53:草津(名物立場)
海道は右手に琵琶湖が近く、草津に着く。石部から10.7里に当たる。ここは中山道と東海道の分かれ道、つまり追分で、中山道は江戸から木曽路を通って、ここで合している。従って宿駅としては繁栄を見たところと思われる。
広重は、ここの立場でもあった、名物姥ヶ餅屋を描いている。街道には慌ただしく早駕篭が飛び、上納荷が担がれていく。しかし姥ヶ餅屋では旅人も馬士も駕篭かきも、一椀の姥ヶ餅に旅の疲れを休め、名物に舌鼓をうっているのどかさである。追分の道標が見え、餅屋を右に入るのが中山道か、暗い木曽路を象徴するような、かげりを見せている。画題は「名物立場」。
姥ヶ餅というのは、寛永のころ、江州の代官であった六角左京太い夫の子孫が亡ぼされた時、その幼児で三歳になる子を乳母が育てるために餅を売ったというのが由来だという。
草津から、次の大津へは矢橋から琵琶湖を船で渡るのと、瀬田唐橋、膳所を過ぎて、大津に入る陸路と二つがあった。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
海道は右手に琵琶湖が近く、草津に着く。石部から10.7里に当たる。ここは中山道と東海道の分かれ道、つまり追分で、中山道は江戸から木曽路を通って、ここで合している。従って宿駅としては繁栄を見たところと思われる。
広重は、ここの立場でもあった、名物姥ヶ餅屋を描いている。街道には慌ただしく早駕篭が飛び、上納荷が担がれていく。しかし姥ヶ餅屋では旅人も馬士も駕篭かきも、一椀の姥ヶ餅に旅の疲れを休め、名物に舌鼓をうっているのどかさである。追分の道標が見え、餅屋を右に入るのが中山道か、暗い木曽路を象徴するような、かげりを見せている。画題は「名物立場」。
姥ヶ餅というのは、寛永のころ、江州の代官であった六角左京太い夫の子孫が亡ぼされた時、その幼児で三歳になる子を乳母が育てるために餅を売ったというのが由来だという。
草津から、次の大津へは矢橋から琵琶湖を船で渡るのと、瀬田唐橋、膳所を過ぎて、大津に入る陸路と二つがあった。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』