Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

「私」による「公」の僭奪(3)

2022年09月30日 06時30分30秒 | Weblog
図説 日本の財政 令和3年度版
 「我が国の医療費は現在も毎年度数千億~1兆円近く増加しており、今後の高齢化の進展により、さらに急激な増大が見込まれている。直近(平成30年度)の国民医療費は43兆3949億円(このうち70歳以上医療費は21兆6708億円)だが、厚生労働省の推計によれば、2025(令和7)年度には54.4~54.9兆円に増大すると見込まれている。
 現在の医療費の財源構成を見ると、保険料が約半分(49.4%)を占めており、そのほか国庫25.3%、地方負担12.9%、患者負担11.8%などとなっている。
」(p105)
(社会保障関係費(主要経費別)では、年金給付費:12兆7005億円、医療給付費:11兆9821億円となっている(p107)。)

 学生時代にシュンペーターの「租税国家の危機」を読んで、「日本に限らず、高齢化が進んだ国は、社会保障のために破滅するんだろうな」と予感していた。
 そして、「租税国家の危機」が真っ先に到来したのはおそらく日本ではないか?
 そのことは、上に引用した短い文章を読むだけで分かるだろう。
 ここにも、「国家」の不存在(不成立)と、「デモクラシーの病理」である(利益)多元主義の深刻な問題状況を見ることができる。
 まず、前提として、診療報酬がどうやって決まるかという問題がある。
 これについては、いわゆる「審議会方式」が採用されており、2007年までは、厚生労働大臣の諮問機関である「中央社会保険医療協議会」(中医協)が事実上の決定権を持っていたとされる。
 この制度(旧制度)においては、診療報酬の決定に関して国会の直接的なコントロールは及ばない代わりに、支払側・診療側・公益代表という中医協の委員の構成(三者構成)が法定されており、かつ、公益委員に関してはその任命に衆参両院の同意を要件としている。
 これは、労働委員会や最低賃金審議会の仕組み(労働側・使用者側・公益代表の三者構成)と類似しており、一見すると合理性を有しているように見える。
 だが、私見では、この時点で既に問題を生じさせる原因を作り出してしまっていたと思われる。
 というのは、典型的には解雇の効力を争う事案を考えると分かりやすいが、三者構成は、「有効か無効か?」という二値の問題を扱うのには相応しいが、「利益の配分」という問題については際限のない”綱引き”を招く結果に陥りやすいのである。
 また、ある程度”相場感覚”がある(市場原理となじむ)賃金とは違って、診療報酬は、”相場”が掴みにくいという側面がある。
 さらに、支払側と診療側を1:1、つまり対等にしてしまった上に、支払側の委員は健保組合、協会けんぽ、経団連や連合などの「他人の金」を扱う人たちが大半という構成にも疑問(当事者適格があやしい)があった。
 これだと、好むと好まざるとにかかわらず医療を必要とする支払側の立場がどうしても相対的に弱くなる(反面、診療側の力が過大に反映される)という結果を招きやすいのである。
 さて、このような、利益多元主義における「デモクラシーの病理」は、私見では、2つのキーワードによって表現することが出来ると思う。
 それは、「『現状』という偽の均衡状態の硬直化」と、「『現状』の維持又は打破を狙った外部勢力の援用」である。
 
 
 
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「私」による「公」の僭奪(2)

2022年09月29日 06時30分00秒 | Weblog
診療報酬めぐり「日医」と「財務省」攻防激化
 「厚生労働省が令和2年度の「医療経済実態調査」を公表したことで、医療機関がサービスの対価として受け取る診療報酬の4年度改定に向けた調整が本格化する。日本医師会(日医)は新型コロナ禍が医療体制に与えた影響を踏まえ、医師の収入に直結する「本体部分」のプラス改定を主張。これに対し高齢化を背景に医療費を抑制したい財務省は、マイナス改定を求めるなど攻防は激化している。

 樋口先生が指摘したように、日本に本当の「国家」は存在しない。
 ところが、「国庫」は存在しており、これが私的権力による「僭奪」の最大の対象となっている(オリンピック利権も、主なターゲットはやはり「国庫」だった。)。

憲法の土壌を培養する 蟻川 恒正 木庭 顕 樋口 陽一 編著
 木庭顕先生「すると、われわれは多元主義の問題に逢着する。コーポラティズムを含む多元主義はもとよりデモクラシーの病理である。林氏は、「利益」の語を取り去った上で相対的に多元主義を(国家が頼りにならないところでの)セカンドベストとするが、実際には「利益」の一文字は取り去りがたく(ルーマンのシステム文化は諸力諸利益の横紙破りに対する免疫システムを備えているように見えない)、デモクラシー到来によって実証主義的保障が機能的限定に置き換わったとは言っても、実際にはそうした「分化」は利益調整をするための制度変容にすぎないのではないか。・・・
 ・・・そこからの自己限定。オーケー!正当にも、国家は見限られている(林氏のテキストにおいて「国家」が実質行政もしくは官僚機構を指しているのに気付くが、普通「国家」はまず司法制度や立法府を指す)。オーケー!しかし、(国家がないから)仕方なく多元主義の海に乗り出す。調整する。まさに今これが暗礁に乗り上げているのではないか?デモクラシーとともに。
」(p212~213)

 「国家」の不存在(不成立)は、利益多元主義という「デモクラシーの病理」を生んだだけでなく、この「多元主義の海」における「調整」も暗礁に乗り上げている・・・このことは、冒頭の診療報酬改定問題をみるだけで一目瞭然である。
 日本の医療費に関する「調整」の問題は、例えばアメリカの状況(米国における医療保険制度の概要(2021年6月))と比べてみると分かりやすいかもしれない(但し、アメリカの場合、公的保険制度を極小化することによって、医療費の問題を「調整」の対象から実質的に外してしまったという見方が出来るだろう。)。
 我が国では、国民皆保険制度を採用しつつ、委任立法等のために立法府によるコントロールが事実上機能しない(機能させない)状況が続いてきた。
 そして、「国家」が存在しないという状況のもと、当事者(実は「公」を僭奪した私的集団)同士による”横紙破り”の応酬に近い状況が生じているのである。
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「私」による「公」の僭奪(1)

2022年09月28日 06時30分31秒 | Weblog
憲法の土壌を培養する 蟻川 恒正 木庭 顕 樋口 陽一 編著
 樋口陽一先生「十九世紀後半の段階での近代国家体制を移入した日本は、その時点でのお手本を習うのに忙しく、初期近代ヨーロッパでの「公」と「私」の緊密な連関を踏まえた上での十九世紀欧州基準を受け止める、というまでにゆかなかったのは自然だったでしょう。日本の憲法学がルソーや、ましてやホッブズを意識すること少なく今日に至ったのも、やはり自然だったでしょう。
 その近代日本で、廃藩置県や兵役義務制以下の一連の施策によって国民国家規模の「公」が掲げられたはずですが、幾層にもわたる私的権力が社会を支配し続けます。

 「六十年近く前の留学生としてMarcel Prélot 先生の講義を聴いた時の強い印象を思い出します。「朕は国家なり」と訳されていた"L'État, c'est moi" は、君主による国家私物化宣言であるどころか、それとは正反対に、君主こそ国家の公共性を体現する、という宣言だったのです。「私」による「公」の僭奪のきわみと言う他ない<日本という問題>に当面して、あらためて思うことです。」(p68~69)

 どうやら樋口先生は、最近では”国家主義者”を標榜しているらしい。
 もちろん、ここでいう”国家主義”は、一般的な理解とは異なり、「公」としての「国家」を尊重する考え方という意味と解される。
 その背景には、上に引用したとおり、日本においては、「公」であるべきもの(国家、社会、etc.)が悉く「私」によって僭奪される現象が蔓延しており、それを打開するために、(ホッブズ的な解釈における)「国家」が必要であるという、樋口先生の思想があるだろう。
 ここで重要なのは、樋口先生がいう所の「公」は、日本や中国における一般的な理解とは全く異なるという点である。
 分かりやすい例を挙げると、「公衆便所」の「公」は、中国では「みんなの」という意味に理解されており、これが日本でも踏襲されている。
 だが、西欧における「公」(Public)とは、「みんなの」ではなく、「誰のものでもない」という意味なのである(なので、日中政府がいう「公海」と、欧米諸国の政府がいう「公海 open sea」とは、意味が違っているかもしれない。)。
 ここに決定的な違いがあるのだが、意外にこれが看過されてしまっているのは、漢語によって西欧の概念をあらわしてきた明治期以降の慣習の副作用かもしれない。
 さて、「私」による「公」の僭奪という現象は、マクロのレベル(例えば最近の「オリンピック汚職」)だけでなく、労働現場のようなミクロのレベルでもみられるのだが(西村裕一先生の論文:p117~)、ごく最近、マクロのレベルで、大きな動き(の予兆?)がみられた。
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自我の相互放棄(2)

2022年09月27日 06時30分00秒 | Weblog
 谷崎の理想とする”隷属”は互いに行うものなので、2人の間の言説は、ラカンがいう所の「主人の言説」(基本版:「四つの言説 quatre discours」)とも違うようだ。
 この相互的な”隷属”(自我の相互放棄)は、おそらく、相手における子種の有無や財力への期待、不透明な取引などといったもの(要するに échange)とは無縁のものであるはずだ。
 ところが、「猫と庄造と二人のおんな」における庄造と二人のおんなとの間には、相互的な”隷属”ないし「自我の相互放棄」が成立しないことが、実は初めから予定されていたのである。
 庄造の前妻:品子は、庄造の借金(延滞地代)を返済するために仕立物などをして家計を支えていたが、姑のりんは、子だねがないことを奇貨として品子を追い出し、自身の兄の娘:福子を庄造とめあわせようとする。
 福子は庄造のいとこで、準近親婚になるが、父から名義を譲り受けた収益物件2件を持っており、りんはこれに目を付けたのである。

(以下ネタバレご注意!)
 「今更その嫁を追い出そうと云うのは無慈悲な話で、近所の同情が彼女の方へ集まったのも当然であるが、おりんにしてみれば、背に腹は換えられなかったし、子種のないということが難癖をつけるのに都合が好かった。それに福子の父親迄が、そうすれば娘の身が固まるし、甥の一家を救ってもやれるし、双方のためだと考えたのが、おりんの工作に油を注ぐ結果となった。」(p41)

 品子の放逐・福子との結婚は、まさに絵に描いたようなイエとイエ(しかも同族)の間の échange だった。
 それゆえ、そこにおいて谷崎が理想とするような「自我の相互放棄」など達せられるわけがなく、庄造が猫(リリー)に隷属する道を選んだのは必然であった。
 「猫と庄造・・・」が「隷属の拒否」による失敗なら、「痴人の愛」は「一方的隷属」による失敗であり、結局、「春琴抄」以外は全部失敗ということのようだ。
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自我の相互放棄(1)

2022年09月26日 06時30分35秒 | Weblog
猫と庄造と二人のおんな 谷崎潤一郎/著
 「『春琴抄』の男女は、互いに相手のために生きることによって、完結した生涯を得ることができた。それは互いに相手に隷属する決意から生まれた完璧な充実の世界である。しかしそういう結合を描いた作者は、同時にリアリストとしての眼の持主でもあった。愛とはほかならぬ”隷属”であり、幸福とは”隷属の幸福”以外にありえない。にもかかわらず、相手に”隷属”を拒否されたとき、そこにはどういう世界があらわれるであろうかーーーそれがほかでもない『猫と庄造と二人のおんな』の世界である。」(p171~172)
 
 磯田光一氏の解説が見事で、付け加える言葉がない。
 谷崎が描いたのは、”隷属”への希求、要するに「自我の相互放棄」であり、その典型は「春琴抄」にみることが出来る。
 だが、これは、西洋でいうところの「愛」ではなく、その対極にあるものである。 
 なぜなら、「愛」とは、フロイトによれば「本質的にナルシシズム的なもの」であり、これが拡張された自我の中に同化された対象(例えば異性)にも適用されるようになるのであって、”隷属”ではなく”支配”を希求するものだからである(おやじとケモノと原初的な拒否)。
 つまり、谷崎は、自我の解体のその先に、理想とする男女の関係をみているわけだ。
 ところで、谷崎は大変な猫好きで、戦時期を除いて一生の間飼っていたらしく、ペルシャ猫が好きだったらしい。
 どうやら近年は猫ブームのようで、私も、「もちまる日記」や「タイピー日記」をみてから寝るのが習慣になってしまった。
 そういえば、「もちまる日記」の管理人の名前は「下僕」であり、まさに”隷従”の鑑のような人物である。
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雨音はドビュッシーの調べ

2022年09月25日 06時30分42秒 | Weblog
富士河口湖ピアノフェスティバル2022 辻井伸行 THE BEST 2022

 野外劇場でのピアノコンサートに行くのは、これが初めてであるが、コンサートだけが目的なのではない。
 私の場合、ハイキング(+温泉&ビール)の後、夕方からコンサートや観劇に行くのが最高の休日の過ごし方なのだが、今回は、野外コンサートの翌朝に山に登ろうと計画していたのである。
 ところが、台風によってこの計画は完全に狂ってしまった。
 というわけで、土砂降りの中、シャトルバスで会場に着いたものの、東京とは違って肌寒く、コンクリの座席にじっとすわっているのも苦痛である。
 しかも、コンサートはなかなか始まらない。
 というのは、車で会場に来る人が多いのに、周辺の駐車場がキャパ不足で混乱に陥っており、開演に間に合わないお客さんが多く発生したためである。
 結局、30分遅れでスタートしたが、雨はいっこうに止む気配がなく、土砂降りの状態が続く。
 これでは、完全に雨音がBGMである。
 雨音だけでなく、野外なので、ときどき鳥のさえずりや工事現場の人の掛け声などが響いてくる。
 土砂降りの中、富士山のふもとにある野外劇場で、3000人近い聴衆が黙ってピアノの演奏を聴いている・・・。
 しかも、1曲目が「月光ソナタ」、2曲目がドビュッシーの「月の光」、その次が同じくドビュッシーの「映像 第1集」という選曲なので、昼だというのに薄暗い会場は、何やら幻想的な雰囲気に包まれる。
 眠気のせいもあって、「これは夢の中なのではないか?」という錯覚に陥ってしまいそうな、シュールなコンサートである。
 さて、休憩後は一変し、ショパンのスケルツォ全曲。
 これは目の覚めるような曲ばかりだが、依然として雨音のBGMは弱まる気配がない(ここで「雨音はショパンの調べ」という言葉が浮かんでくるのは、おそらくアラフィフ以上の世代の人である。)。
 最後は辻井さんの肉声まで聴くことができ、なかなか貴重な経験であった。
 ・・・天気さえよければ、山に登れたのだが・・・。
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他人の人生

2022年09月24日 06時30分32秒 | Weblog
統一教会問題 弁護士より前で戦っている人たち
 「本人が目を覚まして脱会するという決断をしなければ弁護士にもつなげない。弁護士の手前で戦っている方々もいるのです。
もっとも、35年の月日を経て、日本全国にある日本基督教団の教会のうち、現在も、統一教会の被害者救済活動を続けているのは、今では、西尾教会くらいになっているようです。


 「マインド・コントロール」的な問題は、カルト宗教には限らない。
 例えば、パワハラと激務のためうつ病になりながらもブラック企業への職場復帰を希望する労働者、DVの被害で心身ともボロボロになりながらやはり加害者である夫のもとに戻っていく被害者である妻、なども、「本人が目を覚ます」まで弁護士が介入することは出来ない。
 その手前で戦うことが出来るのは、それを仕事として出来るだけの立場にある人たち、例えば、西尾教会の人たちくらいになってしまう。
 というのも、誰もが自分の人生だけで手一杯であり、「マインド・コントロール」に陥った人たちを救うような余裕には乏しいのが実情だからである。
 やはり、法規制や公的な救済制度が必要であるように思う。
 例えば、DVシェルターのように被害者を科隔離するのではなく、加害者側を隔離するシステム、「公認洗脳解除士」を資格化するなどはどうだろうか?
 
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おやじとケモノと原初的な拒否

2022年09月23日 06時30分58秒 | Weblog
ENEOS会長、電撃辞任の理由は”壮絶”性加害だった 「胸を触り、キスを強要」被害女性は骨折
 「杉森氏が強い腕力で無理やり迫り、それを拒もうと何度も抵抗するうちに、骨折などのケガまで負ってしまったのだ。その後、被害女性はPTSDのような症状に悩まされ、仕事も満足にできない状態だという。

坂本勇人、「女性に噛みつき550万円」報道直前に見せた “オラオラ闊歩”…「悪評」の新証言も
 「記事によれば、坂本選手は2018年2月、宮崎市内のキャバクラ店で、接客した女性に『今日は(ホテルに)一緒に帰ろう」と言い寄ったが断られた。これに逆上し、坂本選手は女性の肩や太ももに噛みついたという。噛まれた場所は内出血し、しばらく痕が残ったとの証言も報じられている。

 実業やスポーツで抜きんでた業績を挙げている人物は、異常とも言うべき攻撃衝動や性衝動を内に秘めている場合がある(少年とおやじ少年とケモノ)。
 それにしても、この種の人たちが、対象である女性を傷つけてしまうのは、いったいどうしてだろうか?
 この現象については、例によって、フロイト先生が一つの仮説を提示していた。

自我論集 ジークムント・フロイト 著 , 竹田 青嗣 翻訳 , 中山 元 翻訳
 「愛は、自我が<器官快感>を獲得することによって、欲動の刺激の一部を自体愛的に満足させることができることに由来する。愛は根源的にナルシシズム的なものであるが、その愛は拡張された自我の中に同化された対象にも適用されるようになる。・・・ 
 憎しみは、対象との関係においては愛よりも古い。ナルシシズム的な自我が、刺激を与え外界に対して示す原初的な拒否から、憎しみは発生する。
」(p44~45)

 何とも天才的な指摘で、愛は根源的にナルシシズム的なものであり、外界の事物を”拡張された自我”の中に取り込もうとして、ハグしたりキスしたりするわけだが、これがいまくいかないと、今度は”原初的な拒否”へと反転し、噛みついたりけがをさせたりすることになる。
 ”拡張された自我”と”原初的な拒否”という言葉は、現在のプーチンにピッタリくる表現のように思う。
 但し、後者は、「核兵器による世界の破壊」という意味であるかもしれないのだが・・・。
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傑作の欠点(3)

2022年09月22日 06時30分52秒 | Weblog
第621回定期演奏会 ダニエル・シュニーダー:聖ヨハネの黙示録(日本初演) ブラームス:ドイツ・レクイエム 作品45

 読響の定期演奏会の演目が興味深い。
 「聖ヨハネの黙示録」と「ドイツ・レクイエム」という、合唱付きの曲2つである。
 また、ソロの歌手は、2曲ともソプラノとバリトンの2人なので、ソプラノ=ファン・スミさんとバリトン=大西宇宙さんは、2曲とも出演ということになる。
 ということで、選曲の理由が分かる。
 さて、「レクイエム」と言えば、N響の新指揮者就任記念公演の初回がヴェルディの「レクイエム」だったが、その直後に読響が、「ドイツ・レクイエム」を、しかもN響のときと同じ新国立劇場合唱団と演奏するわけである。
 なので、N響と読響がコラボしているのか、あるいは対抗しているのか、どちらかと考えるのが普通である。
 セバスティアン・ヴァイグレの指揮は、エネルギッシュというよりは「攻撃的」といった方がよいくらいで、演奏者にとびかかっていきそうな勢いである。
 「ドイツ・レクイエム」では、ほぼ歌詞に合わせて口を動かしており、この曲への思い入れの強さが分かる。
 さて、例によって「傑作の欠点」(傑作の欠点傑作の欠点(2))を見つけた。
 モーツァルトやヴェルディの「レクイエム」の歌詞はラテン語であり、比較的母音が多いのに対し、「ドイツ・レクイエム」はドイツ語であるため、子音が多く、ゆえに破裂音(k、t、pなど)も多くなる。
 そうすると、「クハー!」「トゥハー!」「プハー!」などと発音しなければならないため、どうしても”飛沫”が多くなるのだ。

日本人には難しいドイツ語の子音ランキング
第4位 [k] [t] [p]
無声軟口蓋破裂音、無声歯茎破裂音、無声両唇破裂音の破裂音三兄弟が同率4位にランクイン。決してめんどくさくなったわけではありません。
・・・ka ta paと書かれていた場合、「カ」「タ」「パ」というよりは、(無理やりカタカナで書くなら)「クハー!」「トゥハー!」「プハー!」のほうが近いです。

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ターゲット変更

2022年09月21日 06時30分45秒 | Weblog
「森氏に200万円」AOKI前会長証言でも特捜部が動きにくい「ある事情」とは
 「今回の“見舞金問題”に関し、元財務省官僚で弁護士の山口真由氏が情報番組「ゴゴスマ〜GOGO!Smile!〜」(TBS系)に出演して、興味深い発言をしている。山口氏が言うには、
「特捜ってもともと旧田中派、(現)平成研究会の田中角栄、竹下登とか、金丸さんとか、そこらへんが特捜の牙にかかることが多くて、清和会系は特捜の捜査から免れてきたと言われてきたんですね。安倍さんのお父様はじめ、森さんもそうですけど」
 さらに、森氏の捜査については、
 「森さんを今回、本当に特捜が対象にしているのだとすると、権力構図が大きく変わって、権力を撃ちにいく特捜というのが、戦いの対象を平成研究会から清和会の流れに変えたのか。森さんまでやるのかどうかはかなり注目されると思うんですけど」
 と読み解いてみせた。


 山口氏が指摘するとおり、過去、特捜は田中派・旧経世会所属の議員(小沢一郎氏を含む)をターゲットにしてきた。
 この集団が政界で長らくヘゲモニーを握ってきて、金権政治を主導してきたという経緯もあるが、それだけではない。
 おそらく、この集団は、”官の秩序”を破壊する傾向を有していたために、特捜のターゲットにされたのではないだろうか?
 具体的に言うと、田中氏は大蔵省への人事介入(財務省人事、歩んできた政治介入排除の歴史)、金丸氏はグリーンカード法の骨抜き化(【高橋洋一】政治家も恐れる「財務省の暴力装置」 - “政界のドン”金丸信が消された本当の理由 ~日本再興戦略 現代日本論「経済と官僚」編|藤井厳喜×高橋洋一)、小沢氏の全盛期には通産省への人事介入(通産省4人組事件)といった風に、ターゲットにされた旧経世会系の政治家は、”官の秩序”を侵犯した”前科”をもっている。
 安倍氏に至っては、タブー中のタブーである検察人事に介入しようとしたのだから、存命であればターゲットになってもおかしくはなかった。
 それが、今では森氏が代わりのターゲットになっているように見えるのである。
 さて、特捜は、「身代わり」のような森氏に対して、どこまで本気でやるのだろうか?
 
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