Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

タイトルロール

2024年05月31日 06時30分00秒 | Weblog
 「また人物がなんとも個性的です。6人と少数なのでどの人物も重要で個性的です。
 ・・・主役デイダミーアは終始悩んでいます。アキッレという特殊な事情のある人物を愛してしまったが故の、終わることのない苦しみです。
 その恋人のアキッレ(ピッラと名乗る)はまるで対照的。女装させられ匿われているのは親によって置かれた環境であり、具体的な危機感を持っていません。それがさらにデイダミーアを悩ませます。
 そんな彼女を見守るネレーアは、賢明に彼女を支えながらも最後には別の決断を下します。ネレーアの心の機微も細かに描かれますよ。
 ギリシャからやってきた使者の二人、ウリッセは偽名まで使っており用意周到。イメージ通り、いや「Bar」まで開店させるとはびっくりです。
 相方のフェニーチェもまた若手の優秀な武将かと思いきや、今回のフェニーチェはお調子者。次々に秘密を暴いていくウリッセに倣おうと恋愛本から情報を得るなど。その成果のほどははたして・・・。
 二人に迫られるリコメーデ王は、一国の王として最も良い選択は何なのか、物語の中で揺れる心を見せていますが、彼が天秤にかけているのは王の義務か友情かであって、娘デイダミーアの幸せではないのです。

 3年に一度、パーシモン・ホールで開催される二期会ニューウェーブ・オペラ劇場。
 今回の演目は、ヘンデルの最後のオペラ作品「デイダミーア」である。
 かなりマイナーな作品であってもだいたいあらすじが紹介されている「オペラ大図鑑」(河出書房新社)にも、この作品のあらすじは載っていない。
 というわけで、このオペラを観る前の準備として、ギリシャ神話におけるアキレウス(オペラでは「アキッレ」あるいは「ピッラ」)の青年時代について押さえておく必要がありそうだ。

 「アキレウスは、早死するのを避けることもできたところだった。運命の三女神は、トロイへ行き戦争で名誉ある早死にをするか、無名のまま故国で老いるか、そのどちらかを彼が選択することができると定めた。
 このことを知ったテティスは、彼に少女の扮装をさせた。そしてスキュロス島の王リュコメデスの娘たちの間で彼が育てられるようにした。これは、あまり成功した策略ではなかった。なぜなら、彼は王の娘の一人を誘惑した(そして彼女との間にネオプトレモスと名づけられた息子を儲けた)。しかもギリシアの将軍たちが彼を自分たちの軍隊に参加させようとした時、狡猾なオデュッセウスは単純な策略を使って、難なく彼の本当の性別と性質を暴いたからである。オデュッセウスは宮廷の女性たちすべてに、自分が持ってきたいくつかの女性の喜びそうな贈り物の中から好みのものを選ぶように勧めた。その贈り物の中に彼は剣と鐙を置いておいた。彼女らが贈り物を選んでいた最中に、宮殿の外から戦いの物音とともにラッパの音が聞こえた。それはすべて、オデュッセウスの演出だった。そうすると本当の女性たちはすぐさま鋭い悲鳴をあげて逃げたが、アキレウスは女の服を脱ぎすて、剣と鐙を手にし、戦いを求めて飛び出して行った。」(p15~16)

 デイダミーアは、トロイア戦争の勝敗を決めた人物と言える。
 彼女がいなければ、ネオプトレモスは生まれていないことになるため、アカイア(ギリシャ)軍がトロイア軍に勝利することは出来なかったのである。
 勝利のために必須の人物:フィロクテーテースを連れ戻すことが出来たのはネオプトレモスのおかげであるし(カタリーナ、スケープゴート、フィロクテーテース(14))、トロイア王プリアモスにとどめを刺したのもネオプトレモスだからである。
 そういう事情もあってか、ヘンデルはデイダミーアを主人公に設定し、但し、神話のストーリーを大きく二つの点で改変した。
 一つは、デイダミーアとアキッレとの間にネオプトレモスは生まれておらず、アキッレはあくまで少年という設定にしたことである。
 確かに、既に「子持ち」の男性(オペラでは女性のソプラノ歌手が演じる)が、女性たちのあいだに混ざっているのは不自然である。
 もう一つは、アキッレが戦場に赴く前に、彼とデイダミーアが、盛大な結婚式によって祝されるという点である。
 「オペラ・セリア」では、ラストはハッピー・エンドにするというのがお約束だったらしく、ヘンデルもこれに倣ったのである。
 ところが、演出の中村さんは、ヘンデルの時代には許されなかったであろう、驚くべきシーンを付け加えている。
 原作のラストの後に、アキッレたちが戦死するシーンを描いたのである。
 これによって、華やかな結婚式が、実は「今生の別れ」であったことが明かされ、デイダミーアは「悲劇のヒロイン」であったことが強調されるわけである。
 この演目では、タイトル・ロールのソプラノ歌手は、ほぼ出ずっぱりで、水を飲むことすら容易ではないそうだが、そんな状況で沢山のアリアを見事に歌い上げ、かつ、ダンスにも力を注いだ清水理沙さんは、歌も演技も完璧といって良かった。

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観ていない映画について語る(5)

2024年05月30日 06時30分00秒 | Weblog
 「向かいのアパートに住む魅力的な女性の部屋を望遠鏡で覗く青年の何も求めない愛とは?
 友人の母親と暮らす19歳の孤児トメクは、地元の郵便局に勤めている。彼は向かいに住む30代の魅力的な女性マグダの生活を日々望遠鏡で覗き見ていた。マグダと鉢合わせしたトメクは、彼女に愛を告白するが、自分に何を求めているのかとマグダに問われてもトメクは答えられない。その後デートをした二人、マグダはトメクを部屋に招き入れるが......。

 いわゆる「覗き」に没頭する青年の、ある女性に対するストーカー的な執着と、「愛」の意味を巡る物語。
 モーセの「十戒」で言えば「汝、姦淫するなかれ」に対応する。
 デカローグ1~6の中で、一番見ていて「面白い」のは、この6ではないだろうか?
 とにかく展開が読めないのである。
 トメクは、ただ(望遠鏡による)「覗き」に没頭するだけではなく、自分がマグダを覗いていることを、なぜか彼女に知らせたいと熱望する。
 しかも、この気持ちを、彼は(「欲望」ではなく)「愛」と表現した。
 それは、彼の(おそらく正直な)言葉によれば、明らかに性的なものではない。
 だが、マグダは、
 「愛なんてものは、存在しないのよ
と彼を突き放し、トメクのオーガズムを指して、
 「これがあんたが『愛』と呼ぶ、崇高なものの正体よ!
と吐き捨てる。

 「・・・眼差しにおいて何が重要かということを我われが把握するのは、そもそも主体と主体との関係において、すなわち私を眼差している他の人の実在という機能においてなのでしょうか。むしろ、そこで不意打ちをくらわされたと感じるのが、無化する主体、すなわち客観性の世界の相関者ではなくて、欲望の機能の中に根を張っている主体であるからこそ、ここに眼差しが介入してくるのではないでしょうか。欲望がまさに物見の領野において成立しているからこそ、我われはその欲望をごまかして隠すことができるのではないでしょうか。」(p185~186)
 「最初から我われは、目と眼差しの弁証法にはいかなる一致もなく、本質的にルアーしかないということに気づいていました。愛において、私が眼差しを要求するとき、本質的に満足をもたらすことなく、常に欠如しているもの、それは「君は決して私が見るところに私を眼差さない」、ということです。
 逆に言えば、「私が眼差しているものは、決して私が見ようとしているものではない」ということです。・・・
 欲望がそこで機能しているというかぎりでの視認の水準には、他のすべての次元において認められるのと同じ対象aの機能が見られます。
 対象 a とは、主体が自らを構成するために手放した器官としてのなにものかです。これには欠如の象徴、ファルスの象徴、ファルスそのものではなく欠如をなすものとしてのファルスの象徴、という価値があります。・・・
 視認の水準では、我われはもはや要求の水準にはいません。欲望の水準、<他者>の欲望の水準にいるのです。・・・この欲動は無意識の経験のもっとも近くにあります。
 見たいものと眼差しとの関係は一般的にルアーの関係です。主体は自身とは違うものとして現れ、彼に見せられるものは彼が見たいものではありません。これによって、目は対象 a として、つまり欠如(略)の水準で、機能することができるのです。」(p222~225)

 これを読めば、トメクが孤独な「視認」にとどまることが出来なかった理由も、彼がマグダとのセックスを望まなかった理由も、よく理解出来るだろう。
 トメクは、自身の目(あるいは望遠鏡)が「対象 a 」として機能することを、「愛」と勘違いしていたのである。
 ラストで、彼はマグダに、
 「もうあなたを覗いていません
と告げるが、いずれにせよ、彼もマグダも「愛」に到達していないことは明らかである。
 つまり、「ある愛に関する物語」というタイトルではあるものの、登場人物がみな「愛」を掴み損なうという、皮肉なストーリーなのである。 
 さて、(私が観ていない)映画版では、
 「望遠鏡(人工的な・誇張された「目」=対象 a であるが、これによって、”ファルス”との機能の一部共通性が明瞭となる)で覗いたマグダと愛人との絡み合う映像
が出て来るのは間違いないと予想する。
 さらに言えば、監督は、これこそが、幼い頃のトメクが見てトラウマの源となった、亡き両親の行為(これが「無意識の経験」(=抑圧されているもの)の正体と思われる)の反復であることを示唆しているかのようである。
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観ていない映画について語る(4)

2024年05月29日 06時30分00秒 | Weblog
 「タクシー運転手を殺害した青年と、若い弁護士。死刑判決を受けた青年を救えなかった弁護士の悲嘆。
 20歳の青年ヤツェクは、街中で見かけた中年のタクシー運転手ヴァルデマルのタクシーに乗り込み、人気のない野原で運転手の首を絞め、命乞いする彼に馬乗りになり石で撲殺する。殺人により法廷で裁かれることになったヤツェクの弁護を担当したのは、新米弁護士のピョトルだった......。

 「デカローグ」全10話のうち、クシシュトフ・キェショロフスキ監督が真っ先に映画化を試みたのは、この「ある殺人に関する物語」だった。
 テーマは、「モーセの十戒」で言えば、「汝、殺すなかれ」だが、問題は、「殺人に対する死刑という『もう一つの殺人』」の方である。
 おそらく、日本における死刑制度を巡る議論は、専門家のものを含めて混乱の極みあるといって良いだろう。
 それもそのはず、あのカント先生ですら、混乱に陥っているのだから。

 「・・・もちろんその正義の内容は Kant ならではの目の覚めるようなものである(中略)「政治的連帯の中の同僚に対して致命的な打撃を与えたのならば、それは自分自身にそれを与えたのと同じことだ」という意味である。政治的連帯の基本原理は、いうまでもなく、彼が殺されたのは自分が殺されたのと同じことだ、というものである。これは  réciprocité を叩き切る最も古典的な原理である。・・・しかしながら、この短いテクストにおいては、彼は論理的な laspus も見舞われる。つまり、そこからius talionis 以外に刑罰を基礎づける原理はありえない、と言ってしまうのである。これによって彼は応報刑論者の始祖となってしまったが、「彼を殺したのは自分を殺したも同然だ」は、論理的に、「だから公権力は私を殺すのである」を導かない。・・・」(p6~7)

 カント先生は、「人倫の形而上学」の中で「réciprocité を叩き切る」という話をしていたはずのところが、なぜか ius talius (応報)へと転回し、「réciprocité の反復」になりかねない「応報刑」という、あらぬ方向に向かってしまう。
 この問題について、監督(というか、おそらく共同原作者で弁護士でもあるクシシュトフ・ピェチェヴィチ)は、明快な回答を用意していたと考える。
 だが、そのことは、芝居(又は映画)を注意深く見ないと分からない。
 これについては、映画について書かれたあらすじの方が分かりやすい。

 「ワルシャワ効外の同じ集合住宅に住むが、お互いに会ったことのない三人の男。とくに仕事もなく町をぶらぶらしている青年ヤチェク(ミロスラフ・バカ)、司法修習期間を終えたばかりで意欲に燃えた若き弁護士ピョートル(クシュトフ・グロビフ)、そして意地の悪いタクシー運転手(ヤン・テルザルフ)。タクシー運転手がタクシー乗り場で夫婦喧嘩をしている夫婦(第2話のドロタとアンドレ)を乗車拒否するのを、たまたまヤチュクが目撃する。ヤチュクは高架道路から石を落として下を走る車にぶつけたり、喫茶店に入ってはフォークを使ってチョコレートムースを窓にぶつけたりと、とくに意味のない無軌道な行動をエスカレートさせていく。その同じ喫茶店で、弁護士になる最後の面接試験で死刑廃止について理路整然と意見を述べたばかりのピョートルがいた。ヤチェクは喫茶店のテーブルの下でロープをいじっているが、すぐに店を出ると、タクシーを拾う。それは例の運転手の車だった。ひとけのない効外に車を向かわせるヤチェクは突然ロープを運転手の首にまきつけ、さらに大きな石でその頭を砕いた。なんの動機もない残酷な衝動殺人。この弁護を引き受けたピョートルは持論の死刑廃止論で弁護を計る。裁判官は彼の理論を評価しつつも、これは現行法の問題として冷静に死刑判決を下した。それからしばらくして、ピョートルは刑務所のヤチェクを訪ねる。それは死刑執行の日。目隠しをされた彼は発作的に必死に暴れるが、警護官が彼を押さえつけ、いつもの手順通りに絞首刑を執行する。

 ヤツェク(ヤチェク)の行為は、
高架道路から石を落として下を走る車にぶつける(芝居、映画で共通)
洗濯物を窓から落として清掃人に恐怖を与える(芝居のみ?)
餌をもらいに集まって来た鳩を脅して離散させる(芝居のみ?)
喫茶店に入ってフォークを使ってチョコレートムースを窓にぶつける(映画のみ)
喫茶店で窓越しに子供たちに「こめかみにナイフを当てる」、「首を絞める」などの真似をして見せる(芝居のみ?)
タクシーに乗り、突然ロープを運転手の首にまきつけ、さらに大きな石でその頭を何度も砕いて殺害する(映画、芝居で共通)
というものである。
 一見するとバラバラの行為のようだが、これは一つの(一連の)行為であって、実は、最初の「石を落とす」行為が réciprocité の発端を成している(この台本を書いた須貝英さんは、やはりこれに気付いていた!)。
 ヤツェク(ヤチェク)は、応答のない暴力行為を続けるうちに、最後はさして理由のない殺人に至ったわけだが、これに「死刑」をもって応答することは、「réciprocité を叩き切る」ことでは全くない。
 むしろ、逆方向の réciprocité を発生させることであり、おそらくこれに対する(再)応答が生じてきてしまうだろう。
 その後、ポーランドは1998年に死刑を廃止したのだが、現代の日本は、これをいまだに実践しているわけである。
 ・・・というわけで、映画では、おそらく「死刑執行」のシーンを最もリアルに、残酷に描写しているだろう、というのが、映画を観ていない私の推測である。
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あの人がいない!

2024年05月28日 06時30分00秒 | Weblog
  • J.S.バッハ:甘き死よ、来たれ BWV478
  • マーラー:《子供の不思議な角笛》より〈原光〉
  • シューベルト:白鳥の歌 D744
  • シューマン:《12の詩》より〈愛と喜びよ、消え去れ〉Op.35-2
  • シューベルト:消滅 D807
  • モーツァルト:ラウラに寄せる夕べの想い K523
  • ブラームス:《6つのリート》より〈野の寂しさ〉Op.86-2
  • ブラームス:《プラーテンとダウマーによるリートと歌》より〈夜更けて、私は起き上がり〉Op.32-1
  • レーヴェ:《3つのバラード》より〈エドヴァルト〉Op.1-1
  • ヴォルフ:《メーリケ詩集》より〈それを思え、おお魂よ〉
  • シューベルト:若者と死 D545
  • シューベルト:死と乙女 D531
  • ヴォルフ:《ゲーテ歌曲集》より〈アナクレオンの墓〉
  • ヴォルフ:《アイヒェンドルフ歌曲集》より〈セレナード〉
  • メンデルスゾーン:《6つの歌》より〈新しい恋〉Op.19-4
  • レーヴェ:《3つのバラード》より〈魔王〉Op.1-3
  • ヴォルフ:《スペイン歌曲集》(世俗篇)より〈いつの日か、わが想いは〉
  • シューベルト:《白鳥の歌》より〈兵士の予感〉D957-2
  • マーラー:《子供の不思議な角笛》より〈死んだ鼓手〉
 ドイツ・リートが大好物の私は、第1夜と第2夜のセット券を購入していたのだが、どういうわけかその後N響の定期公演のチケットを買ってしまい、第1夜はいけなくなってしまった(チケットぴあでセールに出したら売れたので助かったが)。
 わくわくしながら第2夜(リーダー・アーベント)に出かけた。
 副題は、「Zwischen Leben und Tod---生と死のはざまで」とあるので、このテーマからして当然”あの人”の曲が入っているはずだと思いきや・・・。
 歌もピアノも素晴らしいのだが、アンコールも含めて、”あの人”の詩に付曲した歌は1つも入っていなかった。
 歌手(クリストフ・プレガルディエン)の好みではないのだろうか?
 そう、”あの人”というのは、もちろん、F.H.さんのことですよ(ひとり別格(1))。
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聴き過ぎに注意

2024年05月27日 06時30分00秒 | Weblog
ブラームス/ピアノ協奏曲 第1番 ニ短調 作品15
   ルドルフ・ブフビンダー
ニルセン/交響曲 第2番 ロ短調 作品16「4つの気質」

 久しぶりにN響の定期公演を聴きに行く。
 目当てはブラームスの協奏曲1番で、この曲は高校時代のある時期に毎日CDで聴いていたお気に入りの曲である。
 とは言うものの、ライブで聴くのはこれが初めてで、期待に胸を膨らませて演奏の開始を待った。
 だが、始まってしばらくすると、「あーあ、始まっちゃった~」という、一種の失望感のようなものがこみ上げてきた。
 もちろん、ソリストもオケも、演奏は実に素晴らしい。
 だが、開始数十秒で、若い頃に聴いていたのと同じレベルの感動は得られそうにないことを直感したのである。
 これは、中学生の頃から大のお気に入りで、ぜひオペラを鑑賞してみたいと思っていた「ニュールンベルクのマイスタージンガー」の時にも味わった感覚である(但し、こちらは、ストーリー上の欠陥が作用している可能性もある:マイスターじゃないジンガー)。
 そういえば、「遠足は、行く前の、計画している時の方が楽しい」という小学生は(私自身を含め)多いはずだし、「ゴルフは、実際のプレーよりも、行く前の計画の方が楽しい」という中高年も多いようだ(但し、後者については、「19番ホール」が一番楽しいという人もいるため、遠足と同列に論じることは出来ないかもしれない。)。
 それと同様に、音楽についても、生演奏を聴くことよりも、それを期待して待つことの方が楽しいということなのかもしれない。
 それに加えて、余りにたくさん聴き過ぎると、生演奏に違和感を感じるという側面があるのかもしれない。
 例えば、仮に、グレン・グールドが生き返ったとして、「ゴルトベルク変奏曲」を、「世界クラシック音楽大系 (71) バッハ:ゴールドベルグ変奏曲」と全く同じように弾くことは、さすがに難しいだろう。
 その場合、このCDを2000回以上聴いた(と思う)私は、おそらく、生演奏に対して違和感を感じるはずである。
 つまり、CDで音楽を余りにもたくさん聴き過ぎると、その演奏が脳に固着してしまい、ちょっとでも違うものを受け容れにくくするのである。
 要するに、「聴き過ぎに注意」ということなのかもしれない。
 
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傑作の欠点(10)

2024年05月26日 06時30分00秒 | Weblog
―『椿姫』の中で、ご自身にとって一番大事な場面はありますか?
中村 第2幕のヴィオレッタとジェルモンの二重唱の中で、ジェルモンに向かって「若いお嬢さんにお伝えください」と歌う直前の、「神が彼女を許してくれても、人は許してくれない」というところです。「若いお嬢さんにお伝えください」は、みんなの心に残るじゃないですか。

 ヴィンセント・ブサール演出の「椿姫」。
 舞台上に置かれる19世紀半ばに使われていたというピアノが印象的だが、これを1幕ではテーブル、3幕ではベッドとして用いる。
 1幕はまだしも、3幕は歌手がやりづらそうで、やはりベッドの方が良いだろう。
 とはいえ、3幕でヴィオレッタと他の登場人物との間を薄いヴェールで隔てる演出はなかなか良く、これによって半狂乱に陥った後息絶えるヴィオレッタの姿が浮き彫りとなる。
 「椿姫」については、私見では、ジェルモンの存在感が大きくなればなるほど、ストーリーの欠点が目立ってしまうという問題があると思う(傑作の欠点(9))。
 ちなみに、原作者(デュマ・フィス)の父親は当時45歳だったということなので、ジェルモンのイメージとしては、「壮年期の父親」というのが妥当なようである(公演パンフレットp15)。
 だが、そうすると、「プロヴァンスの海と陸」で切々と「帰ってきておくれ」と訴えかけるのは、リアルティーに欠けると言わざるを得ない。
 例えば、白髪の老人が、「老い先短い私のために、プロヴァンスに帰って来て『イエ』を継いでおくれ!」という設定に対しては、到底勝てないだろう。
 また、中村さんが強調したシーンなども、これだけ悪役として振舞っていたジェルモンが、3幕ではアッサリ改悛して(しかもその経過は必ずしも明確ではない)、ヴィオレッタに謝罪するというのだから、相当違和感を生じさせることとなる。
 こういう問題が出て来るのは、ヴィオレッタとアルフレードがよりを戻す重要なくだりを、台本作家(ピアーヴェ)が改変(改悪)してしまったからなのである(傑作の欠点)。
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承継すること、しないこと

2024年05月25日 06時30分00秒 | Weblog
・本堂竣哉 (第9回コンクール 第1位)
 J.S.バッハ ファンタジアとフーガ イ短調 BWV904
        トッカータ ニ長調 BWV912
・安並貴史 (第7回コンクール 第1位)
 シューベルト 即興曲 第3番 D899 Op.90-3
 ドホナーニ トッカータ Op.17-2
 ブラームス 創作主題による変奏曲 ニ長調 Op.21-1
 ドホナーニ アリア Op.23-1
・野平一郎 (第2回~第7回コンクール 審査委員)
 J.S.バッハ 平均律クラヴィーア曲集 第1巻より
      第1番 ハ長調 BWV846/第8番 変ホ短調 BWV853
 武満 徹 ピアノ・ディスタンス
 レノン&マッカートニー(武満 徹 編曲) ゴールデン・スランバー
 武満 徹 閉じた眼Ⅱ
・上野 真 (第6回~第9回コンクール 審査委員)
 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 第21番 ハ長調 Op.53 「ワルトシュタイン」
・東 誠三 (第6回~第9回コンクール 審査委員)
 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 Op.110
・迫 昭嘉 (第1回~第5回コンクール 審査委員)
 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 Op.111

 横須賀出身の著名なピアニストで、一昨年亡くなった野島稔氏を記念して開催されたコンサート。
 勢いに乗っている若手ピアニストだけでなく、審査委員の先生たちの円熟した演奏が聴けるというのは貴重である。

 「先生と出会ったのは、私が11歳の時のこと。2010年、全日本学生音楽コンクール・ピアノ部門の小学生の部で1位を頂いたのですが、審査員の一人が野島先生でした。
 翌年、先生は東京音大の学長に就任され、私も引き寄せられるように、東京音大付属高校、大学へと進学します。そして17歳の頃から、先生に直接指導して頂けることになったのです。
 20歳の時には、世界三大コンクールの一つとされるチャイコフスキー国際コンクールで、2位に入賞することも出来ました。
 レッスンはいつも音楽への情熱に溢れていました。そして一音一音を丁寧に、大切にしてハーモニーを築き上げるよう叩きこまれました。
 なぜなら、作曲家は一音たりとも無駄な音を楽譜に書いていないからです。作曲家が伝えたかったことはなんなのか、緻密に考え抜かなくてはなりません。

 野島先生の弟子の中で一番有名なのは、やはり藤田真央さんだろう。
 その藤田さんは、「一音一音を丁寧に、大切にしてハーモニーを築き上げる」野島イズムを継承しているのである。
 だが、他方において、野島先生はヘビー・スモーカーであったらしく、「情熱大陸」では、藤田さんが野島さんを見習って覚えたという煙草を美味しそうに吸う(あまり関心しない)シーンが放映されていた。
 だが、今では藤田さんは禁煙しているようだ。
 「お酒も特別な時にしか飲みませんし、タバコも止めました。以前はタバコは一日1箱のペースで吸っていたんです。恩師の野島先生が愛煙家で、少しでも先生に近づきたいと思って、喫煙所に通い始めた。銘柄は最初はピース。マルボロ、メビウスときて、最後はアイコスでした。特に公演後の一服が楽しみで。
 ただ、周囲から「やめなさい」と言われ、禁煙を決断しました。
 酒も飲まないし、タバコも吸わない。いまは健康体そのものです。

 これは正しい選択だと思う。
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5月のポトラッチ・カウント(7)

2024年05月24日 06時30分00秒 | Weblog
 「『源平盛衰記』をベースに、木曾義仲とその残党にまつわる筋と、梶原源太景季の物語が交錯しています。角書(題名の上に主に2行で記される、主題や内容を暗示する文字)は「逆櫓松/矢箙梅」となっていますが、「逆櫓松」は前者を、「矢箙梅」は後者を象徴しています。ちなみに、『義経千本桜』の角書は「大物船矢倉/吉野花矢倉」です。
 今回は木曾義仲の奥方やその腰元、家臣、そしてある船頭一家に訪れるドラマを描く、「逆櫓松」の筋を中心とする初段から三段目までの構成です。5年ぶりの昼夜二部制での約4時間の上演時間を通じて、作品に込められた仕掛けや、細やかに表現される登場人物の思いをご堪能ください。

 国立劇場・5月文楽のBプロは、「ひらかな盛衰記」の「義仲館」(初段)・「楊枝屋」(二段目)、「大津宿屋」から「逆櫓」まで(いわゆる「半通し」)である。
 上演時間が約4時間ということで、忙しい人向けに3分であらすじ(あらすじを動画でご紹介!【動画あり】)が紹介されている。
 一言で言うと、義仲の家臣が義仲の遺児(駒若君)を敵(義経が率いる鎌倉勢)から守ろうとする物語。
 核となるテーマは「”ゲノム”の承継」であり、これに、「(木曽)源氏」(義仲)VS.「(鎌倉)源氏」(義経ら)という「イエ」内部の抗争が絡んでいる。
 今月は、歌舞伎座でも「毛抜き」や「伽羅先代萩」という「お家騒動もの」が上演されているが、文楽もやはりそうだった。
 さて、「イエ」内部のヘゲモニー争い(いわゆる「同姓勝負」)においては、当然のことながら、敵の”ゲノム”断絶、つまり「胤を絶やす」ことが最大の目標となる。
 そのことを端的に示すのが、鎌倉方の現場トップ:番場忠太の
 「仇の末は根を絶って葉を枯らす。当歳児でも男のガキ、生けておいては後日の仇
というセリフである。
 ここで注意が必要なのは、鎌倉時代においては、承継の対象はまだ男系の”ゲノム”に限られるルールだった模様で、江戸時代(例えば、「毛抜き」の錦の前)のように「女系の”ゲノム”でもOK」というルールは出来ていないという点である。
 かくして、鎌倉勢は義仲の遺児:駒若君の命を狙い、これを前半ではお筆(義仲館の腰元)が、後半では樋口次郎兼光(漁師のイエに入り婿して変装している)がそれぞれ守るというストーリーが展開する。
 ところが、追手を逃れる途中(「大津宿屋」の段)で、歌舞伎・文楽でいかにもありがちな、「人物のすり替わり」が起こる。
 つまり、お筆らが連れていた駒若君が、隣の部屋に泊まっていた漁師:権四郎の孫である槌松と入れ替わる。
 そして、番場忠太につかまった槌松は、首をとられるのである。
 これは意図せざる自己犠牲であり、いわば「アクシデントによるポトラッチ」と言って良い。
 真相に気づいたお筆は、摂津国・福島の権四郎の家を訪ね、「取り違えた子を返して欲しい」と、「代償なき贈与」を要請するが、槌松が殺されたことを告げた上で、このように言い添える。
 「代はりを戻さねば取り返されぬ若君、・・・何を代はりに取り戻さう
 この「『返礼する義務』違反」に権四郎は激怒し、
 「町人でこそあれ孫が仇、首にして返そうぞ・・・その子死人づだづだに切り刻んで女子に渡せ
と述べて、婿(娘の二番目の夫)の松右衛門(実は樋口)に子の殺害を指示する。
 ところが、これを松右衛門(実は樋口)は拒否し、
 「これこそ朝日将軍義仲公の御公達駒若君、かく申すは樋口次郎兼光よ
と子と自分の正体を明かした上、
 「殺されし槌松は樋口が仮の子と呼ばれ、御身代はりに立つたるは二心なき某が忠義の存意
と、「仮の子」である槌松が「身代わり」で死んだことは「忠義の存意」であるというロジックで権四郎の説得を図る。
 ここで、樋口と槌松の間に「”ゲノム”の承継」はないにもかかわらず、「子による『身代わり』」が成立するというのは明らかに矛盾しており、はっきり言えば単なる欺瞞である。
 なので、このようなダブル・スタンダードに、現代の日本人が騙されるようなことは絶対にあってはならないと、私などは思うのである。
 これについては、結局のところ、樋口の言葉の根底には、「町人は武士の犠牲となるのが当然」という思考があると説明するしかないだろう。
 ところが、信じがたいことに、権四郎はここでアッサリと引き下がる。
 「侍を子に持てば俺も侍・・・わが子の主人はわしのご主人
というのである。
 権四郎の中では、「孫の命」と引き換えに「武士の身分」を得たという、ある種の échange が成立したかのようだ。
 権四郎は、樋口とも駒若君とも”ゲノム”のつながりを持っていないというのに!
 その後、鎌倉勢の追手が迫り、駒若君と樋口は万事休すかと見えたが、権四郎が機転を利かせて駒若君の命を救う。
 「あれ(孫)は樋口が子ではござりませぬ、死んだ前の入婿の松右衛門が子で
と役人に真相を告げて、樋口の命と引き換えに、駒若君つまり義仲の”ゲノム”を救った。
 ここでのロジックは、「駒若君は樋口の”ゲノム”を承継していない」というものであり、これまでのストーリーによればノーマルな主張である。
 というわけで、「ひらかな盛衰記」のポトラッチ・ポイントは、駒若君を守るために槌松と樋口という二人の命が失われたことから、10.0:★★★★★★★★★★。
 以上を総合すると、5月のポトラッチ・カウント(と言っても歌舞伎座の歌舞伎と国立劇場の文楽のみが対象)は、
・「毛抜き」・・・10.0
・「極付幡随長兵衛」・・・5.0
・「伽羅先代萩」より「御殿」と「床下」・・・10.0
・「四千両小判梅葉」より「四谷見附」~「牢内言渡し」・・・10.0
・「和田合戦女舞鶴」より「市若初陣の段」・・・5.0
・「近頃河原の達引」より「堀川猿廻しの段」と「道行涙の編笠」・・・1.0
・「ひらかな盛衰記」(半通し)・・・10.0
を合計して、51.0となるが、こうやって見てみると、今月のテーマは「『”ゲノム”の承継』というフィクションないし幻想」だったような気がする。
 これが、江戸時代のある時点では、「”苗字”(屋号)の承継」にすり替わってしまうわけだ。
 ・・・そう言えば、今月は、「取り違い」、「すり替わり」や「身代わり」がやたらと多かったが、こんな具合に「首」(=フォルム)の判別すら出来ない/しようとしない社会なのだから、”ゲノム”が”苗字”(屋号)にすり替わったとしても、気づかなかったのではないだろうか?
 いや、それでは江戸時代の人たちが可哀想だ。
 これほど「”ゲノム”の承継」にこだわっておきながら、「首」(=フォルム)の判別が出来ない/しようとしないというのは、いかにも愚かである。
 当時の歌舞伎・人形浄瑠璃の作家たち(の一部)は、この愚かさを強調することによって、「”苗字”(屋号)の承継」への転換を促そうとしたのではないだろうか?
 それが成功したからこそ、今日の私たちは、愛之助(ラブリン)の芝居を楽しむことが出来るのである。
 
 

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5月のポトラッチ・カウント(6)

2024年05月23日 06時30分00秒 | Weblog
 「井筒屋の子息・伝兵衛は祇園の遊女お俊(しゅん)と深い仲、身請けの話もまとまっていた。ところが、お俊に横恋慕する悪侍・横淵官左衛門(よこぶち・かんざえもん)は、悪仲間と共に伝兵衛から金三百両を奪い取り、両者は四条河原で達引、つまり喧嘩沙汰となる。そして伝兵衛は思わず官左衛門を斬り、お尋ね者になってしまった。
 逃亡犯の伝兵衛と接触しないよう、お俊は祇園の店から堀川の実家に預けられている。そこにはお俊の母と猿廻しで生活を支える兄の与次郎が暮らし、与次郎は決して楽でない日々の中、母に孝養を尽くしていた。
 ある晩のこと、伝兵衛がそっと訪ねてくる。兄の与次郎は驚いた。何しろ相手は人殺しの逃亡犯だ。やぶれかぶれになって妹のお俊を殺しに来たのかも知れない。「で、で、伝兵衛だ!」与次郎の震えは止まらない。しかし、どうにか心を落ち着かせ、伝兵衛が来たら渡す手筈になっていた退状(のきじょう)、妹に書かせた別れの手紙を伝兵衛に差し出す。ところが、それは別れの手紙でなく、母や兄に自害の覚悟を知らせる、お俊の書き置きだった。
 お俊は伝兵衛が来たら一緒に死にたいと思っていた。しかし伝兵衛は、お俊を巻き添えにするつもりはなく、母や兄と暮らして欲しいと頼むと、お俊は「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん・・・」、あなたが苦しんで死のうとしている時に、それを見捨てる・・・。私がそんなに薄情な女と思っているのですかと訴え、そのお俊の真実の心を知った母と兄は、お俊と伝兵衛が一緒に出て行くことを許す。
 このあと二人が心中することは分かっていた。それを知りながら見送る痛ましい別れ・・・。しかしそれを兄の与次郎は、めでたい猿回しで見送った。」

 Aプロ最後の演目は、「近頃河原の達引」より「堀川猿廻しの段」と「道行涙の編笠」である。
 「市若初陣の段」が最悪のストーリーなだけに、このチョイスにはちょっとほっとする。
 さて、十八世紀後半頃の祇園が舞台で、主人公の伝兵衛は遊女:お俊と恋仲となり、身請けの話も決まっていた。
 ところがそこに役人(”官”)の横淵官左衛門が”横”恋慕してきて、ライバルの伝兵衛を激しく打擲する。
 伝兵衛は我慢出来ずに官左衛門を斬り殺し、自害しようとするが廻し(芸者の送り迎えをする男)の九八(伝兵衛に恩義を感じている)にその場を託し、逃走する。
 この設定で既に身分制への批判(=武士の理不尽な行為へのプロテスト)が浮き彫りになっている点が注目されるが、これは健全な思考と言うべきだろう。
 その後、九八は伝兵衛の身代わり犯となって官左衛門殺害を自供するが、これは虚偽であることがバレ、ポトラッチは未遂に終わる。
 逃亡中の伝兵衛は、事前の約束通りお俊の実家を訪れるが、お俊の母や兄の嘆きを受けて翻意し、
 「・・・思い廻せば廻すほど我こそ死なで叶はぬ身、そなたは科のない身の上、ともに死んではお二人の嘆き、命存へ亡き後の問ひ弔ひを頼むぞ
と自分一人だけで死ぬ決意を告げる。
 これに対するお俊の返答が、(当時は誰もが知っていたという名台詞)
 「そりゃ聞えませぬ伝兵衛さん
である。
 結局お俊の母と兄は二人が逃亡するのを許すのだが、その際に祝いの猿廻しが演じられ、これが人形劇の見ものとなっている。
 今回は上演されないが、ラストは伝兵衛の正当防衛が認められて無罪となり、お俊は伝兵衛の父によって身請けされるというハッピーエンド。
 以上の次第で、「近頃河原の達引」より「堀川猿廻しの段」と「道行涙の編笠」のポトラッチ・ポイントは、久八の身代わり犯も、伝兵衛&お俊の心中も未遂に終わるため、0.5+0.5=1.0:★。
 
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5月のポトラッチ・カウント(5)

2024年05月22日 06時30分00秒 | Weblog
 「5月9日(木)から、東京・シアター1010で『5月文楽公演』が上演されている。
 「襲名披露狂言『和田合戦女舞鶴』市若初陣の段は、・・・鎌倉幕府三代将軍・源実朝の時代に起こった、北条氏が和田氏を滅ぼした和田合戦の勃発を、未然に防ごうと働く人々の悲劇を描く五段の物語で、「市若初陣の段」は三段目に当たる。名高い女武者の板額は、主君の忘れ形見の命を助け、夫の意図を悟り、初陣に手柄を立てたい息子・市若丸の望みをかなえるために苦悩する。ひとりの女性として選択を迫られる板額の姿、そして晴れて手柄を挙げた市若丸を称えて人々が見送る場面が聴きどころ・みどころとなる。

 今月は、国立劇場の文楽が東京で開催されるというので、Aプロ・Bプロともチケットを購入。
 Aプロの「豊竹若太夫襲名披露狂言」は、「和田合戦女舞鶴」の「市若初陣の段」。
 余り上演されない演目で、東京では35年ぶりだという。
 余り上演されないのには理由がある。
 この演目のストーリーが極めて不健全だからである。
 人間関係がややこしいが、将軍は源実朝の時代。
 頼朝公(故人)と政子尼公の娘:斎姫を殺害した犯人:荏柄平太は逃亡し、その息子:公暁丸(きんさとまる)に追手が迫っている。
 この追手の中に、主人公:板額(怪力の女武者という設定)の息子:市若丸がいる。
 11歳の市若丸にとってはこれが初陣であり、
 「公暁が首受け取らん
と意気盛んである。
 ところが、なぜか政子は、公暁丸とその母:綱手を匿っている。
 公暁丸は、実は、亡き将軍:頼家の妾腹の子(善哉丸)であり、政子は、
 「実朝に子のないゆえ、もしもの時は跡目にも
と考えて、荏柄平太・綱手夫婦に託して育てさせていたのである。
 つまり、公暁丸(実は善哉丸)は、将軍家(源家)の”ゲノム”を承継する人物であり、政子はこれを守ろうとしていた。
 ところが、政子と雖も将軍(実朝)に逆らうことは不可能であり、公暁丸の首を差し出すことは避けがたい。
 当の公暁丸は、
 「我が命終はるは厭わねども、ともにとある婆様のお命が助けたい、よきに頼む
と子どもらしく他人に決定権を投げる。
 対する政子も、
 「この子が助かる筋あらば尼が命は終はるとも助けてたも板額
となぜか板額に救済を求める。
 この時点で既に「犠牲強要」の匂いがプンプンするのだが、決定的なのは、公暁丸を追っている板額の夫=市若丸の父:浅利与一が、市若丸の兜の忍び緒をわざと解けるようにしていたことである。
 「忍び緒を切る」というのは、戦で討死する武士が行うことであり、これは、浅利与一が板額に送った謎かけだった。
 彼も、公暁丸が頼家の子であることを知っていたのである。

 「離縁された夫の浅利与市が、市若丸を公暁丸(実は善哉丸)の身代わりにして殺せ、という謎をかけて、兜の忍びの緒を切って妻板額のもとに市若丸を遣わしたと知り、母として苦悩しながらも「涙を忠義に思ひかへ」て、市若丸に自ら腹を切らせように仕向ける。ここが、単に息子の命を惜しむという現代の感覚や母性愛と全く違う。彼女は忠義のためには何としても尼公の孫のであり前将軍の子である公暁丸の命を助けるために、我が子の命を差し出さなければならない。だが自ら手を下すに忍びない。そうした板額にできることは、武家の論理と母としての思いの葛藤から、市若丸を謀反人の子と思いこませることだった。周囲が聞き耳を立て、何が起こるかを注視している中での、板額の一人芝居。板額の声だけが響く中、市若丸は自ら腹を切る。まだ幼さが残る少年でありながら、武士としての名誉を守るために。そして死に際、板額は市若丸を抱えて、「何の荏柄の子であらうぞ。与市殿と我が仲の、ほんの、ほんの、ほんの、ほんの、本ぼんの子ぢやわいなう」と叫ぶ。そこに大勢の観客から自然に拍手が起こる。舞台と客席が一体となる喜び。豊竹若太夫、鶴澤清介、桐竹勘十郎、それぞれの芸が切り結ぶようであった。その余韻でしばらく、客席を立てなかった。

 板額は、(公暁丸の身代わりとして)市若丸を自らの手で殺すのは忍びなかったため、「市若丸は実は謀反人である荏柄平太との間の子」という虚偽を述べて市若丸を錯誤に陥らせ、自害させたのである。
 それを受けた板額のセリフには呆れるほかない。
 「・・・そなた一人が死ぬるとの、尼君様や若君様の命の替り。手柄も手柄大きな手柄。コレ潔う死んでたも。何の因果で武士の、子とは生まれてきたことぞ
 だが、「親が子を騙して犠牲に供する」というのは、悪質極まりない「寺子屋」(3月のポトラッチ・カウント(5))と比べても更に悪質であり、実際、長年この演目が批判されてきた理由もそこにあったようである。
 さて、視点を変えて当時の社会を分析すると、前述したこの作品の真の狙いが見えてくると思われる。
 ”ゲノム”について言えば、江戸時代の旗本約5000名の相続人調査で約23%が養子であることが判明しており(日本経済史の新しい方法 : 徳川・明治初期の数量分析 p74)、「絶家再興」も認められていた。
 つまり、武家において、「”ゲノム”の承継」はフィクションと化していた。
 もっとも、このことを一般庶民はおそらく知らなかっただろう。
 対して、農民等においては、「子殺し」が広く行われていた。
 
 「世はなれ山深く住あたりには、子供一人弐人あれば、あとより生まるゝ子はせわなり費也とて、はらめるうちより呑薬さしおろし、又ハ安らかに生れ出たるを不便とも、かはゆいとも、悪き事とも、恥しき事也とも思はで、手づから返し=返は産子を殺す事=或は取揚うばといふ者をたのみて情なくも返す事在よし扨々いたはしき事にて、まことにおろか成る事ならずや。」(p64)

 私がつねづね不思議に思うのは、歌舞伎や文楽に出て来る「身代わりとしての子殺し」の場面において、子供たちが例外なく「自発的に」死に赴くという点である。
 10歳そこらの子供が「他人の身代わりとなって潔く死ぬ」などという事態の方がむしろ不自然だが、かといって、子供がじたばた暴れたり逃げたりするシーンは絶対に出て来ない。
 そんなリアルなシーンが出て来ようものなら、観客は、罪悪感でその場に居られなくなるかもしれないだろう。
 ・・・作者の狙いは、明らかに、
 「主君の”ゲノム”を守るため、潔く命を差し出す子供
を登場させ、その行動を美化するところにあるのだが、これは、結局のところ当時の社会の現実を正当化(問題を隠蔽)することにほかならない。
 なので、結果的には、① 武家における"ゲノム承継"の仮装、つまり養子制度の正当化、② 農民等における「子殺し」の正当化、に寄与することとなる。
 もちろん、こうしたストーリーを、例えば近松が作ることは絶対にないだろう。
 というわけで、「和田合戦女舞鶴」の「市若初陣の段」のポトラッチ・ポイントは、市若丸が公暁丸の身代わりとして死んだことから、5.0:★★★★★。
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