後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「大瀬簗場の風景写真」

2023年03月19日 | 写真
栃木県茂木町にある「大瀬簗場」は数ある那珂川の簗場の中で最大の規模です。大瀬簗場のある那珂川は「漁獲量全国第1位」「天然遡上全国第2位」の鮎の名産地です。詳しくは、https://oose-yana.com/ をご覧ください。

「カトリック教会、2023年3月19日の「四旬節第4主日」のミサ動画配信とミサの風景」

2023年03月18日 | 日記
カトリック教会、2023年3月19日の「四旬節第4主日」のミサ動画配信は以下の通りです。
2023年  3月19日 10時のミサ
 
カトリック関口教会、
 
聖イグナチオ教会
 
第一朗読 サムエル上16・1b、6-7、10-13a
ダビデはイスラエルの王として油を注がれる。
答唱詩編 詩編23・2+3、5、6
主はわれらの牧者、わたしは乏しいことがない。
 
第二朗読 エフェソ5・8-14
死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。
 
福音朗読 ヨハネ9・1-41
 
今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
 
 
写真はローマのバチカンにあるサンピエトロ寺院です。サン・ピエトロ大聖堂はカトリックの本山です。創建は4世紀。現在の聖堂は2代目にあたり、1626年に完成したものです。
後の4枚の写真は今日の聖イグナチオ教会のミサ風景です。

「川の物語(2)雄大な長江の流れと漢詩の世界」

2023年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム

1980年代に私は中國へよく行きました。北京鋼鉄学院の周栄章教授と親友になりました。中国のいろいろな地方も旅しました。その折りに長江(揚子江)を南京から上海まで川下りしたことがありました。私は長江の雄大さに圧倒されたのです。まず長江の風景写真をご覧下さい。写真の出典は下記です。長江 【地図・長さ・流域の歴史・源流・揚子江と呼ばれた理由】 (chugokugo-script.net)

1番目の写真は長江の上流の眺めです。上流なので山がせまっています。長江は中国南部を東西に流れています。日本では「揚子江」と呼ばれています。しかし「揚子江」は長江下流の揚州付近での名称なのです。

2番目の写真は長江の源流に近いところの眺めです。長江上流とは、水源から湖北省宜昌まで全長約4530キロメートルで、かつてはその多くが少数民族…チベット族・ナシ族・リス族・イ族など…の住む地域でした。

3番目の写真は黄河と長江の地図です。長江の長さは全長6300キロメートル、ナイル川・アマゾン川に次いで世界第3位の長さです。また黄河は全長5464キロメートルです。

4番目の写真は長江の三峡にさしかる部分の眺めです。

5番目の写真は長江三峡です。三峡というのは3つの峡谷の総称で、重慶市にある白帝城から湖北省宜昌にいたる長江600キロの途中にある峡谷です。

6番目の写真は中流で有名な観光地の「赤壁」です。後漢末の208年、この地で魏の曹操と呉の孫権・蜀の劉備連合軍との水戦が繰り広げられました。川辺の岸壁には「赤壁」の赤い文字が記されています。

7番目の写真は長江下流で一番の観光地の上海です。上海は観光地であると同時に今や現代中国随一の経済都市として繁栄しています。この長い長江は場所によって名前が変わります。6300キロもあるんですから当然です。「揚子江」という名前は、長江の流れのうち江蘇省あたりから上海付近の流れを指すものです。

最後に長江に関係した漢詩を2首をお送り致します。

まず李白の詩『つとに白帝城を発す』です。

あしたに辞す白帝彩雲さいうんかん 千里の江陵一日いちにちにして還る 両岸の猿声えんせい啼いて尽きず 軽舟けいしゅうすでに過ぐばんちょうの山

次に『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』です。

故人西のかた黄鶴楼を辞し

煙花三月揚州に下る

孤帆こはんの遠影碧空へきくうに尽き

唯だ見る長江てんさいに流るるを

上記の2首から長江の雄大な流れが眼前に浮かびます。

今日はまず長江の悠々たる風景写真を示し、その後で李白の長江にまつわる漢詩をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考==================================‘==

李 白701年 - 762年)は中国の唐の時代の人です。唐代のみならず中国詩歌史上において同時代の杜甫とともに最高の存在とされています。

「静夜思」

牀前看月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭思故郷

牀前(しょうぜん) 月光を看る  疑うらくは是 地上の霜かと

頭を挙げて 山月を望み 頭を低(た)れて 故鄕を思う

 


「ドイツのシュヴァーベン州の野に咲く花の写真」

2023年03月17日 | 写真
昔、シュヴァーベン州のシュツットガルト市に住んでいたことがありました、夏に郊外に出るとルピナズ、マーガレット、リンドウなどの花がよく咲いていました。それらの写真をお送り致します。

「川の物語(1)ライン河の船遊びとローレライの誘惑」

2023年03月17日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は「スイスらしい風景」という記事を書きました。それで思い出したのですがスイスのボーデン湖を原流にしたライン河のことです。今日は新たに「川の物語」という連載を始め、その第一回目としてライン河をご紹介いたします。私のライン河の思い出は船上のワインパーティです。まずその船からのライン河の風景を写真で示します。1番目の写真はライン河中流の風景です。中世風の古い町並みの後ろの山には一面にブドウ畑が広がっています。個人経営のワイン製造も盛んなところです。水は濁りに濁り、滔々と流れ行きます。1番目と2番目と3番目のライン河の写真の出典は、「 ドイツ ・ ライン川クルーズで見える古城と風景 」、http://blogs.yahoo.co.jp/tommy_poppo/7199351.html です。2番目の写真はライン河から見える中世の古城です。日当たりの悪い北向きの山の斜面はブドウ畑になっていません。
列車は南ドイツと北ドイツを結ぶ鉄道です。何度か乗りましたが車窓から見るライン河も良いものです。

3番目の写真は船上パーティに使ったような小型の観光船が手前に写っている写真です。観光船が2隻写っていますが手前の小型の船で船上のワインパーティをしたのです。
1978年の頃でした。当時、日本とドイツの鉄鋼製錬の研究者が出席して「日独鉄鋼セミナー」を開催したことがありました。恥ずかしながら私が提案したセミナーでした。その折にドイツ側が小型の観光船を貸し切って日独の参加者をライン下りに招待してくれたのです。
左右の古城を見上げながらワインを飲む会でした。ドイツ人がワインの味のいろいろを教えてくれました。重い味。フルーティで軽い味。ドライな味、べたべたした味。甘すぎる味。そしてモーゼルワインとラインワインやネッカーワインの違いなどを教えてくれました。酔うほどに彼らが肩をくんで唄い出したのは何とも暗い歌なのです。あとで聞くと高校の寮歌だそうです。
ワインを注ぎ回るのが民族衣装を着た娘さん達です。

4番目の写真はその民族衣装を着た娘さんの写真です。
ドイツの民族衣装の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB です。
彼女達はブドウ農家の子供たちだそうです。アルバイトにこのようにワインパーティで働いているのです。その素朴な感じが周囲の風景とともに忘れられません。さて船はある岩山にさしかかります。ローレライの誘惑の伝説のある岩山です。5番目の写真がローレライの誘惑の伝説のある岩山です。この岩山の付近はライン川の中で一番狭く流れが速く、また水面下に多くの岩が潜んでいる 難所です。航行の難所なので「岩山にたたずむ美しい少女が船頭を魅惑し、舟が川の渦の中に飲み込まれてしまう」という伝承になったのです。ハイネの "Ich weiss nicht was soll es bedeuten" (何がそうさせるのかはわからないが)で始まる詩がが日本では有名です。・・・なじかは知らねど 心わびて 昔の伝説(つたえ)は そぞろ身にしむ さびしく暮れゆく ラインのながれ 入日(いりひ)に山々 あかく栄(は)ゆる・・・美(うるわ)し少女(おとめ)の 巖頭(いわお)に立ちて 黄金(こがね)の櫛(くし)とり 髪のみだれを 梳(す)きつつ口吟(くちずさ)ぶ 歌の声の 神怪(くすし)き魔力(ちから)に魂(たま)もまよう・・・6番目の写真は岩山にあるローレライ像です。
今日は新たに「川の物語」という連載を始め、その第一回目としてライン河をご紹介いたしました。ローレライの伝説もご紹介致しました。 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ついに小金井の野川ぞいの櫻が咲き出しました」

2023年03月16日 | 写真

小金井の南の崖下の野川沿いは一番早く櫻が咲く場所です。小金井公園の数百本の櫻が一斉に咲くのは1週間以上あとです。とにかく今日は野川へ行って見ました。やはり咲き出していました。しかし1分咲きです。咲いている木はまだ少なく一斉に満開になるのは未だ先のようです。今日の開花状況の写真をお送り致します。


「ヨーロッパのアルプスをまじかに見る旅」

2023年03月16日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日の「青春の冒険、北アルプスと南アルプスの縦走」という記事で、私が1959年23歳の時に日本の北アルプスを縦走したことを書きました。24歳の時には南アルプスも縦走しました。そうするとヨーロッパの本物のアルプスに憧れます。その写真集や雑誌の記事を見てますます憧れがつよくなりました。そしてヨーロッパの本物のアルプスを見る幸運は10年後に実現したのです。

1969年の夏からドイツに住みました。南ドイツのシュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年3ケ月の研究生活をしました。
シュツットガルトはスイスとフランス南東に近い所です。車を走らせると、スイスアルプスのアイガー山麓やレマン湖に行けます。インターラーケン、ボーデンゼー、シャッハハウゼンなどスイスへ何度も旅しました。フランス南東部のストラスブルグ市にも旅しました。
スイスは美しい国です。アルプスの山稜が残雪に輝き碧く澄んだ湖が散在しているのです。
今日はそんな美しいスイスの輝くアイガー北壁や紅葉のレマン湖をご紹介したいと思います。まず写真をお楽しみ下さい。
1番目の写真はアイガー北壁です。右にクライネ・シャイデック岳が写っています。出典は、http://intweb.co.jp/miura/mytrip/switzerland/switzer01.htm です。住んでいたシュツットガルト市からここまで車で3時ほどかかりました。
2番目の写真はアイガーの麓の町のグリンデルヴァルトです。ここに泊りました。ケーブルカーで更に高台に登りアイガーやアルプスの山稜の眺望を楽しみました。グリンデルヴァルトへは下のインターラーケンから登山電車で行ったこともあります。この写真はインターネットからお借りした写真です。
3番目の写真は美しいレマン湖の白鳥たちです。住んでいたシュツットガルト市からここまで車で3時間ですので度々訪ねました。
写真の出典は、https://tabippo.net/redleaf_world/ です。
全身が黒い黒鳥も1羽いました。小学生の娘と幼稚園の息子が興奮してパンくずをやっていました。
4番目の写真は紅葉したレマン湖です。写真の出典は、https://tabippo.net/redleaf_world/ です。
5番目の写真はシュツットガルト市から西に行き、ライン河を渡ったフランスのストラスブルグ市で撮った妻と娘と息子です。ライン河は車をフェリーに積んで渡りました。ここへも車で国境を越えてたびたび遊びに行きました。
さてスイスへの旅のエピソードを一つだけ書きたいと思います。フランケンシュタインの住んでいそうな民宿に泊まった怖い話です。
1970年、夏、チューリッヒのそばの田舎の民宿に泊まったのです。少し遊びすぎてトップリと日が暮れました。田舎道には街灯も無く漆黒の闇。遠方の農家の明かりがかすかに見えるだけです。行けども、行けども民家が無い。やがて貧しげな古風な一軒の民宿があったのです。案内を乞うと、ドアが開いて中年の大男が無言で現れる。顔がフランケンシュタインにそっくりなのです。ドイツ語で一泊したいが、と言う。無言で頷き、入れという身振りをする。2階の部屋へ泊まれという。薄暗い部屋には高さ3mもあるような古い洋服ダンスが壁ぎわにベットがある。何か出て来そうな気がしてタンスの方に眼が行ってしまう。フランケンシュタイン一族の子孫は、現在でもスイスに住んでいるとかいう。それを思い出しながら廊下を見ると、そこにも古風な扉の付いた大きなタンスがある。そっとタンスの扉を開けてみると分厚い本が積んである。表紙を開いてみると人体解剖の図が、色彩鮮やかに多数印刷してある。怖ろしい髑髏や骨格の解説図もあるのです。怖くて眠れない。ウトウトしていたら真夜中になってしまった。民宿は寝静まり物音一つしない。と、廊下の方でギ、ギーと扉が開く音がするではないか。家内も聞いたらしく、起きて見てきてという。意を決して見に行くと重い木のタンスの戸が半分開いている。誰も居ない。うず高く積んだ解剖書があるだけである。力いっぱい戸を閉めてくる。
朝、目が覚め窓から見下ろすと、民宿の娘が向かいのパン屋から棒状のパンを抱えて帰ってくる。朝食は、パン、バター、ジャム、に大きなポットの熱い牛乳とコーヒーだけ。怖い顔の主人が座り、やはり怖い雰囲気の妻と娘が無言で給仕してくれる。ところが給仕の所作が実に丁寧で親切である。いかにも遠方から来た客人をもてなそうとしている気持ちがあふれている。暖かい雰囲気に包まれて質素な食事を楽しみながら、ゆっくりと食べる。朝食後、美味しかった。有難う。と主人へ言うとニャっとして「何処からですか?」、「シュツットガルトから来ました。日本人です。週末にはチューリッヒやボーデンゼーによく来ます」、「また是非ここに泊まって下さい」本当にまた泊まってくださいと心から言ってくれる。何故、昨夜、彼らと話もせず部屋に上がったのが悔やまれる。フランケンシュタインの亡霊を怖がったのがウソのように思う。
今日は美しいスイスの風景写真を示し、フランケンシュタインの住んでいそうな民宿に泊まった怖い話をしました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「北アルプスと言えば、麓の白馬東急ホテルの風景を思い出す」

2023年03月15日 | 写真

「青春の冒険、北アルプススと南アルプスの縦走」

という記事を今朝書きました。そのせいで北アルプスの麓の白馬東急ホテルの風景を思い出しました。その写真をお送り致します。
写真でこのホテルの風景を示します。
1番目の写真は現在の白馬東急ホテルです。後ろの山々は北アルプスの白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮華岳などです。
2番目の写真はホテルの庭から見た客室です。客室のバルコニーで庭先の樹々を見下ろしながらビールを何度も飲んだものです。
ホテルの前からいきなり森に入り、小道を歩いて崖をくだると八方尾根へ上がるためのゴンドラの駅へ行けます。
3番目の写真は八方尾根に上がるゴンドラです。
このゴンドラの終点は標高が1400mと高く、その大きな展望台からは北に戸隠山や飯綱山まで見えます。空気が澄んでいれば浅間山や八ヶ岳、南アルプスの峰々や富士山まで見えるそうです。
ゴンドラの駅の周辺は青草の茂るスキー場です。

4番目の写真は兎平に上がるゴンドラの下に広がるスキー場です。
ゴンドラの終点の兎平からさらにスキー用のリフトを2つ乗りつなぎ、そこから90分登れば八方池です。健脚だった頃は何度か八方池まで登ったものです。
・・・・以下省略します。

「何故か私はシャクヤクのふさふさした花が好きです」

2023年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム
シャクヤクシベリア、中国、モンゴルの原産。日本には古く中国から渡来し、薬用、観賞用に栽培されている。

ボタンが樹木であるのに対して、シャクヤクは草本である。高さ約60cm。 根は赤褐色から褐色の紡錘形、十数本が横走する。茎は毎春数本が直立し、数枚の葉を互生する。


花期は初夏(5 - 6月)、茎頂に1個の花を咲かせる。冬には地上部が枯れてしまい休眠する。


「もうすぐ春です!春の花の写真をお送り致します」

2023年03月13日 | 写真

もうすぐ春です。春の花の写真をお送り致します。写真は順に、バラ、チューリップ、クレマチス、ネモフィラ、シャクヤクです。写真の出典は、https://greensnap.jp/article/7804 です。


「昭和の思い出(5)アメリカ留学で私の昭和が終った」

2023年03月13日 | 日記・エッセイ・コラム

昭和時代は1926年から1989年までの64年間です。しかし私の昭和の思い出は1936年から1960年までです。1936年に仙台で生まれ1960年にアメリカ留学のため仙台を離れるまでの24年間だけです。

1962年の帰国後も昭和でしたが東京に移り住んだ私にとって東京の生活は何故か「昭和時代」とは思えません。あの仙台での貧しく、楽しかった生活とはあまりにも違ってしまったのです。24歳で仙台を離れすぐにアメリカで結婚したせいもあります。

そこで今日は「昭和の思い出」の連載の総集編として仙台にまつわる写真を9枚お送りしてこの連載記事の終わりといたします。

1番目の写真は青葉城跡の高台から見た現在の仙台です。昭和9年11月9日にベーブ・ルースやルー・ゲーリックをまじえた米大リーグ選抜チームが仙台に来ました。仙台の青葉城の後に広がる八木山球場で全日本チームと試合をしたのです。

2番目の写真は広瀬川と背後の青葉城跡のある山の写真です。ベーブ・ルースがホームランを打った八木山球場は背後の山の向こう側にありました。

3番目の写真は東一番丁の七夕飾りです。大町通りの七夕飾りも華やかでした。毎年、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景です。結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕を見に帰りました。父母が健在だったあいだは毎年仙台に帰省していました。

4番目の写真は当時住んでいた向山にあった東洋館という料亭です。東洋館からは仙台の中心街が見下ろせるのです。そして向山には長徳寺や大満寺や愛宕神社もありました。

5番目の写真は広瀬川の評定河原橋付近から見た風景です。以前、帰郷した時に家内が車窓から撮りました。写真の左の小高い山は経ケ峰で伊達政宗のお霊屋の瑞鳳殿があります。競技用の広場は東北大学のものでした。

6番目の写真は青葉城跡から見た経ケ峰です。伊達政宗の霊廟があります。

7番目の写真は達政宗のお霊屋の瑞鳳です。

さて私の生まれ育った向山には亜炭を掘り出す横穴があちこちにありました。亜炭を燃料にして風呂を沸かしていました。

8番目の写真はある博物館に展示いてあろ大きな亜炭の塊です。

9番目の写真は亜炭を掘り出す横穴の様子です。当時向山の山裾にはこんな横穴が幾つもありました。

我が故郷の仙台もすっかり変わってしまいました。仙台を24歳の時離れてから茫々60年以上もたってしまいました。

今日は「昭和の思い出」の連載の総集編として仙台にまつわる写真を9枚お送りしました。変わってしまった仙台の写真です。

日本の地方都市の変わりようは何処も激しいものです。皆様の故郷はどのように変わったでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料====================================
(1)「完全に消えてしまった三つの沼と亜炭という不思議な燃料・・・こんなことは全国にあるでしょうが」(2014年04月09日掲載)
(2)「我が故郷、仙台の戦前の風景を懐かしむ」(2015年08月10日 掲載)
(3)「遥かなる我が故郷、仙台への小さな旅」(2017年06月02日 掲載)
(4)「夏になると我が故郷仙台の七夕を思い出す」(2019年08月15日掲載)
(5)「完全に消えてしまった追憶の中のふるさと、仙台」(2010年10月21日 掲載)


「昭和の思い出(4)松島湾でカッターや競技用のボートを漕ぐ」

2023年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム
私は昭和26年に仙台一高へ入学し29年に卒業しました。仙台一高は旧制の仙台一中を新制高校にしたばかりで校舎も先生方も一中時代のままでした。全く新し新制中学校から入学すると昔の日本の大人社会に入ったようです。全てに伝統がありそれをを重んじていました。例えば仙台一高と二高の野球の試合では応援歌を歌います、その練習が長期間でかなり厳しいのです。その仙台一高で私は部活として木工部という部に入りました。部室には木工用の工具として大きな電気ドリルがポツンとあるだけで誰も木工などしていません。その倶楽部はもっぱら松島湾でボートを漕ぐ活動をしていたのです。木工部というのは名前だけで何故か松島でボート遊びをする部だったのです。それでは松島湾の風景と漕いでいたボートをご紹介致します。1番目の写真は宮戸島の大高森の展望台から見た松島湾です。遥かに遠い背景として蔵王山の山波が写っています。2番目の写真は松島湾でよく漕いでいたカッターです。このカッターは東北大学の漕艇部のものです。塩釜の艇庫にあります。その東北大学のカッターを3年生が塩釜の艇庫から借り出して来るのです。
1年生と2年生の部員が塩釜の岸壁で待っていると3年生が何処からかカッターを漕ぎよせて来ます。東北大学の艇庫の場所は3年生だけが知っている秘密なのです。それが3年生の権威なのです。全部で14,5人が乗り込むとカッターは島々の間を縫って松島湾を周航します。3年生が舵を握り掛け声をかけます。1年生と2年生は従順な漕ぎ手です。しかし3年生は意外に優しいのです。掛け声に合わせてオールを動かしていれば力を抜いても怒りません。そして漕ぎながら景色を楽しめと言うのです。しかし牡蠣棚だけへはカッターをぶつけてはいけないと言います。
昼になれば適当な島の砂浜へボートを乗り上げて持参のオニギリを食べます。午後も漕ぎますが、塩釜までの帰路は漕ぐのを止めて帆走なのです。
この帆走も不思議な体験です。帰路になると3年生がカッターの先端に低いマストを立てます。
そこへ薄汚れた三角形の布製の帆を上げるのです。すると帆が風をはらんでカッターが勢い良く快走するのです。後は風まかせで塩釜まで帰ります。
カッターのオールは電信柱かと思うほ太く重いのです。船体の分厚い木造です。1番目の写真のような洒落たカッターではありません。もう木造の武骨なカッターは無くなったです。 3番目の写真は競走用のエイトです。8人に漕ぎ1人の舵手の合計9人乗りです。しかし仙台一高の木工部では12、3人で乗ります。前甲板に2人と後甲板の2人、合計13人でよく乗りました。このエイトも東北大学の漕艇部から借りていました。エイトの船体は薄く華奢に出来ていて絶対に牡蠣棚にぶっつけてはいけないのです。座席も巧妙に出来ていてスライデイング形式とフィックス形式の2つがありました。午前中と午後に漕ぎ回ると疲労困憊です。4番目の写真は松島湾の夕日です。カッターもエイトは漕ぎはじめると面白くつい時を忘れます。気が付いたや夕方になっていたことも何度かありました。夕方の松島も良いものです。

昭和26年から29年まで私は仙台一高の「木工部」の部員でした。しかし木工は一切しませんでした。このクラブは木工とは関係しなで、もっぱら松島湾を漕ぎまわるクラブだったのです。今思うと不思議なクラブでした。

これも忘れられない昭和の思い出でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「カトリック教会、2023年3月12日の「四旬節第3主日」のミサ動画配信とミサの風景」

2023年03月12日 | 日記
 
カトリック教会、2023年3月12日の「四旬節第3主日」のミサ動画配信は以下の通りです。
2023年  3月12日 10時のミサ
 
カトリック関口教会、
 
聖イグナチオ教会
 
今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
 
写真はローマのバチカンにあるサンピエトロ寺院です。サン・ピエトロ大聖堂はカトリックの本山です。創建は4世紀。現在の聖堂は2代目にあたり、1626年に完成したものです。
後の4枚の写真は今日の聖イグナチオ教会のミサ風景です。

「菜の花畑を見ていると春が来たと実感し

2023年03月11日 | 写真
満開の菜の花畑を見ていると本当に春が来たと実感します。
そんな風景写真をお送り致します。しかし写真のような風景はあと3,4週間待っていないと見る事が出来ません。待ち遠しいです。
写真はインターネットの、https://www.gettyimages.co.jp/.../%E8%8F%9C%E3%81%AE%E8... からお借りしました。