44:四日市(三重川)
桑名から四日市まで12.8里。現在工業都市として発展しているが、その昔は参宮道の港町で三滝川の河口、四の日に六斎市がたったので、この名があった。広重の画題「三重川」は、この三滝川のことである。しかし広重の絵は、特に四日市にこだわらない純粋な風景画といってよく、しかも画集中でも準役物ともいうべき佳作である。
この絵は「風」の絵である。広重には風のある風景を描いた作は外にもあるが、これが最も優れている。伊勢湾への川口付近、一面の芦萩は風になびき、渡し場と思われる土手と板橋に二人の旅人がいるが、一人は風に笠を飛ばされ、一人は合羽にふくらむ風で歩きもならず、たたずんでいる。その風の強さを見せているのが、中央の柳の枝である。この情感を助けているのが、芦の彼方の漁家と帆檣、そして手前の捨小舟である。この絵の一文字の色が風の日を象徴している。
この絵の板橋の上の旅人の風に吹かれる合羽に裾に、ぼかしのあるのとないのがあるが、ぼかしのある方が本当である。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
桑名から四日市まで12.8里。現在工業都市として発展しているが、その昔は参宮道の港町で三滝川の河口、四の日に六斎市がたったので、この名があった。広重の画題「三重川」は、この三滝川のことである。しかし広重の絵は、特に四日市にこだわらない純粋な風景画といってよく、しかも画集中でも準役物ともいうべき佳作である。
この絵は「風」の絵である。広重には風のある風景を描いた作は外にもあるが、これが最も優れている。伊勢湾への川口付近、一面の芦萩は風になびき、渡し場と思われる土手と板橋に二人の旅人がいるが、一人は風に笠を飛ばされ、一人は合羽にふくらむ風で歩きもならず、たたずんでいる。その風の強さを見せているのが、中央の柳の枝である。この情感を助けているのが、芦の彼方の漁家と帆檣、そして手前の捨小舟である。この絵の一文字の色が風の日を象徴している。
この絵の板橋の上の旅人の風に吹かれる合羽に裾に、ぼかしのあるのとないのがあるが、ぼかしのある方が本当である。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』