松代は真田十万石の城下町に250年もの長き歴史を刻む、武家屋敷が町内各所そのままそっくり残される。
街角にふらりと歩く帯刀姿の武士が出くわすのでは思われる、静かな街並みである
そんな風情にタイムスリップして、歴史散策を楽しんでいたら「秋の日は釣瓶(つるべ)落とし」と言われるぐらいに、あっと言う間に日は落ちる。
かなり、暗くなってきたが、ぼんやりと目に入ったのが、松代駅であった。
<薄くらい明かりの中、駅舎がそっくり残されていた>
何時来るか、間引きされたダイヤに入線する長野電鉄の車両を待ち続ける、僅かな乗降客が居るのではと思われる駅舎がそっくり残されている。
その線路はその屋代線で2012年3月廃線になってしまった。
<キップ売り場はカーテンが閉じられているが、その向こう側には駅務員が居る様な錯覚冴え覚える>
屋代線は千曲川東岸の町々を結ぶ路線として千曲市の屋代から須坂市の須坂まで全長24.4㎞の長野電鉄の鉄道路線である。
河東鉄道により1922年(大正11年)に屋代 - 須坂間が開業され、90年間地元の足として役割を果たしていた。
典型的な地方都市の過疎化は屋代線の利用客減少にも繋がり、沿線三市の資金援助を要請するなど延命対策をこうじたが、遂に廃線に追い込まれた。
千曲川を沿う様に屋代線が走るが、それに並行して、国道18号、上信越自動車道、松代バイパスが走りモーターゼネレーションを背景にした道路の整備が生れ、車文化の発達が、鉄道を排除してしまったのであろうか。
同路線を担う須坂の町を歩いたが、人の蔭が見られず、かっては賑わいを見せたであろう、軒を並べた店もあちこち閉じられ、 シャッター通り化され寂しかった。
一日、数百人の乗客。たまに巡り逢わせる車両も、恐らく空気箱のような状態が目に浮かぶ。
ホームの下は既に雑草が映え、レールの姿は見えなかった。写真で見ると線路越しにもう一つのホームがあったが、それも消えていた。
<ホーム下は既に線路もなく、再び原野に>
「ああこれも、時代の流れなのか、消え去った鉄路にこの駅舎が何時までも残されれば良いなあ~」
と鉄の心が、ちょっぴり、揺らめいた
街角にふらりと歩く帯刀姿の武士が出くわすのでは思われる、静かな街並みである
そんな風情にタイムスリップして、歴史散策を楽しんでいたら「秋の日は釣瓶(つるべ)落とし」と言われるぐらいに、あっと言う間に日は落ちる。
かなり、暗くなってきたが、ぼんやりと目に入ったのが、松代駅であった。
<薄くらい明かりの中、駅舎がそっくり残されていた>
何時来るか、間引きされたダイヤに入線する長野電鉄の車両を待ち続ける、僅かな乗降客が居るのではと思われる駅舎がそっくり残されている。
その線路はその屋代線で2012年3月廃線になってしまった。
<キップ売り場はカーテンが閉じられているが、その向こう側には駅務員が居る様な錯覚冴え覚える>
屋代線は千曲川東岸の町々を結ぶ路線として千曲市の屋代から須坂市の須坂まで全長24.4㎞の長野電鉄の鉄道路線である。
河東鉄道により1922年(大正11年)に屋代 - 須坂間が開業され、90年間地元の足として役割を果たしていた。
典型的な地方都市の過疎化は屋代線の利用客減少にも繋がり、沿線三市の資金援助を要請するなど延命対策をこうじたが、遂に廃線に追い込まれた。
千曲川を沿う様に屋代線が走るが、それに並行して、国道18号、上信越自動車道、松代バイパスが走りモーターゼネレーションを背景にした道路の整備が生れ、車文化の発達が、鉄道を排除してしまったのであろうか。
同路線を担う須坂の町を歩いたが、人の蔭が見られず、かっては賑わいを見せたであろう、軒を並べた店もあちこち閉じられ、 シャッター通り化され寂しかった。
一日、数百人の乗客。たまに巡り逢わせる車両も、恐らく空気箱のような状態が目に浮かぶ。
ホームの下は既に雑草が映え、レールの姿は見えなかった。写真で見ると線路越しにもう一つのホームがあったが、それも消えていた。
<ホーム下は既に線路もなく、再び原野に>
「ああこれも、時代の流れなのか、消え去った鉄路にこの駅舎が何時までも残されれば良いなあ~」
と鉄の心が、ちょっぴり、揺らめいた
トトロも住んでいそうな?それともまっくろくろ助かな?
いい味でてますね