大千軒岳の知内川流域での砂金採取は、将軍源頼家が元久二年(1205年)甲斐の国 の荒木大学に命じて、約十三年間採掘したのが始まりとされている。しかしこの話はどう も眉唾らしい。正史としては、慶長九年(1604年)徳川家康から松前藩への通達の中に記 載が有る。これは蝦夷地金山についての物であり、大千軒岳金山を指しているとは限ら ない。松前藩が正式に採掘を始めたのは、元和三年(1617年)である。元和六年には、金 堀人夫が八万人に達したという。彼らの住居が千軒建ち並んでいたことが、千軒岳の名 前の由来である。しかし本当かな?八万人分の衣食住をまかなうだけの物資を輸送する だけでも大変な事業だが。
寛永十四年(1637年)島原の乱を契機に、寛永十六年幕府はキリシタン禁止・鎖国令を 発布した。同年八月松前藩は、幕府の通達により106人のキリシタンを処刑した。大千軒 岳番所では50人が処刑されたとある。
金山番所跡の十字架は、昭和三十八年に建てられたものです。当初の十字架は、中心 に丸い輪が付いていたが、1970年頃?の大雪崩により破損したため写真のものに建て 替えられた。