Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

ワーグナー病

2023年02月28日 06時30分00秒 | Weblog
 「トゥーランドットは祖先の女性たちが犯され殺されたことを我々に訴えかけます。そうです、これこそが一万二千年来、男たちが女たちにしてきたことなのです。男たちが人間という種に命を与えてくれる体をどのように扱ってきたかということなのです。・・・
 このオペラでは、無実の女性、リューのことですが、彼女が15分もの間、舞台上で拷問される場面をプッチーニが書いていることです。この状況がプッチーニの精神の中のどんなコンプレックスに起因しているか解き明かすことに関しては、精神分析医に任せることにしましょう。」(ダニエル・クレーマー~公演パンフレットより)

 このオペラを初めて観た/聴いたとき(東京春音楽祭2022、演奏会形式)は、「言語の分節化機能」がテーマなのだろうと思っていた(君のシニフィアンは(2))。
 「名」(nome)を秘めた王子カラフは、無分節の「魂」(anima)の状態で存在し続けようとするトゥーランドットを、彼女の「身体」(corpo)を抱きしめることによって捕捉したのだが、ここでの「身体」は、分節機能を有する「名」(nome)に置き換えて考えることが出来るからである。
 ところが、今回の二期会の ヴィジュアル的にも素晴らしい公演を観て、このオペラも、「タンホイザー」と同じく「人身供犠」(というよりは「人命供犠」)を大きなテーマとしていることに気付いた。
 カラフの名を追及されたリューが、15分間の拷問の末、彼を守るため、そしてトゥーランドットの「愛」を彼に向けさせるため、”犠牲”となる場面がまさにそのことを示している。

リュー「あたしを縛りなさい!拷問しなさい!痛みと苦しみを私に与えなさい!ああ!あたしの愛のこの上ない捧げ物として!」(p73)

 このくだりで示されているのは、「女性の自己犠牲によって救済される男性」という、ワーグナーの”大好物”といって良いテーマである。
 こう考えると、晩年のプッチーニも、「ワーグナー病」に冒されていたのではないだろうか?
 「ワーグナー病」とは、「一万二千年来、男たちが女たちにしてきたこと」(エシャンジュの客体としてのみ扱うこと)を、女たちが”自発的に”行うよう仕向けようとする病気のことである。
 これは、これまでの長い年月をかけた人類の進歩を無に帰するようなことなのだが・・・。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鼻歌疑惑

2023年02月27日 06時30分00秒 | Weblog

  神奈川芸協のコンサートの解説には、いつも初耳情報が載っている。
 今回、チャイコフスキーのピアノ・コンチェルト1番について、
 「第1楽章冒頭の全体合奏に続いて始まるピアノの堂々とした和音は、初版ではなんと分散和音で書かれていた
とあるのには驚いた。
 ここは、太鼓のように威勢よく”打ち鳴らす”イメージしかなかったからである。
 さて、多くの人が期待していたであろう(演奏機会が少ないためなかなか聴けない)コンチェルト2番が始まる前に、指揮者がタクトを落とすアクシデントが発生し、会場がややざわつく。
 その後、何事もなかったかのように演奏が始まったが、しばらくして、私はちょっと耳を疑った。
 というのは、ピアノか指揮台のあたりから、鼻歌のような声が聞こえてきたからである。
 断定まではできないが、どうやらピアニストの藤田さんの声のようだ。
 もっとも、ガルシア・ガルシアのような、殆どもう一つの楽器を成すほどの大きな声ではなく、思わず漏れてしまったという感じだった。
 次回はもっと注意して確認しようと思う。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隔離・注入

2023年02月26日 06時30分00秒 | Weblog
 「人形の腕や足などの部品が無数に置かれているコッペリウスの家。帰宅したコッペリウスは、スワニルダたちを追い出すと、コッペリアとシャンパンで乾杯。愛しそうに彼女の手を取りワルツを踊る。だが何をしてもコッペリアは無表情。それもそのはず、彼女はコッペリウスが作った自動人形だった。ダンディな紳士コッペリウスの秘密はそれだけではない。彼は、若いスワニルダに想いを寄せ、彼女そっくりに作った人形で、孤独を慰めていたのだった。
 そこにコッペリアに会おうとフランツが忍び込んできた。コッペリウスは、彼を眠らせ、その魂を抜き出しコッペリアに注入。彼女を人間にしようというのだ。

  「isolation は,いま大体は「隔離」と訳していますが,「分離」と書いてある本も多いと思います。・・・
 ・・・普通は,観念と感情というのは結びついているものですね。・・・ところが,それを分けてしまって,観念だけが意識に上ってくるようにして,それにくっついているはずの感情のほうは切り離して押し込めて,自覚しないようにしておくやり方です。・・・
 ・・・隔離の病理の例をあげると,フェティシズムといって,モノを集める。集めるのはたいてい性的な,異性に関するモノ,女性の下着を盗んだりして集めるわけですよね。」(p65~69)

 人形と乾杯したり踊ったりするコッペリウスが薄気味悪いのは、人形という無生物を愛でるところにフェティシズム傾向が感じられるからである。
 これが極限まで行くと、「死」(=身体と魂の「隔離」)の愛好、つまりネクロフィリアになるわけで,その典型が川端康成の「眠れる美女」である。
 これだけなら、コッペリウスは「気味の悪い人」で終わるのだが、彼は、コッペリア(人形)にフランツの魂を注入しようとした。
 つまり、コッペリウスは、フェティシズムやネクロフィリアの世界にとどまる人物ではなかった。
 このくだりは、おそらくホムンクルス にヒントを得たものであり、コッペリウス博士は、「造物主」になることを夢見ていたのかもしれない。
 すると、川端康成よりは健全ということになるのではないだろうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知的職業病

2023年02月25日 06時30分00秒 | Weblog
 「それからもう1つは,こういう知性化が活発な人というのは,自分の知的能力に対して過剰な期待があります。そうすると,自分はこれぐらいの知的活動ができるべきだ,これぐらいの知的な能力があるべきだという,要求水準が高くなります。自分の知的な能力に対して期待が強いのです。実際の能力がそこまでは行かないとなると,今度は自己不全感が非常に強くなります。というのは,自分の誇れる知的能力が,自分の期待どおりではないということは,自分が非常に劣った,無能な人間であるように感じられるのです。
 知的な仕事をしている人の「うつ」というのがあるでしょう。弁護士とか学者とか医者とか,そういう知的職業の人がうつになる場合というのは,だいたいこれなのです。」(p73)

 最近、修習同期の検察官が30代で亡くなった。
 死因はスキルス性胃がんということだったが、大柄で丈夫そうな男性だったので、非常に意外に感じた。
 スキルス性胃がんの発生機序はよく分かっていないらしいが、ストレスが大きな要因とされているようだ。
 検察官の職務が激務でありストレスフルであることは法曹関係者ならみんな知っているが、実は、激務以外の原因でうつになってしまう人が、この業界には多い。
 弁護士の職業病の一つに糖尿病が挙げられるが、糖尿病を患う人の約4割がうつを発症しているそうで、このことと、上に引用した過度の「知性化」(intelllectualization)が相俟って、こういう現象を生み出しているのではないだろうか?
 糖尿病だけでなく、「知性化」にも要注意ということなのだ。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

指さし奏法

2023年02月24日 06時30分00秒 | Weblog

 「皇帝」のイム・ユンチャンの演奏を聴くのはこれが初めて。
 ソツがない代わりに、やや個性に欠ける演奏と言う印象を受ける(まあ、若いから仕方ないか)。
 予想どおり、第2楽章で眠りに落ちるお客さんが続出し、脱力により持っていたハンドバッグ(?)を床に落として会場じゅうに大きな音が響くというちょっとしたハプニングも発生。
 眠っていた方たちは、第3楽章の冒頭で飛び起きるかと思いきや、結構そのまま眠り続ける方がいて驚く。
 これだと、終演後の拍手で目覚めるパターンか?
 ソリスト・アンコールはJ.S.バッハ(マイラ・ヘス編)「主よ、人の望みの喜びよ」だが、ここはやはりプレトニョフ編曲のチャイコフスキー作品「くるみ割り人形より『行進曲』」あたりを選曲する気遣いがあってもよかったかな、と思ってしまうのは私にまだサラリーマン気質が残っているからだろう。
 さて、メインのチャイコフスキー「マンフレッド交響曲」だが、ストーリー性があり、交響曲と違って退屈しない。 
 雰囲気は、ワーグナーのオペラ音楽に近い。
 やはり注目すべきは、プレトニョフの指揮である。
 余り体を動かさない省力型で、「はい、第一ヴァイオリン」、「次はチェロ」、「ハープのお二人、どうぞ」という風に、奏者を指で指すのが大きな特徴である。
 いわば「指さし奏法」である。
 スコアは見ていない(持ち込んでいない)ので、これは完全に頭に入っていないと出来ない芸当である。
 プレトニョフは、何も知らない人が見たら「猫背のやさしそうな初老の紳士」で、聴衆の中には「指揮者のおじちゃん」などと呼んでいる人もいた。
 だが、ピアノの演奏テクニックも、指揮者や作曲家としての能力も、とんでもないレベルの人、つまり超人なのである。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リーとリウ

2023年02月23日 06時30分00秒 | Weblog
曲目・演目
ラモー:クラヴサンのための小品(クラヴサン曲集、新クラヴサン組曲集より)
優しい嘆き/未開人/一つ目の巨人/雌鶏/2つのメヌエット/ガヴォットと6つの変奏
ショパン:モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の”お手をどうぞ”の主題による変奏曲 変ロ長調 Op.2
ショパン:ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調「葬送」 Op.35
ショパン:3つの新練習曲
リスト:ドン・ジョヴァンニの回想 S.418

 ピアノのリサイタルに行くと、プログラムを見て必ず「盛り合わせや否や?」をチェックする習慣がついてしまった。
  この観点からすると、ショパン&リストはOKだが、冒頭のラモー(フランス・バロックの作曲家)がやや疑問である。
 もっとも、全て”パリつながり”と考えれば、プログラムの統一性は確保されており、「盛り合わせ」は回避したと考える。
 さて、ショパンと言えば、日本では、リウが優勝した同じ第18回ショパン・コンクール第3位のマルティン・ガルシア・ガルシアの人気も凄い。
 彼も昨年ショパンのソナタ第2番を日本で弾いており、どうしても比較してしまうのだが、演奏ぶりはおよそ正反対である。
 パワーと情熱で圧倒するガルシア・ガルシアに対し、リウはメロディラインを浮かび上がらせるのがうまく、抒情性が際立つ印象である。
 和音が割れて聴こえる場面はほぼ無かったので、おそらく指一本一本の力のコントロールが素晴らしいのだろう。
 もちろん、芸術なので、リウとガルシア・ガルシアのどちらが優れているなどということは言えない。
 ただ、二人に共通しているのは、リサイタルの後半から”神がかり”状態となる点であり、リウも「ドン・ジョヴァンニの回想」の途中から明らかに”神がかり”の境地に達していた。
 ちなみに、「ブルース」という名前を加えたのは、本名(シャオユー)は多くの人にとって発音しづらいことと、ブルース・リーが大好きだからだということである。

“I added ‘Bruce’ to my first name last year for two reasons,” Liu ­explains. “The first reason is because many people may have difficulty in pronouncing ‘Xiaoyu.’
“The second reason is because I like [the late martial-arts icon]Bruce Lee very much. Now people like to call me Bruce Liu.”
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吾輩は黒猫である

2023年02月22日 06時30分00秒 | Weblog
 「『吾輩は猫である』の”吾輩”のモデルは夏目漱石が愛した黒猫といわれ、縁の深い東京・神楽坂の地名も作中に出てきます。」(p20)

 これは初耳だった。
 小説を読み返してみると、「筋向こうの白君」と「隣の三毛君」が出て来るので(岩波文庫版ではp11)、白猫や三毛猫でないことは分かるが、黒猫と特定することまでは出来ない。
 もっとも、「アンドレア・デル・サルト」(p13)を知っているような知的な猫は、やはり黒猫がしっくりくるだろう。
 漱石に限らず、猫好きの作家は多く、飼育数で言えばやはり谷崎がトップではないかと思う。
 何しろ、戦時期を除いて一生猫を飼っていたのである(自我の相互放棄(1))。
  谷崎は、和猫が嫌いで、洋猫を偏愛していたらしく、「猫と庄造とふたりの女」に出て来る”リリー”は、洋猫のうちの”鼈甲猫”とされている。
 猫好きと言えば、三島も愛猫家として知られており、”チル”という猫を飼っていて(写真を見るとキジ猫のようだが断定はできない)、机の引き出しには煮干しが常備されていた。
 海外の作家では、ヘミングウェイが非常に有名で、彼が勝っていた猫やその子孫は「ヘミングウェイキャット」と呼ばれているそうである(【ヘミングウェイキャット】文豪が愛した猫と引き継がれる命のリレー)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

交換不可能性の罠

2023年02月21日 06時30分00秒 | Weblog
 「『コジ・ファン・トゥッテ』は『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』を手掛けたモーツァルト&ダ・ポンテの黄金コンビによる最後の作品です。
女性の貞節を確かめるために2組のカップルが恋人を交換するという恋愛喜劇を、モーツァルトが豊かなアンサンブルで綴ります。 

デスピーナ「殿方を、今、お二人は愛しておいでです、なら別のお方も愛されるでしょう、だってどれもこれも同じ価値、誰も何の値打ちもないのですから。」(p49)
ドン・アルフォンソ「男はみな女を責める、だが私は許す、たとえ彼女らが日に千回恋心を変えようと、ある者はそれを悪癖と、ある者は習性と呼ぶ、で、わたしには、それが心に欠かせぬものに思われる。
 恋する者は、しまいには欺かれたとなったなら 相手でなく、自らの誤りを責めるがよい、なぜといって、若くても老いても、美しかろうと醜かろうと、君たちわたしに唱和したまえ、女はみんなこうするもの。
 おんなはみんなこうするもの。」(p152~153)

 辻昌宏氏は、
近代人の考える個性、一人ひとりが唯一無二の存在であるという個人主義の根本を否定する毒。この物語では、恋人ですら交換可能なのだ。」 
と評するが(カタログ化される人間)、違う見方も可能なように思える。
 確かに、デスピーナもドン・アルフォンソも、「男たち/女たちは相手を exchangeable なものとしか考えない」と指摘して、近代個人主義を否定するかのようである。
 この二人は、「男たち」「女たち」という集団の間でどちらがマウントをとるかという問題に必死になっており、問題の本質を突いていない。
 その代わり、相手の「交換不可能性」を錯覚する人間たちの盲点を突いていると思うのである。
 グリエルモとフェルランドは、自分のパートナーは「比類ない女」であると確信し、その根拠として自分に対する「貞節」を挙げる、というか、これだけが、交換不可能 non-exchangeableであることの根拠となっている。
 ところが、ここに落とし穴があった。
 なぜなら、自分のパートナーについて、「彼女のことは100%理解している。絶対に私を裏切らない、貞節な、それゆえに比類ない女だ」という思考は、結局のところ”自我の拡張”にほかならず、相手を自分の支配下におく/「手段」化するものだからである。
 夫婦であっても相手は自分の手段(例えば”子分”)ではないし、心の底には「他人には知ることの出来ない深淵」があり、それを尊重するというのが、おそらくダ・ポンテが示唆した思考なのだろう。
 そもそも、相手のことを「100%分かっている」という発想自体が不遜な思い上がりであり、「一人ひとりが唯一無二の存在であるという個人主義」に反していたわけだ。
 こういうわけで、ダ・ポンテはなかなか意地の悪い人物なのだった。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊猿の仲

2023年02月20日 06時30分00秒 | Weblog
 毎年この時期は、「梅の花を観賞しながらハイキング」というのが恒例となっているのだが、昨年、ちょっとした異変があった。
 梅林をちょっと登ると、あちこちに「クマ」と書かれた町役場作成の貼り紙がしてあったのである。
 地元のタクシー運転手さんに聞くと、「このあたりは昔からクマはいないとされていたんですが、去年隣の市で大々的にサルの駆除をやったので、サルのテリトリーだったところににクマが降りてきたのかもしれませんね」ということであった。
 私は、直感的にこの推理は当たっていると感じた。

 「僕も見たことあるけど、クマが1匹木に上がっていて、サルが輪になって威嚇しているのね。どんぐりを食べているクマを。多勢に無勢なんだろうね。サルはすごい剣幕で怒っているの。今の時期、まだどんぐりが落ちてないから枝に上がるんです。サルが枝に上がったって、ちょっと飛べば隣の枝ですけど、クマはそれできませんから、上がった木を必ず降りてくる。

 どうやら、餌、したがってテリトリーを巡って、クマとサルはライバル関係にあるらしい。
 いわば「熊猿(ゆうえん)の仲」である。
 そうすると、サルが居なくなったのでクマが降りてきたというのは自然な推論である。
 また、群れることなく単独で生きるクマが、比企谷八幡 と同様に、群れを成す連中、つまりサルたちを嫌悪しているというのも分かる。
 そう言えば、人間界でも、(梅林の山とは逆だが)電車の中で静かに読書に耽っていたところ、入ってきたマダムたち・女子高生たちが賑やかにおしゃべりを始めたので、やむなく隣の車両に移るサラリーマンの光景は、ときどき見かける。
 こういう風に考えを巡らすうちに、なんだか私は、クマに一方的に肩入れしたくなってくるのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

決め手(4)

2023年02月19日 06時30分00秒 | Weblog

 羽生さんの73手目:6四角成でほぼ勝負あった。
 というのも、72手目:5二同玉は悪手で、ここは5二同銀とすべきところだったのである(7:40付近)。 
 つまり、(大長考の末)藤井さんの間違いで勝負が決まり、藤井さんはいいところなく敗れた。
 こういうワンサイド・ゲームは残念というしかない。
 藤井さんは、対局が多くて疲労が残ってそうだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする