ベートーヴェン/交響曲第6番『田園』
ストラヴィンスキー/バレエ音楽『春の祭典』
ストラヴィンスキー/バレエ音楽『春の祭典』
東フィルのコンサートでいつも感心するのは、「穴がない」というところ。
ヴァイオリンはもちろん、ティンパニなどの打楽器、木管・金管楽器に至るまで、腕利きが揃っているという印象を与える。
これに比べると、これも私がよく聴きに行く某楽団は、ヴァイオリンは上手いけれど、金管楽器がどうにも不安定で首をかしげたくなるシーンがちらほらある(常任指揮者はもともとホルン奏者なのだが、この状況を内心ではどう思っているのだろうか?)。
さて、「田園」と「春の祭典」とは、一見すると共通点が見当たらないようにも思える。
だが、この2曲は、「自然」という概念で括ることが可能なのだ。
「ベートーヴェンの『田園』とストラヴィンスキーの『春の祭典』—成立時期も楽種も異なる両作品だが、共通点がある。作曲家が生きた時代の「自然観」が見事に結晶化されている点だ。
およそ100年の時を隔てた二人の自然観は対照的だ。ベートーヴェンが青年期を過ごした18世紀は、近代科学と啓蒙主義の時代であった。かつては奇跡 と見分けがつかなかったような自然現象が理知的に把握されるようになり、人間は自然を支配する術を得るようになった。怪異の住まう場所であった森林は、もはや気晴らしの空間になりつつあった(散歩や公園はおよそこの頃になって流行した)。一方、ストラヴィンスキーの時代には、おおよそ逆の運動が起こっていた。無意識のような人間の内なる「自然」が認識されるようになり、その制御不可能性が認識されるようになったのだ。外の怪異は追い払われたが、内なる怪異を否定できなくなった。このような背景が、本プログラムの音楽的/音楽史的魅力を際立たせている。」
「田園」は、(途中の雷鳴を除けば)最初から最後まで”耳に心地の良い”メロディーの連続であり、ラストに至ってはもはや「完璧な調和」という言葉しか出て来ない。
「田園」は、ベートーヴェンが滞在していたハイリゲンシュタットでの「自然経験」が基になっているという。
だが、この楽曲の「心地よさ」は、ベートーヴェンが「自然」を人為的に音楽に変換したもの、つまり「コード化」したものである。
対するに、「春の祭典」が表現しているものは、解説によれば、やはり「自然」である。
但し、この楽曲における「自然」は、(解説者は「無意識」という言葉をやや不用意に使ってしまったが、)「調和」を乱すもの、分かりやすく言えば、ベートーヴェンが一生懸命つくり上げた「コード化」の営みを逆行させたものとしての「自然」である。
これに当時の音楽家たちが怒りを覚えたのは無理もない。
「春の祭典」は、自分たちの芸術を否定するようなものだからである。
また、一般の聴衆(観客)が、この音楽(とバレエ)によって不安に陥れられたのも当然である。
人間は、「コード化」されない(つまり「現実界」に属している)ありのままの「自然」を、受け容れることが出来ないからである。
この映像を観ると、表現=身体の動きによって、荒々しい「自然」がいわば馴致され、「コード化」されているのが分かるだろう。
・・・さて、現代の聴衆は、「春の祭典」をもはや「心地よい」音楽の一つとして鑑賞するようになってしまった。
終演後はブラヴォーが飛び交い、「大地の踊り」のパートがアンコールで演奏された。
これは、もしかすると、「コード化」のなせるわざなのかもしれない。
つまり、ベートーヴェンを逆行させるタイプの「コード化」にも、私たちがすっかり慣れてしまったということなのかもしれない。