往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声 、とは
「往くも帰るも」とは、行ったり来たり場所を変えること。「余所ならず」とは、余所ではない、場所が変わっても関係がない。つまりどこにいようとそんな場所にとらわれないということ。その場その場が、自分に与えられた最良の場所だと受け取れるならば「往くも帰るも余所ならず」といえる。
次に「念」とは、極めて短い時間のことだが、ここでは、いつも心に思っているということ。いつも心に思っているから、それが雑念となり、妄念となり、煩悩となってさらに執着となり、心から離れることが出来なくなる、これを自我意識という。ところが、この念が無念になれば、いつも心に思っている雑念も妄念も煩悩も執着もなくなってしまい、「明鏡止水」の状態になる。
「謡ふも舞ふも法の声」は、目に見えるもの、耳に聞こえるものすべてがありがたい教えの声となって聞こえるということ。
座禅和讃は、江戸時代中期に活躍した僧侶・白隠禅師が著述したもので、大変深い内容を持つ和文で書かれたお経。和讃というのは、声明(しょうみょう)の一つで、日本語で書かれてあり、何らかの功徳を讃えるために作られる長い七五調の歌のこと。この座禅和算は、座禅の功徳を讃えたもの。
『座禅和讃全文』
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て
渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜
念仏 懺悔 修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり
一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし
いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ
無二無三の道直し 無相の相を相として
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり
「往くも帰るも」とは、行ったり来たり場所を変えること。「余所ならず」とは、余所ではない、場所が変わっても関係がない。つまりどこにいようとそんな場所にとらわれないということ。その場その場が、自分に与えられた最良の場所だと受け取れるならば「往くも帰るも余所ならず」といえる。
次に「念」とは、極めて短い時間のことだが、ここでは、いつも心に思っているということ。いつも心に思っているから、それが雑念となり、妄念となり、煩悩となってさらに執着となり、心から離れることが出来なくなる、これを自我意識という。ところが、この念が無念になれば、いつも心に思っている雑念も妄念も煩悩も執着もなくなってしまい、「明鏡止水」の状態になる。
「謡ふも舞ふも法の声」は、目に見えるもの、耳に聞こえるものすべてがありがたい教えの声となって聞こえるということ。
座禅和讃は、江戸時代中期に活躍した僧侶・白隠禅師が著述したもので、大変深い内容を持つ和文で書かれたお経。和讃というのは、声明(しょうみょう)の一つで、日本語で書かれてあり、何らかの功徳を讃えるために作られる長い七五調の歌のこと。この座禅和算は、座禅の功徳を讃えたもの。
『座禅和讃全文』
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て
渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜
念仏 懺悔 修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり
一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし
いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ
無二無三の道直し 無相の相を相として
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり