Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

カタリーナ、スケープゴート、フィロクテーテース(10)

2023年11月30日 06時30分00秒 | Weblog
 もう一つの「悲劇」の類型は、「新参者による反撃」である。
 「加入礼」において暴力(又は圧力)を受けた新参者が、自分を守ろうとして、加害者に対し暴力(又は圧力)をもって反撃するのである。
 この行動は、原始的防衛機制としての「攻撃化」として説明出来るだろう。

 「次は攻撃化(aggressivization)です。これは攻撃するのが防衛というメカニズムです。さっき言った投影性同一視で先制攻撃をするというのもあります。」(p198)

 「攻撃」が「攻撃者」に対して向けられる(ゆえに「反撃」)現象は、早くもアンナ・フロイトが指摘していたものである(抑圧されたものの行方(2))。
 この際、自我が未発達な人などは、「先制攻撃」に走り、加害者を破壊してしまう。
 この問題で私がいつも思い出すのは、「フルメタル・ジャケット」第1部のラストシーン(微笑みデブとハートマン軍曹)である。
(もっとも、微笑みデブは最初からハートマン軍曹を殺すつもりがあったとも思えないので、「反撃」といって良いかは疑問だが・・・。)
 なので、私はこの類型を、「微笑みデブの反撃」と呼びたいと思う。
 もっとも、「不慮のスケープゴート」と比べてこの種の事案は多くないと思われるので、表題には敢えて加えなかった。
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カタリーナ、スケープゴート、フィロクテーテース(9)

2023年11月29日 06時30分00秒 | Weblog
 軍事化イニシエーションにおける「悲劇」は、大きく分けて二種類あると思う。
 一つは、「加入礼」の失敗で新参者が被害者となるケースである。
 この場合、「一時的な死」ではなく「現実の死」という結果が生じることもある。
 入社1年目の電通社員高橋まつりさん(当時24)が過労自殺に追い込まれた事件は、その代表例と言える。
 私は、この種の現象を「犠牲強要」の発現として捉えてきたし(悪質なバトルロイヤル)、今でも基本的にこの見方を変える必要はないと考えている。
 だが、ちょっと違った視点から見ることも出来そうである。

イニシエーションとは何か(永井俊哉ドットコム)
 「入所式としてのイニシエーションとスケープゴートは、方向は反対だが、機能は同じである。すなわち、自分たちと異質であるにもかかわらず、自分たちと同じ共同体に属する中間的存在を完全に排除することにより、共同体の境界(システムと環境の差異)を明確にすることがスケープゴートであるのに対して、外部から自分たちと同質のメンバーとなる中間的存在者に、境界を意識させることにより、共同体の境界(システムと環境の差異)を明確にすることがイニシエーションなのである。どちらのケースでも、中間的存在者が境界を通過する時、暴力がふるわれるという現象が起きることが多い。

 基本的なことだが、「加入礼」において、暴力は必須のものではない。
 この点については、「じゃじゃ馬ならし」を思い出すだけで十分である。
 それにもかかわらず、(最近の某プロ野球選手のように)暴力が多用されるのは、「一時的な死」を手っ取り早く実現したり、「脳内麻薬」の分泌を促したりするという目的だけでなく、「対象人物が『中間的存在者(スケープゴート)』かどうかをあぶり出し、場合によっては集団から排除・抹殺する」という目的があるのかもしれない。
 しかも、「軍事化」である以上「敵」の存在が前提され、それゆえ暴力が発現し易くなるし、「中間的存在者」が「敵」と同視(誤認)されることもある。
 ・・・永井さんの指摘を読んで、私はこういう風に推論したのである。
 このメカニズムからすれば、最初はメンバーとして迎えられた新参者に対して暴力(又は圧力)を加えるうちに、「中間的存在者」との見境がつかなくなり、死に至らしめてしまうケースも出てくるのではないだろうか?
 その場合、おそらく暴力(又は圧力)は違法性を阻却され、「不慮の事故」として”処理”されるのではないだろうか?
 実際、(海軍の)予科練では、棒倒し(すなわち、新参者同士による「加入令」たる軍事化イニシエーションの典型例)によって死者が出ているらしいが(平成25年防大開校記念祭~棒倒し・中編の後半)、これは「不慮の事故」として”処理”されたようである。
 なので、私は、「加入礼」の最中に「中間的存在者」として扱われて被害に遭う新参者のことを、「不慮のスケープゴート」と呼びたいと思う。
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カタリーナ、スケープゴート、フィロクテーテース(8)

2023年11月28日 06時30分00秒 | Weblog
(山口真由氏)「財務省の深夜バスの一便が出発する零時三十分の直前に仕事を与えられることもしばしば。一便に乗り損ねると、二便まで一時間十五分も空いてしまう。上司のことをどんなにうらめしく思ったことかわかりません。
 このかたはいつも、私に妙な課題を与えました。・・・
 「なぜ赤い小豆から月餅の黒いこしあんができるのか、今すぐ調べてくれないか」・・・
 頻繁にそういうやりとりをくり返しました。
 「なぜ歳をとると髪が白くなるのか、調べて」
 「なぜ空は青いのか、調べて」
(佐藤優氏)「筆者がいた外務省に劣らぬくらい、財務省も独自のローカル・ルールが幅をきかす「不思議の国」のようだ。この種の理不尽さは、旧陸軍の内務班での「新兵いびり」につながるものがある。「鍛える」という類の過度に非合理な新人教育からは、歪んだエリートしか生まれないと思う。

 「いいエリート、わるいエリート」は、社会人類学の観点からも興味深い本であり、一読をお勧めする。
 この上司が行なった「寝かさない」状態に置いて理不尽な課題を与えるというのは、「じゃじゃ馬ならし」でペトルーキオーがカタリーナに対して行なったのと同じく、「加入礼」の一種である。
 また、「今すぐに調べてくれないか」と言ったのは、上司がいわば”敵”となって「競争」の要素を導入するためであり、かつ、同様の指示・命令は新人たち全員に対して行われていて、「集団」の要素も取り入れられているはずだ。
 つまり、これは「軍事化」のための「加入礼」であり、佐藤氏の「旧陸軍の内務班での「新兵いびり」」という指摘は正鵠を射たものである。
 この「加入礼」たる軍事化イニシエーションは一応成功しているようで、山口氏はこう述べる。

 「私にとって財務省の同期は、ジャングルに迷い込んでも背中を預けられる「戦友」だった。仕事で失敗して上司に厳しく叱られ、トイレでひとしきり泣いてから席に戻ると、デスクには必ずお菓子の差し入れが置かれていた。・・・
 正直に告白すれば、私自身、家族型の職場へのノスタルジーを捨てがたい旧世代の一員である。

 「加入礼」の効果によって、「戦友」(同期)の間で「皆は一人のために、一人は皆のために」の行動原理が生まれ、「家族」への帰属感も芽生えた。
 つまり、山口氏は(ペトルーキオーに馴致された)”カタリーナ”になったわけである。
 もっとも、(中学・高校の頃から軍事化イニシエーションに慣れ親しんできた人たちは別として、)必ずしも全員が”カタリーナ”になるわけではなく、悲劇的な結果が生じる場合もある。
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カタリーナ、スケープゴート、フィロクテーテース(7)

2023年11月27日 06時30分00秒 | Weblog
 山下裕貴先生が批判する”今の霞が関”の人事・教育システムだが、その中に、一体どうやって、山口真由さん(我慢しない人)も証言しているような軍事化イニシエーションが組み込まれたのだろうか?
 この点に関する情報は乏しく、推測を含まざるを得ないのだが、おそらく、「過労死」という言葉が一般化した1980年代後半ころまでには、(一部の省庁ではあろうが、)この種の「加入礼」が確立していたと思われる。
 もちろん、これが自然発生的に出来上がるとは考えられないので、やはり、特定の人/人たちが導入したのだろう。
 この起源を特定するのは難しいのだが、例えば、
(一部の)旧制一高出身者の”集団志向”知的信用(3)
軍隊出身者の入省・復帰台所からキッチンへ(7)。大松監督!)
集団的スポーツの運動部(例えば、(旧)帝大漕艇部)出身者の活躍
などの複合的要因によって、この種の「加入礼」が制度化された可能性が考えられる。
 野球やサッカーなどは分かりやすいが、漕艇(ボート)でも、軍事化イニシエーションの内部原理:「皆は一人のために、一人は皆のために」が盛んに称揚される。
 一般の人は意外に思うかもしれないが、これはむしろ軍事化を目的としたスポーツではないかと思えるくらいである。

 「どこの大学でも大体同じで、
・「艇庫」と呼ばれる監獄に泊まり込み
・朝4時半起きで朝練をしてから大学に行き
・大学が終わったら再び艇庫に戻り晩練
という生活が待っています。つまり、1週間のうち大半は家に帰れなくなります(笑)

 これでは、殆ど海兵隊のブートキャンプ(新兵訓練) である。
 ボート部以外では、自衛隊や警察でも定番の柔道部・剣道部においてもやはり軍事化イニシエーションが盛んに行われるようであり、そのエートスが人事・教育システムの中に持ち込まれた可能性も考えられる。
 
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カタリーナ、スケープゴート、フィロクテーテース(6)

2023年11月26日 06時30分00秒 | Weblog
 「ある選手はスポニチ本紙の取材に、今夏のロッテ戦前のZOZOマリンのロッカールームで「倒立しろ」と命令されたことを明かし「身動きがとれない状態でズボンとパンツを取られて下半身を露出させられた。陰部に靴下をかぶせて笑いものにされて恥ずかしかったし、精神的な苦痛を受けた。同じ被害を受けた選手は別にもいる」と生々しく証言した。この場面を見たという複数の選手もいる。  
 また別の選手らによると指導の名目で「アホ」や「バカ」など罵声を浴びせ、食事などの誘いを断ったり電話に出ない際は「だからお前はダメなんだ」などの言葉で人格否定を繰り返す被害もあった。「罰金」と称して金銭の支払いを強要することもあり、このような内容を送ったLINEなどの記録も残されているという。

 スポーツ(中でも集団的戦闘型スポーツ)は戦争を儀礼化したものなので、軍事化の要素が入り易いのは当然であるし、これは古今東西普遍的にみられる現象である。
 ただ、日本の場合、中学の”部活”の段階から軍事化イニシエーションが盛んに行われている点が特徴的であり、これは海外の人の目には異様に映る(部活自治)。
 少なくとも西欧・北米では、学校教育の現場で軍事化イニシエーションが行われることはまずないからである。
 さて、「昭和陸軍」では、十三、四歳の時点で人材の選抜が行なわれていたわけだが、現在の大学の状況を見れば、その理由がよく分かる。
 一部の先生方が指摘するとおり、中等教育の段階で”没知性化”が進行し、大学に入る時点では手遅れになっている学生が大量に発生しているからである(知的信用)。
 これは、逆に言えば、中等教育が人間の知性の基礎や思考の傾向をかなりの程度決定づけることを示している。
 そして、私見ではあるけれど、中等教育での毎日の授業はもちろん大事だが、生徒の精神構造にもっと強烈な影響を与えるものがあり、その代表が「部活」なのである。
 「部活」において行われる「加入礼」は、某プロ野球選手がそうであるかもしれないように、その後の人生において執拗低音のように継続的に作用する可能性がある。
 さらに言えば、「部活」に限らず、ある種の学校では、「運動会」なども軍事化イニシエーションとして機能していることがある。

Japan’s Game Of War(防衛大学校の”棒倒し”)
 「基準ですが、やっぱり、怖がらないこと。相手が、いくら強くても、相手に立ち向かっていけることが、いちばん大事・・・。」(0:02~)

 これほど分かりやすい軍事化イニシエーションも珍しいが、ここで狙っているのは、「痛みと恐怖を感じないようにすること」(感覚麻痺化)や「集団としての一体感を強めること」(無分節化)だけではない。
 最も重要な目標=「一時的な死」を達するためには、参加者が(脳内麻薬を分泌するほど)死力を尽くして戦わなければならず、「けが人が一人も出ない、安全な行事」というのは、むしろ本来の趣旨に反するのだ。

  「山崎先生: 様子をみるというか・・・。冷やして様子見ようとかそういうのはいいんですけど、最近本当に、入院しなきゃいけないとか手術しなきゃいけないとか、基本的に格闘技じゃないですか。運動会といっても、駆けっこではないので。ぶつかる、落ちるとかっていう、頭とか顔とか目とか、そういう怪我が最近増えてきていて。
 何年か前までは受験する前の段階で運動会とか文化祭とか見学に来ていて、「あっ、開成の運動会ってこういうのだ」っていうのを分かった上で入学している子がほとんどだったんですけど、親も含めて。最近は「全然こんな運動会だとは知らなかった」っていう、私と同じで、生徒もそうだし、親もそうなので。だから、例えば練習期間中にも骨折とかあるんですよね。そうすると「なんで運動会の練習なのに骨折するんですか」っていう親への説明も必要だったりとかして。
 やっぱりあの、この学校は卒業生も多いので、ああいう大きな怪我に慣れちゃってるというか、麻痺しちゃってるところがあって、多分公立の学校でこういう怪我が起きてたら、大事件になっているっていうことが、日々起こってるっていう状況があって。 今年の運動会から、運動会の練習期間あるじゃないですか、約1か月あるんですけど、そこに卒業生のドクターが待機してくださることにやっとなったんですよ。いや、そのくらいのレベルの怪我が日々起こっているので。
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カタリーナ、スケープゴート、フィロクテーテース(5)

2023年11月25日 06時30分00秒 | Weblog
 「昭和陸軍」幹部候補生における「加入礼」はもちろん、陸軍幼年学校・士官学校での「加入礼」の分析は非常に重要なのだが、私の方は勉強不足で、座談会の出席者である保阪正康氏、川田稔先生、山下裕貴先生の本や、故半藤一利氏の本などで勉強しようと考えているところである。
 ただ、結論として、「昭和陸軍」における「加入礼」が極めて理不尽・激烈であったという点は動かないところだろう。

  「そんな日本軍カルチャーのひとつが、「ハラスメント=人生修練」という思想だ。実は日本軍にも、「新兵いじめ」という現代のパワハラ・いじめとほぼ同じようなものがまん延していた。
 例えば、1944年に学徒出陣で、陸軍北部第178部隊に入った男性は以下のようなパワハラを経験している。
「就寝前、汚れてもいない銃を見て班長が『手入れがなっていない』と激怒。銃床で頭をこづかれ殴られた。新兵同士で殴り合いを強いられたこともある。自尊心を打ち砕くいじめもあった。軍人勅諭を言わされ、間違えた戦友は柱によじ登ってセミのまねをさせられた。『ミーン、ミーン』。今度は『鳴き声が違う』と罵声が飛んだ」(朝日新聞 2014年8月15日)

 これは、前線の下級兵士における「加入礼」の一例である。
 「昭和陸軍」においては、軍人勅諭の全文暗誦が必須であり、これが「加入礼」の一部を成していたのである。
 こういった調子なので、幹部クラスにおける「加入礼」も推して知るべしといったところであるが、戦陣訓を読むと、幹部クラスの思考を垣間見ることが出来る。
 戦陣訓を作ったのは東條英機であり、内容的には古今東西の軍事化イデオロギーと共通する部分もあるが、「本訓其の二」には、日本特有の部分もある。 
 例えば、
第一 敬神
神霊上に在りて照覧し給ふ。心を正し身を修め篤く敢神の誠を捧げ、常に忠孝を心に念じ、仰いで神明の加護に恥ぢさるべし。
 第二 孝道
忠孝一本は我が国道義の精粋にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子なり。
戦陣深く父母の志を体し、克く尽忠の大義に徹し、以て祖先の遺風を顕彰せんことを期すべし。
というくだりは、「イエ原理」の中核=祖霊信仰をストレートに表現したものである。
 つまり、東條は、あれほど長州閥を嫌悪しておきながら、その元祖とも言うべき高杉晋作と同様の死生観:「集合的霊魂不滅説」(カイシャ人類学(20))を有していたものと思われる(もちろん、高杉とは異なり、「毛利家」は祖霊の頂点として想定されていないだろう。)。
 ともあれ、トップからしてこういう調子なので、「加入礼」としての「新兵いびり」が激烈なものになるのは避けられないところだろう。
 そういうわけで、「陸軍内務班」でネット検索すると、この種のエピソードがたくさん出てくるのである。
 
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カタリーナ、スケープゴート、フィロクテーテース(4)

2023年11月24日 06時30分00秒 | Weblog
 「一時的な死」には、一般社会からの「分離」という社会学的な意味だけでなく、生理学的な意味もある。
 古代スパルタにおける麻薬の使用がそのことを示している。

 「ドイツ、ハイデルベルク大学医学部の研究チームによる最新の研究によると、遊びとして走った後のマウスでは、エンドルフィンと内因性カンナビノイドの両方の濃度が高まっているという。さらに、走った後は痛みを感じにくくなり、不安感が和らぎ、気分が落ち着くという(これらは、マウスがケージ内の暗い片隅ではなく明るい場所で時間を過ごすことからわかるのだという)。

 「●小鹿コンサルタント:「体というより頭の問題ですね。きつい仕事に集中していると、脳内にエンドルフィンという鎮痛作用のある神経伝達物質が分泌します。これで少々の苦痛にも耐えられるようになります。ただし麻薬と一緒ですから、年がら年中ワーカーズハイの状態だとさすがにおかしくなります」 

 「元厚生労働省近畿厚生局麻薬取締部捜査第一課長の高濱良次氏は「大麻はリラックスや多幸感を得られる効能があるが、身体に悪影響を及ぼす。一般に上下関係や規律が厳しい体育会で、ストレスがたまったり、先輩に誘われて断りづらいなどの環境も影響しているとみられる。

 軍事化のための加入礼の際に麻薬が用いられたのは、もちろん、自我を融解させて集団と一体化させるという狙いもあるが、最も重要なのは、「痛み」と(その予兆としての)「恐れ」を感じなくさせる点にあると思われる。
 これは当然のことで、「痛み」と「恐れ」に敏感な人間が戦闘を行えるわけがないからである。
(もしかすると、激しい集団的戦闘型スポーツ(アメフト、ラグビーなど)の選手が麻薬を必要とする理由も、これと同じなのかもしれない。)
 古代スパルタで用いられた麻薬の成分は不明だが、ある種の麻薬は、脳内で生成することも可能である(但し、最近話題の「大麻グミ」は別だろう)。
 よく知られているように、「一時的な死」は、「脳内麻薬」(ナルコオピオイド)の分泌を促す。
 すなわち、出産、怪我の急性期(リストカットを含む)、ランニングや登山などの高強度の有酸素運動などにおいて、脳内ではエンドルフィンやカンナビノイドが分泌される。
 これによって、「痛み」や「恐怖」を感じなくなる/感じにくくなるのである。
 だが、最も手っ取り早いのは「眠らさない」という方法であり、これが「ワーカーズハイ」と呼ばれる現象を引き起こすのである。

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カタリーナ、スケープゴート、フィロクテーテース(3)

2023年11月23日 06時30分00秒 | Weblog
ペトルーキオー「こうして巧みに支配権を確立してしまえば、もう大丈夫、いずれは成功に終わるだろう。俺の鷹は、今のところ腹ぺこぺこ。いよいよたまらなくなって餌に飛びつくまでは、たらふく食わせてはならないぞ。腹がふくれれば、餌箱なんか見向きもしなくなるからな・・・・・・もうひとつ、どんなにいうことをきかない鷹であろうと、飼主の意のまま、命のまま、手もとに呼びもどす手があるのだ。ほかでもない、断じて眠らさないことだ。野性の鳶で、羽をばたばたさせて、どうしようとこうしようと言うことをきかないやつには、その手を用いるそうではないか」(p116~117)

 古代スパルタでは、「一時的な死」を手っ取り早く実現するために麻薬を用いていたそうである。
 もちろん、この方法は今日では不可能である(但し、アルコールの使用はあり得るし、後に述べるように、脳内麻薬を分泌させる方法もある。)。
 だが、合法的に「一時的な死」を実現させる手段がある。
 要は、リビドーを極限まで減退させればよいのだから、ペトルーキオーがじゃじゃ馬=カタリーナに対して行ったように、
食事を与えない
眠らさない
という方法でもよいのだ。
 もっとも、現代では、「食事を与えない」というのは犯罪に当たりうるので、「眠らさない」という方法が採用されやすいようだ。
 対象者を「眠らさない」状態におき、さらにリビドーを枯渇させるような行動をさせると、イニシエーションの効果が高まる。
 但し、「軍事化」を達成するためには、カタリーナのように単独で行うのではなく、これを集団で行う必要がある。
 かつ、「敵」の存在は必須の前提であるため、「競争」の要素を盛り込む必要がある。

 「フランスで最も権威ある士官学校で9年前、慣例となっている新入生の「通過儀礼」の最中に訓練生1人が水死した事件で、仏西部レンヌ(Rennes)の裁判所は14日、将校ら3人に執行猶予付き禁錮6~8月の有罪判決を言い渡した。
 レンヌ近郊にあるサンシール陸軍士官学校(ESM Saint-Cyr)の訓練生だったジャラル・ハミ(Jallal Hami)さん(当時24)は2012年10月29日、同校の伝統を新入生に教えるためとして行われた夜間訓練に参加し、沼地を泳いで渡る途中で溺れて死亡した。・・・
 検察当局は公判で、この「通過儀礼」を「制御不能のテストステロン」にあおられた「狂気」の沙汰だと非難し、被告のうち6人に最長で執行猶予付き禁錮2年を求刑していた。

 約10年前のフランスの陸軍士官学校でも、典型的な(加入礼としての)軍事化イニシエーションが行なわれていた。
 検察当局は「狂気の沙汰」と言うけれども、この「新入生の通過儀礼」は、最も伝統的な手法に属するといってよい。
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カタリーナ、スケープゴート、フィロクテーテース(2)

2023年11月22日 06時30分00秒 | Weblog
 両者の共通点が「イニシエーション」(通過儀礼)にあると言っても、これだと意味が広すぎる。
 より正確には、「軍事化イニシエーション」のうちの「加入礼」と呼ぶのが適切ではないかと思う。
 まず、「軍事化」だが、これは、「ロメオとジュリエット」を例にとるのがが分かりやすい。

 「頂点も従属分子もなく一体化し、領域の単位を占拠し、領域外の外敵、そして隣接の単位と軍事的緊張を保ち、しばしば衝突するのである。もっとも、『ロメオとジュリエット』を引くまでもなく、デモクラシー前の単純政治システムにしばしば現れる現象である。組織内では、「皆は一人のために、一人は皆のために」の原理が貫かれ、すべて、とりわけ穀物が完全に相互融通される。」(p35)
 
 「軍事化」の理想形ともいうべき古代ローマにおける「軍事化」についての記述である。
 ポイントは、
・頂点も従属分子もなく一体化している(無分節状態)
・外部には「敵」が存在する
というところで、内部原理を分かりやすい言葉で表現したのが、
皆は一人のために、一人は皆のために
というスローガンである。
 この点、「昭和陸軍」にも”現代の官僚”にも「頂点と従属分子」(例えば内部派閥=ボスと子分)が存在し、「皆は一人のために」の原理は徹底されない(切り捨てられる個人がいる)ので、理想形としての「軍事化」には遠いのだが、ともあれ「軍事化」を模倣した/模倣しようとしているのは確かだろう。
 次に、「加入礼」がどういうものかが問題となるが、この原始的形態の代表例は、「割礼」である。

 「種々の慣習のうちでも、割礼ほどでたらめに論じられたものは少ない。・・・この儀礼は似たような慣習、つまり身体のいずれかの部分を切断、切除したり傷つけたりすることによって、みなにみえるような形でその人間の身体に何らかの変化をもたらすような形でその人間の身体に何らかの変化をもたらすような慣習のカテゴリーに入れるべきである。・・・身体に何らかの毀損をうけた人は何らかの分離儀礼(切断、穿孔などはこのため)によって一般の世間から隔てられ、同時にある特定の集団に自動的に統合されるが、痕跡を消し去ることができないようなやり方で傷つけるため、この統合は終身的なものとなる。」(p98~99)

 原始社会では、個人を一般社会から分離して特定の集団に統合するための儀礼=「加入礼」として、「身体毀損」という手法を多く用いていた。
 ただ、これはさすがに限界があるし、そもそも「加入礼」の狙いは「身体毀損」それ自体ではない。
 本来の狙いは、「それまでの自分を『一時的な死』に至らしめ、新たな自分として『再生』させる」ことである。
 要するに、「加入礼」の主な要素は、「一時的な死」と「再生」である。
 
 「エスキモー、チャム、ギリシア、インドネシア、メラネシアおよび北米インディアンの加入礼についての記述を引証したユベールとモースは正当にも、「この一時的な死という考えは宗教上の加入礼にも、呪術上の加入礼にも共通したテーマである」と述べている。」(p143)

 「昭和陸軍」も”今の霞が関”も、「一時的な死」と「再生」による「加入礼」を行っていた/行ってきたはずだが、もちろん、原始社会のような露骨な方法を用いたわけではないだろう。
 では、どうするのだろうか?
 ここでも、シェイクスピアが参考になる。



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カタリーナ、スケープゴート、フィロクテーテース(1)

2023年11月21日 06時30分00秒 | Weblog
楠木「幼年学校出身者は十三、四歳から、旧制中学出身者は十六、七歳から陸軍という組織に入る。これは大きな違いですよね。
  「幼年学校は一学年約五十人。彼らが切磋琢磨し続けることで、陸軍軍人として純化していくことを狙っていたのでしょうね。一方で、軍の外のことを知らないまま大人になってしまう。
保阪「・・・昭和の初めの頃まで、陸大合格者のうち一般中学卒業者はわずか一割で、九割は幼年学校出身者だったようですが、学閥が蔓延っていたのは間違いなさそうですね。
川田「幼年学校出身者を優遇して、中学組はたとえ陸大を出ても主流になれなかった。
保阪「ここにも陸軍の問題が潜んでいると思います。エリート同士、仲間内で固まってしまい、よそ者を受け入れない。」(p157)
山下「改めて昭和の陸軍の組織を見てみると、戦後の役所と似ていますよね。年功序列で、学歴主義で、キャリア優遇で。高度成長を経て、バブルが崩壊し、失われた三十年があった。どうやって日本をもう一度輝く日本にするかというビジョンを持っている人が今の霞が関にどれだけいるのか。現代の官僚も、旧陸軍の官僚と似たり寄ったりではないですか。」(p169)

 日本を破滅的な第二次大戦に導いたことについての大きな責任が「昭和陸軍」にあることは、おそらく異論を見ないだろう。
 この座談会では「昭和陸軍」の問題点が議論されているのだが、ここで挙げられたのは主に教育・人事システムである。
 具体的には、
学歴主義(十三、四歳時点での人材の選抜とその後の純粋培養
出身地に基づく派閥の形成・激しい対立(最大派閥は長州閥、その反動としての極端な長州嫌悪:東條英機など)
キャリア優遇(組織内での階層・序列化、陸軍幼年学校出身者に対する露骨な優遇
年功序列(先輩の命令であればどんなに不合理であっても従う=『抗命義務』の放棄を含む。)
などいったところである。
 そして、山下氏が的確に指摘したとおり、「昭和陸軍」の問題点の多くを、”今の霞が関”も抱えている(但し、「出身地に基づく派閥」については、「採用された省庁に基づく派閥」という風に言い換えるのが良いだろう。)。
 実際、つい最近も、”防衛増税”と”所得税減税”を巡ってこの問題点が露呈したように思われる。
 山下氏らが示唆しているように、例えば、某中学・高校をかつての「陸軍幼年学校・士官学校」、T大法学部をかつての「陸軍大学校」、エリート官庁のキャリア組を「陸軍幹部」になぞらえれば、状況の類似性がよく分かるだろう。
 だが、この座談会では触れられていない、「昭和陸軍」と”今の霞が関”との共通点がもう一つある。
 それは、「イニシエーション」(通過儀礼)である。



 
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