Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

コード化される「自然」

2024年02月29日 06時30分00秒 | Weblog
ベートーヴェン/交響曲第6番『田園』
ストラヴィンスキー/バレエ音楽『春の祭典』

 東フィルのコンサートでいつも感心するのは、「穴がない」というところ。
 ヴァイオリンはもちろん、ティンパニなどの打楽器、木管・金管楽器に至るまで、腕利きが揃っているという印象を与える。
 これに比べると、これも私がよく聴きに行く某楽団は、ヴァイオリンは上手いけれど、金管楽器がどうにも不安定で首をかしげたくなるシーンがちらほらある(常任指揮者はもともとホルン奏者なのだが、この状況を内心ではどう思っているのだろうか?)。
 さて、「田園」と「春の祭典」とは、一見すると共通点が見当たらないようにも思える。
 だが、この2曲は、「自然」という概念で括ることが可能なのだ。

 「ベートーヴェンの『田園』とストラヴィンスキーの『春の祭典』—成立時期も楽種も異なる両作品だが、共通点がある。作曲家が生きた時代の「自然観」が見事に結晶化されている点だ。
 およそ100年の時を隔てた二人の自然観は対照的だ。ベートーヴェンが青年期を過ごした18世紀は、近代科学と啓蒙主義の時代であった。かつては奇跡 と見分けがつかなかったような自然現象が理知的に把握されるようになり、人間は自然を支配する術を得るようになった。怪異の住まう場所であった森林は、もはや気晴らしの空間になりつつあった(散歩や公園はおよそこの頃になって流行した)。一方、ストラヴィンスキーの時代には、おおよそ逆の運動が起こっていた。無意識のような人間の内なる「自然」が認識されるようになり、その制御不可能性が認識されるようになったのだ。外の怪異は追い払われたが、内なる怪異を否定できなくなった。このような背景が、本プログラムの音楽的/音楽史的魅力を際立たせている。

 「田園」は、(途中の雷鳴を除けば)最初から最後まで”耳に心地の良い”メロディーの連続であり、ラストに至ってはもはや「完璧な調和」という言葉しか出て来ない。
 「田園」は、ベートーヴェンが滞在していたハイリゲンシュタットでの「自然経験」が基になっているという。
 だが、この楽曲の「心地よさ」は、ベートーヴェンが「自然」を人為的に音楽に変換したもの、つまり「コード化」したものである。
 ありのままの「自然」は、もともと「コード化」困難なものであり、ラカン的に言えば、「現実界」に属しているのである(生き延びるためのラカン 第16回 「現実界」はどこにある?)。
 対するに、「春の祭典」が表現しているものは、解説によれば、やはり「自然」である。
 但し、この楽曲における「自然」は、(解説者は「無意識」という言葉をやや不用意に使ってしまったが、)「調和」を乱すもの、分かりやすく言えば、ベートーヴェンが一生懸命つくり上げた「コード化」の営みを逆行させたものとしての「自然」である。
 これに当時の音楽家たちが怒りを覚えたのは無理もない。
 「春の祭典」は、自分たちの芸術を否定するようなものだからである。
 また、一般の聴衆(観客)が、この音楽(とバレエ)によって不安に陥れられたのも当然である。
 人間は、「コード化」されない(つまり「現実界」に属している)ありのままの「自然」を、受け容れることが出来ないからである。
 もっとも、当時の人々には、ニジンスキーによるコリオという手がかりがあった(Le Sacre du printemps - Nijinski, Waltz)。
 この映像を観ると、表現=身体の動きによって、荒々しい「自然」がいわば馴致され、「コード化」されているのが分かるだろう。
 ・・・さて、現代の聴衆は、「春の祭典」をもはや「心地よい」音楽の一つとして鑑賞するようになってしまった。
 終演後はブラヴォーが飛び交い、「大地の踊り」のパートがアンコールで演奏された。
 これは、もしかすると、「コード化」のなせるわざなのかもしれない。
 つまり、ベートーヴェンを逆行させるタイプの「コード化」にも、私たちがすっかり慣れてしまったということなのかもしれない。
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オペラとバレエ

2024年02月28日 06時30分00秒 | Weblog
 「<プロローグ>初老の詩人ホフマンは,劇場前のカフェで恋人のオペラ歌手ラ・ステラを待っている。彼女が現れ彼への手紙を言付けるが,議員リンドルフ(実は悪魔)がその手紙を取り上げてしまう。ホフマンは友人たちに求められて,過去の恋愛遍歴を話し始める。
 「2023/2024シーズンは新国立劇場バレエ団の発展に尽力してくださった歴代の芸術監督へのオマージュを込め、開場25周年を迎えたバレエ団の集大成となるようなラインアップといたしました。
 ・・・そして大原永子前芸術監督が新制作された『ホフマン物語』。ご自身も3人のヒロインを踊られた経験があり、今回もご指導いただく予定です。」(吉田都舞踊芸術監督からのメッセージ)
 
 「ホフマン物語」は、ストーリーが錯雑としているため、やはりまずオペラ(オッフェンバック病)を観ておく方がよいと思う。
 「「愛」と「芸術」のトレード・オフ」というこの物語のテーマを押さえておく必要があるためだ(とはいえ、オペラは長大で、台本も分厚くて、フランス語で読むのは大変)。
 オペラを鑑賞した後にバレエを観ると、何と分かりやすいストーリーであることか!
 しかも、バレエ風にアレンジされているのが面白い。
 「オリンピア」は「コッペリア」、「アントニア」は「ジゼル」のパロディーのように見えるのである。
 ちょっともったいないのは「ジュリエッタ」のくだり。
 「ホフマンの舟歌」の甘美なメロディーは、オペラがそうであるように、壮絶な殺人行為の予兆である。
 なので、バレエでも血なまぐさいシーンを入れた方がなお良かったと思う。
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”弾き振り”と座席の位置の問題

2024年02月27日 06時30分00秒 | Weblog
ラヴェル:クープランの墓(管弦楽版)
プーランク:ピアノと18 の楽器のための舞踊協奏曲 『オーバード』
モーツァルト:オペラ『ドン・ジョヴァンニ』 序曲
モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 
 

 「小学生の時、映画「アマデウス」のエンドロールでこのピアノ協奏曲第20番の第2楽章が流れてきた時の衝撃は半端じゃなかった・・・。それ以来ずっと温め続けてきた楽曲。満を持して今回JINOと一緒に演奏できることで、より気持ちが高まっています。」(公演パンフレットより)

 反田さんを初めて聴くのだが、チケットを買ったのが遅くて、1階最後方から2列目という微妙なポジション。
 最初の3曲はまだよかったものの、メインのモーツァルトピアノ交響曲の直前、ピアノを移動し始めたとたん、私は心の中で、
 「あぁー、しまったぁ~!
と叫びそうになった。
 内田光子さんのとき(楽器の選択)もそうだったが、”弾き振り”のコンサートの場合、ピアニスト兼指揮者は聴衆に背中を向けて座るため、ピアノの音がいちばんよく聴こえるのは、パイプオルガン側の席、つまりオーケストラの裏側・2階の席なのである。
 なぜなら、ピアノという楽器は、演奏者の背中側に向かって音が響く構造とはなっていないからである。
 次はこういう失敗をしないように注意しよう!
 
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タイトル・ロール?(2)

2024年02月26日 06時30分00秒 | Weblog
 「自身が主宰する劇団はえぎわをはじめ、外部のプロデュース公演など幅広く活動し、独創的な作品を生み出しているノゾエ征爾。彩の国さいたま芸術劇場では、2022年春、ノゾエを招いてシェイクスピアの『マクベス』を題材としたワークショップを実施。ワークショップでは「演劇を見慣れていない若者に演劇の魅力を知ってもらう」という目標を掲げ、ノゾエは親しみやすく、飽きさせない構成と演出で約100分の『マクベス』をつくりあげた。これをきっかけに、はえぎわと彩の国さいたま芸術劇場の共同制作による『マクベス』を東京と埼玉で上演することが決定。新たなキャストを迎えてブラッシュアップしたノゾエ版『マクベス』にご期待ください。

 観ていて全く飽きないし、不自然な日本語のセリフも出て来ない、好感の持てる「マクベス」で、これなら中高生にもお勧めできる。
 まず、たくさんの「椅子」を使う所が新鮮で、これによって、王座や城まで表現してしまう(しかも低予算で助かる)。
 次に重要なのが、松岡和子氏の翻訳を用いている点である。
 シェイクスピアに限らず翻訳劇の場合、訳者によっては「死んだセリフ」、つまり日常会話では絶対に出て来ない日本語を使用していることがある(翻訳劇と生きたセリフ)。
 なので、ここは”松岡さん一択”とするのが正解で、見事に正解を選んだという印象である。
 さて、ストーリーをみていくと、これまで「マクベス夫人」が実質的に主役であり、ストーリー展開を支配していると見ていたのだが(タイトル・ロール?)、この見方を修正する必要性を強く感じる。
 というのも、シェイクスピアは、やはりマクベスの心理にフォーカスしてこの戯曲を書いたと思われるからだ。

 「マクベスの心中には「王になりたい」野心が隠されていて、その恥部を指摘されて彼はうろたえたのであり、同時にその野心が魔女の預言をもっとはっきり自分のものにしておこうとさせたのである。ここにすでに、自分の内なるものよりも外的な運命の力に頼ろうとするマクベスの心性が端的に示されている。ダンカン殺しそのものも、妻の励ましがなければ決行できないマクベスなのである。」(p175 中村保男氏の解説)
 「打ってこい、マクダフ、途中で「待て」と弱音を吐いたら地獄落ちだぞ。(同上)
 ブラッドレー教授よ、あなたのすぐれた洞察力は、この場合にも恐らくこのせりふのもつ意味の重さを十分に感じ取っていたに相違ない。なぜなら、あなたは「地獄へ下る道すがらに、何と恐ろしくはっきりした自己意識であろう。しかも彼を駆り立てる生命と自己主張との本能は何という恐ろしい強さであろう」と言っている。それならば、なぜあなたはこのマクベスの最後の言葉を引用しなかったのかーーー・・・。」(p167~168 福田恆存氏の解説)

 第5幕第9場に至ってようやく、それまで「運命」(=魔女たちの預言)、「名誉」(=「王」の地位)、「欲望」(=「妻」の意志)などといった「外的な力」によって駆動されていたマクベスが、そのような力をことごとく失うとともに、初めて「自分の内的な力」(=「自我」)に従うことに目覚めたという、この戯曲のクライマックスが現れるのである。
 あえて演出上の難点を一つだけ挙げると、中村保男先生が強調している「第2幕第3場における門を叩く音」が出て来なかった(私の記憶違い?)のが惜しいところ。
 台本を普通に読んでいると見逃してしまいそうだが、これは「回帰不能点」(ポイント・オブ・ノー・リターン)を知らせる重要なくだりである。
 マーラーの交響曲第10番で言えば、3楽章と4楽章の「軍楽隊用大太鼓の強打」に相当するだろう。
 なので、演出的には絶対に落としてはいけないところであった。
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貴方はまだ若すぎます

2024年02月25日 06時30分00秒 | Weblog
・バッハ/ブゾーニ:前奏曲とフーガ変ホ長調《聖アン》BWV552
Bach: Prelude and fugue in E-flat major "St. Anne" BWV 552 from Clavier-Übung III(Freely arranged for concert use on the piano by Ferrucio Busoni)
・バッハ:イギリス組曲第3番ト短調 BWV808
Bach: English Suite No. 3 in G minor BWV 808
・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調 op.106《ハンマークラヴィーア》Beethoven: Piano Sonata No. 29 in B-flat major op. 106 "Hammerklavier"
  
 チラシを見て「この人はおそらく天才」と直観的に感じてチケットを購入。
 この直観は当たっていたようで、若いのに(大学二年生)、見事にバッハとベートヴェン(しかも難曲)をさらりと弾きこなす天才ぶりを示した。
 ちなみに、パンフレットには、「ハンマー・クラヴィーア」第3楽章について、ハンス・フォン・ビューローが述べた言葉:
 「No、それはまだ貴方には弾けません。貴方はまだ若すぎます。
が引用されている。
 テクニックだけでは決して表現できない、人生経験だけが与えてくれる苦難と歓喜のミックスによってはじめて表現できる芸術というものがあるのである。

マーラー:交響曲第10番 嬰へ長調(デリック・クック補筆版) 

 右側の前から2列目に坐っていたら、見覚えのあるチェリスト3人が並んで入場してきた。
 古川さん、江口さん、森山さんは、昨年9月開催の「クラシック・キャラバン」でチェリスト・グループ(緊張しない人)として出場していたメンバーである。
 さて、マーラーの交響曲第10番は、彼の遺作であるが、未完の状態であったのを、
 「デリック・クックだけがまるでマーラーが乗り移ったかのように取り組み、何年もかかって演奏可能な状態にまで仕上げました。」(インバル)
ということらしい。
 この作品に着手する前のマーラーは、まさに人生のどん底にいたと言える。

 「グスタフ・マーラー(1860~1911)が、夏の避暑地としていた南チロル地方(現イタリア領)のトプラッハで交響曲第10番の作曲を始めたのは1910年の7月初旬。交響曲第9番のスコアの浄書を終えてから3ヶ月後のことだ。翌年の5月18日に彼は世を去っているから、人生の残り時間はわずか10ヶ月余りでしかなかった。
 それも波乱含みの時間だった。同じ7月の末には妻アルマ・マーラー(1879~1964)と建築家ヴァルター・グロピウス(1883~1969)の不倫関係が明るみに出る。アルマが夫を選ぶ意志を示して一応の決着を見るが、彼がこうむった痛手の大きさは、8月25日にオランダで精神分析医ジークムント・フロイト(1856~1939)のもとを訪れ、診断を請うた事実からも伝わってこよう。そこで得た所見により精神状態を好転させると、9月には第8交響曲のミュンヘンにおける初演を自らの指揮で大成功に導き、続く秋からのシーズンはニューヨーク・フィルと精力的な演奏活動にも乗り出したマーラー。しかし年末には病魔が発覚してしまう。
」(曲目解説)

 最愛の妻:アルマは、マーラーにとっては霊感の泉だった。
 彼女がいなければ、「アダージェット」も生まれていなかったのである(楽譜の解釈(4))。
 ところが、そのアルマの不倫が発覚し、何とか解決したかと思いきや、マーラーは死の病を得た。

 「第4楽章 スケルツォ/アレグロ・ペザンテ、速すぎずに パーティセルの冒頭には「悪魔が私を踊りに誘う」で始まる一連の自虐的な言葉が記されており、マーラーの精神状態をうかがわせる。
 ・・・音勢を減じたコーダをしめくくるのは軍楽隊用大太鼓の強打。該当箇所のパーティセルにマーラーは「その意味はお前だけが知っている」と記し、「さようなら、私の竪琴、ああ! ああ!」と悲痛な調子の言葉を続けている。1907年の暮れから翌年にかけて滞在したニューヨークでマーラー夫妻が耳にした葬列の太鼓が直接的なモチーフとされるが、ショッキングな打撃音に秘められた意味は明らかだろう。
 第5楽章 フィナーレ 序奏部(遅く、重々しく)では軍隊用大太鼓が鳴り響く中、第3楽章に由来する警句的なモチーフが断続的に登場。
 ・・・音楽が平静を取り戻すと、序奏部の主題が感情的な高揚と沈静を経た後、澄んだ響きの中に安息感を漂わすコーダへと流れ込む。それが終結点に達しようかというところでヴァイオリンとヴィオラが奏でるのは、唐突なクレッシェンドを伴う、1オクターヴ半にもおよぶ幅広いグリッサンドの上昇音形。そして付点音符を含む下降音形がゆっくりとした足取りで全曲の幕切れを導く。これに該当する部分のパーティセルにマーラーが妻の愛称を用いて記した言葉は、「アルムシ、お前のために生き、お前のために死ぬ」というものだった。
 
 「太鼓の音」=「アルマの不貞」という解釈で良さそうだが、これは死の宣告のようにも聴こえる。
 この曲を理解するためには、「お前のために生き、お前のために死ぬ」という彼の心理に肉薄出来ることが必要だろう。
 なので、若い指揮者であれば、マーラーは、
 「No、それはまだ貴方には振れません。貴方はまだ若すぎます。
と言ったかもしれない。
 ところが、幸いにもインバルは、人生の酸い味甘いも噛み分ける、88歳の大ヴェテランなのである。
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どこにつなげるか?

2024年02月24日 06時30分00秒 | Weblog
 「吉本興業はこの日「当社は2024年2月22日をもって、プラス・マイナス岩橋良昌(いわはし・よしまさ)とのマネジメント契約を解消しました」と発表。  経緯について「岩橋はX(旧Twitter)等のSNSにおいて、関係者の名誉を毀損する不適切な投稿行為や配信が認められたことから、当社はマネジメント会社として、その都度面談のうえで注意指導を繰り返し実施してまいりました。当初は2月21日にも岩橋と面談いたしましたが、その直後に当社からの注意、要請に反する投稿を行うに至ったことから、これ以上のマネジメント契約の維持は困難と判断し、やむなく契約解除通知をするに至りました」と説明した。

 毎年実施されている法テラスの研修では、「毒入りシャンプー問題」というのが出てくる。
 テーマは、
 「私がスーパーでシャンプーを買うと、必ず毒が入っているんです。訴えたいのですが、どうしたらよいですか?
といったたぐいの相談にどのように対処すべきかというものである(こういう相談をする人は、たいていの場合、職場や家庭で孤立しており、相談する相手がいないことが特徴であるが、この点をまず押さえた上で、丁寧に話を聞き取り、問題点を把握する必要がある。)。
 もちろん、定まった正解というものはないのだが、講師の先生は、例えば、以下のような対応は誤りであると指摘する。

・「ご指摘の件は、法的な問題ではありませんので、この窓口では対応しかねます。
・「幻覚や妄想ではないかと思いますよ。病院に行かれたらどうですか?

 特に、「病院に行ってみては?」というのはタブーである。
 そう言われて病院に行く可能性は皆無に近いし、病識のない相談者が逆上したりする(懲戒請求してくる)おそれもあるからである。
 結局のところ、うまく誘導して医療(又は福祉)につなげるべき問題と思われる。
 例えば、「よく眠れていますか?」とか、「お体に調子の悪いところはありませんか?」などとヒヤリングしていき、自発的に病院に行くよう誘導をするわけである。
  だが、「言うは易く行うは難し」というのが実情であり、近隣トラブルなどのそこそこ大きな事件に発展し、(遠い)親族や行政が動き出して初めて問題が解決に向かうことも多いようだ。   
 こうした観点から言うと、あくまで私見ではあるが、今回の吉本興業の措置には問題があると思う。
 例えば、社員に何らかの病気(双極性障害など)の疑いがあるというのであれば、場合によっては自傷他害の恐れがあるため、雇用主としては、医療につなげるべきではないかと思うのである(もちろん、うまく誘導する必要がある。)。
 親族であれば、医療保護入院を検討すべき状況だというのに、相談すべき親族や友人がいない人物を会社が見放してしまうと、最も必要な医療へのアクセスが絶たれてしまいかねない(実際、自殺してしまうケースもある。)。
 ところで、先日私は、「自由と正義」の最新号を見て、唖然とした。
 それは、一緒に仕事をしたことのある先輩弁護士が、弁護士会からの度重なる督促にもかかわらず書類を提出しなかったなどという理由で、業務停止という重い懲戒処分を受けていたからである。
 あくまで私の個人的な印象であるが、その方については、事件処理におかしいところがあるというのではなく、打ち合わせの内容などを「たちまち忘れてしまう」というので困った経験があった。
 はっきり言えば、若年性認知症などのために、記憶に障害が生じていることが極めて強く疑われたのである。
 もっとも、本人に病気の自覚があるという気配はみられなかった。
 これも、周囲が本人に通院等を勧めていれば、もっと適切な対応が出来たという気がするのだ。
 なので、書類の不提出などという理由で懲戒をしてしまうというのは、ちょっと酷ではないかと思ったのである。
 まとめると、理解困難な言動を見せる人に対しては、一応「病気」を疑ってみて、必要に応じて医療へのアクセスを確保してやるというのが、なすべき対応ではないかと思うのである。
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理解されぬエレーヌ(2)

2024年02月23日 06時30分00秒 | Weblog
 「・・・先ず第一に、Heleneのジェネアロジクな位置づけは極めて現実離れした、ありえないものにされる。Menelaos は何故Heleneとの結合を重視するのか、Achaioi 全体が何故Heleneを奪取されることをこれほど致命的と考えるのか、人々が何故Helene一人を巡ってこれほど争うのか、単純には理解できないように仕組まれている。第二にそのHelene自身、特定のジェネアロジクなパラデイクマによる自己決定を徹底的に避けているように思われる。Parisに従うか、Menelaos のところへ戻るか、彼女自身の態度表明はもちろん存在しないが、それは彼女が受け身の姿勢に終始するからではない。Homeros はあえて彼女に、双方がとことん戦うべきであると考えさせる。これにより彼女はどちらにも加担しない自由を獲得する。それをはっきり自覚したあらゆる非難を突っぱね、自分を貫こうとする。第三に、特にParis側のヴァージョンを拒否する姿勢は、そのヴァージョンを体現して現れる女神Aphroditeに対するHeleneの断固たる反発に如実に現われる。Heleneは自己の原理をAphroditeのそれに対置してついに後者の怒りを買う。第四に、HeleneはParisが一方のヴァージョンを担ってとことん自分を求めるそうした決然たる態度に欠けていることに不満を持っている。第五に、Heleneは、この戦いのジェネアロジクなレベルの意義の馬鹿馬鹿しさを最も感じつつ責任感からのみ戦うHector の自己に対する批判に応えて、戦うならば他人の責任にせず自分に従ってのみ戦うように言って切り返す。その場面では自分の立場、そして自分のような立場、が持つ新しいパラデイクマとしての意義を十分に自覚している。」(p169~170)

 長々と引用してしまったが、「イリアス」最大の謎ともいうべき、ヘレネ(エレーヌ)の位置づけないし行動原理が完璧に明らかにされている。
 私見では、ここを押さえてしまえば、「イリアス」は格段に分かりやすくなると思う。
 木庭先生によれば、「神によって動かされ、愛欲に目がくらんだ自由意志なき女」というありきたりの解釈は排斥すべきものである。
 かくして、古代ギリシャ史の泰斗であるモーゼス・フィンリーですら、「Helene像を矮小化してしまう」として批判される。
 ・・・だが、専門家ですら誤解に陥ってしまうような難しい位置づけないし行動原理を、オッフェンバックに理解してもらうというのは、そもそも無理だったように思える。
 ましてや、日本の一般のオペラ鑑賞者が、このあたりまで理解しているということは、とても期待できないことだろう。
 というわけで、エレーヌはなかなか理解されないままなのかもしれない。
 可哀想なエレーヌ!
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理解されぬエレーヌ(1)

2024年02月22日 06時30分00秒 | Weblog
 「舞台は神話時代、ギリシャのスパルタ。「この世で最も美しい乙女」と名高いエレーヌは、夫であるスパルタの王メネラオスとの平凡な夫婦生活にうんざりしている。「どうか愛をお与えください」と切望するエレーヌ。そんな彼女の前に、羊飼いに扮したトロイアの王子パリスが現れ、エレーヌは彼に一目惚れする。パリスの本当の身分が明かされると、エレーヌは仰天。実はこの二人、出会うべくして出会った二人であったのだ。そうこうしているうちに、パリスと結託している予言者カルカスの手によって、メネラオスは訳も分からないままクレタ島行きを命じられてしまう。
 夫不在の部屋のなかで、未来を案じるエレーヌ。そこに、「そろそろ僕と一緒にならないか」とパリスがやって来る。最初はためらいをみせていたエレーヌであったが、夫との生活に飽きていた彼女は、まんざらでもないご様子。「これは夢の中だから」と言って、ついにパリスとの甘い時間を過ごすことに。しかし、そこにクレタ島に行っていたはずの夫が突然帰ってきてしまう……。

 通常のオペラとは異なり、ナレーターが筋書きを分かりやすく解説し、かつ歌手たちは歌だけでなくコミカルな演技を行うという、ちょっと変わった趣向の公演。 
 どうやら、こむつかしいと思われがちなオペラを身近なものにしたいという意図がありそうだ。
 個人的には、エレーヌ:砂川涼子さんとパリス:工藤和真さんの声の美しさ・力強さが圧倒的で、この2人の歌唱を延々と聴いていたいような気分になった。 
 さて、上演初日から大成功をおさめ、オッフェンバックの生前は彼の「最大の成功作」とされていた「美しきエレーヌ」だが、わが国では公演機会が極端に少ない。
 その最大の理由は、エレーヌの位置づけないし行動原理についての誤解があるように思われる。
 大いにありうる誤解としては、「エレーヌは単なる浮気女じゃないか」というものである。
 だが、エレーヌ自身が弁解するとおり、彼女は積極的に不貞を行ったのではなく、パリスと結ばれたのは神=ウェヌスの意図によるものである。
 オペラの中でも、「あくまで夢の中の出来事」というロジックで、エレーヌは自身の無答責を主張する。
 実際のところ、原作である「イリアス」の作中でも、ギリシャ(アカイア)側がエレーヌ(ヘレネ)を非難するくだりは、なんと1か所しかない。

(パトロクロスの死を悼む)アキレウス
 「・・・これより辛い思いをすることは他にはあるまい、例えば父上が亡くなられたと聞いたとしてもーーー。その父上は今頃きっとプティエで、これほどの息子を奪われた悲しみに、大粒の涙をこぼしておいでであろう。その息子はその名を聞くだに身の毛がよだつヘレネのために、異国の地でトロイエ勢と戦っている。・・・」(p242)

 その理由については、非常に解釈が難しい。
 誤解を生む材料もたくさん存在する。
 まず、大いにあり得る誤解の1つ目は、
 「エレーヌは女性、すなわちéchange の客体であるがゆえに無答責なのだ。
というものである。
 この誤解は無理もないことで、というのも、「イリアス」にはあちこちに、この種の女性差別的な記述が存在しているからである。
 2つ目に考えられる誤解は、
 「エレーヌは”愛”によって動かされたものであるから、メネラオスの”名誉”を傷つける意図(故意)はなかった。
というものである。
 これは、オッフェンバックのオペラから最も自然に導かれる論理だろう。
 エレーヌのアリアにもある通り、作者は、”愛”と”名誉”を対比させ、両者を別次元にある価値として位置づけているからである。
 分かりやすく言うと、「エレーヌがパリスに”愛”を抱いたこと自体はやむを得ない。悪いのは、彼女をさらっていき、メネラオスの”名誉”を傷つけたパリスである」という考え方である。
 なので、メネラオスは、
 「私の名誉を、みんな、守ってくれ・・・」
と叫ぶわけである。
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ショパン・コンクールの覇者(4)

2024年02月21日 06時30分00秒 | Weblog
4つのマズルカ Op.17
4つのマズルカ Op.41
3つのマズルカ Op.50
3つのマズルカ Op.63
4つのマズルカ Op.24
ピアノ・ソナタ2番「葬送」変ロ短調 Op.35 

 2005年のショパン・コンクールの覇者:ラファウ・ブレハッチによるオール・ショパンのリサイタル。
 この選曲を見て、多くの人が思ったであろうことは、「オードブルが多すぎて、お腹いっぱい!」というものではないだろうか?
 実際、マズルカの3曲目くらいで、私などは若干マンネリ感を感じてしまう。
 もう少し曲の”並べ方”に工夫が欲しいところである。
 メイン・ディッシュの「葬送」だが、この曲は、ブルース・リウ、ツィメルマン、ガルシア・ガルシアといったショパン弾きが日本ツアーでこぞって取り上げてきた曲であり、聴いている方はどうしても”比較”してしまう。
 この観点からすると、ブレハッチの特色は、多くのピアニストが荘重にねっとりと弾くのに対し、意外にも軽くサラリと弾いてしまうところで、これには好感を抱いた。
 「軽やかな葬送」というのは新鮮である。
 アンコールは、「英雄ポロネーズ」、「軍隊ポロネーズ」ともう1曲(曲名が分からなかった)。
 ポロネーズ2曲は抜群の出来栄えで、これはスタンディング・オベーションも当然。
 私見では、このピアニストは、「ダンス系の曲を、軽やかに弾くと跳ねる」。
 つまり、ガルシア・ガルシアの対極にあるピアニストという印象である。
 鼻歌こそ歌わないものの、弾いているときの体の上下運動は相当激しい。
 「踊るピアニスト」というべきか。
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貧困トラウマ体験(2)

2024年02月20日 06時30分00秒 | Weblog
 「修道院に入る予定のマノンと若い学生デ・グリューは出会ってすぐに恋に落ちる。一方、金に目がくらむマノンの兄レスコーは彼女に惚れ込む老紳士や、金持ちのムッシューG.M.に妹の身柄を売りつけてしまう。パリの下宿で逢瀬を交わす恋人たち。マノンは彼が不在の間に兄が連れてきたムッシューG.M.の誘いを思わず受けてしまうのだが、富の誘惑とデ・グリューへの愛の板挟みとなる。宴の場でデ・グリューは、ムッシューG.M.にカードのいかさまを仕掛け彼女を連れ去るが、警察とともに二人のもとに現れたムッシューG.M.によってマノンは売春の罪で逮捕、レスコーは殺されてしまう。アメリカへ流刑されるマノン。夫と偽りデ・グリューは追いかけるが恋人たちの行く末は...。

 公演パンフレットに
 「ヒロインのトップバッターはドロテ・ジルベール。2025年9月に42歳を迎えるので、彼女が踊るマノンの見納めになるだろう。」(p41)
とあるとおり、私の場合、この演目はドロテ様一択となった。
 何しろ、毎年のように日本に来てくれる彼女のダンスが観られるのも、せいぜいあと1年半なのである。
 ということもあって、最後の「沼地のパ・ド・ドゥ」は観ていてハラハラするような激しい回転リフトの連続で、終演後、彼女は珍しく息切れしていた。
 さて、原作の「マノン・レスコー」について、おそらく日本では余り高い評価がなされていないと思う。
 その理由は、金銭的な誘惑にすぐに負けてしまうマノンと、その魅力に抗うことのできないデ・グリューという2人の主人公に「感情移入するのが難しい」というところにあるように思う。
 確かに、東京文化会館も、「こんな無節操な小娘とはさっさと縁を切ってしまえ!」と内心で思っているムッシュー/マダムが多そうな雰囲気である。
 だが、マノンの行動を理解するには、当時の社会状況を踏まえる必要があった。

ロンドンにおける『マノン』の創作 ジャン・パリー
 「プレヴォの小説を読み込み、台本を準備していたマクミランは、自分自身の幼年期の経験に照らし合わせて、マノンの生き方の根底にある強迫観念を見抜いた。ニューヨークで発行されている雑誌「ニューヨーカー」の1974年5月のインタビューで、マクミランはこう語っている。
 「彼女の行動を理解する鍵は、彼女の貧しさにある。私はそう受けとめています。彼女は貧しいことを恐れているのではなく、貧しいことを恥じている。小説が書かれた当時、貧しさは、じわじわと人に死をもたらすものだったのです。」」(公演パンフレットp31~32)

 そう、マクミランによれば、彼女の精神には「貧困恐怖症」とも言うべき強迫観念が巣くっていたのである。
 もっとも、マノンには、(故田宮二郎氏のような)”赤貧洗うが如き”幼年期の「貧困トラウマ体験」があったわけではなさそうだ。
 そうではなく、「没落現象」(25年前(10))としての貧困に対する恐怖があったように思われる。
 つまり、マノンは、「実体験としての貧困トラウマ」ではなく、「貧困がもたらすアノミーに対する恐怖」を抱えていたのである。
 その背景としては、「若い女は金持ちの男を手玉に取って生きていくことが出来るかもしれないが、年をとるとそれも出来ず、女は「じわじわと」死んでいくしかない」という社会状況があったのである。
 これを、現在の日本人が理解出来ないのも無理はない。
  日本は、依然として経済的に恵まれた状況にあるからであり、このことは、例えば、韓国の老人の自殺率の高さを見れば一目瞭然である。
 韓国では、生活苦による高齢者の自殺が多いのである。
 
 「1980年代までの韓国は、両親と一緒に暮らし、若い世代が高齢者を支えるのが当たり前の社会だった。しかし、90年代半ばから世代が分離され、97年のアジア通貨危機以降は急速に進んだ。公的なケアや支援もないまま、高齢者は無防備な状態で貧困や病気、劣悪な住居、孤独に直面することとなったのだ。

 こういう風に見てくると、18世紀のフランスと21世紀の韓国には、「貧困は死をもたらす」という強迫観念が存在しているという点で、共通点があるのだ。
 ということは、「マノン」を韓国で上演すれば、おそらく多くの観客に共感してもらえるということになるのではないだろうか?
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