![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/de/ed3b1a6ffda5ab1c31582e50c93ad454.jpg)
・所在地 岡山県小田郡矢掛町矢掛
・建立年 昭和十七年(1942)
・建立者 不明
・刻字 正面 矢掛一里塚趾
左面 昭和十七年四月一日
・説明板 『史蹟 旧山陽道 一里塚跡 一里塚とは一里ごとの目印として道路の両側に土を盛って、木を植えた所をいいます。一里塚を造り始めたのは織田信長で、その後、豊臣秀吉・徳川家康が全国に広めました。江戸時代の一里塚は、三十六町を一里とし街道の両側に榎・松等を植えさせました。これは旅人の里程の目安となり木陰は休憩所になりました。現在矢掛には3ヶ所の一里塚跡が確認できます。東は東三成の真備町境にあり、道路の拡幅工事とともに松ノ木が伐採されました。中央の一里塚は旧矢掛宿内の東町の一里塚で、南北とも黒松で、北側の松は明治十六年に積雪で倒れ、南側は昭和十六年に省営バス路線工事のため伐採されました。西は浅海の毎戸の西端にありました。 平成十六年 やかげ歴史の復元元事業』
・撮影日 2005/04/29
・メモ 近くにある宿場町の面影をしのばせる「国指定重要文化財旧矢掛本陣石井家」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/e9/59fe67af02a51f27424d15c48eae9852.jpg)
「国指定重要文化財旧矢掛脇本陣高草家![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/47/432695e8214cb7bc65edba0704b6c40e.jpg)
くわしくは矢掛町HP
・位置図![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/23/30/b99a72c304418abcaf9cfe3f4af50ce0_s.gif)
・建立年 昭和十七年(1942)
・建立者 不明
・刻字 正面 矢掛一里塚趾
左面 昭和十七年四月一日
・説明板 『史蹟 旧山陽道 一里塚跡 一里塚とは一里ごとの目印として道路の両側に土を盛って、木を植えた所をいいます。一里塚を造り始めたのは織田信長で、その後、豊臣秀吉・徳川家康が全国に広めました。江戸時代の一里塚は、三十六町を一里とし街道の両側に榎・松等を植えさせました。これは旅人の里程の目安となり木陰は休憩所になりました。現在矢掛には3ヶ所の一里塚跡が確認できます。東は東三成の真備町境にあり、道路の拡幅工事とともに松ノ木が伐採されました。中央の一里塚は旧矢掛宿内の東町の一里塚で、南北とも黒松で、北側の松は明治十六年に積雪で倒れ、南側は昭和十六年に省営バス路線工事のため伐採されました。西は浅海の毎戸の西端にありました。 平成十六年 やかげ歴史の復元元事業』
・撮影日 2005/04/29
・メモ 近くにある宿場町の面影をしのばせる「国指定重要文化財旧矢掛本陣石井家」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/e9/59fe67af02a51f27424d15c48eae9852.jpg)
「国指定重要文化財旧矢掛脇本陣高草家
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/47/432695e8214cb7bc65edba0704b6c40e.jpg)
くわしくは矢掛町HP
・位置図
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/23/30/b99a72c304418abcaf9cfe3f4af50ce0_s.gif)
一里塚の記事、楽しく読ませていただきました。自分のサイトでも一里塚の記事をアップしまし、こちらへTBも貼らせていただきました。
>一里塚とは一里ごとの目印として道路の両側に土を盛って、木を植えた所をいいます。
当方のサイトで紹介している一里塚。道の両サイドには今でも盛土が残っています。
今回の平成の大合併では周辺の市町村に取り残された形になっています。
大丈夫なんでしょうか?