「生の半ば」という題について、私は異論がある。
理由は次回述べるが、私見では、「生の世界の半分」と訳すのが適切だと思う。
さて、本作はインパクトの強い詩であることから、日本語訳にもいろいろなものがある。
その中から興味深いものを2つネットで拾ってきた。
① KAKASHIさん(『ヘルダーリン詩集』 〜『人生の半ば』をめぐって〜)
黄色い梨はたわわに実り
そして野薔薇は咲き誇り
大地は湖の上に降り、
愛らしい白鳥たち、
口づけに酔いしれて
その頭をひたす
聖らかで冷たい水の中に
そして野薔薇は咲き誇り
大地は湖の上に降り、
愛らしい白鳥たち、
口づけに酔いしれて
その頭をひたす
聖らかで冷たい水の中に
ああしかし、どこに求めればいいのだ、もし
冬が来たら、花を、そしてそう
日の光を
地上に射す影を?
石垣は立つ
声もなく冷ややかに、風は
風見を軋ませる。
冬が来たら、花を、そしてそう
日の光を
地上に射す影を?
石垣は立つ
声もなく冷ややかに、風は
風見を軋ませる。
黄色い梨の実がたくさんあるというのに、そして
野ばらもいっぱいにあるというのに、わたしの立つ地面は
それらとともに湖へ滑り落ちてゆこうとする。
野ばらもいっぱいにあるというのに、わたしの立つ地面は
それらとともに湖へ滑り落ちてゆこうとする。
この詩は対照的な2つの連で構成されているが、まず、1連を見ていこう。
「梨子の実」と「野ばら」は、「私を含む生き物たちが活動している世界」の果実・花(つまり精華)である。
ところが、それらを擁する大地(Land:私を含む生き物たちが活動している世界)は、湖(See:一応アクセス可能だが、大地とは別の世界)の中へ滑り落ちて行こうとする。
つまり、大地は永続的なものではない。
次に、場面はいきなり変わって、湖と(おそらく二羽の)白鳥が出てくる。
愛らしい白鳥たち、
口づけに酔いしれて
その頭をひたす
聖らかで冷たい水の中に
口づけに酔いしれて
その頭をひたす
聖らかで冷たい水の中に
というくだりでは、一見すると分かりやすく「愛」が描かれているが、問題は「水」である。
だが、ここは深読みする必要はなさそうで、"heilignüchterne Wasser "は、「愛」に続いて出てくるところから見て、「生命の源」という解釈で良いと思う。
ヘルダーリンは、「生命の源」は、「一応アクセス可能だが、私を含む生き物たちが活動している世界とは別の世界」にあると考えているようだ。