阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

東日本大震災が起こった翌年の [ 2012年06月23日(土)の阿智胡地亭の非日乗ブログ ] 再掲載

2024年07月24日 | 東日本大震災ブログ
2012年06月23日(土)
 
沖縄1945年6月23日 日本軍がアメリカとの戦闘を継続できなくなった日
沖縄慰霊の日 戦没者の追悼式
6月23日 12時9分 NHKニュース
 
沖縄は、23日、太平洋戦争末期の沖縄戦から67年の「慰霊の日」を迎え、各地で平和への祈りがささげられています。

最後の激戦地となった沖縄本島南部の糸満市では、沖縄県主催の戦没者追悼式が行われています。

昭和20年の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦の末、犠牲者は20万人を超え、県民の4人に1人が命を落としました。

6月23日は、沖縄戦で旧日本軍の組織的な戦闘が終わった日とされ、沖縄県が「慰霊の日」と定めています。

最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園には、遺族などが訪れ、戦没者の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」に花を手向けて、犠牲者を悼んでいます。

母親が撃たれて亡くなったという69歳の女性は、「母が撃たれたとき、私は血だらけになって、近くにいた人に抱えられて生き延びました。戦争がなければ母と一緒に過ごせたと思うと、憎くてたまりません。母の名前が書いてあるここに来ると、会えた気になります。『いつまでも見守っていてください』と伝えました」と話していました。

平和祈念公園では、正午前から遺族などおよそ4500人が参列して、沖縄県主催の戦没者追悼式が行われています。

仲井真知事が「平和宣言」を読み上げて、平和を求める沖縄の声を世界に向けて発信するほか、野田総理大臣も犠牲者に哀悼の意を表すことになっています。

ことしは沖縄が日本に復帰して40年となる節目の年ですが、今も悲しみの記憶と、戦争が残した基地の負担に向き合うなか、沖縄は、平和を願う祈りに包まれます。

慰霊の日 遺族ら平和願い行進
6月23日 11時41分 NHKニュース
沖縄戦最後の激戦地となった沖縄本島南部の糸満市では、遺族などおよそ800人が平和の尊さを訴える平和行進を行いました。

ことしで51回目となる平和行進は、沖縄戦最後の激戦地となり多くの人が亡くなった沖縄本島南部から平和の尊さや戦争の悲惨さを訴えようと、毎年「慰霊の日」に行われています。

この日は、県内外の遺族などおよそ800人が糸満市役所前の広場から、戦没者の追悼式が行われる平和祈念公園までのおよそ9キロの道のりを行進しました。

主催する沖縄県遺族連合会によりますと、高齢化が進み、行進に参加できない遺族が年々増えていて、戦争の記憶をいかに継承していくかが課題になっているということです。

参加者は戦争で亡くなった人たちのことを思いながら、歩みを進めていました。

父親など家族4人を亡くしたという沖縄市の77歳の男性は「戦争は何ももたらさない悲惨なものです。基地問題が解決しないかぎり、沖縄に本当の平和は訪れないと思います」と話していました。

また、孫と一緒に毎年参加している那覇市の67歳の女性は、「父親を亡くした自分の体験を伝えていくことができたらという思いで、行進に参加しています」と話していました。
 
 
国会周辺デモの個人参加者たち
一人の力 未来は変わる 再稼働反対デモ
2012年6月23日 07時25分 東京新聞

 民意からかけ離れた政治に、声を上げ続ける人がいる。関西電力大飯(おおい)原発(福井県おおい町)の再稼働に抗議し、二十二日夜も大勢の人が国会周辺に集まった。今いる「ここ」から、未来は変えられる。一票という力を持つ人たちの思いを国会前で聞いた。 (比護正史、鬼木洋一)

■当事者意識で生きる アーティスト・鹿嶋 隆文さん(34)

 今までは、上から与えられた情報で生きてきた。なぜ今のような事態になったかと考えると、子どもの未来が想像できなかったから。今ならまだ間に合うかもしれないと、ここに来ました。

 東日本大震災の二日前、勤めていた東京都内のそば店を辞めました。隣近所の人の顔も知らなければ、周りの人とつながることもなかった。孤独感とストレスでいっぱいでした。

 震災から約一カ月後、原発事故による放射能への恐怖もあり、海外に逃げました。一年間、タイやオーストラリアなどを回りました。オーストラリアのある町のコミュニティーセンターは、若い人々の交流の場になっていた。地域がつながっている感じがいいなと思いました。

 もともと絵を描いていたので三月に帰国後、地元の神奈川県葉山町などでアートで町おこしをする複数の市民団体に加わりました。地域に根差して、当事者意識を持って生きようと考えたからです。

 震災後はみんな心に寂しさを抱えていた。催しを企画すると、知らなかった人々が集まって自然とつながっていきます。こういうつながりをもっと広げたいです。

■情報集め判断する 主婦・梅沢千津子さん(60)

 脱原発のデモや集会に参加するようになったのは今年四月から。事故が起きるまで興味も知識もなくて、今振り返ると、そういう自分がいやになります。自分で情報を集め、最終的に自分で判断できるようになるため、フェイスブックやツイッターを始めました。

 当初は一人でデモに行くことに抵抗感があり、ツイッターで「心細い」とつぶやいたりしていました。知らない人たちからの「大丈夫。個人で来ている人が多いから」との反応が励みになりました。

 バイオリンの趣味を生かし、八年前から福祉施設や病院などで演奏するボランティアを続けています。震災後はショックで数カ月楽器を触る気にもならなかった。やむなく人前で演奏する機会があったときに、聴いてくれた人から「元気をもらいました」と言われ、立ち直れた。

 自分でできることをと考え、NPO法人の仲介で昨年十一月、岩手県大船渡市のスーパーで相棒の女性ピアニストと演奏しました。都内に移住した岩手県大槌町の被災者と知り合いになり今秋、ミニコンサートを開く計画を進めています。

■学生と思いを共有 大学講師・筒井 史緒さん(35)

 大声を出すとか、主義主張を声高に話すのは苦手でした。でも、誰かがやってくれるだろうという人ばかりだったら何も動かない。一人でも変われば、何かが変わると信じて知人と一緒に来ました。

 帝京大学で、宗教文化論や英語を教えています。以前は授業で自分の個人的な思いを語るのは、押しつけにつながると意識的に控えていました。震災後は、教師というより一人の人間として、授業の合間に「自分はこう思うけどみんなはどう?」と、学生に投げ掛けるようにしています。

 震災と原発事故で、命には限りがあることを、あらためて思い知らされたのがきっかけです。自分も突然、命を失うかもしれない。日本だって今の状況なら、いつどうなるかも分からない。授業は学生たちと思いをシェア(共有)できる場なんだと、今は強く感じます。

 私たちは、自分では作り出せない自然に生かされてきた。それなのに使えるものは使い尽くし、勝手に変えてしまっていいんだと傲慢(ごうまん)に考え、今のような状況を招いたのではないでしょうか。
 
 
首相官邸前へ大デモが起きている
大飯再稼働:撤回求め官邸前でデモ 列は700メートルに
毎日新聞 2012年06月22日 21時40分

首相官邸前で、大飯原発再稼働反対を連呼する抗議集会の参加者ら=東京都千代田区で2012年6月22日午後6時19分、手塚耕一郎撮影
東京・永田町の首相官邸前で22日、関西電力大飯原発の再稼働撤回を政府に求める抗議行動があった。主催者によると約4万5000人、警視庁によると約1万1000人が参加。周辺の歩道を埋め尽くした人が「再稼働反対」と、約2時間にわたって声を上げた。

 有志の市民ネットワーク「首都圏反原発連合」の呼びかけ。3月に始めた当初は300人程度だったが、回数を重ねるごとに参加者が増えたという。この日集まった人の列は約700メートルにも達した。

 茨城県土浦市から来たという会社員、東原裕樹さん(32)は「フェイスブックで今日の活動を知った。核廃棄物の処理方法も決まっていないのに再稼働するなんてあきれてしまう。黙っていてはいけないと思った」と参加理由を話した。【池田知広】

首相官邸前で再稼働反対デモ 
2012年6月23日 00時35分 東京新聞

首相官邸前で大飯原発再稼働反対を訴える人たち=22日午後、東京・永田町で(淡路久喜撮影)


 関西電力大飯(おおい)原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働決定の撤回を求める大規模なデモが二十二日夜、首相官邸周辺(東京都千代田区)であり、官邸に向かって「再稼働反対」「大飯を止めろ」と力強いコールを繰り返した。

 複数の市民グループ有志でつくる「首都圏反原発連合」がツイッターなどで呼び掛けた。政府が3、4号機の再稼働方針を決めた四月から毎週末、官邸前で実施されているが、再稼働が正式に決まった今月十六日以降、これに抗議して参加する市民が増加。

 この日は、官邸から霞が関方向へ人の波が歩道から車道にあふれ、主催者発表で約四万五千人が加わった。

 マイクを握ったルポライター鎌田慧さんは「原発がなくても日本社会は混乱しない」と強調。参加した東京都東村山市の大越明子さん(44)は「声を上げないと、賛成したのと同じになってしまう。再稼働を認めると、なし崩し的に他でも始まるのでは」と話した。

大飯再稼働撤回求める 官邸前で「4万人」
朝日新聞デジタル 2012年6月22日21時11分

 関西電力大飯原発(福井県おおい町)の再稼働撤回を求める市民らが22日夜、首相官邸前で抗議集会を開いた。主催者発表で約4万人、警視庁調べで約1万人が参加。プラカードや横断幕を手に、「再稼働決定は許せない」と参加者が次々に声を上げた。




 
俳優の山本太郎さんは「この声が聞こえないなら、(首相は)即刻退場すべきだ」。この抗議集会に初めて参加したという作家の落合恵子さんは「私たちは一歩も後ろに引かない。これほど市民を裏切る人々を許さない」と野田政権を批判した。



 
官邸前では大飯原発再稼働への抗議活動が週末ごとに続き、16日の再稼働決定で反発が一段と強まっている。22日は市民団体有志がツイッターで呼びかけ、仕事帰りの若者や女性らの参加者が車道にあふれた。




また、この日は、再稼働を支持する団体などが抗議集会に批判の声を浴びせ、官邸前は騒然となった。
 
 
岩手県民 生活回復の実感なしが今も過半数
生活回復の実感なし過半数 県の第2回被災者調査
(2012/06/22) 岩手日報

 県は21日、沿岸部の被災者に継続的に復興の実感を聞く「いわて復興ウォッチャー調査」の第2回調査結果を公表した。被災者の生活の回復に対する実感について、2月に実施した前回調査を約7ポイント上回る約33%が「回復した」「やや回復した」と回答した。一方、生活再建を実感できない層は約50%と依然として多く、生活再建の基盤となる住環境や雇用の改善が求められている。

 自由記述では「公営住宅の移転先が決まらず、実現が遅れている」「がれき処理の日雇いが切れ、仮設住宅の表情は暗い」など、これからの暮らしや雇用について不安を訴える声が目立った。

 地域別では、岩泉町以北の沿岸北部で「やや回復」が46・8%を占めたのに対し、沿岸南部は「あまりしていない」との回答が41・5%と最多。被害の甚大な地域ほど生活再建の遅れを感じている。
 
 
福島原発行動隊の定期通信第19号です。
一部引用・・

■第17回院内集会を開催しました

6月7日、参議院議員会館講堂で第17回院内集会を開
催しました。

集会ではまず福島原発行動隊の理事である平井吉夫
氏が「福島原発行動隊と新しい老人文化」と題して講
演を行いました(下欄参照)。

講演の後、参加者からは「すばらしい解説だと思
う」「文化運動にしなければならないというのは賛成
だ」などといった感想が出されました。

また、なぜ福島原発行動隊に政府・東電から声がか
からないのかという点についても発言があり、「行動
隊は全国から色々な意見を持っている人が集まってい
る組織であることから(政府・東電は)恐怖感を持っ
ているのではないか」といった声が出された一方で、
「声がかからないのは実績がないからだ、原発内での
作業に備えた訓練を定期的にやるべきだ」といった意
見も出されました。

以下全文はこちら
 
元陸軍軍医、95歳肥田舜太郎の今後の内部被ばくの心配

肥田舜太郎 インタビュー|たったひとつ言えるのは、放射線に抵抗できるのは自分の命だけ

一部引用・・・

——終戦後、内部被曝の研究をしようとする学者に対し、アメリカ軍からの妨害が多々あったとのこと。それは先生ご自身にもありましたか?

「広島で2回と東京へ来て1回、実際にアメリカ軍に逮捕されました。僕が被爆患者と接触し、診断をすると、『患者を診ること自体がけしからん』という態度でした。

彼らにしてみれば、それは反米活動だと」

——それでも屈しなかったのは?

「私はたくさんの被爆者から、当時でいえば神様みたいに思われていたんです。だからもし逮捕されたら、大変な数の被爆者が怒る。

逆に言えばそれだけが頼みだった。『逮捕して、牢屋に入れるなら入れてみろ』と。それを信じて、やられたらやられたまでだと思っていました。

自分が診なければ、普通の医者はみんな逃げちゃって、他に誰もいなかった」

・・・・・中略・・・・・

——私たち一般市民が、様々な情報に惑わされないようにするには?

「被害を受けている国民の側に立った発言か、放射線を使う側を擁護した発言かを聞き分けるほかしょうがない。そこではっきり分かれます」

——先生は戦後「ぶらぶら病」(直接被爆していない人が、ある日突然身体がだるくなって動けなくなる病)の原因がわからないまま、

約30年後にスターングラス博士の内部被曝に関する学説にたどり着きます。アメリカで低線量被曝の危険性に警鐘を鳴らす博士と出会い、どう感じられましたか?

「最初はただ、『そのことに明るい人だ』ということを聞き、たまたま講演に行ったんです。

その時に受付で自分の名前を『広島の被爆した医師』と書いておいたら、講演後に向こうから会いにきてくれたんです。

それで『いちばん困っているのは後遺症で、日本語でいうところの「ぶらぶら病」が出て、まったく原因がわからない』という話をしました。

すると、それは、体内に摂取された放射線が中から働いた症状だと。詳細は医学的にまだわからないんだけど、出てくるべき症状が出てきただけだという話を聞いて、

理由はわからないけど、納得ができたわけです」

全文はこちら

 
 
那覇市長らが上京してオスプレイの配備撤回を政府に申し入れ
「オスプレイ配備撤回を」 那覇市長ら政府に要請
2012年6月22日 【琉球新報電子版】

 【東京】翁長雄志那覇市長、永山盛廣那覇市議会議長ら要請団は22日午前、外務省の加藤敏幸外務政務官を訪れ、垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの米軍普天間飛行場への配備撤回と那覇軍港搬入を中止するよう求める要請文を手渡した。翁長市長ら要請団は午後、森本敏防衛相と会談する。

 加藤政務官は「申し入れ内容について大臣に伝えたい」と述べた。
 要請後、翁長市長は「基地負担の軽減と言いながら、オスプレイを持ってくるとはとんでもない。オスプレイの配備、飛行は県内で非常に難しくなっている。県民大会も視野に入れており、安全保障体制の維持も厳しくなると言った」と訴えた。

 日米両政府はオスプレイを7月下旬に米軍岩国基地(山口県)に搬入し、試験飛行した後に、8月にも普天間飛行場へ配備する計画。
 
 
敦賀原発の地下の亀裂 調査進捗をHPに掲載指示
原発地下の亀裂調査経過公開へ
6月23日 0時59分 NHKニュース

 福井県にある敦賀原子力発電所の敷地の地下を走る亀裂を巡って、日本原子力発電が行っている調査について、国の原子力安全・保安院は、調査の途中でも進み具合を報告させたうえでホームページで公開するという異例の対応をとることになりました。

去年3月の震災で、断層の活動が以前より活発になったことから、原子力安全・保安院は全国の8つの原発について、これまで考慮しなかった、互いに5キロ以上離れた活断層が連動する可能性があるとして、影響を調べて評価を見直すよう電力会社に求めています。

このうち、福井県にある敦賀原発では、2号機の近くの地中にある「破砕帯」と呼ばれる亀裂が活断層の可能性があるなどと専門家から指摘され、日本原子力発電は先月から現地調査などを行っています。

保安院は、22日の専門家の会議で、調査の途中でも、現地で調べる場所を専門家が視察するほか、日々の作業の進み具合や予定を週に1度程度報告させたうえで、ホームページで公開することを明らかにしました。

保安院は、「こうした対応は異例だが、今後は現地で調査する場合は途中段階での国のチェックを増やす方針で、これまで事業者任せだったやり方を改めて、国民の不安を解消したい」としています。

このほか、22日の会議では、福井県の若狭湾で400年ほど前に起きた大地震に伴う津波について、関西電力などが「津波の痕跡はない」という結果を報告したことに対し、専門家から「幅広い視点での調査が必要だ」という指摘が相次ぎ、調査のやり方を再検討することになりました。

さらに、青森県にある東通原発の敷地内の「破砕帯」と呼ばれる亀裂について、専門家から「『活断層』ではないと言うには追加の調査が必要だ」という指摘を受け、東北電力は調査計画を示しました。

計画では、これまでの調査結果の内容を充実させるため、新たにボーリングやレーダーによる地中の調査を行い、早ければことし11月に結果をまとめるとしています。
 
 
ジャーナリズムの冬眠 by 上杉 隆

Vol.115

上杉隆の東京脱力メールマガジン          

    『 ニュースの深層 ジャーナリズムの冬眠 』 

      「ニュースの深層」(朝日ニュースター)の最後の出演が終わった。

2006年からの6年間、ニュースキャスターとして多くのゲストをスタジオに迎えることができたのはジャーナリストとして極めて幸せだった。

チャンスを与えて続けてくれた岡崎哲也報道制作局長(元朝日新聞政治部記者)と朝日ニュースターには改めて感謝したい。

第1回目のゲストは鈴木宗男氏だった。まだバッシングの最中にあり、刑事被告人としてテレビ出演すら許されなかった時期である。

当初から鈴木氏の無罪を訴えていたのは政治ジャーナリストの藤本順一氏くらい、酷い状況の中にいた鈴木氏をあえて第1回目のゲストに招いたのだ。

生放送の始まる直前、私に気を遣ってか、「上杉さん、大丈夫かい?」という何度も尋ねる鈴木氏。彼に向かって私はこう伝えた。

「宗男さん、遠慮せずになんでも話してください。責任は全部こっちが取りますから──」

余計なことを言ったかもしれないと思ったのは生放送が始まって直後のことだった。鈴木氏は3人の外務省の役人の実名を挙げると、

料亭やモスクワでのスキャンダルを公共の放送で暴露し始めたのだ。

「今夜、名前の挙がった外務省の御三方、反論があれば来週以降、この場を提供します。スタジオに来て反論なさってください」

こうやって冷汗のうちに終わったはずの初回放送だが、話はそこでは終わらなかった。翌日には週刊文春から取材が入り、

2ページにわたる「外務省スキャンダル」の記事が掲載されたのだった。

初回にして局側(親会社/朝日新聞)に睨まれることになった私だが、逆に決心がついた。

「まさか、一か月で降板はないだろう。少なくとも3か月か、あるいは6か月の2クール、それくらいは使い続けなければ、逆に局側のマイナスになるはずだ。

ならば、降板させられるまで徹底して、既存メディアには登場できないようなゲスト、メディアに出たことのないゲストを呼んで生放送のスタジオで発言してもらおう。

それで降ろされても本望だ」

こう考えて、実際にその後、忠実にそれを実行し始めたのだ。ただ、まさかそれが6か月ではなく6年も続くとは想像だにしなかったが。

当時「NHK番組改変問題」で朝日新聞と激しく対立していた中川昭一農林水産大臣を招いたのもその流れからだった。

当初、「ニュースの深層」は朝日新聞の本社ビルから中継していた。そこに中川氏が来るということもあって、朝日新聞ではちょっとした騒ぎになっていたようだ。

当日、朝日新聞の幹部から、発言や質問に対して事前に圧力等がかからないよう、私はギリギリの時刻にスタジオ入りした。

そして、生放送の始まった途端、こっそりと用意していた当該記事の載った朝日新聞をいきなり画面に向かって広げて、

中川氏に「この記事の通り、NHKに圧力をかけたのですか?」と質したのだ。

放送後に聞いた話では、その様子を社内で見ていた当時の朝日新聞編集局幹部は「上杉の野郎、ふざけやがって」と怒りをあらわにしたという。

なぜなら、中川氏は疑惑を全否定、その記事を書いた朝日新聞記者に対して、この場(朝日新聞内のスタジオ)に来て反論するよう迫り、

私も「どうぞ番組を見ているであろう本田記者、今週でも来週でも反論の場所を用意しますので、出演してください。お待ちしています」と同調したからだろう。

このように、私の担当する火曜日の深層は毎回のように騒動が続いた。そして同じ2006年の春、今度は有田芳生氏(現参議院議員)をゲストに呼んで

「統一教会」の問題を語ってもらった時、最大の騒動が勃発した。

山崎拓自民党幹事長(当時)のある疑惑について、有田氏に語ってもらっている最中から、局あてに山崎氏本人から抗議の電話がかかってきたのだ。

私はいつもと同じように「反論があったらぜひ放送に出てください」と生放送中に呼びかけた。だが、山崎氏の要求は訂正放送と番組再放送の中止だった。

結論からいえば、局側は山崎氏側からの提案を飲んだ。私はそうした圧力に屈する姿勢に賛同できず、自らの降板も辞さない考えを伝え、

個人的に山崎氏の国会事務所、さらには本人の携帯電話を鳴らし、「反論」のための番組を用意するからそこに出演していただくか、

あるいは「圧力」を取り下げるよう直接伝えたのだ。

だが、電話で話した山崎氏は「いや、そこまで言っとらん」として、番組への反論を自ら放棄した。

そして局にもそうしたことは「求めていない」と言い切ったのだ。

2006年、日本の政界は小泉純一郎首相のもと、自民党が衆議院で300議席を超えるという最盛期を迎えていた。

その中で、与党の幹事長の力が小さくないことは、元国会議員秘書の立場からも十分理解していた。私はもしかして番組自体が終了するのではないかと覚悟した。

その後も、様々な政治家にゲストとして登場してもらった。首相経験者でいえば野田佳彦氏(現首相)や鳩山由紀夫氏や中曽根康弘氏、

官房長官経験者では仙谷由人氏や枝野幸男氏、中川秀直氏や塩崎恭久氏など。現職大臣は先述の中川昭一氏を含め、本当に数えきれないほど。

そして既存メディアから排除されていた小沢一郎氏や鈴木宗男氏も一年に一回のペースでお招きした。

6年間の番組出演を通じて思うことは、国会や選挙区などで反対意見や批判に

常に晒されている政治家の方が、言論で口を糊しているメディアの人間よりもずっとディベートに強いということだった。

きっといつも批判に晒されていることから耐性が上がっただろう。

それにしても、朝日ニュースターの終焉によって、日本にようやく根づいたフェアなジャーナリズムの空間のひとつがメディア側の都合で消滅するのは重ね重ね残念だ。

ニュースの深層のキャスターとして過ごした6年間は、私にとってかけがえのない貴重な時間であったが、同時に番組に出演した多くの人々が、

現在日本の政治や言論界の中枢で活躍している姿をみると、言論空間全体にとっても悪い番組ではなかったのだと納得している。

ツイッターでの同時進行も、Ustreamでの同時生中継も、実は「ニュースの深層」が最初である。そのことを誇っているのではない。

そうした挑戦的な番組が失われることで、再び日本の言論空間が硬直することを恐れているのだ。

後継の同番組は生放送ではなく収録によるものだという。最初から障害はあろうが、新しいキャスターたちには

ぜひとも自由な言論への挑戦を忘れずに一日でも長く続けてほしい。

して、制作側ではなく視聴者に目を向けた番組に育てあげてほしい。僭越ながら、前任のキャスターのひとりとしてエールを贈る。

また一方で、私自身も、「ニュースの深層」の精神を体現したような新番組を立ち上げ、彼らの番組に挑みたいと考えている。

フェアな言論空間創出のためには多様性が不可欠であり、そのためには誰もが行動すべきだと信じている。

私は今後もその一員でありたいと願っている。

本有料メルマガの購読、課金に関するお問い合わせは、reader_yuryo@mag2.com
までお願いいたします。

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■発行元:上杉隆
■Twitter:http://twitter.com/#!/uesugitakashi
■Blog:http://www.uesugitakashi.com/

 
 
20120622 ふるさとは奪われた~原発事故 双葉町の選択
 
NHK・震災ドキュメント2012福島県双葉町は、原発事故の後「より安全な場所へ」と、1400人の町民と町役場が一緒に、埼玉県加須市の廃校に避難した。1年以上たっても、戻れるめどはたたず、全国最後の一次避難所となった校舎。職員室が町役場、校長室には井戸川町長が住み込み、約200人の住民が各教室で暮らす。町民は福島県内と県外に二分して、ばらばらに暮らす状態となった。これからどう生きていくのか、決断を迫られている町民の姿を見つめた。
 

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