42:宮(熱田神事)
鳴海から6里で宮。宮は熱田神宮の門前町で現在は名古屋市に入っている。熱田神宮は三種の神器の一つ、草薙の剣が祀られている。江戸時代から信仰を集めた神社であるし、この地は、東海道は海上七里(28里)を越えて桑名へ渡る港であり、越前路。美濃路・佐尾路などの分岐点でもあり、伊勢三宮の人々や参勤交代の大名たちの出入りも多く、街道最大の宿駅であった。したがって本陣二つ、脇本陣を含めて旅宿は250軒に及んだという。
広重は画題を「熱田神事」として、熱田神宮の夜の馬追いの神事を描いている。右手に鳥居を見せ、二匹の馬を追う祭りの男たち二組のかけ声勇ましく駆けている姿は、鳥羽絵風の描写で躍動的である。その火と煙が夜空に立ちのぼっているさまが情感的で美しい。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鳴海から6里で宮。宮は熱田神宮の門前町で現在は名古屋市に入っている。熱田神宮は三種の神器の一つ、草薙の剣が祀られている。江戸時代から信仰を集めた神社であるし、この地は、東海道は海上七里(28里)を越えて桑名へ渡る港であり、越前路。美濃路・佐尾路などの分岐点でもあり、伊勢三宮の人々や参勤交代の大名たちの出入りも多く、街道最大の宿駅であった。したがって本陣二つ、脇本陣を含めて旅宿は250軒に及んだという。
広重は画題を「熱田神事」として、熱田神宮の夜の馬追いの神事を描いている。右手に鳥居を見せ、二匹の馬を追う祭りの男たち二組のかけ声勇ましく駆けている姿は、鳥羽絵風の描写で躍動的である。その火と煙が夜空に立ちのぼっているさまが情感的で美しい。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
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