2009角川俳句賞候補作興梠隆「雲の抜きゆく」を(ちょっと)読む ……上田信治
●興梠隆「雲の抜きゆく」50句
俳句のために、わざわざ「どこか」へ行ったりということが、少なそうな俳句と思った。
「どこか」というのは、自然の中だったり、歳時記の中だったり。ドラマチックでもないし、詩的な言語空間へも行かない。つまり「日常」から、どこへも出かけて行かずに、書くこと。その「日常」は、たとえばこんなふうだ。
「毎日遠くへ行く仕事」
「食卓は椅子に囲まれ」
「タクシーの自動ドア」
「仮設便所を積んで去る」
「出口なき教習コース」
これら「日常」のモチーフは、おもしろくもおかしくもない「日常意識」をはみださない、水のような空気のような言葉で書かれている。特段おもしろがってもいないし、秋刀魚がうまくて嬉しいとかもないわけです。
それが、こういう俳句になる。
冬青空毎日遠くへ行く仕事 興梠隆
食卓は椅子に囲まれ鳥の恋
蟇穴を出てタクシーの自動ドア
春風や仮設便所を積んで去る
出口なき教習コースタ立来
なんか、こう「日常」あるいは「日常意識」が、ほぼそのまま維持されつつ、そのまま、抽象度が上がっている感じ。日常を「異化」するのではなく、おもしろくもおかしくもない日常意識によりそうようにして、その底から「抒情」を浮かび上がらせる。
「自動ドア」は、それと関わりない低さの視点から見上げられた。人のいない「食卓」は、自分たち家族の生殖の時代の終わりを、遠く告げる声にとりかこまれている(泣ける)。
そうそう、この切ない感じは、この日常に、元からあったものですよね。
もう……この、ロマンチスト!(とても身近に感じている先輩なので、気安くなっています)
六月の碍子一個の光なり 興梠隆
「食卓」と並んで、今回の白眉と思った。「一個」を生かすために「六月」が選ばれている。