後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「信州の無言館訪問と戦没画学生の油彩画と日本画」

2020年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム
あれは10年以上前のことでした。東京駅のギャラリーで戦没学生の油彩画と日本画の展覧会がありました。信州の無言館から貸し出された絵です。召集され出征前の何日間に画学生が今生の想いを込めて描いた絵画です。
無言舘は、長野県上田市、別所温泉近くの山の中にあります。
感動した私はさっそく別所温泉に泊まって、翌日山の中の道を迷いながら無言館にやっと辿り着きました。
鎮魂という言葉を連想させる、修道院のようなコンクリート製の建物でした。
戦没画学生の作品を常設展示しています。館長の窪島誠一郎さんが全国の遺族を訪問し、一枚一枚集めた絵画です。集めた絵画は数百点あると言います。

1番目の写真は無言館です。私と家内は展示してある画学生の遺作の絵画を一枚一枚を丁寧に見て行きました。ガランとした館内に我々の足音だけが響きます。その足音は鎮魂の音楽のように響いたのです。
帰宅後、私は戦没画学生の作品をインターネット上で皆様にご紹介しようといろいろな本を探しました。
そうしたら多数の遺作絵画は、NHKきんきメディアプラン発行、「無言館 遺された絵画」2005年版に掲載されていることが判りました。すぐにこの写真集を購入しました。

今日はこの写真集から8枚の戦没画学生の作品をご紹介いたします。

2番目の写真は杉原基司さんの「神戸東亜ロード」です。
杉原基司さんは神戸生まれ、東京美術学校を卒業し、戦闘機に乗りました。昭和20年2月16日、厚木飛行場の上空で来襲して来た米軍機と空中戦をし、激墜され戦死しました。享年23歳でした。
戦死した後で妹が書いています。
・・・水泳部で派手に水しぶきをあげていた兄。ガラスの窓にドクロの絵を描いて妹の私を泣かせた兄。クラシックと讃美歌しかなかったわが家でジャズやクンパルシータを初めて聞かせてくれた兄。そんな兄が、美校を卒業して海軍予備学生となり、沢山の兵隊さんが死ぬゼロ戦を志願したのは、やっぱり持ち前の好奇心”飛行機に乗りたい”と思ったからでしょうか?
昭和20年2月16日、、、、厚木上空に初めて米軍戦闘機が来襲したとき兄は23歳の生命を散らしました。・・・

3番目の写真は金子孝信さんの「子供たち」です。
大正4年、新潟県生まれ。昭和15年、東京美術学校卒業。同じ年に入隊し、仙台の予備士官学校を出て、昭和17年5月27日に中国の華中の宣昌にて戦死。享年26歳。出征の朝までアトリエで天の岩戸を題材にした大作を描きつづけていました。見送りに来た友人に「これは自分の最後の作品。天地発祥のもとである天の岩戸に自分は帰っていくんだよ」と言って出征していきました。そしてそのとおりになったのです。姉を描いた美しい日本画もありますが、「子供たち」という題の日本画を掲載します。彼の家は代々、由緒正しい神社の宮司だったのです。

4番目の写真は岩田良二さんの「故郷風景」です。
東京美術学校卒、入隊後病気になり除隊、昭和24年11月24日病没。享年31歳。
飲まず食わずの行軍が病弱だった良二の体を壊したのです。息絶え絶えで復員。そんな彼を優しく迎えてくれたのが阿波、池田ののどかな風景でした。病床から見える光る吉野川、段々畑の広がりを何枚も、何枚も描いたのです。病気が治ったら東京へ行って絵の勉強をもっとしたいと言いつつ死んで行きました。しかし故郷の風景を再び見ることが出来た幸運に私の心も少しなぐさめられます。

5番目の写真は興梠 武さんの「編物をする婦人」です。
東京美術学校卒。昭和20年8月8日ルソン島、ルソド山にて戦死。享年28歳。
この絵は一番下の妹の絵。絵を描いて出征し、妹は間もなく病気で死にます。その報告を戦場で受け取った興梠 武さんは半狂乱になったそうです。
間もなく天国で二人は会って、静かに見つめあって暮らしていると信じています。ご冥福をお祈りいたします。

6番目の写真は山之井龍朗さんの「少女」です。
大正9年、横濱生まれ、絵画は洋画家だった父から習う。昭和16年出征。1945年5月9日、フィリッピン、ルソン島バギオにて戦死。享年24歳。
尚、龍朗さんの弟、俊朗さんも後から出征し、龍朗さんの戦死よりも前に戦死してしまったのです。俊朗さんは昭和18年4月26日南洋の海に沈む。享年21歳。
この絵はきっと妹の百合子さんを描いたものと思います。

7番目の写真は日高安典さんの「無題」です。
大正10年、名古屋生まれ。絵画は独学。昭和18年出征。昭和20年4月15日、フィリピン、セブ島にて戦死。享年24歳。
弟さんの話、「戦死の知らせは安典の名を書いた紙切れが一枚入っている白木の箱が一つ届いただけなんです。いつも剛気で涙などみせることのなかった母が、あの時だけは空の箱を抱いて肩を震わせて泣いていたのをおぼえています。」

8番目の写真は蜂谷 清さんの「祖母の像」です。
大正12年、千葉県、佐倉に生まれる。絵画は独学。昭和18年出征。
昭和20年7月1日、フィリッピン、レイテ島にて戦死。 享年22歳。
「ばあやん。わしもいつかは戦争にゆかねばならん。そしたら、こうしてばあやんの絵も描けなくなる」と言いつつ丁寧に、丁寧に描きあげた祖母の像です。ばあやんの「なつ」は清を特にかわいがったのでした。
戦争がはじまってしばらくした日 清は慈愛の祖母なつの肖像画を描く。なつの眼、口もと、鼻、頬、顎、手・・・・  その皺一本一本を、けっして見逃すまいとするように清は精魂込めて画布にきざみこんだのです。

9番目の写真は芳賀準録さんの「風景」です。
大正10年、山形県に生まれる。昭和15年、東京美術学校入学。昭和18年出征。昭和20年2月2日、フィリッピン、ルソン島にて戦死。享年23歳。
兄弟姉妹は準録の幼い頃からの画才に期待しやさしく見守っていたのです。

私は夏が来ると戦没画学生のこと、無言館のことを思い出します。20歳30歳台で亡くなった画学生達、若すぎます。嗚呼。そして何も残さず命の灯を消されてしまった2百万人余の戦士達の無念を想います。
戦前の昭和11年に生まれた私は折にふれて太平洋戦争のことをいろいろと思い出すのです。
そんな想いの中から今日は信州の無言館訪問の思い出と戦没画学生の油彩画と日本画をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日は動画配信の聖母被昇天ミサにあずかりました」

2020年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は聖母被昇天ミサです。動画配信のミサにあずかりました。今日の動画配信のミサの写真を3枚お送りいたします。





以下は今日の菊地功神父さまの説教の全文です。

聖母被昇天、https://www.facebook.com/bpisaomemo/
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年8月15日

聖母被昇天を祝う今日8月15日は、あらためて言及するまでもなく、日本においては平和を祈念する日でもあります。

毎年、8月6日の広島原爆の日から8月9日の長崎原爆の日を経て、8月15日の終戦記念日に至るまでの10日間を、日本のカトリック教会は「平和旬間」と定めています。

1981年2月23日から26日、日本を訪問された教皇ヨハネパウロ二世は、自らを「平和の巡礼者」と呼ばれ、昨年11月の教皇フランシスコと同様に、東京だけではなく広島と長崎を訪れました。特に広島では、「戦争は人間の仕業です」という有名になった文言で始まる平和アピールを発表され、その中で繰り返し、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と世界の人に向けて強調されました。

当時の司教団は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく、具体的な行動を伴わなくてはならないと考え、その翌年(1982年)から、日本にとってもっとも身近で忘れることのできない広島や長崎の事実を思い起こす8月6日から終戦の15日までの10日間を、「日本カトリック平和旬間」と定めました。日本の教会にとって聖母被昇天祭は、平和旬間を締めくくる日でもあります。神の母であり、教会の母であり、平和の女王である聖母マリアの取り次ぎによって、わたしたちが神の平和の実現に至る正しい道を見いだし、その道を勇気を持って歩み続けることが出来るように、祈り続けましょう。

広島平和アピールの終わりで、教皇ヨハネパウロ二世は神を信じる人々に向けて、「愛を持ち自己を与えることは、かなたの理想ではなく、永遠の平和、神の平和への道だということに目覚めようではありませんか」と呼びかけています。「神の平和への道」とは、すなわち「愛を持ち自己を与える」行動であると教皇は指摘します。

あらためて言うまでもなく、教会が語る「平和」とは、単に戦争や紛争がないことを意味してはいません。教会が語る「平和」とは、神の定めた秩序が実現している世界、すなわち神が望まれる被造物の状態が達成されている世界を意味しています。残念ながら、核兵器をはじめとして人間の抱く不信や敵対心に至るまで、神の定めた秩序の実現を妨げる要因は、数多く存在しています。

その文脈で、教皇ヨハネパウロ二世は、「愛を持ち自己を与える」行動が、神の平和を実現する道の一つであることに気がつくようにと促しています。

今年も梅雨の間に各地で集中豪雨が発生し、特に九州では大きな被害が発生しました。加えて新型コロナウイルス対策のため、県外からのボランティア参加が認められず、必要な助けが集まらないのではないかとの不安の声が聞かれました。しかし実際には多くの方が県内から駆けつけ、互いを支え合いながら、復興支援のボランティア活動に取り組まれたとうかがいました。

まさしく、愛を持って自己を犠牲にしながら、助けを求めている人のところへ駆けつけるボランティアの活動は、単なる優しさの象徴ではなく、平和構築の道そのものであります。

その意味では、新型コロナウイルス感染症と闘う医療関係者の方々は、まさしく危機に直面するいのちを救うために、いのちへの愛と尊敬を持って尽力されているのですから、その活動は、平和構築の道でもあるといえます。その働きに、心から感謝したいと思います。

教皇フランシスコは、教会が新たにされて福音宣教へ取り組むようにと鼓舞する使徒的勧告「福音の喜び」の最後に、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります(288)」と記しています。

聖母マリアの人生は、まさしく「愛を持ち自己を与える」生き方であります。聖母マリアの人生は、神の平和を構築する道として、教会に模範を示している生き方であります。

教皇フランシスコは、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と指摘します。

その上で教皇は、聖母マリアは、福音宣教の業において「私たちとともに歩み、ともに闘い、神の愛で絶え間なく私たちを包んでくださる」方だと宣言します。

教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢、とりわけ「正義と優しさの力」は、ルカ福音書に記された聖母の讃歌「マグニフィカト」にはっきりと記されています。天使のお告げを受けたマリアは、その意味を思い巡らし、その上でエリザベトのもとへと出向いていきます。「観想と他者に向けて歩む力」であります。

マリアは全身全霊を込めて神を賛美するその理由を、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と記します。ここに、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれであること」を見いだすことが出来ると教皇は記します。なぜならば、マリアがこのときその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な役割であり、救い主の母となるという、人間にとって最大の栄誉であるにもかかわらず、マリアはそれを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを「マグニフィカト」で歌っています。「強い者は、自分の重要さを実感するために他者を虐げたりはしません」と教皇は指摘されます。

そして「マグニフィカト」でマリアは、御父が成し遂げられようとしている業、すなわち神の秩序の実現とは具体的になんであるのかをはっきりと宣言しています。

「主はその腕を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」

教皇フランシスコが私たちに求めている教会のあるべき姿は、「出向いていく教会」です。教会は、貧しい人、困難に直面する人、社会の主流から外された人、忘れられた人、虐げられている人のもとへ出向いていかなくてはならない。この教会の姿勢は、聖母マリアの「マグニフィカト」にしっかりと根ざしています。

わたしたちは、聖母マリアに導かれ、その生きる姿勢に学び、神の前に謙遜になりながら、自分のためではなく他者のためにそのいのちを燃やし、「愛を持ち自己を与える」ことを通じて、神の平和を確立する道を歩んでいきたいと思います。聖母のように、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力」を具体的に生きていきたいと思います。

神の母聖マリア、あなたのご保護により頼みます。苦難のうちにあるわたしたちの願いを聞き入れてください。栄光に輝く幸いなおとめよ、あらゆる危険から、いつもわたしたちをお救いください。

「昨日はマリア様が天に上げられた祝日」

2020年08月16日 | 写真
昨日はマリア様が天に上げられた祝日です。被昇天の日と言います。カトリック教会は特に被昇天のミサを行います。そこで今日はマリア様の絵画をお送りいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は屏風の前でイエス様を抱く聖母マリア様です。その姿は、まさに無償の愛と信頼の象徴です。東京カルメル のクリスマス カ-ドです。 写真の出典は、https://ameblo.jp/jasmine-lino/entry-12231540734.html です。

2番目の写真はカルロ・ドルチ(1616-!686)作の「悲しみの聖母」です。1655年の油彩、カンヴァス82.5×67cm。東京, 国立西洋美術館にあります。
作品はカルロ・ドルチ39歳の時の佳品である。暗い背景に浮かぶ淡い光背に包まれ、深みのあるラピスラズリで描かれた、青のマントを身にまとった聖母マリアの美しくも悲痛な表情は、観者の心に深く訴えかける。

3番目の写真はFyodor Bruni の1858年作の聖母子です。 何かを訴えかけるような二人の眼差しです。彼は 1799年生まれ、 1875年に亡くなtりました。
写真の出典は、http://mementmori-art.com/archives/15284161.html です。

4番目の写真はニコラ・プッサンの『聖母被昇天』で1650年の作です。ナショナル・ギャラリー収蔵です。ニコラ・プッサンは1594年生まれ 1665年に亡くなりました。バロック時代のフランスの画家です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AF%8D%E3%81%AE%E8%A2%AB%E6%98%87%E5%A4%A9 です。