Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

セクハラ+パワハラ

2023年04月30日 06時30分00秒 | Weblog

 第2幕が始まってまず思ったのは、「選曲が進化しているな」ということである。
 第1幕は、ドビュッシーに慣れ親しんだ人が観ると、音楽とダンスがややマッチしていないという印象を抱くところがあったと思う。
 だが、第2幕では、そういうところがなかったのである。
 誰か音楽の専門家が助言をしているのだろうか? 
 さて、若干ネタバレになるが、第2幕では「影姫」というオリジナルのキャラクターが登場する。
 「影姫」は「帝」の正室という設定で、かぐや姫にぞっこんの「帝」を巡って、女のバトルが展開されることとなる。
 つまり、かぐや姫は、「帝」によるセクハラと、「影姫」によるパワハラを同時に受けることとなる。
 この設定は新鮮な気がする。
 さらに、味方であるはずの「翁」は、かぐや姫を「帝」の正室にして自分も成り上がろうとしているから、いわば「敵」になってしまった。
 唯一の見方は「道児」であるが、ラストでは姿を消してしまい、かぐや姫は完全に孤立無援となる。
 ここで、「エシャンジュの客体にされ、孤立無援となる」という、ギリシャ悲劇以来の伝統的なストーリーが明確となった。
 第3幕の展開としては、「道児」の再登場 → かぐや姫の救済というのが最も可能性が高いが、何らかの形で「道児」が死んでしまうというストーリーも有力だろう。
 ただ、その場合、死に方次第では「人身供犠」パターンになりかねず、そうなると、東京文化会館は、またしても「カマリナ沼」と化してしまうことになる。
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きっと愛、たぶん愛

2023年04月29日 06時30分00秒 | Weblog
 小倉先生の「弱いニーチェ」に出て来た<第三の生命>(あいだのいのち)という言葉に関心(と疑問)を覚えたので、先生のほかの本をいくつか買って読むことにした。
 まず読み始めたのは、「新しい論語」である。
 読み進むうちに、ある決定的な記述に遭遇した。

 「先に述べたように、吉川幸次郎は、仁を「愛情の道徳を実行する意志」だと言った。
 H・フィンガレットは、仁を「人間(十分人間的であるとして)が人間に向け、人間に影響を及ぼす力」だという。フィンガレットはいう。「私には、これにもっともよく対応する西洋のイメージは物理学にあるように思われるーーーヴェクトルである。<仁>の場合、公的時空において行為に働く方向性をもった力のごときものとして想像できる。この力の始点に人があり、力が達する終点にも人がある。もちろん、この力は人間的なものであり、機械的な力を指しているのではない。・・・」
 そう、<あいだのいのち>は、力なのである。」(p78)

 やはり、<第三の生命>(あいだのいのち)、つまり<仁>は、”マハト”のことではないか!
 さらに、H・フィンガレットの説明によれば、<仁>は、フロイトが言うところの ”erweiterten Ich”(拡張された自我)の作用を表現したもののようでもある。

 「愛は、自我が<器官快感>を獲得することによって、欲動の刺激の一部を自体愛的に満足させることができることに由来する。愛は根源的にナルシシズム的なものであるが、その愛は拡張された自我の中に同化された対象にも適用されるようになる。 そして愛は、快の源泉としての対象を求める自我の運動を表現するのである。」(p44~45)
 
 さて、以上を総合すると、やや乱暴だが、<仁>も”マハト”も、"Liebe" (愛)という一言で括ってしまうことが出来るかもしれない。
 フロイト先生であれば、おそらく、「これも愛、あれも愛」、「孔子はんの仁は、『仁愛』と言う言葉があるやろがい?」、「ニーチェはんのマハトは、相手を包み込んで取り入れてまう、パワフルな愛や!」などと断言してくれるのではないだろうか?
 但し、私はここで、<愛>=”自我の相互拡張”であると強調しておきたい。
 こう考えてくると、なんだか、フロイト先生だけが明快な回答を示してくれているようで、珍しい光景を見たような気がする。
 昔、「クイズダービー」で、篠沢教授だけが正解して、みんなが目を丸くしていた場面を思い出した。 
 
 
 
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足並みの問題

2023年04月28日 06時30分00秒 | Weblog
 「 ここ数年債務上限は政治問題に、2011年はぎりぎりで上限引き上げも米格下げで市場は混乱。
   2013年と2015年は債務上限の適用停止で対処、このほか暫定延長や特例措置という手法も。 
  債務上限については引き上げ以外にも複数の対処法があり、米国のデフォルトは行き過ぎた懸念。 」 

 「下院の完全投票は、ケビン・マッカーシー下院議長のリーダーシップのテストになります。彼は、法案を可決すると、バイデンは連邦政府の31.4兆ドルの借入限度額を解除することと引き換えに支出削減の交渉に同意する可能性があると主張しています。・・・
 一方、数人の下院共和党員は、さまざまな理由で法案に反対を表明しており、支出を十分に削減していないと言う人もいれば、地元地区に大きな打撃を与えるのではないかと心配する人もいます。マッカーシーは、法案が可決された場合、彼の狭い222-213の過半数からわずか<>票を失う余裕があります。」(自動翻訳)

 「米下院は26日、大幅な歳出削減を伴う連邦債務上限引き上げ法案を可決した。

 アメリカ政府の資金繰りが危機的な状態に陥っていた。
 やや分かりにくいが、債務上限を引き上げる点に争いはなく、民主党側が交換条件として、共和党が主張する歳出削減を飲むかどうかが問題になっているようである。
 事前報道では、共和党の足並みの乱れを指摘するものがあったが、共和党の団結を示す結果となった。
 翻って我が国を見るに、「防衛増税」を巡っては、与党内で足並みの乱れがみられる。
 これを打開するために、首相が解散を決意するのかどうかが注目される。
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第3ラウンド開始

2023年04月27日 06時30分00秒 | Weblog

 統一地方選+補選を総括すると、「維新の躍進」と「やはり強い世襲議員」という風になるだろう。
 私見では、これは、日本の政界に新たな対立軸が生じたことを明確に示すものであり、「第3ラウンド」が始まったと見てよいと思う(第2ラウンドから第3ラウンドへ)。
 おおざっぱに言えば、都市部に多い「勝ち組サラリーマン層」が、地方に強固な基盤を持つ「世襲貴族」に攻勢をかけ始めたということである。
 与党は、確実にこの動きに脅威を感じているので、「最後の棒倒し」を早める方向に動くのではないだろうか? 
 すなわち、早期(6月の国会会期末)に「防衛増税」を大義に掲げて衆院を解散し、第3ラウンドで劣勢に追い込まれる前に収奪(オートファジー)準備を終えてしまうという作戦が考えられる。
 この点、維新は、「敵基地攻撃能力」の強化に賛成しておきながら(裏金作りと表金作り)、「安易な増税には反対」というスタンスのようなので、この矛盾を突かれると困るはずである。
 そうなると、維新が少なくとも地方に党勢を拡大させることは難しく、与党が安定多数を確保し、その上で「防衛増税」に踏み切るのではないだろうか。
 そして、これによって、「最後の棒倒し」が本格的に始まることになるだろう。
 これに対し、依然として、「犠牲強要」の被害者である非正規雇用労働者や若者を代弁する政党は存在しないか、あるいは存在するとしても活動は低調のようだ。
 なので、「犠牲強要」の被害者は、新たな対立軸から取り残されてしまうかもしれない。
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施設の違い

2023年04月26日 06時30分00秒 | Weblog
 「「買い物に訪れていた店で、ピーコさんが万引き(窃盗罪)で逮捕されたんです。お店側は以前からピーコさんの買い物の様子が気になっていたようですが、名前のあるかただし何かの間違いだろうと考えていた。ですが万引きを繰り返していることがわかり、警察に通報したようです。本人は“代金はカードで払った”と話していましたが、クレジットカードは使用停止に陥っていて使えなくなっていました。逮捕された店だけではなく、自宅周辺の複数のお店が警察に相談していたようです」(前出・ピーコの知人)

 おすぎ氏とピーコ氏はいずれも認知症のようだが、二人は別々の施設に入所しているという。
 推測だが、これは、二人の認知症の「型」が異なることによるものではないかと思う。
 高齢者の認知症は、アルツハイマー型がおよそ3分の2を占めるらしく、たいていの場合、通常の施設で十分対応が可能である。
 問題は、前頭側頭型認知症である。
 この型の場合、万引きや暴行など、他害的な行動が出る場合があり、通常の施設だと「お手上げ」になることもある。
 そのような人が、例えば、有料老人ホームから介護療養型医療施設への移転を余儀なくされることがある。

 「認知症に伴って、幻覚、妄想、徘徊等が生じ、家族による介護が困難になることがあり、時には、精神科医療による適切な診断と入院治療が必要になることがあります。このような場合の介護サービス提供の場として該当するのが老人性認知症疾患療養病棟です。 ・・・
 介護療養型医療施設は、療養病棟と老人性認知症疾患療養病棟の2種類がありますが、これらの介護療養型医療施設は、2024年3月末日にて廃止される予定になっています。その受け皿の施設が、2008年に創設された「新型老健」と2018年4月に創設された「介護医療院」となります。

 なので、おすぎ氏は通常の施設に、ピーコ氏は介護療養型医療施設に、分かれて入所している可能性がありそうだ。
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カビと農薬

2023年04月25日 06時30分00秒 | Weblog

 小学校時代の同級生に、専業農家の子が一人いて、私の母にこっそりと教えてくれたことがある。
 それは、
うちはイチゴを作ってるけれど、家族は絶対にイチゴを食べません。なぜなら、農薬まみれだから
というものであった。
 もっとも、40年近く前の話なので、今では農薬の除去技術も向上しているから、事情は変わっているかもしれない。
 だが、イチゴには、農薬以外に、カビの問題もある。

 「あなたが食べるものに入っている反栄養素の中でもう一つ大きいのが、カビ毒(マイトキシン)だ。ほぼどんな人でも慢性的に毎食微量のカビ毒を摂取しているが、目には見えず、非常に確認がしにくい。」(p32)

 デイヴ・アスプリー氏はカビ毒に敏感だそうで、別著でもカビ毒の脅威を強調している(カビから身を守る)。
 私もカビには敏感な体質のようで、収穫からちょっと時間の経ったイチゴを食べると、てきめんに鼻詰まりや頭痛などの症状があらわれる。
 最初は花粉症かと思っていたのだが、1週間程度で症状が消えるので、調べてみたら、カビ毒のようなのだ。
 ちなみに、今年は、用心してあまりイチゴを食べなかったのに、飲みかけのペットボトルから飲み物を飲んだら、やはりてきめんに上記の症状があらわれた。
 個人的には、イチゴと飲みかけのペットボトルは要注意だと思うのだが、「防カビ剤不使用のレモン」も要注意である。
 朝、1杯のコップにレモン果汁と岩塩を入れて飲むのが日課なのだが、防カビ剤不使用のレモンは、注意していないとカビが発生していることがる。
 「反栄養素(自然由来のものやカビ毒など)」と「人工の毒(農薬など)」を避ける生活というのは、なかなか難しいのである。
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傘寿

2023年04月24日 06時30分00秒 | Weblog
ベートーヴェンチェロ・ソナタ第4番 ハ長調 op.102-1
 R.シュトラウスチェロ・ソナタ ヘ長調 op.6
 権代 敦彦無伴奏チェロのための“Z”ゼータ op.186(2022)~ 堤春恵委嘱作品 ~
 プロコフィエフチェロ・ソナタ ハ長調 op.119
 マルティヌーロッシーニの主題による変奏曲 H.290
アンコール
 ラヴェル:ハバネラ形式の小品
 カサド:愛の言葉 

 80歳とは思えない力のこもった演奏で、私の見る限り、楽譜は殆ど見ておらず、指も殆ど見ていない。
 というのも、ほぼ常時目を瞑っていらっしゃるからである。 
 恍惚とした表情で演奏していらっしゃるが、たまに目を開くと、正面約4メートルのところに座っている私と視線が合ってしまう。
 目を合わせると何となく申し訳ない気がするので、そんな瞬間を事前に予測して、目線をピアノの河村さんの方向に逸らせるようにした。
 ところで、チェロというのは、楽器の中でも一番「身体性」が強いように思う。
 ピアノは指の延長で、トランペットが口の延長だとすれば、チェロは「手と体幹」の延長という感じがする。
 なので、おそらく、チェリストは普段から腕の筋肉と体幹の筋肉(腹筋など)を鍛えているのではないだろうか?
 また、ピアニストの場合、演奏に没頭しているうちに上下の動きを行う人が多いが(その極限は、立ち上がってしまうアンジェラ・アキ)、堤さんに限らず、チェリストの場合、演奏に没頭してくると左右に揺れる人が多いようだ。
 最後のアンコール曲:カサド「愛の言葉」では、殆ど椅子から離れて踊りだそうとしておられた。
 こんな感じで、90歳記念、100歳記念も聴いてみたいと思う。
 
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マハトの差

2023年04月23日 06時30分00秒 | Weblog
PROGRAM ~ ファイヴ・シーズンズ&シェヘラザード ~
5 Seasons & Sheherazade
ヴィヴァルディ:四季(『和声と創意の試み』作品8より)
Vivaldi: The Four Seasons
セドラー:日本の春
Sedlar: Spring in Japan
リムスキー=コルサコフ(セドラー編):《シェヘラザード》作品35
Rimsky-Korsakov (arr.Sedlar): Sheherazade Op.35
」 

 私は「シェヘラザード」が大好きなので、この単語を聞くと、オーケストラだろうがバイオリンのソロだろうがバレエだろうが関係なく、殆ど条件反射的にチケットを買ってしまう。
 このコンサートも、たまたま劇場でもらったチラシの中にあったので、予約しようとしたら、満席に近い状態で、2階席しか取れなかった。
 登場した巨漢のネマニャ氏は、松葉杖の痛々しい姿で、座って演奏するのだが、この点について説明は一切ない。
 もっとも、演奏自体にはほぼ影響はないようで、弱音と強音のコントラストが絶妙な、さすがの名演であった。
 「ドゥーブル・サンス」というのは、ネマニャ氏をリーダー兼ソリストとする楽団で、見るからにみんな仲が良い。
 16人による「シェヘラザード」は、個人的な感想では、リッカルド・ムーティ―指揮のシカゴ交響楽団による演奏(“最後の巨匠”ムーティ&最強のヴィルトゥオーソ・オーケストラ!)以上の感動を与えてくれた。
  おそらく、少人数だが強い絆で結ばれた演奏家のアンサンブルの方が、大人数のフルオーケストラよりも、”マハト”=「間主観」を成り立たしめる作用が強いのではないだろうか?
 つまり、ネマニャ氏&ドゥーブル・サンスと、ムーティー&シカゴ交響楽団とでは、”マハト”に差があるのではないか?
 しかも、”マハト”は、演奏者間、演奏者たちと指揮者、あるいは演奏者たち・指揮者と聴衆との間にも立ち現れる。
 こういう風に考えてくると、ショパンが、ホールを嫌ってサロンでばかり演奏した理由(ホールとサロン)が分かるような気がする。
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多重主体?多重主観?

2023年04月22日 06時30分00秒 | Weblog
 「ツァラトゥストラはこう語った。しかし、そのとき、かれはにわかに、自分をかこんで飛びめぐる無数の鳥の羽音と思われるものを聞いた。------多数の翼のはためき。かれの頭をめぐってのその殺到は、あまりにも激しかったので、かれは目を閉じた。そしてまことに、それは雲のように、新しい敵を目がけて降りっそそぐ矢の雲のように、かれに降りかかってきたのだ。しかし見よ。それは愛の雲だったのだ。新しい友の頭上に降りそそぐ愛の雲だったのだ。」(p529)

 「ツァラトゥストラ」の最期の難所「徴(しるし)」の一節で、解釈が極めて難しい。
 だが、私は、小倉先生の指摘を読んで、目からうろこが取れたように感じた。
 つまり、「無数の鳥」は、ツァラトゥストラが内包する、無数の知覚像をあらわしていると解釈出来るのである。

 「さきに述べた<第三の自己>、つまり「あいだの自己」には、哲学的な人間観の土台があるように思える。
 それは、わたしが『創造するアジア 文明・文化・ニヒリズム』(春秋社、2011)で語った、多重主体主義(multisubjectivism)というものである。・・・
 わたしは、「人間とは知覚像の束である」と考える。・・・
 人間は、知覚ではなく知覚像を瞬時瞬時に意識上に生起させて生きている。・・・」(p53~56)

 多重主体主義(multisubjectivism)は、小倉先生のオリジナルの用語のようで、おそらく、「間主観性(intersubjectivity)と対を成す概念のようだ。
 ここでやや気になるのは、「間主観」に対置するのであれば「多重主観」となるべきところが、「多重主体」となっているところ。
 subjektiv の翻訳を巡っては、民事訴訟法学における記念碑的な迷訳、「請求の主観的併合」というものがある(直訳の弊害)。
 請求の「主体」の併合とすべきところを、「主観」(的)として違和感を抱かない、恐ろしい感覚なのである。
 なので、小倉先生の「多重主体」という言葉にも、ちょっと用心したいと思うのだが、そのためには、「創造するアジア 文明・文化・ニヒリズム」を読まなければならない、ということになりそうだ。
 
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間主観とマハトとディオニュソス

2023年04月21日 06時30分00秒 | Weblog
 「間主観性」というのはフッサールが提唱した概念らしい。
 ちなみに、「主観」と「主体」はドイツ語では同じ(Subjekt)だが、前者は「ものを見る主人公」、後者は「実践行為の主人公」という意味合いのようだ(木村敏「心身相関と間主観性」p50)。
 確かに、アイーダとラダメスによる「現実美化」は、「間主観」的に立ち現れるもののように思われる。
 だが、これを「生命」と呼ぶのは疑問で、素人考えでは、ニーチェの用語であるMacht (マハト)がしっくりくるように思う(これは、ハイデガーの「芸術としての力への意志」という考え方とも親和的である。)。
 ちなみに、マハトを「権力」と訳すのは完全な誤訳だと思うし、「力」でもなお誤解を生む恐れがあるので、「マハト」で良いと思う。
 この、「間主観」的に作用する、あるいは「間主観性」を生じさせるマハトの究極の姿はどういうものだろうか?

 「真に美学的な聴衆の経験を手がかりにして、悲劇的芸術家そのひとのあり方を想像してみると、彼はまず多産な個体の神に似て、いろいろな人物を創造するのであって、その意味では、彼の作品を「自然の模倣」と解するようなことは、ほとんどできないであろう。ーーーしかし次に、彼の途方もないディオニュソス的衝動は、この現象の世界全体を吞み込んでしまい、そしてこの現象の世界の背後で、またこの現象の世界を破滅させることによって、根源的一者のふところにだかれた無上の芸術的な根源的よろこびを予感させるのである。」(p204)
 
 「現象の世界」という言葉から分かるとおり、まだショーペンハウアーを克服しきれていない若いころのニーチェ先生の作品。
 「根源的一者」というところで、私などはニヤニヤしてしまう。
 あまりにも”パウロ”的だからである。
 だが、もちろんこの「根源的一者」が、パウロ的な「永遠・不変・固定」の「神」などではなく、「間主観」的に立ち現れる、常に生成・変化してやまないものとして把握されていることは、他の箇所と併せて読めば分かる。
 この、「間主観」を生み出すマハトの究極の姿を比喩的にあらわしたのが「ディオニュソス」(not「神」)であると考えると分かりやすいように思う。

 
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