昔水田の広がる風景を見ながら育って、青年になってから都会に住むようになった人は案外多いのではないでしょうか。私もそうですが、そのような人にとって稲田の広がる風景は懐かしいものです。故郷での楽しかったことをあれこれ思い出します。ですから田圃の広がる風景を見ると幸せな気分になります。
私は仙台市に生まれ育ちました。仙台市には水田がありませんが、郊外に出ると田んぼが遠く迄広がっています。仙台平野は米どころで稲田が果てしなく広がり、夏過ぎには実のった稲穂が風に揺れていました。そして何とも言えない稲穂の良い香りがしていたものです。
終戦の頃は水田の広がる田舎に疎開していました。小学校の校庭で玉音放送を聞いてから田のあぜ道を帰って来ました。イナゴが足もとで飛び跳ねていました。
そして戦後は食糧難の時代でした。米が貴重品でした。その米を作るのが稲田です。ですから当時は水田は非常に大切にされていました。
そんな思い出がありましたから私は時々夏風に揺れる稲穂の写真を撮りに行きます。
自宅から車で1時間走ると稲田の広がる風景があります。東京都の町田市の郊外と「あきる野市」の多摩川べりに稲田があります。
一昨日は町田市の郊外の水田の写真を撮りに行きました。その写真をお送りいたします。
稲穂を見ながら気が付いたことがありました。稲穂の良い香りがしていないのです。昔の稲は強い香りがありましたが現在の稲が香りが無いのです。品種改良で米は美味しくなりましたが稲の強い香りは消えてしまったのです。
イナゴも消えたのかと注意深く見たら家内の足もとにたくさん飛び跳ねいます。何となく安心しました。
そういえば家内の実家のある甲州街道の裏には水田が多摩川の堤防まで広がっていました。婚約時代の夏の夜に家内とその稲田の道を歩いたことも思い出しました。その水田も宅地になり影も形もありません。昔は東京の郊外のあちこちに水田があったのです。時の流れは無情です。昔の懐かしい風景を跡形もなく消してしまうのです。
それはそれとして、一昨日は稲田の広がる風景の写真を撮りながら懐かしい故郷のことをいろいろ思い出しました。稲田の広がる風景を家内と一緒に見て幸せな気分になりました。老境の幸福はこんなところにもあるのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
私は仙台市に生まれ育ちました。仙台市には水田がありませんが、郊外に出ると田んぼが遠く迄広がっています。仙台平野は米どころで稲田が果てしなく広がり、夏過ぎには実のった稲穂が風に揺れていました。そして何とも言えない稲穂の良い香りがしていたものです。
終戦の頃は水田の広がる田舎に疎開していました。小学校の校庭で玉音放送を聞いてから田のあぜ道を帰って来ました。イナゴが足もとで飛び跳ねていました。
そして戦後は食糧難の時代でした。米が貴重品でした。その米を作るのが稲田です。ですから当時は水田は非常に大切にされていました。
そんな思い出がありましたから私は時々夏風に揺れる稲穂の写真を撮りに行きます。
自宅から車で1時間走ると稲田の広がる風景があります。東京都の町田市の郊外と「あきる野市」の多摩川べりに稲田があります。
一昨日は町田市の郊外の水田の写真を撮りに行きました。その写真をお送りいたします。
稲穂を見ながら気が付いたことがありました。稲穂の良い香りがしていないのです。昔の稲は強い香りがありましたが現在の稲が香りが無いのです。品種改良で米は美味しくなりましたが稲の強い香りは消えてしまったのです。
イナゴも消えたのかと注意深く見たら家内の足もとにたくさん飛び跳ねいます。何となく安心しました。
そういえば家内の実家のある甲州街道の裏には水田が多摩川の堤防まで広がっていました。婚約時代の夏の夜に家内とその稲田の道を歩いたことも思い出しました。その水田も宅地になり影も形もありません。昔は東京の郊外のあちこちに水田があったのです。時の流れは無情です。昔の懐かしい風景を跡形もなく消してしまうのです。
それはそれとして、一昨日は稲田の広がる風景の写真を撮りながら懐かしい故郷のことをいろいろ思い出しました。稲田の広がる風景を家内と一緒に見て幸せな気分になりました。老境の幸福はこんなところにもあるのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)