Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

3月のポトラッチ・カウント(5)

2024年03月31日 06時30分00秒 | Weblog
 歌舞伎座・3月大歌舞伎の第一部(昼の部)1本目は、「菅原伝授手習鑑」の寺子屋の段である。
 有名な演目で、ここでも「子殺し」が出て来るが、「メディア」とは違い、手を下すのは子の親ではない。

 「道真公に恩を受けた梅王・松王・桜丸の三つ子の兄弟なのですが、今は、松王丸だけが、敵方の藤原時平につかえています。
 道眞から書道の極意を伝授され、今は寺子屋をいとなむ武部源蔵は、道眞の息子、菅秀才をかくまっていますが、敵方にそのことが露見してしまい、秀才の首を討てと迫られます。
 そして、秀才の首が本人のものか確認する役目は、その顔を知っている松王丸でした。
 「寺子屋にもどると、源蔵の妻、戸浪が、いかにも品格のある男の子が、新たに入学してきたことを伝えました。その品の良さそうな子の顔を見て、「この子なら、身代わりになる」と源蔵は入学してきたばかりの子を、道真の息子の代わりに殺して松王丸に差し出すことにしたのでした。

 前半の筋書きだけで、当時の社会がいかに異常で恐ろしいものであったかが分かる。
 寺子屋の主人である源蔵は、元の主君の子である秀才を救うためなら、自分の教え子(赤の他人)を殺害することも厭わない。
 但し、他の演目ではよくみられる「自分の子を犠牲にする」という構図とは違っているのが新鮮である。
 源蔵は、今日入学したばかりの生徒(=松王丸の子:小太郎)を殺して「菅秀才の首」として差し出すが、殺された自分の息子の首を見て、松王丸は、「菅秀才に間違いない」 と虚偽を述べる。
 筋書によれば、松王丸は、「我が子の小太郎を菅秀才の身代わりとして、源蔵の許へ送り込んだのであった」ということで、いわば「間接正犯」類似の構図だが、いかにも不自然なストーリーである。
 なぜなら、源蔵が教え子の首を菅秀才の身代わりとして差し出すこと、しかもその際に小太郎を選ぶということは、第三者にとっては容易には予測出来ないことだからである(「松王丸が小次郎の首を源蔵に渡す」という「共同正犯」の筋書なら分からないでもないが・・・)。
 「小太郎の最期の様子を尋ねる松王丸に対し、菅秀才の身代わりだと言い聞かせると、小太郎はにっこりと笑って潔く首を差し出したと語る源蔵」というくだりに至っては、実に罪深いというほかない。
 「親分の子を救うため子分が自分の子を殺す」という「「忠」としての自己犠牲」を美化するかのようなストーリーが、当時の観客に与えた影響は大きいはずである。
 もっとも、ルイス・フロイスが「日本の女性は、育てていくことができないと思うと、みんな喉の上に足をのせて殺してしまう」と指摘したとおり、それ以前から日本では子殺しが普通に行われていた(子どもの死骸が河岸などに転がっていたそうである)わけなので、「身代わり」を云々する以前に、人命軽視の野蛮な社会だったと言うべきなのだろう。
 以上を総合すると、「菅原伝授手習鑑」寺子屋の段のポトラッチ・カウントは、5.0(★★★★★)となる。
 さて、「親分のための自己犠牲」と言えば、昔から政界でも頻出してきた。
 現在永田町の「自民座」で上演されている「清和伝授金習鑑」(せいわでんじゅかねならいかがみ)でも、親分はおとがめなしで、子分が犠牲(というか、当然の報い?)になりそうな雰囲気である。

 「自民筋によると、党関係者が森氏側から聞き取った。開始や復活の経緯を把握していないと説明したという。・・・岸田文雄首相ら党執行部は、高齢の森氏にこれ以上話を聞く必要はないとの判断に傾いた。

 あれ?
 聴き取りしかやっていないのか!?
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3月のポトラッチ・カウント(4)

2024年03月30日 06時30分00秒 | Weblog
(以下「メディア/イアソン」のネタバレご注意!)
 
 イアソンとメディアはイアソンの故郷イオルコスに戻り、そこで2人には子ども(双子:男児と女児)が生まれる。
 だが、イアソンらは王(ぺリアス)と揉めて(芝居では詳しく語られない)イオルコスには居られなくなり、一家でコリントスに逃亡し、そこで3人目の子(妹)が生まれる(エウリピデスの原作では2人の子となっているが、フジノサツコさんはディオドロスの「三大地誌」の”3人説”を採用したそうである(公演パンフレットより))。
 イアソン一家は、異郷の地コリントスで肩身狭く暮らすことになるかと思いきや、何とイアソンに、王クレオンの娘:グラウケ(芝居には登場しない)と結婚する話が持ち上がる、というか、その話をイアソンはメディアに一切相談することなく進めてしまう。
 これは、妻子に対するイアソンの明らかな裏切り行為である。
 だが、イアソン自身には裏切りの自覚が乏しく、何と、「お前たちに豊かな暮らしをさせたくて、きょうだいを増やしたくて」王の婿養子となることを決断した旨告げる(本当に卑劣な男である。)。
 しかも、王クレオンは、メディアと子どもらに対し、1日以内にコリントスから出ていくことを命じる。
 メディアは、
 「この世に生を享けてものを思う、あらゆるもののうちでいちばんみじめな存在は、わたくしたち女というものです。だいいち、万金を積んで、いわば金で夫を買わねばならないし、あげく、身体を献げて、言いなりにならねばなりません。」(以下、セリフの引用は「ギリシア悲劇 3 エウリピデス」エウリピデス 著 、松平 千秋 翻訳より)
と嘆く。
 このあたりのセリフは、木庭先生によれば、「人間の心の内奥に存する或るもの、心の中心を尊重しえない、ここを破壊する、行為一般を非難し、そしてまさに自分のその内面が完全に破壊された」(前掲p331)という意味である。
 江戸時代、「万座で恥をかかされる」男が行う復讐は、殺人か自殺であった。
 対して、「心の中心を破壊された」メディアが行うのは、「子殺し」というポトラッチ及びそれ故の「亡命」である。
 木庭先生によれば、「領域の<二重分節>単位相互は実は中心の政治システムを通じてのみ繋がっている。ここを断たれれば直ちには互換性が働かない・・・」(前掲p332)ため、メディアが対抗措置として繰り出すのは、「イアソンの家(<二重分節>単位)を完璧に破砕する」(こと)(前掲p334)となる。
 但し、この芝居では、3人の子どものうち2人がメディアによって殺され、1人だけ生き延びるが、原作では2人の子どものいずれも殺されるストーリーとなっている。
 メディアは、
 「父親の罪ゆえに、命を亡くしたのよ、子どもたち
 「あなたを苦しめようために」(子どもたちを殺めた)
と述べて、子どもたちを殺したのはイアソンであると非難する。
 だが、注目すべきはこの前に出ていたセリフ:
 「泣かずにいられぬわけがあるのです、爺や。神さまが、いや、わたくしが、悪い心をおこして招いたことなのだから」(p124)
 「どんなひどいことを仕出かそうとしているか、それは自分にもわかっている。しかし、いくらわかっていても、たぎり立つ怒りのほうがそれよりも強いのだ。これが人間の、一番大きな禍の因なのだがーー。」(p126)
である。
 ここの「爺や」「神さま」というのは、メディアの祖父である太陽神ヘリオスであり、メディアは、レシプロシテ原理を発動させたのは「神」であると示唆しているのである。
 これは、「曾根崎心中」と対比した際の決定的な違いである。
 なぜなら、徳兵衛らは、自身を駆動しているのがレシプロシテ原理であることに気づかないまま心中に至っているが、メディアは、少なくともレシプロシテ原理を抉り出して対象化することには成功しており、その正体をほぼ見破っているからである。
 以上を総合すると、「メディア/イアソン」のポトラッチ・カウントは、アプシュルトスと子ども二人が亡くなっているため、15.0(★★★★★★★★★★★★★★★)となる。

 
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3月のポトラッチ・カウント(3)

2024年03月29日 06時30分00秒 | Weblog
 「異国の地で生まれ、出会い、恋に落ちた王女メディアとイアソン、そして二人の間に産まれた三人の子供たち。彼らがたどった数奇な運命とは!?
 脚本:フジノサツコ×演出:森新太郎による新たなギリシャ悲劇に井上芳雄、南沢奈央、三浦宏規ら魅力あふれる俳優陣が挑む

 ポトラッチと言えば、ギリシャ悲劇はその元祖の一つである。
 脚本家のフジノサツコさんは、エウリピデスの代表作とも言うべき「メディア」に、その前日譚である「アルゴナウティカ」(こちらは叙事詩)をドッキングさせ、1つの芝居をつくり上げた。
 結論から言うと、この試みは成功していると思う。
 というのは、2作を繋げることによって、「アルゴナウティカ」では英雄として大活躍し、数々の試練を経てめでたくメディアと結婚したイアソンが、「メディア」になると妻子を裏切るトンデモない悪者に豹変するというコントラストが際立つだけでなく、当のイアソンは、「自分に都合よく他人を利用する」という行動哲学を終始一貫して保持していたことが判明するからである。
 この構成によって、「あの英雄は、実は元から卑劣漢だったのだ!」というメディア(及び観客)のショックが極大化されるわけである(もっとも、「元から卑劣な人間だったことが年を経て判明する」という現象は、離婚事件などではよく見かけることである。)。
 それにしても、役者さんたちの声が素晴らしい。
 これは当然で、イアソン役の井上さんは言わずと知れたミュージカル・スター(東京芸大声楽科卒)だし、メディア役の南沢さん、子どもたち役のお三方も、やはり皆さん声優としても通用しそうである。
 演出の森新太郎さんは、徹底的に「音」にこだわる方のようで、キャスティングもまず「声」ありきだったのではないかと推測する。
 前半の「アルゴナウティカ」は、古代ギリシャ都市:イオルコスの英雄イアソンが、黒海最果ての未知の地コルキスから金羊毛皮を取り戻そうとする冒険譚である。
 芝居の大きなポイントは、イアソンが功績を挙げるに際しては、彼と結ばれることになるメディアの貢献が不可欠だったというところである。
 とりわけ、メディアが故郷を出奔してアルゴー船に乗り込む際、実の弟:アプシュルトスを殺して八つ裂きにした死体をバラまいて追跡者がその裂片を集めている間に時間を稼いで逃げ延びたというエピソードが強調される。
 これは言うまでもなくポトラッチとしての殺人(弟殺し)であり、後半の「メディア」にもつながる重要なくだりである。
 この「アルゴナウティカ」を法的・政治的観点から表現すると、
都市中心から政治的階層の息子(=英雄)が領域に降りていき、そこで娘と結ばれ、政治的中心からも領域の組織からも独立の<二重分節>体を実現する」(「デモクラシーの古典的基礎」p329)
ということになる。
  かくしてデモクラシーが達成されるのだが、そこに落とし穴があった。
 これを指摘したのが、エウリピデスだった。
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3月のポトラッチ・カウント(2)

2024年03月28日 06時30分00秒 | Weblog
 続く「天満屋の場」では、徳兵衛とお初との「心中合意」が描かれる。
 巷では徳兵衛が九平次のハンコを盗用して手形を偽造した(偽判)という噂が流布している。
 お初は徳兵衛の無実を知っているが(頼もしだてが身のひしで 騙されもんしたものなれ共)、そのお初ですら、何と「証拠なければ理も立たず。此の上は徳様も 死なねばならぬ品なるが。死ぬる覚悟が聞きたい」と述べる。
 私は、この「証拠なければ理も立たず」という言葉に愕然とする。
 民事裁判の場合、徳兵衛が主張立証すべき要件事実は、① 金銭授受、② 返還約束 であり、本件の場合、①②の証拠として、九平次が押印した手形(いわゆる処分証書)が存在する。 
 九平次は、①②とも否認し、その論拠として、手形の陰影は「改印」される前の印章によるものであり、ゆえに自分はこれに押印していない(自己の意思に基づいて作成されたものではない)ことを挙げる。
 つまり、手形の成立の真正を争っている。
 対する徳兵衛(とお初)は、九平次が言うところの「改印」のところで思考停止してしまい、その論拠(「改印」の実体、九平次の供述や彼の友人たちの証言など)を弾劾することを、なぜか最初から諦めているのである。
 これは一体何によるものだろうか?

 「特定のことをすべきだと言い立てる人がいるとして、それには従わず、その論拠を糾し、反論する、ということは大切なことである。しかしさらに進んで、提出された論拠をデータを使って吟味し、また使われた概念の明晰度を疑う、言うなれば論拠の論拠を問う、そうして、それが正しいかどうか、それに従うべきかどうか、を論ずる前に入り口で失格させる、ということも極めて重要である。・・・
 ちなみに、鴎外が結局見抜いていたように、日本の近代的な欠陥はクリティックの欠如に存する、と私も考える。」(p27~28)

 徳兵衛にもお初にも「論拠を問う」思考が存在しないということは、おそらく当時の裁判はそういうものだったということなのだろう。
 私は、ここにやはり「クリティックの欠如」を感じてしまうのである。
 以上で見たとおり、ドナルド・キーンさんは、近松が抉り出した、① 「イエ」の病理(レシプロシテ原理を発動させ、個人を「客体」ないし「手段」にしてしまう)、② 「クリティック」の欠如 という2つの大きな問題(これが二人を死に至らしめた)を見逃してしまっているように見える。
 もっとも、「道行」のくだりに関するキーンさんの解説は秀逸である。

 「地位が高くなくても、人物の立派さでわれわれより優れてさえいれば、主人公としての資格が十分にあるということを近松は証明した。『曾根崎心中』の徳兵衛は道行に出かけるまでは、絶対に優れた人物ではないが、自分の行動について「此の世のなごり、夜もなごり、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ」というところでは、どの王様にも負けないほど沽券がある。道行までの徳兵衛はみじめであって、われわれの尊敬を買わないが、寂滅為楽を悟った徳兵衛は歩きながら背が高くなる。」(前掲p172)

 ナビゲーターのいとうせいこうさんによれば、近松は、「お初はいわば観音様として、一人の人間(徳兵衛)を救ったのだ」と述べていたというが、私もこれに賛同する。
 仮にお初が存在しない設定だったとすれば、徳兵衛は、「結納金の詐取」と「万座の中での恥」(準拠集団内における地位喪失)に対する代償として、九平次を刀で斬り殺すという、歌舞伎ではおなじみの展開になっていたかもしれない。
 ところが、追い詰められた徳兵衛は、彼に寄り添うお初がいたことによって、いわば救済されたのである。
 もっとも、殺人は回避出来たとはいえ、「結納金」=「叔父への恩」を返せなかった代償として、二人は命を捧げることなった。
 死ぬ直前の徳兵衛は、
 「我幼少にて誠の父母に離れ。叔父といひ 親方の 苦労となりて人となり。恩も送らずこのまゝに。亡き跡までもとやかくと。御難儀かけん 勿体なや・・・罪を許して下されかし
と明確に自死(心中)の理由を述べており、結局レシプロシテ原理に捕まってしまったのである。
 これは、叔父に対する関係では「死んでお詫びする」という疑似ポトラッチであるが、お初が敢えて九平次の目の前で「心中」の意思を表明したことから分かるように、九平次に対する関係では彼を一生「二人を死なせてしまって申し訳ない」という心情に陥れるための純正ポトラッチである。
 このように、近松が描いたのは、二面的な性格をもつ「ポトラッチとしての自殺」だった。
 以上を総合すると、「曾根崎心中」のポトラッチ・カウント(人命=5ポイントとする)は、10.0(★★★★★★★★★★)となる。 
 なお、今更言うまでも無いが、「曾根崎心中」は実話に基づく作品である。
 二人に合掌。
 
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3月のポトラッチ・カウント(1)

2024年03月27日 06時30分00秒 | Weblog
近松門左衛門=原作 文楽 曾根崎心中(そねざきしんじゅう)天神森の段

 外国人を含む文楽初心者向けに「曾根崎心中」の最後の段を上演するものだが、大道具などの代わりにアニメーションを用いているのが新鮮である。
 ストーリーはシンプルで、極限まで切り詰めた要約は以下のとおり。

 「『曾根崎心中』は、いったい筋が単純すぎる。二流の女郎に惚れている醤油屋の手代が、うかつにも友達に大事な金を融通してしまったためにせっぱ詰まり、にっちもさっちもいかなくなって女郎と心中するーーそれだけの話である。」(p171)

 だが、私は、これはキーンさんらしくない、最初の「観音廻りの場」を精読していないために起きた”浅読み”と見る。
 まず、徳兵衛とお初がいずれも「イエ」から切り離された天涯孤独の身である点が重要である。
 この点、お初について、両親が健在であること以上に詳しい身の上話は出て来ないが、遊女であることから、彼女がイエ秩序をはみ出した女性であることは明らかである。
 これに対し、徳兵衛の状況はもっと気の毒である。
 彼は幼少時に両親を亡くし、継母に育てられた後、醤油屋を営む叔父のもとで手代として働いている。
 叔父は、自分の娘(徳兵衛にとってはいとこ)を徳兵衛にめあわせ、「イエ」(=商売)を継がせようとして、徳兵衛の継母と話をつけ、彼女に結納金を渡した(「内儀の姪に二貫目付けて女夫にし。商ひさせふといふ談合・・・在所の母は継母なるが。われに隠して親方と 談合極め 二貫目の。銀を握つて帰られしを 此のうつそりが 夢にも知らず。」以下原文は「曾根崎心中・冥途の飛脚 他五篇」(岩波文庫)より引用)。
 ここで、「イエ」存続のための露骨な échange が行なわれている点を見逃してはならない。
 ところが、徳兵衛にはお初という恋人がいるため、この縁談を断る。
 「銀を付けて申受け 一生女房の機嫌取り 此の徳兵衛が立つものか。いやと言ふからは 死んだ親父が生き返り申すとあっても。いやでござる・・・」という、実にすがすがしい「échange の拒絶」である。
 だが、これに激高した叔父は、4月7日までに結納金の返済及び所払いを申し付け、これを受けた徳兵衛は金策に走るが奏功せず、やっとのことで継母から金を受け取る。
 これで金の問題は無事解決と思いきや、一波乱が起こる。
 徳兵衛の「兄弟同事」(兄弟同然)の親友である油屋の九平次が、「(4月)三日の朝は返さふと 一命賭けて」金の融通を頼むので、徳兵衛は借用書がわりの手形に押印させた上で、「あいつも男磨くやつ。をれが難儀も知ってゐる」と信用して手元の資金を貸す。
 3日を過ぎても九平次が返済しないので、徳兵衛が3月28日付けの手形を示して督促すると、九平次は、何とこう述べる。
 「此の九平次は 跡の月の廿五日。鼻紙袋を落として 印判共に失ふた。方〲に紙して尋ぬれ共 知れぬゆへ。此の月からコレ。此の町衆へも断り 印判を変へたやい・・・扨はそちが拾ふて 手形を書いて判を据へ。をれをねだつて銀取らふとは謀判より大罪人
 九平次は、金を借りた事実を否認したばかりか、「徳兵衛は自分が落とした印鑑を冒用して手形を偽造したのだ」と濡れ衣を着せにかかる。
 この辺りは、長年わが国で続いてきた「ハンコの悲劇」の変形ヴァージョンと言ってよい。
 徳兵衛は九平次の騙りに遭って窮地に陥ったように見えるが、冷静に考えれば、九平次の主張は極めて不自然で、追及すればいかにもボロが出そうである。
 ところが、この状況を受けた徳兵衛の発言は、現代の法曹からすれば到底信じられないものである。
 「扨巧んだり〱。一杯食ふたか 無念やな。ハテなんとせふ此の銀をのめ〱と 唯をのれに取られふか。かう巧んだことなれば 出所へ出てもをれが負け。腕先で取つてみせふコレヤ
 徳兵衛は、裁判をしても「負け」は必至だという(これは現代の法曹には信じがたいことである。)。
 徳兵衛にとって、この時点で既に九平次の虚偽を暴いて金を取り戻す選択肢はなくなり、実力行使に打って出るのである。
 私は、この徳兵衛の発言に、当時における司法制度の機能不全という問題だけでなく、より根本的な問題として「論拠の論拠を問う」という思考の欠如を見る。
 徳兵衛は五人がかりの九平次らに組み伏せられ、踏み叩かれる。
 歌舞伎でもよく出てくるが、「万座で恥をかかされる」男が何をするかと言えば、それは殺人か自殺しかない。
 「明くる七日此の銀がなければ われらも死なねばならぬ。・・・手形をわれらが手で書かせ。印判据へてその判を 前方に落せしと。町内へ披露して かへつて今の逆ねだれ。口惜しや 無念やな。此のごとく 踏みたゝかれ 男も立たず 身も立たず。最前につかみ付き。食付いてなりとも 死なんものを
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音楽の値段

2024年03月26日 06時30分00秒 | Weblog
 若い時に身についた習慣は、年をとってもなかなか離れてくれないものである。
 私は、20代の頃金融機関で働いていたのだが、毎朝の日課は、中小企業の決算書をデータに落とし込んで数字を分析すること、つまり財務諸表分析だった。
 こんな感じなので、当時の私は、目に入るあらゆる商品やサービスについて、その原価構成や利潤がいくらであるかなどを推測する習慣がついていた。
 今でも、無意識のうちに原価計算をする習慣があり、例えば、バレエの公演でも「音楽の値段(=原価+利潤)はいくらぐらいかな?」などと考えながら鑑賞してしまう。
 こういう場合に参考となるのが、バレエ音楽に特化したオーケストラ公演における料金設定であり、私が一つの基準としているのは、東京フィルによる「カルメン/白鳥の湖」のS席:10,000円という料金である。
 但し、これにはプレトニョフへの報酬や(オーケストラが演奏するため相応の広さのステージを有する)会場の賃料などが反映されているため、その分を割り引いて考えると、バレエ公演用の「音楽の値段」は、「カルメン組曲」(もともとバレエ用に作られている):3,000円程度、「白鳥の湖」(バレエでの演奏時間は「カルメンより組曲」よりかなり長い):5,000円程度と見込まれる(あくまで私の独断による推定)。
 このような視点から、最近鑑賞したバレエ公演を分析すると、以下のようになる。
 
 Flowers of the Forest は2018年の「NHK バレエの饗宴」(後半の「スコットランドのバラード 」には何と吉田都さんが登場!)で観て気に入ったのでまた観たいと思っていた演目であり、「雪女」は世界初演ということで楽しみにしていた演目である。
 前者は、とりわけ後半のコリオがベンジャミン・ブリテン作曲「スコットランドのバラード 」にマッチしていて、忘れがたい印象を残す。
 後者は、ストラヴィンスキーの「妖精の接吻」を使用するという奇抜なアイデアだが、意外にも日本の伝統的な農村風景とマッチしている。
 音楽は全て生演奏だが、比較的小規模のオーケストラとピアノ(2人)・トランペット(1人)のソリストで構成されていることを考慮し、「音楽の値段」は2,000円程度であると推定。
② ジゼル(K-BALLET TOKYO)(S席:17,000円)
 熊川ディレクターの演出・振付だが、意外にも、奇を衒ったところのないオーソドックスなプロダクション。
 ラストで、アルブレヒト(ジュリアン・マッケイ)が花束をポロポロと全部落としてしまい、挙げ句の果てに子どものように泣き崩れる演出はなかなか良い。
 音楽は、いつも通りの「シアター オーケストラ トウキョウ」(指揮:井田勝大)による生演奏である。
 いわば”座付き”のオーケストラ&指揮者である点を考慮し、「音楽の値段」は3,000円程度(外注の場合は4,000円程度?)であると推定。
③ 上野水香オンステージ2024(S席:13,000円)
 「上野水香オンステージ」は昨年も開催され
が(半フリー)、今年は「東京・春・音楽祭」の中のプログラムの一つとして上演された。
 音楽は、全曲について、生演奏ではなく録音音源が使用されている。 
 私は、このやり方にはかなり問題があると感じた。
 最初の演目「カルメン」は、2021年6月の公演でも同じキャストで演じられたが、その際の音楽は生演奏だった。
 その時と今回とを比べると、私には、明らかに今回のパフォーマンスの方が落ちてみえたのである。
 やはり、生演奏の音楽の方が、ダンサーのパフォーマンスも上がるはずなのだ。
 前述した私の計算だと、「音楽の値段」は、「カルメン組曲」だけでおそらく3,000円程度であり、これに加えて「ドン・キホーテ」と「タイス」を生演奏した場合には、おそらく4,000円程度になるのではないかと思う(ちなみに、「ボレロ」について言うと、生演奏での上演は今まで一度も観たことがない。)。
 もしも主催者が、「音楽を生演奏にして、その分をチケット料金に加味すれば、売上げが落ちてしまう」と考え、全て録音音源にしたというのであれば、音楽を軽視する姿勢が現れているという指摘が出て来てもおかしくない。
 あくまで私見ではあるが、私は、安易に録音音源に頼る姿勢は、やはり正道ではないと思う。
 なので、今月に限れば、スターダンサーズ・バレエ団や K-BALLET TOKYOの方が立派だったという気がする。
 「東京・春・音楽祭」の公式プログラムには、海野敏氏による「ボレロ」に関する詳しい解説があるが、こういう状況だと、「何だかなあ・・・」という気分になってしまうのである。
 ちなみに、「ボレロ」については、どうしても録音音源を用いる必要があるというのであれば話は別だが、2015年の東急ジルヴェスター・コンサートではシルヴィ・ギエムが生演奏で踊っているので、コリオの権利を有するモーリス・ベジャール財団が、
 「生演奏ではなく、この録音音源を使いなさい
と指定しているなどといった事情もなさそうである。
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「父」の承継?(10)

2024年03月25日 06時30分00秒 | Weblog
 そろそろまとめということで、日本の婚姻システムに話を戻すと、少なくとも17世紀から戦前に至るまで、これが宗教である「イエ」制度と不可分一体であり、その根幹をなすものであったことは間違いない。
 くどいようだが、「イエ」とは、
 「父方/母方いずれかのゲノム又は屋号(苗字)などの事業/集団の表章を共有し、日本の土着宗教(柳田國男が言うところの「祖霊信仰」)の原理に基いて、その構成員(死者を含む)のために事業及び祭祀を一体的かつ継続的に営む集団 
のことである(カイシャ人類学(8))。
 付言すると、プラトンの晩年の著作にちりばめられたフレーズとの類似性からも分かるとおり、この思考の基盤に部族社会の原理があることは明らかである。
 ここで、「父」のシニフィエ(西欧(フォルム)、中国(気))に相当するものを考えると、消去法で行けば「家業」しかないようだ。
 また、その表章である「苗字・屋号」は、シニフィアンということになるだろう。
 そうすると、ある種の人たち(政治家その他の「世襲」大好き集団)が、このシニフィアンに異常なまでの執着を示す理由が分かる。
 シニフィエとしての「家業」は、いつ倒産するか分からない、いかにも頼りないものだからであり、何とか「苗字・屋号」だけでも存続させたいという気持ちが出て来ても不思議ではないからである。
 だが、「苗字・屋号」がシニフィアンだとすれば、その存続に固執することは、「愛」の断念を意味することになるだろう。
 なぜなら、トリスタンとイゾルデが真っ先に行ったように、「愛」を実現するためには、シニフィアンが消失することが必要だからである。
 結論として、日本の旧来の婚姻システムは、およそワーグナー的な「愛」とは異なるものだった、ということになりそうである。
 もっとも、以上は一般庶民についての話であって、天皇家については、別の考慮が必要である。
 天皇家は、言うまでもなく、わが国において「苗字・屋号」を持たない唯一の「イエ」(この表現も矛盾くさいが)である。
 ここで直ちに気づくのは、太母神=女王が「イゾルデ」という名を代々継承していたというケルト文化との類似性である。
 ここでは、太陽神アマテラスを「太母神イゾルデ」、天皇を「英雄(ヘロス)」に置き換えて考えると分かりやすい。
 折口信夫ふうに言うと、わが国では、「アマテラスに由来する「魂」が、代々の「天子様の身体」という容れ物において存続する」のである。
 しかも、折口説によれば、わが国において「「魂」は一つ」ということなので、そのシニフィアン(但し、この場合は苗字だけでなく名前を含めて)は不要ということになるだろう。
 だが、アマテラスから継承されたとされる祭祀は、太母神イゾルデの「「愛」の魔術」ではなく、「「稲作」の技術」である。
 これだと、酒は作れるものの、媚薬を作るのは無理だろう。
 女王卑弥呼が政権を樹立していれば違ったのかもしれないが、日本ではヤマト王権が政権を握ったのである。
 なので、キリスト教文化圏と同じく、やはりわが国でも「愛」は失われていた!
 ・・・いや、絶望するのはまだ早い。
 まだ希望は残っている。
 私は、「東京・春・音楽祭」の公式プログラムにそのヒントを見つけた。
 近年の日本において、「トリスタンとイゾルデ」とほぼ同じセリフが、紅白歌合戦で放送されていたのである。

 「あたしの最後はあなたがいい(いい)
  あなたとこのままおサラバするより
  死ぬのがいいわ
  死ぬのがいいわ

 藤井風は、現代の日本に降臨したトリスタンなのかもしれない。
 もしそうだとすると、足りないのはイゾルデということになる。
 結論:「日本のイゾルデよ、降臨せよ!

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「父」の承継?(9)

2024年03月24日 06時30分00秒 | Weblog
 ワーグナーは、この失われてしまった「愛」を、一体どんなものであると考えていたのだろうか?
 これを、歌詞に基づいて私流に解釈すると、以下のようになる。

(1)シニフィアンの消失
 まず、namenlos(名もなく)、Ohne Nennen(名づけることもなく)というフレーズが目立つ。
 これは、私見では、主体/主観から「名」(音韻)=シニフィアンを消失させる作用を表現したものと思われる(やや脱線すると、面白いことに、プッチーニの「トゥーランドット」では、主体/主観=anima を識別するために「名」(nome)が用いられており(君のシニフィアンは?(2))、ワーグナーとは真逆の方向性を示している。)。
 そうすると、そこには「間主観」状況が生じることになる。
 つまり、小倉紀蔵先生のいわゆる<第三の生命>に近づくことになる(<第一の生命>とアイーダの末路)。
 また、見方を変えると、「感覚所与」の代表格である「音(韻)」が消えるということは、「死」に近づくことを意味しているだろう。
 だが、「トリスタンとイゾルデ」の「愛」は、これだけにはとどまらない。

(2)自我(主体/主観)の境界の消失
 さらに、自我(主体/主観)の境界も消失する(これが有名な「トリスタン和音」によって表現される。)。
 シニフィアンの消失は、「混沌としたカオスのような連続体」(丸山圭三郎先生の表現)への回帰を意味するからである。
 ただ、その態様は3通り(3段階?)あるようだ。
① 自我の一方的拡張
 第1幕第3場のイゾルデの回想シーン:有名な「眼差しのライト・モチーフ」の箇所で、イゾルデは「男の不幸は、私を哀れな気持ちにさせました・・・! 」と語る。
 この、「(通常は自分より小さくて弱い)相手を哀れみ、いつくしむ感情」は、われわれ日本人にとっても古代からなじみのあるもので、万葉集でも「愛(うつく)し」とか、「愛(うるわ)し」という風に、「愛」という漢字を用いて表現されている。
 これは、最もシンプルな自我の一方的拡張であるが、トリスタンとイゾルデの「愛」にはまだ遠い。
② 自我の相互放棄
 「愛の二重唱」が余りに長いので引用しきれなかったが、少し前に以下の歌詞がある。
BEIDE
namenlos
in Lieb' umfangen,
ganz uns selbst gegeben,
der Liebe nur zu leben!
 
(【二人】名も無く愛にかき抱かれ、自らを捧げ尽くして、この愛のためにのみ生きたほうが!

 「自らを捧げ尽く」すというくだりは、例えば、谷崎潤一郎の「春琴抄」にみられるような、やや特殊ではあるが、日本人にとってなじみがないわけでもない「自我の相互放棄」を表現したもののようだ。
 だが、「トリスタとイゾルデ」にとっては、これでもまだ不十分である。
③ 自我の相互拡張
 「トリスタンは君、ぼくはイゾルデ、もうトリスタンではない!」、「あなたはイゾルデ、トリスタンはあたし、もうイゾルデじゃない!」というセリフの応酬こそは、「自我の相互拡張」を示すもので、私見では、これが西欧における正統な「愛」のイメージである。
 この「自我の拡張」は、前述した①、あるいは、<第三の生命>や”マハト”におけるそれのように一方向的なものではなく、あくまで双方向的なものである点が重要である。
 この結果、二人は「一つの意識」(ein-bewusst )になる。
 もっとも、他の歌詞と平仄を揃えるのであれば、ここは「意識もなくなる」(bewusstlos)とした方が良かったかもしれない。
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「父」の承継?(8)

2024年03月23日 06時30分00秒 | Weblog
 「魔術的世界での魂の愛の力は、悟性的世界のものには持ち得ないものであり、その代表者であるマルケは「愛することの出来ない王」である。これは彼自身のⅡ幕最後の嘆きの言葉で示される。かつてイゾルデは自分の前に傷ついてやって来たトリスタンの眼に自分と同質のものを見、それ故に彼女は彼を救った。しかし今や真の敵であるマルケに売り渡そうとしており、イゾルデは怒りに震える。彼女はトリスタンの中に自分のパートナーたる本質を見、以前のパートナー、モロルトの死を許した。 それは古い王の新しい王への交代、つまりヘロスの交代である。しかし彼は彼女を裏切り、別の世界の王マルケに売り渡した。二人が死ななければならないのは当然である。 それは本源の愛を取り戻すためである。 死によってあの魔術的魂の根源がよみがえり、マルケの世界から離脱できる。 死(愛)の薬によって、かつての世界へ、原型へと立ち返ることができる。その場所こそが、暗い母の胎内、かつての本源の国なのである。

 だが、「イゾルデ」の母権的文化は、社会の父権制化とキリスト教化により変形・駆逐されてしまう。
 これと同時に、社会は本来の「愛」を失ってしまった。
 そう言えば、プラトンの「法律」に登場する「婚姻」は、「愛」とはおよそ異質のものである(優生学的というか、もはや「今日の観点からみて差別的」な表現が頻出する。)。
 では、この「愛」をワーグナーはどう描いたのだろうか?

TRISTAN
So stürben wir,
um ungetrennt,
ewig einig
ohne End',
ohn' Erwachen,
ohn' Erbangen,
namenlos
in Lieb' umfangen,
ganz uns selbst gegeben,
der Liebe nur zu leben! 
(【トリスタン】ならばいっそ死んでしまったほうがいいのかい、離れずに、永遠に一体になって終わりなく、目覚めることなく、不安を抱くことなく、名も無く愛にかき抱かれ、自らを捧げ尽くして、この愛のためにのみ生きたほうが!
(中略)

BEIDE
ohne Scheiden,
traut allein,
ewig heim,
in ungemessnen Räumen
übersel'ges Träumen.
(【二人】離れることなく、ぴったりと二人きりになり、永遠に我が家に帰り、計り知れない空間で至福の夢を見る。

TRISTAN
Tristan du,
ich Isolde,
nicht mehr Tristan!

(【トリスタン】トリスタンは君、ぼくはイゾルデ、もうトリスタンではない!

ISOLDE
Du Isolde,
Tristan ich,
nicht mehr Isolde!
(【イゾルデ】あなたはイゾルデ、トリスタンはあたし、もうイゾルデじゃない! 

BEIDE
Ohne Nennen,
ohne Trennen,
neu' Erkennen,
neu' Entbrennen;
ewig endlos,
ein-bewusst:
heiss erglühter Brust
höchste Liebeslust!
(【二人】名づけることなく、別れることなく、新たに認め合い、新たに燃え立ち、永遠に終わらず、ひとつの意識になる・・・それは熱く燃え上がる胸の
至高の愛の歓び!


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「父」の承継?(7)

2024年03月22日 06時30分00秒 | Weblog
  「このプロダクションの何が素晴らしいかというと、英国の才能ある演出家であるデイヴィッド・マクヴィカーさんが、変わったこと(極端な読み替え)を何ひとつしていない、ということなのです。
 「例えば、(第2幕で)月の明かりが昇って、それがだんだん(地平線に向かって)降りてくる。つまり朝が迫ってくるわけです。トリスタンとイゾルデたちにとって、朝が迫ってくるということは、死を意味するのです。2人が時間を共有できるのは夜が唯一の機会だからです。2人が共にいられる夜の賛歌、それが愛の賛歌でもあり、「愛の死」へと結び付いていくのです。

 「東京・春・音楽祭」のワーグナー・シリーズの今年の演目は、「トリスタンとイゾルデ」である。
 ワーグナー・シリーズで上演されていなかった唯一の演目、つまりラスト・ピースということで(二周目)、私などは大変期待している。
 ところが、このタイミングで、新国立劇場は、2010/2011年以来約13年ぶりに「トリスタンとイゾルデ」を上演している。
 というわけで、今月は「トリスタンとイゾルデ」を2回鑑賞するのだが、1回目は新国立劇場である。
 上で引用したように、原典に忠実な演出で、ワーグナーの意図が分かりやすくなっている。
 「生」と「死」、「夜」と「昼」という対立だけでなく、「母権制」 VS. 「父権制」という大きなテーマも明瞭に読み取ることが出来る。

 「ケルト人の文化とはどのようなものであったのか。彼らの時間概念は自然の営みに即して、円環的で、 成長-死-再生が循環し、またケルトの社会構造は女神崇拝を元とした「母権制社会」が基底にあり、母の居住地が大きな意味を持った。そして名前付けも名前の相続も母系がなしていた。イゾルデの母の 名もイゾルデであったと、中世詩にあるのが興味深い。
 この世界では大地の女神(太母神)が支配している。アイルランドでは王はその土地の女神と結婚した人間とされ、彼を夫とした女神は彼に酒杯を手渡す(結婚の象徴的儀式)。 そこで基礎をなすものは、女神とそのパートナー=ヘロスであり、この両者は女祭司とその王の形を取るが、この結婚は民衆に新たな生命をもたらす。これは春と夏に地と海を豊饒にするが、女神は冬に老女神としてヘロスを犠牲に供し、冥府へといざなう。そして彼は次の年の初めに再生する。つまり春におけるイニシエーション、夏の神聖な結婚、秋から冬にヘロスの死と再生という循環である。これはワーグナーの《トリスタン》にも見られ、二人の愛の場であるⅡ幕冒頭のト書きに「明るく心地よい夏の夜」と書かれており、Ⅲ幕はト書きに荒れ果てたイメージが書かれてあるように秋から冬、つまり死(と再生)という予感がなされる。冬のへロスへの死は捧げものとしての犠牲であり、その血によって次の年を豊饒にする。つまり 「死」というものはこの世界観では決定的破滅的なものではなく、宇宙の秩序に基づく新たな状況で、土地と民のための自発的な自己犠牲であり、それは女神によって授けられ、死と再生をもたらす媚薬(愛の林檎)によってヘロスは死と再生を迎え、永遠の若さを保つのである。

 「東京・春・音楽祭」の公式プログラムの解説は、専門家が書くのだから当然とはいえ、よくリサーチがなされていて毎年感心する。
 昨年の「マイスタージンガー」のハンス・ザックスに関する解説も、「目からウロコ」で素晴らしかった(設定変更(2))。
 今回(というか、コロナで中止になった2020年)の「トリスタンとイゾルデ」の解説(伊東史明先生)も、やはり素晴らしい(出典が書かれていれば言うことなし。)。
 「女神」(太母神)は最初から永生が保障されており、他方、「へロス」は「愛」の作用によって「死」と「(再)生」を繰り返すというこのモデルは、明らかに「円環的時間観」(循環史観)を前提としている。
 つまり、前回まで見てきたモデルとは真逆の構造を成している。
 両者の違いは、① 起点に「神」(例えば、部族形成神話の「英雄」(ヘルト))又は終点に「神」(例えば、「永遠のいのち」)を据えるのか、そうではなく、現世に永遠の「女神」を据えておいて「英雄」(ヘロス)は現れたり消えたりするゲスト扱いとするのか、② 「神」又は「女神」は現世にいるのか、はたまた「天界」にいるのか、という2点にあるように思える。
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