575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

極月や仲違いする骨と肉   朱露

2009年12月21日 | Weblog

    「骨肉相食む」は身内だが私の体の事。
    老化による軋みだと言えばそれまでだ。
    「去年の冬は何でもなかったのになあ」
    と間違っているボヤキをここ数年毎朝。


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去年今年貫く棒のごときもの ②      愚足

2009年12月21日 | Weblog
★お題の「去年今年」がよくわからず、色々ネットで検索しています。すると 「林誠司 俳句オデッセイ 」というHPにこんな解説が有ったので紹介します。
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去年今年貫く棒のごときもの    高浜虚子(たかはま・きょし)

(こぞことし つらぬくぼうの ごときもの)

「去年今年」は、大晦日の夜から正月に変わる瞬間、またその感懐を言ったもの。
過ぎ去った年を惜しむ心と、新しい年を迎えた厳粛な心が交錯しているのである。
また、万物を包む大きな時間の流れ、時空を思う気持ちもあるであろう。

掲句は、その大きな時間の移り変わり、人間には図ることのできぬ「大きな力」に思いを馳せた一句。
「写生」を唱えていた虚子が、このような抽象的な、観念的な句を詠っていることに、俳人の中には、虚子自身、写生を守っていない、と批判する人がいる。

しかし、虚子が唱えたのは即物写生ではなく客観写生である。
虚子は大きな時空を写生しようとしたのである。

さらに言えば、虚子晩年の弟子で、詩歌文学館賞・俳人協会賞作家である深見けん二さんは、一句の中にある「棒」という「具象性」を指摘しておられた。

時空という見えない大きな力を、観念だけではなく「貫く棒のごときもの」という具体性を持って表現しているのが虚子なのだ、と言っておられた。

この句は「棒」という具象によって名句となりえたのである。
コメント (1)
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