10数人の歴史好きを引き連れて、2号台風の余波の中、横須賀の街を案内した。
当初、予定した3月は3.11大地震で電車も動かず予定が崩れ、旅どころではなかった。
その2カ月後、再度予定したが、今度は2号台風の影響で、何とも恨めしい天災のタブルパンチにあってしまった。
案内役を授かり、情報収集に時間が生れたものの、気持ちの高揚を長期間維持するのに正直疲れてしまった。
前日の大雨のメデイアの予報に、恐れながら、降りしきる雨の中、我が家を出たが、予報とは裏腹に終始小雨模様の天気に虚報に踊らされてしまった。
しかし、小雨降る中で案内資料を片手に雨傘で両手が塞がり、地図・時刻表・資料が途中で散逸・濡れるなど大苦戦した 。こんなときに千手観音でも、あれば自由に操ることができるが、塞がれた両手に道中、色々制約がかかった。
京浜大津駅の商店では、大河ドラマ「龍馬伝」はもうとっくに終わっているのに、「おりょうさんの街」の旗が未だしっかりと案内役を勤めている。
裸のお龍が龍馬を捕手から救った寺田屋事件。宮崎の龍馬・お龍の国内最初のハネムーン。そして近江屋での龍馬暗殺で未亡人となってしまった2年に満たない激動の龍馬との世界に光を浴びた、ドラマであった。
そんなお龍は横浜の料亭の仲居として、働き、更に再婚し、横須賀で貧相な長屋に30年近くも暮らし、孤立無援で亡くなってしまう。没後、龍馬との関わりが始めて世間に知らされ、墓のある信楽寺を以て此処大津が「おりょうさんの街」として大河の後押しで街ぐるみ、PRを図っている。
しっとりと濡れる雨の中、本堂で二人の睦まじい木像姿、長崎でお龍に贈った月琴(模造品)など知る人ぞ知る世界に、楽しむことができた。
横須賀を語るに欠かせないのは何と言っても、軍艦三笠である。
「龍馬」の遺構は「亀山社中」から「海援隊」に繋がり、帝国海軍の基礎を成し、ロシアのバルチック艦隊を破るまで成長した。
そう考えると、三笠の見学は龍馬とは唐突無縁ではないことを、信じて疑わなかったが、此処に来る見学者は果たして龍馬まで繋げて、微笑んで居るのは我々だけかも知れない。
何度かエンントリされながら、中々実現しなかった「坂之上の雲」が司馬遼太郎が亡くなり漸く、国営放送でドラマとして取り上げられた。その主役の舞台はこの三笠である。大国ロシアのバルチック艦隊を破り、東洋のちっぽけな国の黄色人種が晴れて評価されたのが、この三笠率いる、日本艦隊であった。
誇大妄想かもしれないが、忘れかけた歴史遺産と関わった先人達が、弱腰の外交に、なにも言えない国に成り下がってしまった現状に、きっと歯がゆい想いで見ているに違いない。
雨の中、滑る足元を、ほぼ垂直に近い梯子段をよじ登って、艦橋に出る。
睨みを効かす大きな砲門が火を吹き、ロシア側戦艦を完膚無きまで叩き、撃沈させた主役はこの砲門と、射撃能力の高い訓練された砲手達であった。
歴史を変えた東郷平八郎か或いは天才と言われた秋山真之に気分は成りきって、艦上から、雄大な眺めをたっぷり味わった。
今にも洋上に走りそうな艦上で、高揚した感覚は雨をも吹き飛ばす世界に暫く心酔した。
海軍ネタでは横浜海軍がカレーと肉じゃがを考案し曜日感覚調整の為に毎週金曜日がカレーであることしか知りませんでした。
竜馬さんにまで行き着くのですね。悠然たる歴史の流れですなぁ。。。
龍馬が亡くなり、後家さんになってしまったお龍さんは坂本家から追われるように横須賀へ・・・。
深い山を背にお龍さんはひっそりと大津の信楽寺に眠る。雨の中、追っかけ集団は我々だけであったが、この旗につられて、未だに人なびき、改めて大河ドラマの大きさを知るようでした。