(1989年11月の壁崩壊当時の様子 “flickr”より By antaldaniel
http://www.flickr.com/photos/antaldaniel/2912118873/)
【「先見の明をもって世界を主導した」】
ベルリンの壁が崩壊して20年。現地では各国首脳が参加しての祝賀式典が行われます。
****ベルリンの壁:崩壊20年記念式典 ゴルバチョフ氏ら参加*****
ベルリンの壁が崩壊して20周年にあたる9日、ベルリンでメドベージェフ露大統領、クリントン米国務長官、ゴルバチョフ元ソ連大統領ら各国要人が参加し、祝賀式典が開かれる。メーンイベントとして壁の断片をかたどり、壁跡地に並べられた約1000個の巨大ドミノを倒す行事が行われる。最初の「一押し」はポーランドの民主化を主導したワレサ元大統領が受け持つ。
ドミノ倒しは、壁崩壊から「ドミノ倒し」のように東欧、ソ連で民主化が進んだことにちなんだ行事。ドミノは、発泡スチロール製で高さ約2.5メートル、重さ20キロ。「平和」などの文字と共にカラフルに塗られたドミノの列は、ポツダム広場からブランデンブルク門まで約1.5キロ続く。8日夜には、大勢の観光客が見物に訪れた。【11月 9日 毎日】
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これに先立ち、先月31日には、当時の米ソ独首脳だったブッシュ元米大統領(85)、ゴルバチョフ元ソ連大統領(78)、コール元独首相(79)が31日、ベルリンに集まり、ケーラー独大統領が3氏が果たした東西ドイツ統一への貢献をたたえたそうです。
式典主催財団は、この3氏が「壁崩壊後、先見の明をもって世界を主導した」と称賛。大衆紙ビルトは3氏を「統一の父たち」と呼んでいるとも。【10月31日 毎日】
【誤発表がもたらした壁崩壊】
よく知られているように、壁の崩壊自体は、ある意味偶然というか東独担当者のミスが誘発したものでした。
東独市民が西側に大量脱出、デモの頻発で東独の国家は麻痺状態に陥るといった混乱状況にあって、11月9日、東独政府は外国への旅行の自由化を決議しましたが、その内容は、「11月10日から、ベルリンの壁をのぞく国境通過点から出国のビザが大幅に緩和される」というものでした。
しかし、事情をよく把握しないままこれを発表した当時の東ドイツ社会主義統一党のスポークスマンだったギュンター・シャボウスキーが、「全ての国境通過地点から出国が認められる」「直ちに」と発言してしまいました。
この記者会見は夕方のニュース番組において生放送され、これを見ていた東西両ベルリン市民は壁周辺に集まりだしました。
21時頃には東ベルリン側でゲートに詰めかける群衆が数万人にふくれあがり、門を開けるよう警備隊に要求。
何も指示を受けていない国境警備隊は対応に苦慮しますが、結局群衆の勢いに抗することができず、0時前に門が開けられました。
本来は正規の許可証が必要でしたが、混乱の中で許可証の所持は確認されることがなかったため、許可証を持たない東ドイツ市民は歓喜の中、大量に西ベルリンに雪崩れ込み、あとはもうお祭り騒ぎとなりました。
こうした偶然によってもたらされたものではありますが、それに先立つ東独内の政治混乱をまねいた時代のうねり、人々の熱気が、人々を壁へと向かわせ、国境警備隊に強権的な対応をとらせなかったとも言えます。
その意味で、時代の流れがもたらした必然であったとも言えるかと思います。
ベルリンの壁の崩壊によって、事態は東西ドイツ統一へ一気に進み始めます。
ここでもまた、その動きは当時の政治指導者の思惑を超えたものでした。
結果的に、東西ドイツの経済格差を是正することなく実現した早急な統合は、今もその格差問題という難題をドイツに課していますが、そのような統一に向かわせたのも、やはり“時代の流れ”とも言うべきものでしょう。
【東西ドイツ統一を望まなかった英仏首脳】
公開された当時の外交文書によれば、英仏首脳は東西ドイツ統一を快く思っていなっかたようです。
壁の崩壊に象徴される西側の勝利を導いたヒロインであると称賛されているサッチャー英首相は、1990年3月、フランスの駐英大使に「フランスと英国は、手を取り合って新しいドイツの脅威に向かうべきだ」と語っています。
また、壁崩壊の2か月前、サッチャー英首相は冷戦時代の敵であったソ連のゴルバチョフ書記長に「英国も西欧もドイツの再統一を望んではいない。戦後の勢力地図が変わってしまうことは容認できない。そんなことが起こったら国際社会全体の安定が損なわれてしまうし、われわれの安全保障を危うくする可能性がある」と語り、西欧の同盟国たる西ドイツの「統一という野望」をくじく手助けをするよう、暗に協力を求めています。
西ドイツのコール首相の親友であり盟友であると見なされていたミッテラン仏大統領も、壁が崩壊した1989年、ドイツ統一を予期していなかったし、支持もしていなかったようです。
ミッテラン大統領の側近アタリ氏は、壁崩壊の1か月後にゴルバチョフ大統領の側近とキエフで会談し、ソ連が東ドイツ側の再統一運動を阻止するために介入しなかったと不満をもらしています。
サッチャー首相の側近のメモによると、1990年1月、ミッテラン大統領はパリで行われた夕食会で、サッチャー首相に「統一ドイツは、ヒトラー以上の力を持つかもしれない」と漏らしたとも。【11月4日 AFPより抜粋】
最近のEU大統領選出にあっては、結局ドイツ・メルケル首相とフランス・サルコジ大統領の意向で決まる動きのようですから、サッチャー首相が感じた“ドイツの脅威”は現実のものでもあったのかも。
【プーチン首相「壁崩壊は歴史的に不可避の出来事だった」】
ポーランドの民主化、ベルリンの壁崩壊から“ドミノ倒し”となって東欧の民主化・ソ連崩壊へと突き進んだ流れを、当のロシアはどのように見ているのでしょうか。
****ドイツ民族分断、誤りだった=「ベルリンの壁」崩壊でロシア首相****
ロシアのプーチン首相は8日の同国民間テレビNTVのインタビューで、1989年11月の「ベルリンの壁」崩壊は歴史的に不可避の出来事だったとの見方を示し、「そもそも最初からドイツ民族を分断してはならなかった」と語った。
同首相は、ソ連時代に国家保安委員会(KGB)将校として東ドイツで勤務していた当時を振り返り、ベルリンの壁でドイツが分断されていたため、「不自然で非現実的な印象を受けた」と指摘。壁崩壊は「起こるべくして起こった。民族分断を続けることにはいかなる歴史的展望もなかった」と述べた。【11月9日 時事】
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このインタビューで、当時の東独での生活を懐かしく語ったプーチン首相は、「(東西統一後の)ドイツの発展をわれわれは目にしているし、新たな基盤の上に良好な関係を築いていることを幸せに思う。いかなる郷愁もそれをしのぐものでは、もちろんない」とも語っています。
あまり本音のようには思えませんが・・・。
ロシアでは、東欧の民主化・ソ連崩壊を当時のゴルバチョフ大統領の弱腰のせいとして、彼を批判的に見る空気が一般的とも聞きます。
もし、そのときプーチンがソ連大統領の地位にあったら、歴史は変わっていたでしょうか・・・。
壁が崩壊した1989年11月、プーチン首相がいたドレスデンのKGB支部にもデモが押し寄せたそうですが、「群衆に、われわれのいる建物はソ連軍に属し、協定に従ってわれわれにはドレスデンに駐在し、任務を遂行する権利があることを説明した。しばらくしてデモは解散したが、当時は全体的に嵐のような、動乱の時代だった」と語っています。
なお、やはり東独で生活していたメルケル独首相は壁崩壊の当日、いつものようにサウナへ行っており、“サウナの後、友人とバーへビールを飲みに行ったが、その店を出たところで西ベルリンになだれ込む大群衆に押し流され、自分たちも西ベルリンに足を踏み入れた”そうです。【11月8日 AFPより】
人々の熱気に突き動かされて、ときに時代は指導者の思惑を超えて動くこともある・・・そんなことを思わせる“ベルリンの壁崩壊”とその後の一連の動きでした。