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1980年代に私は中國へよく行きました。北京鋼鉄学院の周栄章教授と親友になりました。中国のいろいろな地方も旅しました。その折りに長江(揚子江)を南京から上海まで川下りしたことがありました。私は長江の雄大さに圧倒されたのです。まず長江の風景写真をご覧下さい。写真の出典は下記です。長江 【地図・長さ・流域の歴史・源流・揚子江と呼ばれた理由】 (chugokugo-script.net)
1番目の写真は長江の上流の眺めです。上流なので山がせまっています。長江は中国南部を東西に流れています。日本では「揚子江」と呼ばれています。しかし「揚子江」は長江下流の揚州付近での名称なのです。
2番目の写真は長江の源流に近いところの眺めです。長江上流とは、水源から湖北省宜昌まで全長約4530キロメートルで、かつてはその多くが少数民族…チベット族・ナシ族・リス族・イ族など…の住む地域でした。
3番目の写真は黄河と長江の地図です。長江の長さは全長6300キロメートル、ナイル川・アマゾン川に次いで世界第3位の長さです。また黄河は全長5464キロメートルです。
4番目の写真は長江の三峡にさしかる部分の眺めです。
5番目の写真は長江三峡です。三峡というのは3つの峡谷の総称で、重慶市にある白帝城から湖北省宜昌にいたる長江600キロの途中にある峡谷です。
6番目の写真は中流で有名な観光地の「赤壁」です。後漢末の208年、この地で魏の曹操と呉の孫権・蜀の劉備連合軍との水戦が繰り広げられました。川辺の岸壁には「赤壁」の赤い文字が記されています。
7番目の写真は長江下流で一番の観光地の上海です。上海は観光地であると同時に今や現代中国随一の経済都市として繁栄しています。この長い長江は場所によって名前が変わります。6300キロもあるんですから当然です。「揚子江」という名前は、長江の流れのうち江蘇省あたりから上海付近の流れを指すものです。
最後に長江に関係した漢詩を2首をお送り致します。
まず李白の詩『つとに白帝城を発す』です。
朝に辞す白帝彩雲の間 千里の江陵一日にして還る 両岸の猿声啼いて尽きず 軽舟已に過ぐ万重の山
故人西のかた黄鶴楼を辞し
煙花三月揚州に下る
孤帆の遠影碧空に尽き
唯だ見る長江の天際に流るるを
上記の2首から長江の雄大な流れが眼前に浮かびます。
今日はまず長江の悠々たる風景写真を示し、その後で李白の長江にまつわる漢詩をご紹介致しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考==================================‘==
李 白(701年 - 762年)は中国の唐の時代の人です。唐代のみならず中国詩歌史上において同時代の杜甫とともに最高の存在とされています。
「静夜思」
牀前看月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭思故郷
牀前(しょうぜん) 月光を看る 疑うらくは是 地上の霜かと
頭を挙げて 山月を望み 頭を低(た)れて 故鄕を思う
小金井の南の崖下の野川沿いは一番早く櫻が咲く場所です。小金井公園の数百本の櫻が一斉に咲くのは1週間以上あとです。とにかく今日は野川へ行って見ました。やはり咲き出していました。しかし1分咲きです。咲いている木はまだ少なく一斉に満開になるのは未だ先のようです。今日の開花状況の写真をお送り致します。
昨日の「青春の冒険、北アルプスと南アルプスの縦走」という記事で、私が1959年23歳の時に日本の北アルプスを縦走したことを書きました。24歳の時には南アルプスも縦走しました。そうするとヨーロッパの本物のアルプスに憧れます。その写真集や雑誌の記事を見てますます憧れがつよくなりました。そしてヨーロッパの本物のアルプスを見る幸運は10年後に実現したのです。
ボタンが樹木であるのに対して、シャクヤクは草本である。高さ約60cm。 根は赤褐色から褐色の紡錘形、十数本が横走する。茎は毎春数本が直立し、数枚の葉を互生する。
花期は初夏(5 - 6月)、茎頂に1個の花を咲かせる。冬には地上部が枯れてしまい休眠する。
もうすぐ春です。春の花の写真をお送り致します。写真は順に、バラ、チューリップ、クレマチス、ネモフィラ、シャクヤクです。写真の出典は、https://greensnap.jp/article/7804 です。
昭和時代は1926年から1989年までの64年間です。しかし私の昭和の思い出は1936年から1960年までです。1936年に仙台で生まれ1960年にアメリカ留学のため仙台を離れるまでの24年間だけです。
1962年の帰国後も昭和でしたが東京に移り住んだ私にとって東京の生活は何故か「昭和時代」とは思えません。あの仙台での貧しく、楽しかった生活とはあまりにも違ってしまったのです。24歳で仙台を離れすぐにアメリカで結婚したせいもあります。
そこで今日は「昭和の思い出」の連載の総集編として仙台にまつわる写真を9枚お送りしてこの連載記事の終わりといたします。
1番目の写真は青葉城跡の高台から見た現在の仙台です。昭和9年11月9日にベーブ・ルースやルー・ゲーリックをまじえた米大リーグ選抜チームが仙台に来ました。仙台の青葉城の後に広がる八木山球場で全日本チームと試合をしたのです。
2番目の写真は広瀬川と背後の青葉城跡のある山の写真です。ベーブ・ルースがホームランを打った八木山球場は背後の山の向こう側にありました。
3番目の写真は東一番丁の七夕飾りです。大町通りの七夕飾りも華やかでした。毎年、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景です。結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕を見に帰りました。父母が健在だったあいだは毎年仙台に帰省していました。
4番目の写真は当時住んでいた向山にあった東洋館という料亭です。東洋館からは仙台の中心街が見下ろせるのです。そして向山には長徳寺や大満寺や愛宕神社もありました。
5番目の写真は広瀬川の評定河原橋付近から見た風景です。以前、帰郷した時に家内が車窓から撮りました。写真の左の小高い山は経ケ峰で伊達政宗のお霊屋の瑞鳳殿があります。競技用の広場は東北大学のものでした。
6番目の写真は青葉城跡から見た経ケ峰です。伊達政宗の霊廟があります。
7番目の写真は達政宗のお霊屋の瑞鳳です。
さて私の生まれ育った向山には亜炭を掘り出す横穴があちこちにありました。亜炭を燃料にして風呂を沸かしていました。
8番目の写真はある博物館に展示いてあろ大きな亜炭の塊です。
9番目の写真は亜炭を掘り出す横穴の様子です。当時向山の山裾にはこんな横穴が幾つもありました。
我が故郷の仙台もすっかり変わってしまいました。仙台を24歳の時離れてから茫々60年以上もたってしまいました。
今日は「昭和の思い出」の連載の総集編として仙台にまつわる写真を9枚お送りしました。変わってしまった仙台の写真です。
日本の地方都市の変わりようは何処も激しいものです。皆様の故郷はどのように変わったでしょうか?
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料====================================
(1)「完全に消えてしまった三つの沼と亜炭という不思議な燃料・・・こんなことは全国にあるでしょうが」(2014年04月09日掲載)
(2)「我が故郷、仙台の戦前の風景を懐かしむ」(2015年08月10日 掲載)
(3)「遥かなる我が故郷、仙台への小さな旅」(2017年06月02日 掲載)
(4)「夏になると我が故郷仙台の七夕を思い出す」(2019年08月15日掲載)
(5)「完全に消えてしまった追憶の中のふるさと、仙台」(2010年10月21日 掲載)
昭和26年から29年まで私は仙台一高の「木工部」の部員でした。しかし木工は一切しませんでした。このクラブは木工とは関係しなで、もっぱら松島湾を漕ぎまわるクラブだったのです。今思うと不思議なクラブでした。
これも忘れられない昭和の思い出でした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)