「ある選手はスポニチ本紙の取材に、今夏のロッテ戦前のZOZOマリンのロッカールームで「倒立しろ」と命令されたことを明かし「身動きがとれない状態でズボンとパンツを取られて下半身を露出させられた。陰部に靴下をかぶせて笑いものにされて恥ずかしかったし、精神的な苦痛を受けた。同じ被害を受けた選手は別にもいる」と生々しく証言した。この場面を見たという複数の選手もいる。
また別の選手らによると指導の名目で「アホ」や「バカ」など罵声を浴びせ、食事などの誘いを断ったり電話に出ない際は「だからお前はダメなんだ」などの言葉で人格否定を繰り返す被害もあった。「罰金」と称して金銭の支払いを強要することもあり、このような内容を送ったLINEなどの記録も残されているという。」
スポーツ(中でも集団的戦闘型スポーツ)は戦争を儀礼化したものなので、軍事化の要素が入り易いのは当然であるし、これは古今東西普遍的にみられる現象である。
ただ、日本の場合、中学の”部活”の段階から軍事化イニシエーションが盛んに行われている点が特徴的であり、これは海外の人の目には異様に映る(
部活自治)。
少なくとも西欧・北米では、学校教育の現場で軍事化イニシエーションが行われることはまずないからである。
さて、「昭和陸軍」では、十三、四歳の時点で人材の選抜が行なわれていたわけだが、現在の大学の状況を見れば、その理由がよく分かる。
一部の先生方が指摘するとおり、中等教育の段階で”没知性化”が進行し、大学に入る時点では手遅れになっている学生が大量に発生しているからである(
知的信用)。
これは、逆に言えば、中等教育が人間の知性の基礎や思考の傾向をかなりの程度決定づけることを示している。
そして、私見ではあるけれど、中等教育での毎日の授業はもちろん大事だが、生徒の精神構造にもっと強烈な影響を与えるものがあり、その代表が「部活」なのである。
「部活」において行われる「加入礼」は、某プロ野球選手がそうであるかもしれないように、その後の人生において執拗低音のように継続的に作用する可能性がある。
さらに言えば、「部活」に限らず、ある種の学校では、「運動会」なども軍事化イニシエーションとして機能していることがある。
「基準ですが、やっぱり、怖がらないこと。相手が、いくら強くても、相手に立ち向かっていけることが、いちばん大事・・・。」(0:02~)
これほど分かりやすい軍事化イニシエーションも珍しいが、ここで狙っているのは、「痛みと恐怖を感じないようにすること」(感覚麻痺化)や「集団としての一体感を強めること」(無分節化)だけではない。
最も重要な目標=「一時的な死」を達するためには、参加者が(脳内麻薬を分泌するほど)死力を尽くして戦わなければならず、「けが人が一人も出ない、安全な行事」というのは、むしろ本来の趣旨に反するのだ。
「山崎先生: 様子をみるというか・・・。冷やして様子見ようとかそういうのはいいんですけど、最近本当に、入院しなきゃいけないとか手術しなきゃいけないとか、基本的に格闘技じゃないですか。運動会といっても、駆けっこではないので。ぶつかる、落ちるとかっていう、頭とか顔とか目とか、そういう怪我が最近増えてきていて。
何年か前までは受験する前の段階で運動会とか文化祭とか見学に来ていて、「あっ、開成の運動会ってこういうのだ」っていうのを分かった上で入学している子がほとんどだったんですけど、親も含めて。最近は「全然こんな運動会だとは知らなかった」っていう、私と同じで、生徒もそうだし、親もそうなので。だから、例えば練習期間中にも骨折とかあるんですよね。そうすると「なんで運動会の練習なのに骨折するんですか」っていう親への説明も必要だったりとかして。
やっぱりあの、この学校は卒業生も多いので、ああいう大きな怪我に慣れちゃってるというか、麻痺しちゃってるところがあって、多分公立の学校でこういう怪我が起きてたら、大事件になっているっていうことが、日々起こってるっていう状況があって。 今年の運動会から、運動会の練習期間あるじゃないですか、約1か月あるんですけど、そこに卒業生のドクターが待機してくださることにやっとなったんですよ。いや、そのくらいのレベルの怪我が日々起こっているので。」