これに対し、余り例は多くないものの、登場人物や特定の場所・建物などが、物語の中で「第2の animus」へと変貌する場合がある。
登場人物で言えば、「
春の雪」の松枝清顕、あるいは「豊饒の海」全篇における綾倉聡子が、場所・建物で言えば、「金閣寺」や「月修寺 」がその代表として挙げられる。
これらの登場人物などは、物語の内部においてレフェラン(指示対象)を与えられており、それゆえ「実在性」及び「外在的対象性」のメルクマールを備えているにもかかわらず、「到達可能性」のメルクマールを欠いている点がわざわざ強調される。
すなわち、物語の内部において、他の登場人物などとの関係で禁忌(タブー)化されてしまうのである。
私は、これを「レフェランの喪失現象」と呼びたいと思う。
分かりやすい具体例を挙げてみる。
・「金閣寺」において、空襲に焼かれなかった金閣寺は、「私」との関係を絶たれて別の世界へ行ってしまう。
・「春の雪」において、綾倉聡子が皇族の婚約者となったことにより、松枝清顕にとって彼女との関係はタブーとなってしまう。
・その後聡子は出家し、奈良の門跡寺院「月修寺」(男子禁制の領域)に籠る。
・松枝清顕は親友・本多繁邦に、「又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で」と言って死に、本多の手の届かない世界に行ってしまう。
小説というヴァーチャルな世界の登場人物などが、「到達不可能」な存在となる(つまり、更にヴァーチャル化される)のは一体なぜだろうか?
私見によれば、これは「第2の animus」化にほかならない。
この操作によって、作者自身の自我が(疑似的に)拡張されているのである。
要するに、「レフェランの喪失現象」は、物語世界の中に作者自身が登場(侵入?)することを示すサインである。
なので、これらは全て作者の拡張された自我=分身と見て大きな間違いはないと思う。
そうすると、金閣寺、月修寺、松枝清顕、更には綾倉聡子(但し、皇族と婚約した後、あるいは作者自身の分身である松枝清顕から”転生”した後)までもが、作者の分身ということになる。
この点、
橋本治氏は、松枝清顕と本多繁邦が「(作者)自分自身」であるという点は見抜いたものの(『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』 )、どういうわけか、綾倉聡子が作者自身の分身である点には気づかなかった。
これは、本当に惜しいというほかない(橋本氏は「綾の鼓」をもう1回だけ叩けばよかったのに!)。
すなわち、「
天人五衰」のラストで、本多(もう一人の作者自身の分身)に対して次のように語るのは、結局のところ作者自身と見るほかなく、そうすれば、彼女の言葉の意味が十全に理解出来ることとなるだろう。
「いいえ、本多さん、私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらっしゃらなかったのと違いますか?何やら本多さんが、あるように思うてあらっしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか?お話をこうして伺っていますとな、どうもそのように思われてなりません。」(p301)
「それも心々(こころごころ)ですさかい」(p302)
普通に考えれば、作者が書いた最後の小説のラスト・シーンで、作者自身の分身が登場しない方がおかしい。
私などは、ここで聡子が、
「ところで読者さんたち、私が誰だかお分かりになりますやろか?」
と訊いているように感じるのである。