阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

01月15日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年01月15日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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昭和50年代の海外あちこち記  その8  中国北京篇

2023年01月15日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)はじめて中国に出張したのは1979年8月のことです。北京の町はまだあの緑色の人民服の人たちと自転車で一杯でした。
マイクロバスで同行の人たちと交通部(運輸省)へ行く途中にえんえんと続く高い塀を巡らせ、門ごとに拳銃を吊るした紅軍の兵士が
厳めしく門衛をしている広大なエリアがありました。「ここは何ですか?」とアテンドの外事課のエリート役人の若いミス曹に聞くと
「共産党のカンブー(幹部)が執務をしたり、住んでおられる「中南海」というところです」と敬意のこもった口調で教えてくれました。


自分がそれまで何となく持っていた共産主義の国は皆平等という概念がありゃこれは違うとまず感じた最初の一歩でした。
女性の幹部も多く、男女差別は殆どないようでしたが、一般人と幹部クラスの生活は天と地ほどの差があるようでした。
例えば百貨店の玄関に、当時でもあまり見かけない紅旗という国産の運転手つき大型高級車が何台も女性や子供を乗せてやって来ます。
「あの人たちは誰ですか?」と聞くと「幹部の専属車でご家族の方々が買い物に来られておられます」とミス曹はこれまた当然のように答えました。

2)技術交流という名目の費用当方持ちの勉強会ですから、先方も気を使って日曜日に万里の長城にマイクロバスで案内してくれました。
まだ観光客相手のレストランもなく昼食もすべてバスに積み込んでありました。長城はさすがにこんなものを作った漢民族の底の知れぬ力と
これを作らせた匈奴の想像の出来ない恐ろしさ、威力の両方を思いました。

7月の暑さでお湯のようになった心尽くしのビールで乾杯をして、パサパサのサンドイッチを食べながらの話の中で、
「何百年もかけてこの長城をつくるために中国全土から徴用された労働者を出来るだけ長く働かせるために毎食食べさせたものがあります。
また、もう一つ月からも肉眼で見える人工構造物であるピラミッドを造るエジプト人労働者に同じく食べさせたものがあります。
それぞれわかりますか?」と聞かれました。両方の正解は誰も出来ませんでした。



  答えは中国が「にんにく」、エジプトが「ゴマ」でした。

 3)北京の有名な焼き肉屋

 出張業務が終わり、気のいいメーカー(ボクの元勤務先)を中国へ連れ込んだ商社が「清の国」以来、北京でも有名な羊の焼肉屋で打ち上げをやってくれました。

 後日札幌でサッポロビールがやっているビール園で焼肉を食ったとき、同じ道具が出てきたので、北京の「ヨースーロー」というあの店の道具を

そのまま真似していると思いましたが、半球型の鉄板で焼いた羊肉を腹一杯食べました。

  漢民族の中国に「元の国」を作った蒙古族や「清の国」を作った満州の女真族の後裔も今の中国に当然中国人として暮らしていますが、

いまやその出自を隠しているという話を元清の高官の出の一族と称する、いま中国政府の運輸省の下っぱの酔っ払ったお役人から宴会の席で聞きました。

中国は多民族国家やなーと実感し、かつ差別はどこの人間、地域、いつの時にもつきものやなーと思い、漢民族中心主義は共産主義体制と関係なく

しっかりずっとあるのやなーと思いました。 

  4)北京飯店の冷や麦     1983年8月ごろに出張したときの話です。

 当時の中国のホテルはどこもいつも満室で、殆ど毎晩違うホテルを商社の佐藤さんと二人相部屋で渡り歩きました。

 人気のタバコ、セブンスターを一箱フロントにつかませると、満室のホテルにも突如空室が一部屋出てくることがあります。

 ある日曜日、ようやく泊まれた郊外の古い「北京中央体育館付属飯店」からバスで北京一のホテルである北京飯店に麻雀とメシに行きました。

そこに商社のオフィスがあり、支店長が住んでいます。ちょうどメインレストランで日本の「冷や麦」をホテルのコックに作らせて、

出張中の各メーカー社員達と駐在商社員が十数人で食べはじめるところでした。

 3ヶ月近く北京、天津、大連を渡り歩いて、ほとんど中華料理しか食べてない身にとってこんなうまいものがこの世にあったかと涙がこぼれそうでした。 

(画像は全てネットから借用。当時、阿智胡地亭が撮影したものではありません)

 

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一億引きこもり国家・日本          2010年09月17日「阿智胡地亭の非日乗」掲載

2023年01月15日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2010年09月17日(金)

地球上の世間で、岡田外務大臣はこの一年世界レベルの会議や個別国訪問などで個人的にも顔を売り、着々と相手を見極め、また逆にどんな人間が日本の外交を担っているのかを見せてきた。

 民間の取引や国家間の外交でも、基本的に個人どうしの信頼関係が出来るかどうかは、交渉ごとの土台だと思う。それは相手がどんな国の人であろうがどんな時代であろうと変わることはない。

その岡田さんを菅さんは党内をまとめる幹事長に引っ張った。

日本の政治家で日本が地球上で置かれている状況を肌で感じて、それに何とか対応したのは、陸奥宗光などを外交官にあてた御一新のあと、明治30年代までのような気がする。

特に手痛い先の大敗戦のあと、この65年間 日本の官僚と政治家は「外のことはわからん、うちらはうちらの都合でやっていく。

アメリカさんにおんぶにだっこでも、アメリカさんは悪いようにはせんやろ」と、自分らはまた第2の鎖国、国ぐるみの引きこもりに入ってしまった。

 その象徴が今度の菅さんの判断だ。外交における国家利益の保全、拡大より自党の安定を優先したように思える。

いま、世界の勢力バランスの大転回という未曾有のとき、外務大臣のポストを次から次へと新顔に替える。このセンスは世間知らずもいいところだ。

まさか、「骨のある岡田を外務大臣から外せ」とアメリカの軍産複合体から水面下の圧力がかかったのではないでしようね、菅さん。

 余談ながら、30年近くほとんど毎回、新規取引のお客さんへ機械設備を売り込む営業をしていた体験上、幸い注文を頂いてから作り出す、

オーダーメードの商品を納入するのはいいのだが、買ってくださるお客様は、その代金回収が出来る相手かどうかを見極めるのが、商談の最後のキモだった。

帝国データバンクに料金を払い、直近の経営データを取り寄せて、内容を見るのは最初の当然のとっかかりだが、安全だけみていくと商売するお客さんがいなくなる。

結局はお客さんの事務所に行って、社員の挨拶や整理整頓、工場の安全管理の状態や社員の働きぶりを見せてもらい、最後は社長さんや経理担当の奥さんの常務さんや、

海千山千の番頭格の専務さんなど、金庫番と直接お会いするしかなかった。

 先方は、この営業マンを窓口にしてこの会社に高い設備を発注して大丈夫やろなと瀬踏みする。こちらもなごやかに相手さんの趣味など聞きだして、

雑談を交わしながら、ちゃんと代金を払える体力のある会社か、役員さんはまっとうなお方かどうか読んでいく。

100%それですむわけではないが、やはり人と人の間に信頼関係が結べるかどうかで最後の腹決めをするしかない。

 契約金額の殆どは、もし手形が不渡りになったら、自分の生涯所得を差し出しても、とても追いつく金額ではなかった)

 今の日本の外国とのお付き合いを見ていると、そういう個人的な人間関係を、トップ政治家の誰が持っているのだろうと思ってしまう。

民主党に変わっても、前の自民党の政治家と同じで、中津燎子さんの言うわが列島人、わが「くにたみ」の、

①はにかみ ②ためらい ③人見知り ④解決の先送り ⑤決断の後回し ⑥様子待ち 、という内弁慶そのものの国民性が急に変わるわけではない。

そういう意味で、新しいタイプの「くにたみ」である外務大臣岡田さんは適任だったと思うんですが。

 ところで、やはり「大臣」という呼称を民主党が政権を握っている間に、是非変えて欲しい。

大臣(おおおみ、 おとど)、つまり臣は昔の首相吉田茂さんが「臣、茂は・・」と言ったように、天皇の官僚の最高の位を意味する言葉です。

総理大臣は官僚のトップではなく、選挙で選ばれた「くにたみ」の代表なんだから、かけた看板がちがうと思う。

アメリカのように長官でもいいし、省のトップだから省長でもいいですが、実態に合わせた役職名にして欲しい。

大臣の呼称に関する過去のエントリー:こちら

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