Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

飛沫に非ず

2024年09月30日 06時30分00秒 | Weblog
  • エヴァルド:金管五重奏曲第1番
  • アーバン:トランペットのための変奏曲(演奏曲未定)
  • ブラス・アンサンブルのための《ジブリ》組曲
  • 《JW》~ジョンウィリアムズ作品集、他
 私は、金管楽器のコンサートには余り行かないのだが(清水靖晃さんくらい:人生の旅)、今回は日程が合ったのと最前列中央の席が取れたので、「サタデーナイトブラス」を鑑賞。
 トランペット、ホルン、トロンボーン、テューバとパーカッションという編成だが、サキソフォンがないのはなぜだろうか?
 サロン的な会場がピッタリで、しかも最前列なので、すごい迫力である。
 こんなに近くで金管楽器の演奏を見るのは初めてだが、驚いたことがあった。
 それは、「かなり水が出る」ということである。
 一番多いのはトロンボーンで、次がトランペットという感じ。
 ナカリャコフさんも、1,2分に1回くらいの頻度で「水抜き」をしている。
 この「水」の正体だが、どうやら「飛沫」ではないらしいので、ちょっと安心する。
 結論としては、「水」の起源は「肺の中の水蒸気」らしい。

 「管楽器を演奏していると管の内側に水滴がつきます。金管楽器ではそれがたまってしまうので時どき外に捨てることになります。もちろん木管楽器でもたまれば捨てるしたまる前にスワブなどで拭きとります。これは”水”です。つばじゃありません。

 さて、面白かったのは、「天空の城ラピュタ」組曲の解説で、
 「寝起きですぐトランペットは吹けるもんじゃありません
というくだり。
 
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テンションがおかしい

2024年09月29日 06時30分00秒 | Weblog
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番辻󠄀井伸行(ピアノ)、三浦文彰 指揮 ARK PHILHARMONIC
  • ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番清水和音(ピアノ)、三浦文彰 指揮 ARK PHILHARMONIC
  • ベートーヴェン:交響曲第5番《運命》三浦文彰 指揮 ARK PHILHARMONIC
 2018年にスタートした<サントリーホール ARK CLASSICS>も私が楽しみにしているコンサート。
 辻井さん、清水さん、三浦さんの3人は、河口湖からの転戦で、中4日又は中5日での公演である。
 辻井さんのモーツァルトは珍しいが、おそらく大好きな作曲家の一人であることは、観ていれば分かる。
 流れるような見事な演奏だが、1楽章のカデンツァは今まで聴いたことがないもので、もしかすると辻井さんオリジナルなのかもしれない。
 次の清水さんは、ベートーヴェンのコンチェルト3番。
 先日、同じ曲を辻井さんの演奏で同じホールで聴いたが(マグマの噴出と完璧な調和)、清水さんの演奏は、音の響きが硬質で乾いた印象を受ける。
 改めて聴くと、3楽章はベートーヴェンにしては珍しくダンス要素が濃厚で、ヴァイオリンの三浦さんやチェロのヨナタン・ローゼマンさんはノリノリで体を動かしていた。
 ラストは「運命」だが、生演奏で聴くのは久々である(十年ぶりくらい?)。
 三浦さんの指揮は、(2楽章以外は)速いテンポが特徴で、ヴァイオリン奏者はちょっと大変そう。
 4楽章を聴くといつも思うのだが、これを作曲した時のベートーヴェンのテンションは異常なくらい高かったと思う。
 3楽章の終わりからアタッカで入る冒頭はいきなり飛ばしているし、よく言われているように、ラストはこれでもかというくらいクドい。
 私などは、私生活で何かとんでもなく幸せな出来事があったのではないかと勘ぐってしまうのである。
 
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陶酔と覚醒

2024年09月28日 06時30分00秒 | Weblog
1st Stage:辻󠄀井伸行 《ベスト・オブ・リスト》
・リスト:コンソレーション 第3番/愛の夢 第3番/ため息/コンソレーション 第2番/リゴレット・パラフレーズ

2nd Stage:加古隆 《ベスト・オブ・加古隆》
・加古隆:ジブラルタルの風/湖沼の伝説/黄昏のワルツ/パリは燃えているか/ナイルの源流にて/ポエジー  他

3rd Stage:小曽根真 《SOLO》
・演奏曲は当日発表いたします

 毎年楽しみにしているコンサート。
 私にとっては、「音楽とハイキング」を同時に楽しめるというのが最大の魅力である。
 翌日のハイキングも大事なので、フェスティバル4日間のうちコンサートは22日の1コンサートだけ予約したのだが、あいにくの天候不順。
 そういえば、2年前も土砂降りで(雨音はドビュッシーの調べ)、ハイキングは中止にしたのだった。
 さて、辻井さんはオール・リストの選曲で、事前の解説では、
『ため息』という曲は、右手と左手を交差させる場面が多いので、弾くのが非常に大変です
という話だったが、まさにその通りだった。
 辻井さんの場合、鍵盤の位置を”体”で把握していると思われるのだが(このことは、演奏前のルーティンを見ると分かる)、手を交差させると、一旦把握した鍵盤の位置がどうしてもずれてしまうのだろう。
 というわけで、辻井さんには珍しく、チラホラとミスタッチが見られた。
 アンコールもリストで、これは定番の「ラ・カンパネラ」。
 例によって超高速での演奏で、演奏後はブラボーが飛び交っていた。
 ちなみに、ピアノの音に触発されたのか、「ラ・カンパネラ」に合唱するかのごとく、近くにいた鳥たちが高音でさえずりを始めたのがこのシアターならではの出来事であった。
 2番手の加古さんが弾いた曲は、ホームページに掲載されたものとはやや違う。
・ジブラルタルの風
・ポエジー
・グラン・ボヤージュ
・パリは燃えているか
・ナイルの源流にて
(アンコール)黄昏のワルツ
という曲目だった。
 加古さんは、私見では、アンドレ・ギャニオンのような、「心にしみわたる」演奏が特徴だと思っていたのだが、「ナイルの源流にて」は意外にも激しさを含んだ曲で、驚いた(もちろん名曲)。
 ラストは小曽根さん。
 ライブで聴くのは初めてだが、いかにも気持ちよく演奏するので、川口成彦さんを筆頭とする「気持ちよさそうに弾くピアニスト」のカテゴリーに入れたくなる。
 曲目は、
・ブラック・フォレスト
・ガッタ・ビー・ハッピー
・ミラー・サークル
・?
・「こどもの樹(ピアノ:壺阪健登さん、トランペット:松井秀太郎さんとのトリオ)
アンコール曲:不明
だった(はず)。
 小曽根&壺阪さんは、拍手する・足で床を踏み鳴らす、などのジャズ的な動きを交えた演奏で、見ていても楽しい。
 辻井さんと小曽根さん&壺阪さんを見て強く感じたのは、皆さん「陶酔しながらもしっかり覚醒して演奏している」というところである。
 完全に「陶酔」してしまうと、演奏が出来なくなるわけで、楽器を弾く手は(自動的に動いているかのようだが)ちゃんと覚醒している必要があるのである。
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9月のポトラッチ・カウント(11)

2024年09月27日 06時30分00秒 | Weblog
 9月のポトラッチ・カウントは、
・「伊達娘恋緋鹿子」・・・6.0
・「夏祭浪花鑑」・・・6.0
・「摂州合邦辻」より合邦庵室の場・・・5.0
・「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」・・・3.0
・「妹背山婦女庭訓」より「太宰館花渡し」と「吉野川」・・・10.0
・「勧進帳」・・・7.5
・「マクベス」・・・10.0
以上を合計すると、47.5:★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★✮。
 ところで、最近思うのは、歌舞伎は放っておいてもお客さんが沢山入るが、文楽はそうではないということである。
 さらに言えば、文楽は、補助金なしではおそらく消滅してしまう芸能なのではないかということである。

重藤暁「まず大事なのは、今回募集した国立文楽劇場での研修生の応募がゼロだったっていうことなんですよ」・・・
重藤「素晴らしい枠だと思いますね。ただ問題なのは、募集年齢が23歳以下なんですよね」 ・・・
重藤「若い頃に、果たして文楽に接触できるかどうかっていうのが大きなヤマだとは思うんですよね」 

 文楽の業界では、歌舞伎とは違って、どうやら「世襲」が機能していないらしい。
 なので、担い手となる人材は「公募」に頼らざるを得ないが、それも難しいということなのだ。
 ちなみに、「学生割引1,800円」の効果で相当数の若い人たちが訪れた「夏祭り」だが、聞こえてきた感想は、
 「『男が立たぬ!』とか『わしの顔が立ちませぬ!』とかいう発想には付いていけない
というものが多かったと思う。
 これは、レシプロシテに対する拒絶反応であり、健全だと思うのだが、かといって、文楽が滅びてしまうのも困る。
 私見では、とりわけ三大名作などに充満しているレシプロシテの毒は、芸術作品という形で”対象化”される必要があると思う。
 そうすることによって、自分自身が毒されているかもしれないレシプロシテを意識化し、コントロールすることが可能になるからである。

 
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9月のポトラッチ・カウント(10)

2024年09月26日 06時30分00秒 | Weblog
  「9月に上演される『マクベス』は、チョン・ミョンフンと東京フィルによる〈ヴェルディ×シェイクスピア三部作〉の大団円である。
 「『マクベス』では、出発点であるシェイクスピア作品はとてもパワフルで、そのため音楽と言葉の関係はとても濃く、近しいのです」

 オペラ「マクベス」を観る/聴くのはこれが3回目。
 チョンさんの演出は、一応演奏会形式だが、歌手は演技したり動き回ったりするし、今回は合唱隊も演技・移動を行うので、「セミ・ステージ形式」に近い。
 マクベス夫妻は声量のある歌手を揃えて来て、盤石の体制だが、前半で最も盛大なブラヴォーを浴びたのは、マクダフ役のステファノ・セッコだった。
 口から魂が飛び出さんばかりの熱唱なのである。
 さて、前半の山場というか、「回帰不能点」を示す(戯曲では2幕1場のラストの)「鐘」のくだりは素晴らしい。
 もともと殺人の前に「鐘」を鳴らすというシェイクスピアの発想が秀逸なのだが、それをヴェルデイがフルに活かしているのである。

よし、行くぞ、けりをつけてやる。鐘が呼んでいる。
聞くな、ダンカン、この鐘の音(ね)は
お前を天国か地獄に呼んでいる弔いの鐘だ。

 後半は、妻に主導されて行動してきたマクベスが、妻の死を契機に”自立”を始めるが、時すでに遅く破滅に至るという流れである。
 私も最初は錯覚していたがタイトル・ロール?、やはりこれはマクベスの変容を核心とするストーリーなのだった(タイトル・ロール(2) 
 ・・・「マクベス」では、殺人という手段により王位を簒奪したマクベス夫妻が、その代償として命を落としたことから、ポトラッチ・ポイントは、5.0×2人=10.0。

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9月のポトラッチ・カウント(9)

2024年09月25日 06時30分00秒 | Weblog
 勧進帳のラストで最も重要なのは、例の「飛び六方」ではない。
 セリフはないが、弁慶がしみじみと天を見上げるシーンである。
 原作の謡曲「安宅」にこのシーンはないが、弁慶は、危難を救ってくれた八幡大菩薩のご加護に対し感謝の意をあらわしているのである。
 このことは、「安宅」で言うと、少し前の義経のセリフから分かる(他力)。

いまの機転さらに凡慮よりなす業にあらず、ただ天の御加護とこそ思へ」 
これ弁慶が謀にあらず、八幡が御託宣かと思へば、かたじけなくぞ覚ゆる

 ここで「おや?」と思うのは、八幡大菩薩は清和源氏の氏神とされていたにもかかわらず、源氏のゲノムを持たない弁慶が、八幡大菩薩を信仰の対象としている点である。
 源氏のイエに生まれたわけではない弁慶が、源氏の氏神を、まるで自分の先祖のように崇めているのである。
 その理由は、義経(判官)と弁慶の関係に立ち戻ってみると分かる。

 「・・・即ち一方で上部の構造を王制によって保障され、他方で首長制と部族とのジェネアロジクな結合もまた必ずしも必要でなくなれば、もし首長にとって自らの agnati が十分な数である場合、論理的には却ってこの者達だけで一定のテリトリーを占拠することが可能となる。しかしそのためには agnati を自足的に増殖させなければならなくなる。このとき使われるのが、様々な度合いの擬制的義兄弟関係である。・・・このときに形成される擬制的 agnati (genos, gens : gn)相互の関係、及びそうした性質を有する集団を clientela と呼ぶ。」(p112~113)

 義経と弁慶は、”義兄弟”、つまり一種の clientela の関係にあるといって良いと思う。
 「イリアス」の世界と同様である。
 だが、義経・弁慶で特殊なのは、「武祖神」という概念が導入されている点である。
 八幡大菩薩(八幡神)は応神天皇と同一視されているのだが、「皇祖神」である天照大神とは異なる世界を創り、「アマテラスによる王朝的秩序からの解放」という役割を担っていた。
 なので、弁慶のような源氏のゲノムを持たない人物も包摂出来てしまうのである。
 要するに、この種の”イエ”の思考は、「この神様/仏様を信仰すれば、みんな”家族”になれますよ」という一種の宗教なのである。
 ・・・なんだか、「サラブレッドでなくても歓迎します!」という旧二階派のリクルート方針(イエv.s.疑似イエ、あるいはもう一つの大井競馬第3レース(6))に似ていて興味深い。
  

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9月のポトラッチ・カウント(8)

2024年09月24日 06時30分00秒 | Weblog
 夜の部・後半の演目は、「勧進帳」。
 もはやあらすじは言うまでもないが、興味深いのは、弁慶:幸四郎、富樫:菊之助という顔合わせ。
 かつては、義兄弟になる可能性が高い二人だったのである。

 「当然ながら、菊五郎の憤慨はすさまじかった。
「隠し子騒動で迷惑をかけたうえに、娘を“ポイ捨て”されたわけですからね。菊五郎さんの音羽屋は白鸚さんの高麗屋と共演NGに。襲名、追善、顔見世といった歌舞伎界全体の催し以外は“完全無視”という状態になってしまいました」(松竹関係者)
 しかし3年後、両家の関係は意外なかたちで修復される。
「'06年11月に幸四郎さんは菊之助さんと、'07年2月には白鸚さんと菊五郎さんが共演再開。3年足らずでスピード和解した背景には、父の白鸚さんの誠意のこもった謝罪があったそうです。幸四郎さんが“天然系”なのも幸いしましたね。どうにも憎めないところがあり、菊五郎さんも怒り続ける気が薄れたのでしょう」(同・松竹関係者)

 さて、「勧進帳」は、(義兄弟ではなく)実の兄弟(頼朝と義経)の争いが背景にあるのだが、目立つポトラッチとしては、一番の見どころとも言うべき、弁慶が義経を
 「金剛杖を押つ取つてさんざんに打擲す
場面と、それでも納得しない富樫に弁慶が
 「まだこの上も、おん疑い候はば、この強力、荷物の布施物(ふせもつ)もろともに、おあずけ申す。いかようにも、究明あれ。ただし、これにて、打ち殺し、見せ申さんや 
と述べるくだりがある。
 要するに、「主君に対する(見せかけの)殺人未遂」である。
 これは、主君を守るためとは言え、「忠義」に明らかに反する行為であり、「忠義」を犠牲に供するものと言える。
 なので、疑似ポトラッチと見ることができると思うが、ポイントは、実際の殺人と同等とみて、(やや強引だが)5.0と認定。
 これ以外のポトラッチとしては、関守に止められた弁慶+四天王が、「最期の勤行」を行う場面が挙げられる。
 謡曲では、弁慶が次のように語る。
 「この上は力及ばぬ事、さらば最期の勤めを始めて、尋常に誅せられうずるにて候
 「最期の勤めを始め、その上で大人しく斬られることにします」というのだから、5人は義経のため自らを犠牲に供しようとしたわけである。
 このくだりのポトラッチ・ポイントは、5人分だが未遂に終わるため、5.0×0.5=2.5と認定。
 以上のとおり、「勧進帳」のポトラッチ・ポイントは、5.0+2.5=7.5。
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9月のポトラッチ・カウント(7)

2024年09月23日 06時30分00秒 | Weblog
 「ちょうど季節は雛祭り。立派な雛飾りを前に、突然入鹿に嫁入りするよう諭される雛鳥。事情を聞かされ、はじめは母の意見を聞き入れようとはするものの、やはり自分は久我之助の妻になりたいと嘆く。それは死んであの世で添い遂げることを意味する。
 一方、久我之助は、入鹿の探している女性の行方を知っており、仕えたところで拷問の末に殺されるに違いないと悟り、それならば武士らしく切腹すると決意する。そして雛鳥が自分の後を追って来ないように、自分は入鹿に従ったことにしてほしいと父に託し、愛しい恋人の命を守ろうとする。
 最早、命を救うことはできないが、我が子が愛した人の命は救いたい。同じ想いを抱える定高と大判事は、互いに入鹿に従うことを示す、花のついた桜の枝を川に流すのだった。

 あれほど反目しあっていた両家だが、相手の”イエ”を救うため、なぜか”自己犠牲合戦”を始める。
 大判事は、「助くるはまた(太宰の)イエのため・・・」と述べて、久我之助を切腹させ、雛鳥を救おうとする。
 対する定高も、入内の命令を聞いた時から、実は雛鳥の首を斬って入鹿に渡すつもりだったと述べる。
 大判事と定高は、お互いに「花の付いた桜の木」を川に流し、入鹿の命令を受諾したという虚偽の合図を送る。
 だが、二人が子を殺した瞬間、鳴き声がこだまのように響き、相手もまた子を殺したことが発覚する。
 かくして、自殺の次に強力なポトラッチである「子殺し」(「周辺」からの逆襲(3))が、両家の”自己犠牲合戦”という形で実行された。
 定高は、雛の道具を流れ灌頂にし、雛鳥の首を雛の輿乗り物に乗せて、対岸の大判事に送る。
 これを受け取った大判事は、久我之助の首を斬り落とし、2つの首を並べて、婚礼の儀を執り行うのであった。
 ・・・いかにも近松半二らしいグロテスクな結末で(6月のポトラッチ・カウント(3))、温厚な私も、さすがに彼に対する殺意を抱いてしまった(といっても、既に死んでいるが・・・)。
 というわけで、「妹背山婦女庭訓」より「太宰館花渡し」と「吉野川」のポトラッチ・ポイントは、5.0×2人=10.0。
 

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9月のポトラッチ・カウント(6)

2024年09月22日 06時30分00秒 | Weblog
 夜の部の前半は、「訓妹背山婦女庭」より「太宰館花渡し」と「吉野川」。
 いわゆる日本版「ロミオとジュリエット」だが、このストーリーの要約は結構大変。
 「文楽『訓妹背山婦女庭』全段のあらすじと整理」は丁寧な要約だが、短くまとめたものもある。

 「春日山を望む小松原。野遊びに出た大判事清澄(だいはんじきよずみ)の息子久我之助(こがのすけ)と、太宰少弐(だざいのしょうに)の娘雛鳥(ひなどり)が出会い、一目で恋に落ちる。恥ずかしがって目も合わせられない二人の仲を腰元たちが吹き矢の竹筒をつかって取り持つ。そこへ蘇我入鹿(そがのいるか)の家来宮越玄藩(みやこしげんば)があらわれ、二人の家は領地争いする敵同然の家柄であることがわかり、落胆した雛鳥は帰ってゆく。そこへ帝の寵愛を受ける采女(うねめ)の局が、入鹿の手を逃れてくる。采女に仕える久我之助は、采女が入水したように見せかけ密かに匿うことにする。
 「少弐の後室(未亡人)定高(さだか)が守る太宰家に、入鹿がやってきて娘の雛鳥をおのれの妃に差し出すように命じる。また大判事をも呼びつけ、久我之助を入鹿の臣下とするよう迫る。命令に従わぬ時はこの花のように散らせると威嚇し、満開の桜の枝を二人に与える。

 今回は「小松原の囁き竹」(文楽では初段に含まれている)は上演されないが、もったいない。
 ドラマやバレエでは、見染めのシーンが決定的に重要なのだが・・・。
 さて、ロミジュリより親切なことに、歌舞伎では、モンタギュー家とキャピュレット家の対立関係が、背山と妹山を背景とする舞台の上手と下手という形で、しかも間に吉野川を挟む形で、ヴィジュアルに分かりやすく示されている。
 つまり、
<上手> 背山・大判事・久我之助
<下手> 妹山・定高・雛鳥
<仇敵関係> 大判事家v.s.太宰家(定高)
<恋愛関係> 久我之助 & 雛鳥
(間に吉野川)という構図である。
 こうした中で、暴君:蘇我入鹿は、定高には雛鳥の入内を、大判事には久我之助の出仕を、それぞれ命じて、両家の忠心を試す。
 ここで、雛鳥の入内が久我之助との恋の破綻を意味することは直ちに了解できるが、久我之介の出仕が持つ意味は、「小松原の囁き竹」を見ないと理解出来ない。
 なので、本来は、「小松原の囁き竹」から上演すべきなのだろう。
 
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9月のポトラッチ・カウント(5)

2024年09月21日 06時30分00秒 | Weblog
 「唐の都長安では、「皇帝の次は皇太子も倒れるだろう」という不穏な立札が夜な夜な現れる怪奇現象が起きていました。さらには、皇帝の崩御を予言した化け猫がいたという話まで。そんな話を聞いた空海(幸四郎)は、早速噂の化け猫がいるという屋敷に向かい一連を解決しようとしますが、事件は50年前にまで遡り…。時空を超えて唐王朝を揺るがす大事件に空海が挑みます。

 昼の部・後半は、夢枕獏先生の長編小説を舞台化した「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」。
 こういう新作を上演することで、松竹サイドは新しいファン層獲得を狙っているのだろう。
 そういう事情もあってか、筋書には、何と異例の「人物相関図」(p13)が、まるまる1ページ使って掲載されている(やれば出来るじゃん)!
 というか、複雑なストーリーである上に唐代の人物が多数出て来るこの芝居は、人物相関図がないと到底理解できるものではない。
 さて、本作は新作歌舞伎であり、内容を知らない人が多いし、原作の小説が刊行されていることから、あらすじを詳細に説明すると営業妨害になりかねない。
 ということで、ネタバレを回避しつつやや強引に要約すると、以下の通り。

・何者かの呪いで徳宗皇帝(12代)が崩御。
・皇太子を守るため、密教の元締めである恵果和尚が助太刀に参上、これを知った留学僧:空海は「密教を盗む」ため事件に接近。
・事件の鍵は50年前に死んだとされた楊貴妃にあると睨んだ空海は、楊貴妃の墓を暴くも、遺骸は既に盗まれていた。
・そこに化け猫が登場、方士の丹翁が駆けつけて空海らを救うが、化け猫を「白龍」と呼んでおり、二人は旧知の間柄。
・丹翁は、楊貴妃の悲劇の真実を教えて欲しいという空海の頼みに応じて、阿倍仲麻呂が書いた手紙を手渡す。
・その手紙によれば、楊貴妃は、妻を玄宗皇帝(9代)に殺された方士が復讐のため、皇帝を色に溺れさせ、国を傾けさせようと差し向けた娘だった。つまり、ハニー・トラップの道具だった。
・皇帝の寵愛を受ける楊貴妃だったが、叛乱が起き、楊貴妃を殺せと迫られた皇帝は、道教の師である黄鶴の勧めで楊貴妃に仮死の術を施し、叛乱が静まった後で生き返らせるという策を立てる。
・ところが、・・・(以下省略)
 
 この後、空海ら一行は、玄宗皇帝と楊貴妃が初めて会ったという華清宮へ赴き、宴を催す。
 そこに50年前の姿のままの楊貴妃が現れ、白龍と丹翁の因縁が明かされる・・・。
 このくだりが、タイトルである「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」の元となっているわけである。
 ・・・というわけで、楊貴妃は、父によってハニー・トラップの道具とされ、無理やり仮死状態に陥らせれただけでなく、その後とんでもない被害(ネタバレにつき黙秘)に遭ってしまったため、ポトラッチ・ポイントは3.0と認定。
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