広重の「江戸近郊八景之内 小金井橋夕照」に描かれている小金井橋の櫻が現在でも咲いています。もっとも桜木は何代か後の木です。小金井橋は小金井街道と五日市街道の交差点にあります。広重の絵と何代か後の木の櫻の花の写真をお送り致します。広重の絵にある大きな川は玉川上水です。五日市街道は玉川上水の向こう側(北側)を上水に沿って現在も通っています。
今日はあいにくの曇り日でした。午後から小金井公園の櫻の写真を撮りに行きました。曇りで暗いので良い写真になりません。それでも桜の花は綺麗です。写真をお楽しみ下さい。
私は晩期高齢者です。明確な定義はありませんが晩期高齢者は85歳以上と勝手に定義しています。晩期高齢者になって自分の一生を振り返るといろいろなことがあったものです。悲しいことも楽しいいこともありました。
そこで今日は自分の一生で一番楽しかったことを書いてみたいと思います。甲斐駒の麓に小屋を作り遊んだことです。その小屋に関する写真を示します。
1番目の写真は甲府盆地の高速道路から見える残雪の南アルプスの主峰部分です。私の小屋はこの甲府盆地の西端の甲斐駒岳の麓にあります。
2番目の写真は山林の小屋に登る道です。少年の頃よくこのような雑木林の中で遊んだことを思い出して実に楽しい気分になります。昔はこんな林の中にシジュウカラやメジロやウグイスなどの野鳥が沢山いたことも思い出します。
3番目の写真は雑木林の中の山道を2kmくらい登りきった所にある山小屋です。
4番目の写真は山小屋の庭を流れる小川です。一年中水が涸れないで流れています。
5番目の写真は小川の水量の多い夏に撮った写真です。
家の庭に小川が流れている光景は東京では考えられません。小川が庭にあるだけで興奮します。楽しい気分になります。この小川には小さなカエルは棲んでいますがサワガニやカジカは棲んでいません。以前は岩魚がいましたが最近は姿が見えません。私の幼稚な水遊びはいろいろありますが、岸の砂をスコップで移動させて蛇行する流れを直線にしたり、その下流に大きな堰を作って池を作って遊ぶことです。
小川に溜まった落ち葉を熊手で掃除して美しい川砂が見えるようにすることも楽しいのです。ようするに小川と戯れるのです。
今は大学生になった孫達が幼児だった頃に夏のこの小川で水浴びをしていたことも思い出します。夏には必ず水浴びをしていたものです。
そして夏になると大きなオニヤンマが小川の上を盛んに飛んでいます。その幼虫は小川に棲んでいるようです。
私も昔は毎年夏になると田舎の祖父母の家に行って近所の小川でサワガニやカジカを手で捕ったものです。私の祖父は兵庫県の曹洞宗の正林寺の住職でした。そのお寺は大阪駅から山奥に入った兵庫県にありました。
毎年夏のお盆になると一家揃って兵庫へ里帰りするのが習わしでした。
蒸気機関車で東北本線で上野まで行き電車の東海道線に乗り換えて大阪駅まで長い汽車の旅でした。
山林の中の小川と遊ぶとそんなことまで思い出します。数々の楽しい幼児体験も走馬燈のように思い出します。
ところでこのような川遊びは家内も大好きです。昼食も忘れて何時までも小川と遊んでいます。
考えてみると家内の小川遊びは若い頃から続いています。大人になっても幼児性が抜けないのです。
本人はそのせいで何時までも若いと自称しています。その自慢を私は聞き流し、あえて反対しないことにしています。
今日は晩期高齢者になった私の一生で一番楽しかったことを書きました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。 後藤和弘(藤山杜人)
大正時代に国指定天然記念物第1号に指定され、1990年には「新日本名木百選」にも選ばれました。
近所に小金井祭典株式会社という店があります。葬儀社です。写真を示します。
1番目の写真は近所にある小金井祭典株式会社という店の外観です。
2番目の写真は店の内部で撮った写真です。左が是枝嗣人社長で右がスタッフの加藤順子さんです。
3番目の写真はもう一人のスタッフの大浜なつみさんです。大浜さんは是枝嗣人社長の奥さんです。
4番目の写真も大浜なつみさんです。
さて是枝嗣人さんが考えている葬儀にまつわるサービスを説明します。3つに分けて順々に書ます。
(1)是枝嗣人さんが考えている葬儀とはどういうものでしょう?
人の死は悲しいものです。遺族は悲嘆にくれています。そんな時、葬儀社がよくドカドカと機材を運び込んで大きな祭壇を作ってしまいます。遺族の気持ちなどお構い無しです。
しかし小金井祭典株式会社は違います。あくまでも遺族の心に寄り添って葬儀の相談を静かにします。心のこもった家族葬も大がかりな葬式もします。仏教の習慣も尊重します。是枝嗣人さんは仏教の立正大学の仏教学科を卒業しました。学生の頃から葬儀社でアルバイトをしていたのです。そして2007年に小金井祭典株式会社を起業したのです。葬儀の本質を深く考え理解しています。
葬儀とは故人の供養と遺族の悲しみを取り除くため行うのです。
(http://www.ks-sougi.com/ に詳しく書いてあります。)
(2)遺族の悲しみを癒すグリーフサポートやセミナーを行い何でも相談出来るサロンです。
グリーフとは悲嘆を意味します。小金井祭典では、ご遺族の悲嘆をやわらげ、支えるためのグリーフサポートに力を入れています。ここが他の葬儀社と違う特徴です。
故人と一緒に多くのものを失ったことにより、様々な感情や考えが湧き上がってきます。しかし、こうして湧き上がってくる感情や考えは、常識や習慣、私達自身の持つ先入観や誤解によって抑えつけられ、心の中に閉じ込められたままになってしまうのです。
しかし、死別によって深い悲しみを体験している時には、ちょっと話しを聴いて貰っても、一人になるとすぐに、再び深い悲しみの状態に戻ってしまいます。一度自分の感情を外に向かって出すことが出来ても、何かのちょっとした出来事をきっかけに、再び自分の思いを外にだせなくなってしまうのです。心の中にあるものを外に出せるようになったり、また元に戻ってしまったりといった状態を繰り返しながら、少しずつ心は元気になっていきます。そして、だんだんと心の整理がついてくると、悲しみに浸ってばかりいることも少なくなってくるのです。
この過程で相談に乗って早く楽な精神状態にするのがグリーフ・ケアです。
詳しくは小金井祭典のちょっと訊ける場所「めぐる」を訪問して加藤順子さんに聞いて下さい。
そしてセミナーです。
お葬式を中心とした介護、成年後見、看取り、相続、遺言、グリーフ(悲嘆)サポート,海洋散骨、樹木葬、などシニアライフ全般の情報共有のためいろいろな所でセミナーを開催しています。
是枝嗣人さんは学校、医療機関、介護施設、自治体、NPOなど幅広い講演実績があり少人数からの講演依頼も受けています。
何でも相談出来るサロン、
小金井祭典の「ちょっと訊ける場所・めぐる」は、お葬式のあれこれを気楽に無料相談できるサロンです。事前のご相談はもちろん、お葬式後のことなどもお気軽にお尋ねください。
手続きなどのご相談だけでなく、大切な人を亡くされた方がお茶を飲みながらおしゃべりして帰る…そんな場所にもなっています。
(3)是枝嗣人さんが経営している都心のもう2つの会社と地元の活性化のための活躍、
2つの会社とは、株式会社クローバーと株式会社葬送支援です。株式会社クローバーについて詳しくはホームページをご覧ください。
さて是枝嗣人さんの地元活性化の活動を少しだけ書いておきます。彼は小金井で生まれ育った郷土愛の強い人です。
小金井青年会議所の理事長もしていたこともあります。本町5丁目の商店会の副会長として夏祭りやいろいろなイベントを実行して地元の活性化をして来ました。その他市内の各種団体と連携して小金井市の活性化に活躍してきたのです。簡単に言ってしまえば小金井市の実業家のリーダーなのです。
あまり長くなるので、この辺で止めます。最後になりましたが小金井祭典は是枝嗣人社長の奥さんのなつみさんが経理を担当して健全財政で経営してます。
以上、小金井にある小金井祭典株式会社という店をご紹介致しました。
皆様のお住まいになっている所に地元活性化を熱心にしている会社があるでしょうか?意外にもよく調べると必ずあると思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
現在この地球上のウクライナで激しい戦争が行われています。ロシア民族とウクライナ民族の抗争です。長い歴史的な両民族の憎しみ合いを背景にした戦争です。私は民族とは何かと考えます。何故お互いに戦うのかと悲しい気持ちになります。
今日はそんな民族問題を背景にしてウクライナの戦争を考えてみたいと思います。具体的な足がかりとして岸田文雄首相のウクライナ訪問の写真を示します。
1番目の写真はーウに到着し、ウクライナ政府高官に出迎えられる岸田文雄首相(右から2人目)です。2023年3月21日[ウクライナ外務省提供]。 ウクライナのゼレンスキー大統領は21日、岸田文雄首相を「国際秩序の強力な擁護者であり、ウクライナの長年の友人」と呼び、首都キーウ(キエフ)訪問を歓迎しました。
2番目の写真はウクライナの惨状です。
3番目の写真は戦うウクライナの戦車です。
一般に、ある民族は輝かしい文化と暗黒の歴史の両方を持っています。ウクライナ民族とロシア民族も同様です。
例えば民族同士の抗争としてヨーロッパにおけるユダヤ人排除と殺戮の歴史です。そこで今日はこの問題を取り上げたいと思います。
さて一般論を言えば、キリスト教徒はイエス・キリストを十字架にかけて殺したユダヤ民族を憎んでいます。自分たちの大切なイエス様を残酷にも十字架にクギで打ち付け脇腹を槍で刺し殺したのです。
国土を持たぬユダヤ民族はヨーロッパ全域とロシア西部に流れ、キリスト教徒の中に混じって暮らすことになったのです。
思慮の浅い一般大衆は何か騒乱が起きると、その度にユダヤ人を殺すのです。ダヤ人殺戮はヨーロッパの伝統文化の一つなのです。
ヨーロッパ人のユダヤ人殺戮の最近の例としてヒットラーによる600万人余のユダヤ人を殺したホロコーストがあります。
ユダヤ人の殺戮は長い歴史のなかで連綿と繰り返されてきたのです。
例えば1096年にヨーロッパを出発した民衆十字軍はエルサレム奪回の途上で、次々と各地のユダヤ人を殺戮しながら遠征して行ったのです。それは第一回十字軍の遠征前のことでした。
各地でユダヤ人を見つけると虐殺しながら、ハンガリー王国やビザンツ帝国内を占領し、小アジアに攻め入ったのです。
しかし所詮は烏合の衆です。セリジューク朝の軍隊に蹴散らされ、遠征に参加した民衆はイスラム教徒の奴隷になったり殺されてしまったのです。彼等の唯一の戦果は各地でユダヤ人を殺戮したことだけでした。
このようなユダヤ人の殺戮はヨーロッパ各地で戦乱や飢饉が起きるたびに繰り返されてきたのです。これはヨーロッパ文化の「闇の半面」です。
ですからヒットラーのホロコーストはこの伝統の延長線上に起きた悲劇だったのです。
600万人とも言われるユダヤ人の大部分は東ヨーロッパとソ連西部地域から狩り集められたのです。
この大量殺戮は、そこに住んでいたキリスト教徒の協力があったればこそ可能だったと考えるのが自然です。ヒットラー個人にだけ罪を負わせるのは浅薄な理解です。
何故、アウシュヴィッツ強制収容所がポーランドに存在したのか?
ポーランドには一番多くユダヤ人が住んでいたのです。270万人以上です。ポーランドのユダヤ人は99%殺されたのです。
ヒットラーによって殺されたユダヤ人の出身国はポーランド、ソ連、ハンガリーなどです。ユダヤ人は東ヨーロッパからウクライナ、ベラルーシ、ロシアに多かのです。
4番目の写真は「死の門」・アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線です。
5番目の写真はハンガリーから到着したユダヤ人(1944)です。写真に写っている人々の顔が絶望の表情を見せています。
以上のようなユダヤ人の差別と迫害はヨーロッパの闇です。ヨーロッパ文化の暗い側面です。
さて私はカトリック教徒です。そしてアウシュヴィッツ強制収容所のあったポーランドは カトリック国です。ですからこそ最後に一言書かざるを得ません。
もともとユダヤ人だったイエス様はユダヤ人を殺せとは絶対に言いませんでした。「汝の敵を愛せ」と言い、「汝の隣人を愛せ」と言ったのです。そして異教徒のサマリア人を大切にしたのです。
ヨーッロッパ人がユダヤ人を殺すのはイエス様の教えに反するのです。それはキリスト教へ対する反逆行為なのです。ですから私はそれを「ヨーロッパ文化の闇」と言うのです。
今日は現在のウクライナの悲劇の背景にはロシア民族とウクライナ民族の抗争の歴史があると書きました。民族同士の抗争の一例としてユダヤ人排除と殺戮の歴史を紹介しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
広重の「江戸近郊八景之内小金井橋夕照」に描かれています。桜と上水と富士がきちんと描かれています。小金井橋のたもとには馬が繋がれています。馬子は煙管をくわえています。客を待っているのでしょうか。 写真の出典は、http://uzo800.blog.fc2.com/blog-entry-484.html です。
江戸時代から有名な小金井桜は玉川上水の堤沿いに咲いていました。しかし現在は市内のあちこちに咲いています。小金井は櫻花であふれるようです。
今日は午後から玉川上水付近の櫻花の写真を撮りに行きました。写真をお楽しみ頂けたら嬉しいです。
ドナウ川はドイツ南部のシュヴァルツバルト(黒い森)に源流があります。源流域はドナウエッシンゲンと言い昔住んでいたシュトッツガルト市のすぐ南にあるので見に行ったことがあります。何の変哲も無い小さな泉でした。
そこから東あるいは南東方向に流れ、ヨーロッパの10ヶ国以上を通って黒海に注いでいます。全長は2,850 kmで、ヨーロッパではヴォルガ川に次いで2番目に長い川です。船舶の遡行が可能で運河を通じて北海とも繋がっています。ヨーロッパの水運の大動脈です。このドナウは日本でも数々の歌で有名です。
例えば一つだけご紹介致します。 シュトラウス2世の「三大ワルツ」の『美しく青きドナウ』です。
Donau so blau,
Durch Tal und Au
Wogst ruhig du hin,
Dich grüßt unser Wien,
Dein silbernes Band
Knüpft Land an Land,
Und fröhliche Herzen schlagen
An deinem schönen Strand.
とても美しいドナウ川
谷や野を通って
ずっと穏やかに流れる君に
私たちのウィーンはあいさつをする
君の銀色のリボンは
国と国を結び
心は楽しく鼓動する
君の美しい岸辺で
メロディーは、https://tsvocalschool.com/classic/donau-chorus/ にあります。さてドナウ川の風景写真を示します。1番目の写真は豊に流れる中流域のドナウ川です。2番目の写真は上流域のレーゲンスブルグです。3番目の写真は中流にある渓谷の風景です。4番目の写真は下流域にあるブタベストの街です。
さてドナウ川沿岸はヨーロッパの戦乱の度に戦争に巻き込まれる運命にありました。例えば第一次世界大戦によってドナウ全域は戦火へと巻き込まれます。ドイツ、オーストリア、ブルガリア、オスマン帝国の同盟国とロシア、セルビア、ルーマニアとの間で激しい戦闘が続いたのです。1918年にドイツ側は敗北し、ブルガリアは南ドブロジャをルーマニアに割譲します。ルーマニアは大戦中のロシア革命成立したソ連から一部領土を獲得し大きなルーマニアになりました。
オーストリー・ハンガリー帝国は解体しドナウ沿岸にはオーストリア共和国、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィアの4つの新独立国が誕生したのです。
しかし1938年になるとオーストリアがナチス・ドイツに併合されたのを皮切りに、ドナウ川流域諸国は次々とナチス・ドイツ側の枢軸国となるか、その占領下に置かれたのたのです。独ソ戦争ではドナウ川は輸送路や渡河作戦の舞台となったのです。
戦後、東欧諸国はソ連に占領されルーマニアもブルガリアのソ連圏になりました。
冷戦終結後は政治的障害がなくなり、やっとドナウ川流域も平和になります。そしてドナウ運河も完成し、北海から黒海までの水運が可能になったのです。
このようにドナウ川沿岸はヨーロッパの戦乱の度に戦争に巻き込まれたのです。しかし1991年のソ連の解体によりやっと平和になったのです。
日本人はあまりドナウ川沿岸の戦乱は知りません。知っているのはシュトラウス2世の『美しく青きドナウ』という歌です。日本はドイツの同盟国だったのでドイツが占領したドナウ川沿岸の悲劇は知らされていなかったのです。しかし現在は歴史を客観的に見ることが出来ます。ドナウ川沿岸の悲劇も理解出来るのです。それにしても戦争は悪ですね。ロシアのウクライナ武力侵攻も悪です。ロシアをもっと強く糾弾すべきです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真はフランシスコ法王です。(2014年8月撮影)教皇就任 は2013年3月13日でした。
2番目の写真はフランシスコ神父さまが長崎を訪れたことを記念する原爆落下中心碑です。法王は2019年11月23日から11月26日まで日本を訪問しました。
フランシスコ神父さまは1936年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレスでイタリア系移民の子として生まれました。さて2023年の四旬節にあたって次のような教皇メッセージを出してます。
マタイ、マルコ、ルカの福音書は、いずれもイエスの変容のエピソードを描いています。そこでは、弟子たちがご自分を理解できなかったことへのイエスの反応を見ることができます。その少し前、イエスが神の子キリストであると信仰告白した後にその受難と十字架の予告を否定したペトロと師との間には、激しい衝突がありました。イエスは彼をきつく叱責しました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16・23)。それに続いて、「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(マタイ17・1)のです。・・・
以下は、https://www.cbcj.catholic.jp/2023/02/24/26555/ に掲載されています。
私は四旬節の間、日本の土になった2人の外人神父んもことをあれこれ想います。フランスから来たド・ロ神父さまとロシアから来たニコライ神父さまです。
さてド・ロ神父さまですが、彼は美味しいソーメンを作って九州の人々を助けました。そのド・ロさまソーメンを現在でも製造している会社が長崎にあります。(株式会社サンフリード、http://www.sunflead.co.jp/ )
ド・ロさまは、明治12年(1879年)に現在の長崎市の旧黒崎村出津の里に赴任したフランス人宣教師のマルク・マリー・ド・ロ神父(1840~1914)のことです。
彼は、村人たちの暮らしが、あまりにも貧しいのに驚き、村人の生活の向上のために布教活動のかたわら障害者の為の授産所や救助院を設けます。その上、故国、フランスから小麦粉を取り寄せ、フランスに残してあった私財を投じてパン、マカロニ、ソーメン作りの工場を建て製造技術を教えました。
ド・ロさまは72歳で亡くなるまでの42年間、故郷のフランスに一度も帰りませんでした。終生、長崎の貧しい人々に優しく接したのです。信者でない人々へも等しく支援したのです。
3番目の写真は出津教会です。ド・ロ神父はパリ外国宣教会所属で、1868年(慶応4年)6月に来日し、長崎市外海地区において布教活動のために建てた教会です。
ド・ロ神父が設計した出津教会堂、大野教会堂、旧羅典神学校、旧大司教館および、社会福祉事業に関連する遺跡(ド・ロ神父遺跡、旧出津救助院)は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定一覧表へ登録された「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に加えられています。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/マルク・マリー・ド・ロ です。
次にロシアから来たニコライ神父さまをご紹介致します。彼は日本の土になったロシア正教のニコライ・カサートキンという人でした。ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。日本に着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、上野の谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。
小金井公園の中央の数十本のソメイヨシノはまだ開花してませんが周辺にいろいろ桜木が満開になっていました。それぞれ種の名前はあるのでしょうが私は分りません。しかしいろいろな桜花の美しさに魅了されて歩き回って来ました。上手写真ではありませんがお送り致します。
ヴォルガ川はロシアの西部を流れる長大な川です。ロシアの主要部を水系に含む「ロシアの母なる川」です。全長は3,690kmです。
古くから、ヴォルガ川はロシアの内陸水運や国内輸送の重要な幹線となっていて舟引きなども行われていました。現在も、ロシアの河川貨物の、じつに3分の2はヴォルガ川とその支流によって運送されているのです。川沿いに建設された巨大ダムには閘門が設けられカスピ海からヴォルガ川最上流まで航行することができます。これらの内陸水路は比較的大きな船舶が通ることができるよう設計されています。
1917年に革命が勃発するとヴォルガ川沿岸地域も政治的混乱に巻き込まれた。しかし新しく成立したソヴィエト政府はヴォルガ川の開発を進め、各地に水力発電所などや巨大なダムを建設します。ヴォルガ川の写真を示します。
1番目の写真は蛇行する中流のヴォルガ川の写真です。(ヴォルガ川のストックフォト - iStock (istockphoto.com))
2番目の写真は美しいヴォルガ川沿いの町、ブリョスです。(https://4travel.jp/travelogue/11147318)
ロシアは、広大な大陸国であり自然の厳しさと闘い独特の文化を作ってきました。ロシアは厳寒の中で大地で生きることの厳しさと闘い同時に大地を崇拝してきました。ロシア文化の特徴は「暗い」のです。それを如実に示している1枚の油彩画をお送り致します。出典は、ヴォルガの船曳き - Wikipedia です。
3番目の写真はイリア・レーピンの「舟引き」です。1870年頃描れました。131.5 cm × 281 cmの大きさです。サンクトペテルブルクの美術館にあります。
川の船の運航は下流へ行く場合は帆に風を受けたり川の流れに乗って進むことができますが、上流へのぼるには人や馬が曳くしかなかったのです。舟引き労働を最も必要とした川はヴォルガ川でした。ヴォルガ河畔にあるルイビンスクは「船曳きの首都」とも呼ばれ、人夫たちは「ヴォルガの船曳き歌」などの歌を歌いながら舟を曳いていました。
この1枚の絵は19世紀までのロシアの激しい階級差を示しています。ロシアの暗い文化を活写しています。その上芸術的な優れた絵画です。1873年に開催されたウイーン万国博覧会に出品された絵です。
イリア・レーピンのもう1枚の絵を示します。
4番目の写真は『クルスク県の復活大祭の十字行』(1880年~1883年) トレチャコフ美術館です。
今日はロシアのヴォルガ川を紹介しました。あわせてイリア・レーピンの「舟引き」という油彩画をご紹介致しました。
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考=======================
イリヤー・エフィーモヴィチ・レーピン, (1844年 - 1930年)は移動派を代表するロシア帝国の画家・彫刻家です。心理的洞察を持ち合わせた写実画によって名高く、いくつかの作品は既存の社会秩序の矛盾や階層間の緊張を露わにしています。社会的名士の肖像画を制作する一方、しばしば貧困や差別にあえぐ社会の最下層を題材として数多くの作品を残しました。
詳しくは、イリヤ・レーピン - Wikipedia をご覧ください。
数十本のソメイヨシノが全て満開になるのはもう1週間かかると思いました。
満開になっている3本の写真をお送り致します。