「洲崎神社は、東京湾の出入口を見下ろす場所であることから、古来、漁師にとっての漁業神、船乗りにとっての航海神でした。
祭神は天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)といい、安房開拓神話に出てくる(四国の阿波から移住した)忌部(いんべ)一族の
祖神天太玉命(あめのふとだまのみこと)の后神(きさきがみ)です。
標高110mの御手洗山中腹に鎮座し、太平洋を一望できるほか、浜鳥居(一の鳥居)から富士山を眺めることもできます。
8月21日に実施される例大祭では147段の急勾配の石段をもみ・さしを繰り返しながら下りる神輿渡御や、千葉県の文化財に指定されている「ミノコオドリノ」の奉納があります。
また、神社裏手の御手洗山自然林は千葉県指定の天然記念物です。」引用元。
バッグを同行の印旛沼の里山住人のKさんに持ってもらい、147段の階段を休み休み何とか上がり切った。80歳の老爺は滅多にない大苦行を無事やりとげていにしえの空気を吸った。
帰りは階段ではなく 横のお寺への急坂を降りた。
この147段の階段の登りで足の筋力を使い果たしたらしく、もう一つ参詣を予定した「安房神社」訪問は次の機会になった(笑)。
「洲崎神社は、東京湾の出入口を見下ろす場所であることから、古来、漁師にとっての漁業神、船乗りにとっての航海神でした。
祭神は天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)といい、安房開拓神話に出てくる忌部(いんべ)一族の祖神天太玉命(あめのふとだまのみこと)の后神(きさきがみ)です。
標高110mの御手洗山中腹に鎮座し、太平洋を一望できるほか、浜鳥居(一の鳥居)から富士山を眺めることもできます」。引用元。
館山駅前から乗車したバスの車窓から
民宿[じんざ]で朝食を食べた後 予定した館山行の電車の時間まで朝の散歩をした。
民宿を出て内房線の踏切を渡ると5分ほどでビーチに出る。
波がしらから上がる空気のありようの違いは 吸った瞬間に分かった。胸いっぱいオゾンを吸い込み、何回も何回も深呼吸した。免疫力が上がったような気がした(笑)。
海岸まで降りる道すがらにみかけた会社。あたりの民家には吉野姓の表札が多かったが 紀州吉野からの移住者の子孫らしい。
民宿から歩いて3分のところに別の熊野神社あったが 随分寂れていた。
世話人の名に「吉野某」と刻まれていた。
細い若竹が参道のあちこちに伸びていたりして 氏子さんたちも最近はあまり訪れていないようだった。
町全体に人の気配が少なく人口が減る一方の日本がこの地にもあった。
「クジラについて知りたい人に利用し続けてもらえる資料館にしたい」日本最高峰のクジラコレクター『勇魚文庫』細田徹さんinterview前編
⇒「日本最高峰のクジラコレクターである細田徹さんのコレクションの一部が千葉県南房総市の道の駅『和田浦WA・O!』に隣接する『和田地域センター』内の資料館に展示されています。
館内は1階と2階に分かれ、1階は一般公開されています。昭和・大正の時代に作られた玩具や捕鯨道具など、クジラ関連の幅広いアイテムが展示されているスペースは、
見ているだけで気分が上がります。クジラについての幅広い知識を吸収したいなら、ぜひ訪れてほしい場所です。全文。
熊野神社【由緒・沿革】(参考文献:和田町史)引用元
創立年代は不明ですが、明治二十二年(1889年)に記された「熊野神社縁起」が残されています。
熊野神社は安房郡内に41社もあり、和田町内にも5社あります。安房郡内41社の中で社格(注1)が旧郷社にとなっているのは当社だけです。
安房郡内に熊野神社が多いのは、昔から紀州と房州は密接な関係にあり、漁業者を中心に紀州からの移住者が多く、
熊野信仰が海岸沿いから河川を遡行して伝播したことが裏づけられていると思われます。
神社の社務所には梵鐘が保存されていて「房州朝夷郡和田村 海邉山清願寺 施主浄観 宝暦六(1756年)十一月 江戸西村和泉守作」と刻されています。
参拝したあと熊野神社を下って和田浦漁港まで海を見に歩いた。
房総半島・安房の「和田浦」へ鯨料理を食べに出かけました。千葉県は早ければ大化元年(645年)頃から令制国として命名が始まり、
大宝元年(701年)に最終制定された大宝律令の旧国名で言うと「下総」「上総」「安房」の三国から成り立っています。
その千葉県の「安房」の地は 四国徳島の「阿波」の地から忌部氏職能一族の住民が黒潮に乗って移住してきた土地です。参考資料⇒こちら。
古代から近海鯨業が盛んな安房の「和田」で鯨料理を楽しみ、紀州から移住してきた人たちがその昔に建立した熊野神社や洲崎神社を訪ねました。
蘇我駅で 友人の印旛沼の里山住人Kさんと合流し、外房線特急「わかしお」に乗りました。☟蘇我駅ホーム
特急の車両の乗客はがらがらかと想像していましたが 七割がた席が塞がっているのには驚きました。東京駅始発の外房線特急「わかしお」は人気路線のようです。
茂原という地名は近くにある城下町である恩師の出身地「大多喜」の地名と共に忘れられない。
今は 故郷大多喜町の稲葉家の菩提寺に眠る稲葉襄先生は紀州和歌山でも学ばれ 長く多くの学生を育てられて神戸の地で亡くなられた。
御宿の駅
車窓から見た外房の海
和田浦駅の跨線橋の上から
和田浦駅は無人駅だった。降りた駅でのスイカでの清算運賃2310円。 車内で購入した自由席特急券 900円だった。
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参考資料の一部から引用
:◎『古語拾遺』には、天富命が天日鷲命の孫を率いて肥饒地を求めて阿波国に渡来し、榖・麻の種を植えたが故に麻殖郡と名付けられた。」とあり、
吉野川市の前身である麻植郡の名称は、阿波忌部が植えた麻に由来するものです。吉野川市山川町忌部山には「忌部神社」が祀られ、
市内全域に阿波忌部に纏わる伝承地や史跡が今もなお数多く残されています。また、徳島県の旧国名である「阿波」も阿波忌部に由来しています。
ヤマト王権の成立にも大きな役目を果たしたと見られる阿波忌部は、吉野川を出発し、黒潮ルートで房総半島に渡り、
関東一円を開拓していきました。その足跡は伝承によれば、伊勢・讃岐・出雲・石見など全国に及び、榖・麻・農業・織物・陶芸・音楽などを伝えた
産業技術集団及び海洋民として伝えられています。
◎忌部交流会実行委員会の委員長は、館山市相浜「楫取神社」氏子である鈴木馨氏が担当。
当日は、勝浦市から自動車で移動し、南房総市白浜町「下立松原神社」、
館山市「神余」「神戸」「布良崎神社」「楫取神社」「洲宮神社」「安房神社」「忌部塚」
を、実行委員会メンバーの方々に案内していただいた後、午後から忌部交流会に臨んだ。
交流会は、予想を遥かに上回る来場者があり、大盛況の中でイベントが終了した。
阿波忌部族が房総半島へ渡来後、その過去の業績を称えるために、その末裔が正式訪問するのは、
実に約1700年ぶりのことであると考えられ、開拓した先人に、感謝の意が捧げられた。などなど。
いずれもパンフレットから引用☝ click ☞ 簡単な白洲次郎の伝記
白洲次郎は兵庫県芦屋の精道村で生まれ育ち 小学校は御影師範(現神戸大学発達科学部)の付属小学校を卒業して神戸一中(現神戸高校)に進んだ。
神戸一中を出た後 英国に留学しケンブリッジ大学でキングスイングリッシュを身に着けて帰国した。
その環境からか 彼は日本語の「いわゆる共通語」アクセントを知らず、日本語としては関東アクセントでしか話さない家族の中で
たった一人、生涯を関西弁を喋って過ごしたと娘さんの牧山桂子さんが何かに書いていたエピソードが可笑しい。
白洲正子の書斎に入ると、彼女の蔵書が前後左右の本棚にぎっしり詰まっていたが、 歴史書や古典や小林秀雄全集の中に
車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」や冨士正晴の「桂春団治」もあって彼女の関心の対象の多様性に驚いた。
そのほか南方熊楠の男色に関する本、ファーブルの昆虫記、神谷恵美子の著作も並んでいて これまで白洲正子の本を一冊も読んだことがなかったが
自分も知っているこういう本を読んで来た白洲正子ってどんな人だったのか興味が湧いた。
四十八瀧心中未遂
帰りは鶴川の駅から二駅離れた新神会メンバーのホームタウン「新百合ヶ丘駅」に戻った。「新神会」の名は「新百合ヶ丘」の新と、メンバー全員に縁がある「神戸」の神に由来している。
幹事さんが予約してくれていた「築地 とう庵」の離れコーナーでゆっくり食事をしながら 武相荘の話や今の日本や世界の話やなんやかんやで
3時間ほどの男の喋りタイムはあっという間に時間が過ぎた。こうして顔を合わせてお喋りが出来る有難さをあらためて感じた。
新宿で小田急に乗り換え、家を出てから1時間半で鶴川駅に降り立った。新神会の5人のメンバーは定刻前に揃ってバス停に向った。
鶴川駅は自分が想像していた以上に開けた郊外の大きな駅で駅前の広いバスターミナルにひっきりなしにバスが発着していた。
会のメンバーの皆さんに、バス路線の中では「武相荘」(ぶあいそう)に一番近いルートを探してもらったので 最寄りのバス停から武相荘までは5,6分で着いた。
武蔵の国と相模の国の両方に近い地にあるから 武の字と相の字を組み合わせて「武相荘」(ぶあいそう)、と名付けたそうだ。
白洲次郎と正子に関する出版物の何冊か読み、NHKで伊勢谷友介が好演したドラマシリーズ「白洲次郎」を楽しんだことがあるので「武相荘」とは
どんなところか行ってみたかった場所だった。
武相荘の中は撮影禁止だったので内部の模様はパンフレットから引用。
武相荘は夫妻が鶴川に土地を見つけて山荘を造ったと思い込んでいたが、行ってみて 人が住まなくなって長い豪農の家を購入して手を入れて住みだしたということを知った。
そのせいか 奢侈なところは微塵もなく 実質的にして 余裕ある住空間があった。
二人はともに当時の日本の上流階級の生まれ育ちだから 室内の随所にそれが伺えたが 恵まれた環境の中にしては
いささかも華美や豪奢に走ることがなく「ありのままに土の上に生きた」のだと感じた。確かに彼らには見栄を張らないといけないという俗世間や俗人の要素は何もない(笑)。
続く。
☝「ホテルモリノ」があるビルから見た百合ヶ丘の丘陵タウン。
久しぶりに新宿で小田急線に乗り換えたが、
新宿は昨年の11月以来だったせいか新宿駅構内でJRから小田急線への乗り換えで少し迷ってしまった。
少し早く家を出たので何とか約束の時間には新百合ヶ丘駅に着いた。
駅のすぐそばの「ホテルモリノ」のレストランでのランチを予約してもらっていた。
学生時代に知り合った元柔道部の 久しぶりに会ったYさんと、元ヨット部の長年の友人であるTさんと三人の喋りながらの昼食は楽しかった。
Tさんはついこの間わが地を訪ねてくれたし、別のグループと同じホテルにある「梅の花」clickで何回もあっているが、
50年近く年賀状を交わしてきたYさんとは何十年か前の同期会以来の顔合わせだった。レストランの食事はとてもおいしくビールとワインもすすんだ。
来年3月には3人で沿線の鶴川にある「武相荘」(白洲次郎・正子夫妻の旧居)を訪ねることを約して別れた。
帰りはふと思い立ち、代々木上原駅で向かいホームに停まっていた地下鉄千代田線に乗り換え
新御茶ノ水駅で降りて馴染みの元勤務地である神田をぶらぶらし(後日掲載) JR神田駅まで歩いてから電車に乗り帰宅した。
帰りに秋葉原の駅ホームの売店で買った「万カツサンド」は孫たちの翌朝の朝食になった。
(画像は以前のもので現在は容器と実物は小さくなっている)。
今回まわった佐倉惣五郎の事績に関する関連資料として次のようなサイトをKさんが紹介してくれました。
(義民? 怨霊? 福沢諭吉に「唯一佐倉宗五郎を鑑とせよ」と言わしめた佐倉宗吾とは?)☞こちら
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「義民ロード」を車にのせてもらってまわったあと、友人の家まではそんなに遠くなかった。以前の訪問 ☜click
お宅には今年取れた新米をご馳走になるという事で伺ったが、卓上にはフルコースが次々並べられ、そのすべてが大好物のものばかりだった。
前菜から始まったが 好きなイナゴのつくだ煮とワカサギの甘露煮に悦び、柿の実や千葉名産の茹で落花生も嬉しかった。
大きな太い竹の加工で出来た“うつわ”は昨日知り合いの方が作ってくれたばかりとのこと。
お酒は二人のかっての勤務先の先輩・故興津さんが教えてくれた「菊水」の、以前はなかったスパークリング一番搾りと諏訪の「真澄」を揃えてもらっていて嬉しかった。
料理はどの一品も旨くて遠慮なく全て心行くまで楽しんでおいしく頂いた。シャンツアイたっぷりのにんにくスープはKさんが作ってくれて旨かった。
自家栽培の茗荷の漬物も添えられた 新米は格別な味だった。
本日のメインディッシュのサンマは三軒目の店でようやく店にあったそうで これまた旨かった。
新米も美味しく、料理の品々は全て残さずお腹に納まった。
二人で2本の、日本酒のひさしぶりの昼酒の酔いは気持ちよく全身に回り 気が付くとあたりは薄暮になっていた。
帰りはJR成田線の我孫子支線の駅「安食」までミセスKの運転で送って頂き、
成田へ出て、京成線と総武線で無事に19時前に帰宅した。Kさんご夫妻ありがとうございました。
☝旧宅全面 ネットから借用 ☟旧宅内部 ほぼ400年前の佐倉惣五郎が住んだ家と説明を受けた。
宗吾から17代目にあたるミセス木内から詳しく木内家(佐倉家)の歴史の説明を聞くことが出来た。
Wikipediaから一部引用:
佐倉 惣五郎(さくら そうごろう、生年不詳 – 承応2年8月3日(1653年9月24日)?[1][注釈 1])は、江戸時代前期の下総国佐倉藩領の義民として知られる人物[1][4][2]。下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名は木内 惣五郎(きうち そうごろう)[3]、通称は宗吾(そうご。惣吾[1]とも)とされる。
領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。代表的な義民として名高いが[1][4][2]、史実として確認できることは少ない[1][4][2]。惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成され[3]、実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く知られるようになった[1]。
旧宅を出て甚兵衛渡しに向った。渡しがあった辺りは、今は干拓により水田が広がっていて甚兵衛公園となっている。
お咎め覚悟でひそかにいったん家に戻る宗吾を船で運んだ渡し守の甚兵衛は、送った後印旛沼に身を投げたと伝えられている。
このあたりも往時は印旛沼だった。