2010年07月09日(金) 「阿智胡地亭の非日乗」掲載
「今日の気になるブログ」から 私たちのうちの相当部分が「成熟した公民」になる以外に、その要件を満たすことはできない。 「成熟した公民」とは、端的に言えば、「不快な隣人の存在に耐えられる人間」のことである。 自分と政治的意見が違い、経済的ポジションが違い、宗教が違い、言語が違い、価値観も美意識も違う隣人たちと、 それでもにこやかに共生できるだけの度量をもつ人間のことである。 仮に隣人たちが利己的にふるまい、公共の福利を配慮しないようであっても、そのような隣人たちを歓待することが「公民の義務」であると思える人間のことである。 そのような公民が一定数必要である。 つねづね書いているように、「公民的成熟」に達した市民が全体の15%いれば、あとの85%が「自己利益しか求めない子ども」たちであっても、社会システムは機能すると私は思っている。 それくらいにゆるやかな制度設計でなければ、とても人間は生きて行けない。 だが、その15%という目標値を私たちの社会はすでに失っている。 概算で7%程度まですでに「公民度」は低下していると私は見ている。 この数値をとりあえず2桁に戻すことが国民的急務である。 すでに下がりつつある「公民度」を放置して、「障壁」を取り払うことは、前例を見る限り、「排外主義的極右勢力の急伸」以外の政治的未来をもたらさないであろう。 私はそのような政治状況の到来を喜ばない。 それゆえ、「開かれた国」であることのコストとベネフィットについての、リアルでクールな議論の必要を痛感するのである。 |
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