知る今日この頃です。』
私は「ヒトは常に謙虚であらねばと思い知る今日この頃です。」という意見に深く同感します。
そんなことを考えながら昨日は息子一家と車を走らせつくば市と土浦港のヨットの係留地に行って来ました。
あの幼児だった男の双子の孫が大きく成長し、筑波大学に入りこの4月からつくば市に住んでいます。双子のもう一人の孫は4月に立命館大学に入り京都に住み始めました。昨日はその京都の孫が車を運転してくれました。安全運転をしている孫を後席から見ていると、あの幼なかった孫も成長したものだと感心します。
つくば市で昼食を摂り、午後は土浦港のヨットの係留地に行きました。9年前に別れた愛艇のルナ3世というヨットに再び会うためです。ルナ3世は昔と寸分変わらぬ姿です。右隣のモーターボートも左のヨットも9年前と同じです。9年という時が止まっているようです。
私は23年間霞ヶ浦でヨットをしていました。当時の楽しかった思い出の場面が走馬燈の絵のように脳裏に浮かびます。昨日は楽しい一日でした。
宗教は無力ですが、それを信じ毎日を楽しく過ごしています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は東京外環自動車道の風景です。この後、三郷JCで常磐高速道路に乗り換え筑波へ行きます。

2番目の写真は9年前に別れた愛艇のルナ3世というヨットです。真ん中の船体に黄色の線が入っているヨットです。

3番目の写真はヨットの係留地から筑波山の方向を見た風景です。筑波山はビルの陰に僅かに写っています。

4番目の写真はヨットの係留地からJR土浦駅の方向を見た風景です。土浦駅は係留地から200メートル北にあります。

5番目の写真は土浦港の沖に広がる霞ヶ浦の風景です。ここから霞ヶ浦を40Km帆走すると東端の潮来にいけます。

「明治23年頃の笊・箒の行商、花売り、蕎麦屋の写真」

2020年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム
エドワード・モースは大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。ボストンの近くのセイラムという港町に終生住んでいて、その町にあるピーボディー博物館に収集品を保存し、展示しました。
彼の収集品には約130年前の日本の風景写真が数多く含まれています。
その多数の風景写真から重要なものを選び、編集して出版したのが小学館です。それは、「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という大判の写真集です。
今日は、この「百年前の日本」から笊・箒の行商、花売り、蕎麦屋の写真を4枚お送りします。撮影時期は1980年(明治13年)から1990年(明治23年)頃と考えられています。

1番目の写真はカゴや箒を山のように積んだ行商の写真です。

2番目の写真もカゴや箒を山のように積んだ行商の写真です。行商に命をかけた男の気持ちが伝わってきます。

3番目の写真は花の行商の写真です。当時はカラー写真は無かったので、後で彩色した写真です。花を美しく並べて売ろうという気で行商したのでしょう。

4番目の写真は担いでソバを売り歩く商売の写真です。職人風の男が出来上がるのを待っています。
ソバ屋が右手を入れている所にお湯が沸いている鍋とコンロがあるようです。右にはソバ玉、つゆ、丼を洗う水、かき揚げなどがしまってあるのでしょう。
天秤棒を肩に夜の町々を流して商売をしていたと言います。辛そうな行商の写真をみると何故か胸にせまるものがあります。現在も行商はありますが小型トラックに商品を積んでいます。

こんな写真を見ていると明治期の街に流れる行商たちの呼び声が聞こえて来るようです。それにしても明治は遠くなりました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)