41:鳴海(名物有松絞)
池鯉鮒から11.3里で鳴海につく。ここは鳴海絞の産地として知られているが、すぐ東北の有松から産する有松絞もまた有名であった。ともに同じ絞り染めであるが、鳴海絞より有松絞の方が知られ、鳴海絞は、有松絞の名称のもとに包含されたいたと考えられる。したがって、広重も鳴海宿の絞り染めを売る店先を描いているが、画題は「名物有松絞」となっている。今も昔の絞り屋の店構えを偲ばせる家並みが残っているが、江戸時代にはかなりの繁栄を見せた宿場であったことは、広重のこの絵の家並み構えでも見ることができる。
街道を徒歩で、駕篭で、馬でいく旅人はすべて女性ばかりである。絞り染めの産地というところから、わざと広重は女の旅人を描いたのであろう。鳴海絞の元祖という見せも残っている。また、織田信長と今川義元の決戦場、桶狭間の古戦場はここから近い。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
池鯉鮒から11.3里で鳴海につく。ここは鳴海絞の産地として知られているが、すぐ東北の有松から産する有松絞もまた有名であった。ともに同じ絞り染めであるが、鳴海絞より有松絞の方が知られ、鳴海絞は、有松絞の名称のもとに包含されたいたと考えられる。したがって、広重も鳴海宿の絞り染めを売る店先を描いているが、画題は「名物有松絞」となっている。今も昔の絞り屋の店構えを偲ばせる家並みが残っているが、江戸時代にはかなりの繁栄を見せた宿場であったことは、広重のこの絵の家並み構えでも見ることができる。
街道を徒歩で、駕篭で、馬でいく旅人はすべて女性ばかりである。絞り染めの産地というところから、わざと広重は女の旅人を描いたのであろう。鳴海絞の元祖という見せも残っている。また、織田信長と今川義元の決戦場、桶狭間の古戦場はここから近い。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』