いや、カリキュラムのせいにしてしまうのはおそらく正しくない。
やはり、根底には「人」の問題があるはずだ。
この点で参考になるのは、約四半世紀前に森嶋通夫氏が「なぜ日本は没落するか」の中で行なっていた、十代後半の日本人のライフスタイルの描写である。
「・・・日本は儒教国家であり、国の存続のために知識人が主導的役割を演じるようにつくられた国家であるからだ。日本は、底辺からよりもむしろ頂点から崩れていく危険が大きいが、そういう事態は、現在の学生や子供たちが社会のトップになった二十一世紀中頃にやってくるであろう。・・・
日本では性的なモラルが他国より桁はずれに退廃していると見てよいであろう。このことは、日本人が無宗教であることと密接に関係しているであろう。十六世紀に日本にきたキリシタンの宣教師が驚いたように、中世の日本婦人には貞操観念が希薄であった。現代の日本の女子高生も、自分の性的な楽しみのために、また自分が欲しいものを買う金を得るために、簡単に売春に走るのである。このことは、日本のティーンエイジャーの性欲と物欲がいかに強いかを示している。そしてこれらの欲の比重がバランスを失して大きくなれば、近代資本主義の原理にふさわしい健全な労働倫理を未来の国民が持つことはまずありえないであろう。」(p46~47)
約25年前の日本社会の説明なので、今日ではやや妥当しない面(いわゆる「低欲望社会」への変化など)もあるだろうが、こうした世代が今や社会のトップに立とうとしているということは間違いない。
何も手を打たなければ、恐ろしい社会になる(なっている!?)ことは確実である。
森嶋先生の批判はまだ終わらない。
「・・・競争経済の労働倫理は具体的な雇用主や会社に対する忠誠心を強要するようなものではない。労働者が尊重し従うべき忠誠心は、もっと抽象的なものである。労働者に、なにか抽象的・超越的なものに対する義務感や責任感を持たせるためには、現代日本の教育環境は標的外れで不毛である。あまりにも物質主義的な教育がなされているからだ。・・・物質主義者・功利主義者になるための教育を受けた彼らは、倫理上の価値や理想、また社会的な義務について語ることに対しては、たとえ抽象的な論理的訓練としてさえ、何の興味も持たないのである。例えば日本の若者たちは「愛」を知らない。」(p47~48)
いや、「若者に限らず、日本人の殆どは「愛」を知らない」という声が聞こえてきそうなところだが・・・。
極めつけは、次のくだりである。
「コンピュータ化、機械化、ロボット化は、さまざまな産業分野で進行している。・・・最終的には、労働者同士が疎外され、言葉も交わさなくなる。労働者自身も、一種の機械と化してしまうのである。このような生活が、大学を卒業したら待っているのである。そこには高次元のものへの忠誠心---抽象的なプリンシプルに対する畏怖心---は一切ない。
では彼らは家に帰って何をするか。テレビの前に座って、多少なりとも気紛れにボタンを押してチャンネルを選ぶ。放送されている番組はどのチャンネルも似たり寄ったりであるから、選ぶという行為に意味はない。・・・夕食後の家庭生活も、多かれ少なかれ似通っている。ここでもまた、機械のために、家族員相互間に疎外現象が生じる。家族員同士の会話が殆どないからである。・・・
けれどもこのような家庭生活でも、コンピュータ化と機械化の時代の生産様式によく適合した、社会構造の一環であることを忘れてはならない。だからこういう家庭のあり方は、将来簡単に変わると期待できないであろう。・・・」(p48~49)
「AIの導入」を追加し、「テレビ」を「スマホ」に置き換えれば、現代日本の中流層のライフスタイルの描写として通用するだろう。
私は、これは全く他人事だとは思えない。
私自身も、これに似た生活を送っていた時期があるし、こうした人たちや家庭をたくさん見てきたからである。