阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

梅雨の晴れ間に  荒川上空の雲が見事だった!

2020年06月24日 | 身辺あれこれ

歩行数 6086歩 4.0km

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第二次安倍政権(H25年~令和元年)の「政府広報費」は総額約671億円。うち電通への委託は約338億円(48%)で、随意契約が約7割

2020年06月24日 | SNS・既存メディアからの引用記事
一部引用・・・「政府広報費」の94%を占める「啓発広報費」は近年大幅に増加していますが、、第二次安倍政権となってからのH25(2013)年~令和元(2019)年の総額は約671億円ということがわかりました。なおこのうち、電通への委託額は「啓発広報費」全体の48%となる約338億円で、69%の約224億円が随意契約でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナウイルス伝染 なぜ、国ごとに差が出たのか。そして第二波がどうなるか   岩田健太郎

2020年06月24日 | SNS・既存メディアからの引用記事
一部引用・・・ 日本は伝統的に、(前線の)人とモノを大事にしません。ノモンハンやインパールを例に上げるまでもなく、現場の人間をこき使って、疲弊させ、消耗させ、そして物資が足りなくても精神主義で我慢させるのです。
しかし、このような悪しき精神主義では正しい感染対策はできませんし、事実日本の医療現場は消耗しました。日本人の歴史と文化で感染症と上手く対峙できた、などという押谷謎理論はぼくにはまったく理解できません。あれにメロメロになって、感動してしまう人がたくさんいることは理解しますけど、それは日本の悪しき「物語主義」です。事実を無視したり、歪曲して、自分が気持ちよくなるような「物語」に事実を擦り寄らせてはいけません。
そもそも、天然痘と共存する諦観なんてアジアのどこの文化にもありませんよ。それを諦めていたのは、昔は諦める以外に手段がなかったからです(西洋も同様です)。が、天然痘はワクチンで克服できることが分かり、日本も含め、アジアのすべての国でもこの病気を撲滅せんと全力を尽くしました。そして、現在はアジアのみならず、世界中から天然痘も撲滅されています。同様に、ポリオもワクチンで撲滅しようとしています。ヒトパピローマウイルスが原因の子宮頸がんも撲滅目標の「感染症」で、世界中がワクチン接種でこの忌まわしい病気を克服しようとしています。日本を除けば。
画像クリックで本文に飛びます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「自粛」という言葉の向こうに見えてくる日本人独特のマインド     ニューズウイーク

2020年06月24日 | SNS・既存メディアからの引用記事
一部引用・・・日本人の判断や行動の元となる規準についてアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、「平等の権利を獲得することではなく、責務を果たすこと、自由な人間になるのではなく、期待される人間となること」(『日本人の行動パターン』NHKブックス)だとしている。そのために自分の行為が周りの非難を受けないように厳しい自己監視や慎重な判断が求められる。内心では納得していなくても他者による非難や報復を避けようとして、また、周りから悪い印象をもたれないように自粛や自重などの行動で自己提示する画像クリックで本文に飛びます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1945年(昭和20年)6月23日、最後の沖縄県知事、神戸人の島田叡も沖縄県人と運命を共にして散った。

2020年06月24日 | ゲストルーム
いまから75年前の6月23日、沖縄に上陸してきたアメリカ軍に対する日本軍の組織的戦闘が壊滅しました。

 ◎ 以下は2012年7月9日のエントリーの再掲載です。

「俺が行かなんだら、誰かが行かなならんやないか。俺は死にとうないから、誰か行って死ねとは、よう言わん」。
 知事の発令を受けたときに親しい人に島田叡さんが神戸弁で漏らした言葉。

「アホの勉強、忘れるなよ。人間アホになれたら一人前や」。
1945年1月31日沖縄へ赴任する島田さんが福岡の飛行場で曽我秘書に言った言葉。



「神戸市長田区にある兵庫県立兵庫高校の一角に、「合掌の碑」と呼ばれる碑があります。この高校は戦前、兵庫県立第二神戸中学校、通称神戸二中という学校で、この二中を卒業し、後の、旧沖縄県最後の沖縄県知事として赴任した島田叡知事を想い、建てられた碑だそうです。

このグラウンド
このユーカリプタス
みな目の底に収めて
島田叡は沖縄へ赴いた
一九四五年六月下浣
摩文仁岳の近くで
かれもこれも砕け散った

1901年、神戸市須磨区で生まれて、二中経て旧制第三高校から東大法学部に進み、内務省官僚となりました。
1944年の終わり、日に日に戦況が悪くなり、沖縄に米軍上陸の可能性が大きくなってきた頃、出張名目で帰ってしまった泉守紀沖縄県知事の後任として、1945年1月、第27第沖縄県知事に任命されました。当時、益々戦況が悪化しているのは明らかで、島田知事も、沖縄県知事を拒否しようと思えばできたそうですし、周りの人々も知事を受ける事に反対したそうですが、「俺がいかねば、誰かが行かねばならぬ」と、その反対を押し切り、家族を残して赴任したそうです。
知事として赴任後は、食糧難の打開と、住民や学童の疎開など、沖縄県民の為に為に尽力し、また、第三十二軍の首里撤退の際も、住民の犠牲が大きくなる為、撤退せず首里に留まるべきだと主張されたそうです。
1945年6月、糸満市伊敷にある轟の壕と呼ばれる壕にて、県庁の解散を命じた後、第三十二軍司令部に合流するため、県警幹部と共に摩文仁に向かったまま、消息不明となっています。
 この「合掌の碑」は、遠く沖縄の方向を向いており、合掌をしているデザインとなっているそうです。」こちらから引用。

◎島田 叡(アキラ)の略歴。
 1901年(明治34年)、神戸市須磨区の開業医・島田五十三郎の長男として生まれた。西須磨小学校、旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)、第三高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法科へ入学。中学・高校・大学と、野球に熱中し、東大時代は野球部のスター選手として、また、ラグビー部とも掛け持ちするなど、スポーツマンであった。以下彼の一生はこちら

昨日、神戸朝日ホールで午後5時から8時15分まで開催された「『沖縄の島守』を憶う夕べ」に参加しました。
主催者の勝 順一 実行委員会 委員長(全国高校選抜野球大会に出場した兵庫高校チームの主将でもあった)

 勝さんとは2回ほど席を同じくさせてもらったことがあります。静かにして強靭な、本物のジエントルマン(Gentleman)です。

昨夜のアルバムです。写真は18枚あります。集まりが終わってから沖縄居酒屋で「ソーキそば」を食べたのは偶然ですが・・・。
▽をクリックするとスタートします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする