新居浜の住人Iさんの小豆島ルポはますます快調です。⇒「いよいよお目当ての「二十四の瞳映画村」にきました。ここが入口。↑
この島の出身者の小説家である「壺井 栄」が書いた「二十四の瞳」を映画化したもので昭和29年に木下恵介監督、高峰秀子主演で
その年のキネマ旬報第一位に輝き海外でも多数の賞を受賞。
映画村の外側の塀にはかっての邦画黄金期の昭和の大スターの大きな写真パネルがびっしり取り付けられている。
その一部ですが終戦前後に生まれた人にとっては懐かしいスター達です。
映画のあらまし、昭和初期島の分校に高峰扮する大石先生「おなご先生」と12人の生徒の物語。
満州事変、太平洋戦争に翻弄され戦後の逆境の中で教え子達が強く生きていく様を描いた反戦と
師弟愛を綴った不朽の名作。当時のセットがそのまま残されている。
中に入ると川が流れておりコイかなと見ると立派な鯛の群れだった。 海水をいれて観光客を楽しませていた。
人に慣れておりエサを投げれば素早く寄ってくる。
おおきなボラも群れている。
観光誘致のため折角ある建物を利用して実際に商売している。
ロケ当時の干し物もそのままにしてリアル感をだしている。
「松竹座」では毎日「二十四の瞳」を上映しており椅子に座り20分くらい鑑賞した。もちろん無料です。
平和と幸せを求める永遠の願いが込められており、おろかな戦争は誰も幸せにならないと訴えている。
(阿智胡地亭は一年ほど前にテレビで久し振りに「二十四の瞳」を見てあらためて感動しました。
ところが、今なら考えられんことやけどが、生徒が全員東京弁をしゃべっとるやないですか!!
小豆島の小学生が東京弁喋っても撮影当時の制作側や観客は、映画は東京弁とおもて何も不思議に思わんやったんやろね。
映画は感激ものやったが、私は気になって気になってしゃあなかったですわ。なお、子役は全員東京の児童劇団の子ぉを連れて行って
合宿みたいにして撮影したらしい。やはり時代は少しずつ変化し続けてるんやね。NHKの朝ドラのまっさんは広島の竹原出身の
設定やけど、感心するほど上手な広島弁喋っとりますけんね。)
「二十四の瞳」の原作者「壺井 栄」の文学館が平成4年に敷地内に建設された。
明治32年に小豆島に生まれ昭和42年(67才)死去。 大正14年同島の出身で小説家の壺井繁治と東京で結婚。
この作品は壺井 栄が53才の昭和27年に発表された。
栄の好きな言葉が 【桃栗三年柿八年 柚子の大馬鹿十八年】だったそうです。
つまり自身の小説家としての遅咲きを揶揄していた。 この文は壷内が書いたものではないそうです。
実際、柚子の実がなるのはかなりの年数がかかるようです。」
この島の出身者の小説家である「壺井 栄」が書いた「二十四の瞳」を映画化したもので昭和29年に木下恵介監督、高峰秀子主演で
その年のキネマ旬報第一位に輝き海外でも多数の賞を受賞。
映画村の外側の塀にはかっての邦画黄金期の昭和の大スターの大きな写真パネルがびっしり取り付けられている。
その一部ですが終戦前後に生まれた人にとっては懐かしいスター達です。
映画のあらまし、昭和初期島の分校に高峰扮する大石先生「おなご先生」と12人の生徒の物語。
満州事変、太平洋戦争に翻弄され戦後の逆境の中で教え子達が強く生きていく様を描いた反戦と
師弟愛を綴った不朽の名作。当時のセットがそのまま残されている。
中に入ると川が流れておりコイかなと見ると立派な鯛の群れだった。 海水をいれて観光客を楽しませていた。
人に慣れておりエサを投げれば素早く寄ってくる。
おおきなボラも群れている。
観光誘致のため折角ある建物を利用して実際に商売している。
ロケ当時の干し物もそのままにしてリアル感をだしている。
「松竹座」では毎日「二十四の瞳」を上映しており椅子に座り20分くらい鑑賞した。もちろん無料です。
平和と幸せを求める永遠の願いが込められており、おろかな戦争は誰も幸せにならないと訴えている。
(阿智胡地亭は一年ほど前にテレビで久し振りに「二十四の瞳」を見てあらためて感動しました。
ところが、今なら考えられんことやけどが、生徒が全員東京弁をしゃべっとるやないですか!!
小豆島の小学生が東京弁喋っても撮影当時の制作側や観客は、映画は東京弁とおもて何も不思議に思わんやったんやろね。
映画は感激ものやったが、私は気になって気になってしゃあなかったですわ。なお、子役は全員東京の児童劇団の子ぉを連れて行って
合宿みたいにして撮影したらしい。やはり時代は少しずつ変化し続けてるんやね。NHKの朝ドラのまっさんは広島の竹原出身の
設定やけど、感心するほど上手な広島弁喋っとりますけんね。)
「二十四の瞳」の原作者「壺井 栄」の文学館が平成4年に敷地内に建設された。
明治32年に小豆島に生まれ昭和42年(67才)死去。 大正14年同島の出身で小説家の壺井繁治と東京で結婚。
この作品は壺井 栄が53才の昭和27年に発表された。
栄の好きな言葉が 【桃栗三年柿八年 柚子の大馬鹿十八年】だったそうです。
つまり自身の小説家としての遅咲きを揶揄していた。 この文は壷内が書いたものではないそうです。
実際、柚子の実がなるのはかなりの年数がかかるようです。」