阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

大阪通天閣あたりの「串カツ屋」と同じ店「じゃんじゃん」を錦糸町で見つけた。

2023年04月27日 | 食べる飲む

頼んだレンコンと玉ねぎの串カツが出てきたとき あれっ梅田の「松葉」clickや通天閣の「壱番」clickの串カツと同じ大きさだと嬉しかった。

東京にあるチエーンの串カツ屋はこの半分の大きさの店が殆どだ。ソースの味も関西と全く同じだった。関西の串カツはどこにあるともう悩まずに済むと嬉しかった。

店員に聞くと大阪の串カツ屋のフランチャイズ店でもう一店は高田馬場にあったがコロナ禍で閉店してしまい

関東ではこの錦糸町店一店だけが大阪と同じ流儀でやっていますと。料理のメニューも酒のメニューも豊富でなによりも

串カツそのものが梅田や難波で食べているのと全く同じというのが売れしい。

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2011年03月22日(火)のブログ     東日本大震災が起こった後「阿智胡地亭の非日乗」が掲載したエントリーから

2023年04月27日 | 東日本大震災ブログ
2011年03月22日(火)
現時点での「悪い方のシナリオ」 by 飯田哲也
読んでこれは専門家として覚悟を決めて発表した文書だと感じました。判断のためには、全文を読まれることをお勧めします。なぜこの結論を導いたかについてその理路が述べられています。

Ver.0
2011年3月20日「最悪シナリオ」はどこまで最悪か

~楽観はできないがチェルノブイリ級の破滅的事象はない見込み~

    環境エネルギー政策研究所  所長 飯田哲也

結論部分を引用・・

【暫定的なまとめ】

・ 使用済み核燃料プールで燃料が溶融し,そこで原子炉臨界状態が出現するという再臨界現象はおそらくは起こらないであろう(ホウ素投入はないと安全側に仮定しても)。

・ 再臨界状態が起こるとすれば、その可能性は圧力容器内部の方が相対的に高い。ホウ素投入の効果はあるが、再臨界を抑止できると保障することはできない。

・ 仮に再臨界が起きても、核爆発のように連鎖的・爆発的に広がるのではなく、せいぜいスパイク(瞬間的な臨界超過状態)を何度か繰り返す程度ではないか。

・ その場合、周辺の放射線量(中性子、ガンマ線)は東海村JCO臨界事故のように瞬間的に高くはなっても、核爆発のように甚大な爆発被害が広がることはありそうもない。

・ 再臨界の有無に拘わらず、使用済み核燃料プールでの燃料溶融や圧力容器・格納容器における水蒸気爆発によって、これまでのベント(意図的な圧力開放)をはるかに超える放射能(核分裂生成物)の外部放出の可能性は否定できない。

・ ただし、圧力容器・格納容器の大爆発ではなく、構造上の弱い箇所の破損による瞬時放出に留まると推定される。そのため、黒鉛火災が何日も続いて放射能を大量放出したチェルノブイリ事故とは異なり、瞬時的な放出に留まると推定されるため、深刻な汚染地帯はチェルノブイリ事故よりも限定的に留まるものと推定される。

・ したがって、首都圏や仙台などの大都市の避難勧告のような事態は、おそらく避けることができるものと判断できるのではないか。

・ ただし、最悪シナリオが生じた場合に放出される放射能は、これまで一時的に放出された放射能よりも桁違いに多い可能性があるため、状況の推移によっては、現状の避難範囲(避難20km、屋内退避30km)の再検討やヨウ素剤の配布計画、広範な地域で被曝を最小限に抑えるためのマニュアルの周知徹底などが必要と考える。

  全文はこちら

●飯田哲也
NPO法人:環境エネルギー政策研究所(ISEP)所長。ルンド大学(スウェーデン)客員研究員。1959年山口県生まれ。自然エネルギーや原子力などの環境エネルギー政策専門家。『21世紀のための再生可能エネルギー政策ネットワークREN21』理事など国際ネットワークも豊富。温暖化ファンドやグリーン電力などを生み出すなど、社会イノベータとしても知られる。中央環境審議会、東京都環境審議会などを歴任、2009年11月には、新政権の25%削減タスクフォース有識者委員、および行政刷新会議ワーキンググループの事業仕分け人に任命された。著書に「自然エネルギー市場」(菊地書館)、「北欧のエネルギーデモクラシー」(新評論)、「自然エネルギー市場」(菊地書館)、「グリーン・ニューディールー環境投資は世界経済を救えるか」(NHK出版)、「日本版グリーン革命で経済・雇用を立て直す」(洋泉社新書)など
 
 
中井久夫先生 大震災
 
阪神淡路大震災が起きたとき、中井久夫先生は心療内科・精神科の臨床医として多くの弟子筋の医者を糾合し、被害者の誰もが多かれ少なかれ持った心の傷の治療に向かい合った。

先生と共に現地の避難所や病院で被害者の治療にあたり、たくさんの人を救った先生の仲間の中には、そのときの疲労の蓄積からか数年を経ずして若くして亡くなった医者や看護師がいる。

彼らに対する先生の鎮魂の痛切な文章は今も忘れられない。

今回の東日本大地震に関し、神戸新聞の求めに応じて書かれた文章が
掲載された。画像をクリックすると紙面が拡大します


阪神淡路大震災が起きたとき先生は、神戸大学医学部付属病院におられた。当時私も中井先生に話を聞いて頂いたことがあり、

大学病院で先生の教え子に一年間カウンセリングを受けた。



アルバム、写真…思い出探しに学生ら奮闘
♪ 被災者と同じ思いの若い人たちの活動。メディアはこういうエピソードを拾ってほしい。読んで本当にありがとうと思った。

毎日新聞 3月21日(月)11時19分配信

 「思い出が詰まった大切な写真を持ち主に返したい」

300世帯以上が津波被害を受け、30人が犠牲になった岩手県野田村で、地震後に帰省した大学院生らが20日、がれきの中にあったアルバムや写真を持ち主に引き渡すボランティアを始めた。泥だらけのアルバムをめくって「うちのだ」と喜ぶ被災者もおり、周囲は笑顔に包まれた。

【被災地のために】いま何ができる? わかりやすく解説

 村出身の千葉大大学院生、小田洋介さん(25)らが発案した。小田さんは地震後の14日に車で村に戻った。両親や祖父母は無事だったが、自宅は1階部分が津波で激しく壊された。写真が趣味の小田さんがまず部屋から取り出したのはアルバムだったという。近所の人のアルバムを見つけて届けたところ、とても喜ばれた。道端に多くの写真が落ちているのを見た小田さんは「思い出までなくなるのは悲しい」と、中学の同級生と5人で拾い集めることに決めた。

 19日に村を歩き、がれきの中からアルバムを見つけて回った。20日は村内の路上で段ボールの上にアルバムや写真を広げ、「一時保管しています」と住民に知らせた。自宅に流れついた他人のアルバムを持ち寄る人も現れ、行方不明者の捜索にあたる消防隊員も、見つけたアルバムを「お願いします」と置いていくようになった。

 孫の写真を見つけた建設業、晴山克身さん(61)は「本当に良かった」と笑顔。小田さんは「写真を見つけた人が元気になってくれて、村が活気づいてくれたらうれしい」と話す。【堀江拓哉】
 
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04月26日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年04月27日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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