575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

柿マヨで後期の老いを研ぎ澄ます    朱露

2009年10月26日 | Weblog
       年を取ることは気難しくなることだ。
       子供の頃からそのけがあって困った。 
       だから五つ上の姉にとても嫌われた。
       柿マヨのミスマッチに腹立てて食う。

    

   なお、立雄さんの選句が届きました。
   最終結果をご覧下さい。   遅





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こんなのが候補作品なんですね。   ぐ

2009年10月26日 | Weblog
2009角川俳句賞候補作興梠隆「雲の抜きゆく」を(ちょっと)読む ……上田信治

●興梠隆「雲の抜きゆく」50句

俳句のために、わざわざ「どこか」へ行ったりということが、少なそうな俳句と思った。

「どこか」というのは、自然の中だったり、歳時記の中だったり。ドラマチックでもないし、詩的な言語空間へも行かない。つまり「日常」から、どこへも出かけて行かずに、書くこと。その「日常」は、たとえばこんなふうだ。

「毎日遠くへ行く仕事」
「食卓は椅子に囲まれ」
「タクシーの自動ドア」
「仮設便所を積んで去る」
「出口なき教習コース」

これら「日常」のモチーフは、おもしろくもおかしくもない「日常意識」をはみださない、水のような空気のような言葉で書かれている。特段おもしろがってもいないし、秋刀魚がうまくて嬉しいとかもないわけです。

それが、こういう俳句になる。

冬青空毎日遠くへ行く仕事    興梠隆
食卓は椅子に囲まれ鳥の恋    
蟇穴を出てタクシーの自動ドア  
春風や仮設便所を積んで去る   
出口なき教習コースタ立来    

なんか、こう「日常」あるいは「日常意識」が、ほぼそのまま維持されつつ、そのまま、抽象度が上がっている感じ。日常を「異化」するのではなく、おもしろくもおかしくもない日常意識によりそうようにして、その底から「抒情」を浮かび上がらせる。

「自動ドア」は、それと関わりない低さの視点から見上げられた。人のいない「食卓」は、自分たち家族の生殖の時代の終わりを、遠く告げる声にとりかこまれている(泣ける)。

そうそう、この切ない感じは、この日常に、元からあったものですよね。

もう……この、ロマンチスト!(とても身近に感じている先輩なので、気安くなっています)

六月の碍子一個の光なり  興梠隆

「食卓」と並んで、今回の白眉と思った。「一個」を生かすために「六月」が選ばれている。




コメント (1)
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