Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

ベルリンからバイエルンへ

2024年11月30日 06時30分00秒 | Weblog
  • ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第2番
  • ブルックナー:交響曲第9番 ニ短調(コールス校訂版)
  • [アンコール曲]
  • <ソリストアンコール>
  • ハイドン:ピアノソナタ第53番より 第3楽章
 長年(2002~2018年)ベルリン・フィルの首席指揮者を務め、2023/24シーズンから首席指揮者に就任たサイモン・ラトル率いるバイエルン放送交響楽団の日本公演。
 「ベルリンからバイエルンへ」で思い出したが、ラトルとは反対に「バイエルンからベルリンへ」移ったのがキリル・ペトレンコだった。
 但し、ぺトレンコは、同じバイエルンでも「バイエルン国立歌劇場」の音楽監督だった。
 さて、本日のコンサート:前半はベートーヴェンのピアノ協奏曲2番で、ソリストは2015年ショパン・コンクールの覇者:チョ・ソンジン。
 私は初見だが、楽しそうに・ソツなく弾くピアニストという印象を受けた。
 モーツァルト的な躍動感を前面に出した曲で、ベートーヴェンの若さがあらわれている。
 ソリスト・アンコール曲はハイドンのソナタ53番3楽章で、このピアニストはハイドンがお気に入りのようだ。
 後半はブルックナーの9番で、「愛する神へ」捧げられた曲である。
 私はブルックナーがやや苦手で、曲によっては「騒々しい」と感じることがあるが、この9番は終始気持ちよく聴くことが出来た。
 1楽章で感心したのは、トゥッティの時に本当に一体的な音が出るところである。
 オケ全体がまるで「全身を震わせて音を奏でる一匹のスズムシ」に見えたのである。
 これはやはり指揮者の力が大きいのではないだろうか?
 指揮のスタイルは、「飛び跳ね奏法」に属していると見たが、特徴的なのは「暗譜」と奏者との「アイコンタクト」である。
 目の前に譜面台はなく、当然目線は常に奏者の方に向いている。
 第一ヴァイオリンの奏者を殆ど挑みかかるように睨みつける場面が多々あり、それ以外の奏者にも、タクトだけでなく目で合図している。
 まだ69歳で、高齢でも活躍する人が多い指揮者としてはまだ中堅といったところか。
 とにかく、ラトルの若々しさが目立った一夜であった。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熱情と絶望

2024年11月29日 06時30分00秒 | Weblog
曲目・演目
【オール・ベートーヴェン・プログラム】
ソナタ第1番 ヘ短調 op.2-1
ソナタ第7番 ニ長調 op.10-3
ソナタ第14番 嬰ハ短調 op.27-2「月光」(曲順変更)
――――――――――
ソナタ第27番 ホ短調 op.90
(曲順変更)
ソナタ第23番 ヘ短調 op.57「熱情」
<アンコール曲>
ソナタ第8番「悲愴」より第2楽章

 前回(音楽修辞学)から約1年半ぶりとなるベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全曲演奏会の第5回。
 曲順変更の理由は、「ハイリゲンシュタットの遺書」(1802年10月)の前後で分けて、「絶望」→「熱情」という変容を明らかにするというもの。
 確かに、時系列で聴くと、ベートーヴェンの内面の変容が分かるような気がする。 
 1番は、ハイドンに師事していた頃の作品で、ハイドンに献呈されている。
 だが、躍動感あふれる曲想は、ハイドンというよりは、やはりモーツァルトである。
 実は、ハイドンは余りにも多忙であったため、なかなかベートーヴェンを実地指導する時間が取れなかったらしいのである。
 7番で注目されるのは、2楽章の「ラルゴ・エ・メスト」で、「エ・メスト」
(非常に悲し気に)という語は、深い悲しみを表現すべきことを指示しているらしい。
 「絶望」という言葉がピッタリくるが、3楽章では「春」が訪れたように雰囲気が一変する。
 ちなみに、べ―トーヴェンは、気分の浮き沈みが激しい人であったらしい。
 14番「月光」の今回の解説は、これまでの解説:「ゴルゴダの丘を登るキリスト」とは違っていた。
 ベートーヴェンのメモには、「あまりにも早くこの世から引き離されて、自分の思いをなしえなかった人々の魂・・・」と書かれているらしく、この曲にはそうした鎮魂の意味が込められているようだ。
 23番「熱情」は、仲道さんによれば、「絶望」を克服し、「崇高なる使命」を自覚したベートーヴェンの心境を示しているそうで、「運命」のテーマがこれまで以上に明確かつ執拗に出現する。
 27番も同じく「熱情」の系譜に属する。
 作曲された1814年(44歳)はベートーヴェンの名声が最高潮に達した年であり、ウィーン会議では全ヨーロッパのスターとして遇せられたらしい。

 「ところでウィーン会議における音楽のスターはといえば、誰をおいてもルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンだった。彼は会議に際し、カンタータを1曲、合唱曲3曲を新たに作曲。またロシア皇后のために、ピアノのためのポロネーズ作品89も書いた。さらに会議開催中には、交響曲第7番・第8番、「ウェリントンの勝利」(これは当時ベートーヴェン作品の中でももっともポピュラーだった)といった彼の管弦楽曲が取り上げられ、人々の喝采を浴びた。そしてオペラ「フィデリオ」は30回も上演され、大ヒットとなった。

 「絶望」は「熱情」によって克服できるようである。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

予習不足

2024年11月28日 06時30分00秒 | Weblog
R.シュトラウス
・夜に(C.ブレンターノの詩による「6つの歌」より)op.68 No.1 *
・何もない / 献呈 / 万霊節(『最後の花びら』よりの8つの歌 より)op.10 No.2,1,8 **
・矢車菊 / 芥子の花(『乙女の花』より)op.22 No.1,2 **
・「3つのオフェーリアの歌」(シェイクスピア『ハムレット』より)op.67 No.1,2,3 *
・君は私の心の冠 / あぁ悲しい私、不幸をまとった男(F.ダーンの詩による「5つの素朴な歌」より)op.21 No.2,4 **
・明日の朝 / 密やかな誘い(「4つの歌」より)op.27 No.4,3 **
A.ライマン「子どもの歌」 より No.1,2,3,4,6,8 *
R.シュトラウス
・セレナーデ(「6つの歌」より)op.17 No.2(演奏家の都合によりカット)**・夜(『最後の花びら』よりの8つの歌 より)Op.10 No.3 **
・君の黒髪を私の頭に広げて(『はすの花びら』よりの6つの歌 より)op.19 No.2 **
・私は恋を抱いて(「5つの歌」より)op.32 No.1 **
・憩え、我が心(「4つの歌」より)op.27 No.1 **
・解き放たれて(「5つの歌」より)op.39 No.4 **
・母の自慢話(「3つの古いドイツの歌」より)op.43 No.2  **
・「四つの最後の歌 」 *
[ ソプラノ:天羽 明惠 * / テノール:澤武 紀行 ** / ピアノ:ジークムント・イェルセット ]

 私の大好物であるドイツ・リートのリサイタル。
 今年亡くなったアリベルト・ライマンの1曲:「子どもの歌」を除き全てR.シュトラウスの曲である。
 オペラと交響詩の大家と思われているが、彼は200曲以上のリートを残しているのである。
 しかも、メロディラインがしっかりしており、バラエティに富んでいて飽きさせない。
 「四つの最後の歌」では美しいメロディーとピアノによって穏やかな自然(ひばりの鳴き声も)を表現し、「憩え、我が心」では猛獣のような叫びを響かせ、「母の自慢話」では(澤武さんが女装して鬘をかぶって登場)母が溺愛する娘をコミカルに自慢する、といった具合なのである。
 ただ、問題は、「予習が難しい」ということ。
 オペラもそうだが、外国語の歌を含む芸術作品は、やはり意味を理解しておかないと空回りのおそれがあるので、予習は必須なのである。
 この点、シューマンやシューベルトなどだと、リートの対訳本が多く出ているので、それを読むことで予習が可能である。
 ところが、私の手もとには、R.シュトラウスの対訳本がなかったのである。
 あえて代用するとすれば、109曲の歌詞と日本語訳を搭載している「リートの祝祭」(ひとり別格(1))のパンフレットくらいである。
 これだと、シュトラウスの歌曲は、
・「アモール」(詩:ブレンターノ)
・「ひとつのもの」(詩:アルニム)
・「言ったのよ---それで終わりでないの」(詩:子供の魔法の角笛)
・「セレナーデ」(詩:シャック)
・「黄金色にあふれる中を」(詩:レーマー)
・「満ち足りた幸せ」(詩:リリエンクローン)
・「朝焼け」(詩:リュッケルト)
・「さすらい人の心の安らぎ」(詩:ゲーテ)
・「ひどい天気」(詩:ハイネ)
と9曲が含まれている。
 だが、比べてみると、本番でカットされた「セレナーデ」しかかぶっていない。
 うーむ、シュトラウスの予習用に対訳本をAmazonで買っておこう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月のポトラッチ・カウント(9)

2024年11月27日 06時30分00秒 | Weblog
 「実は、この『ピーア・ド・トロメイ』の中には、ヴェルディの『椿姫』そっくりのメロディーが出て来るんです。」(プレ・トークでの折江忠道総監督の指摘)

 確かに、1幕のピーアのアリアの中には、「椿姫」の「そはかの人か 花から花へ」にかなり似たメロディーが登場する。
 それだけではなく、同じくベルディの「アッティラ」1幕のアリア「亡霊め、あの国境を越えてお前を待つぞ」との類似性も指摘されているそうだ。
 時代的には、ドニゼッティの方が先なので、ヴェルディが「パクった」ということになりそうだ。
 ところが、気の毒にことに、「ピーア・ド・トロメイ」は上演頻度が極めて低いらしいので、このパクリ疑惑はあまり知られていないようである。
 他方、このオペラの筋書きも、初っ端から「オテロ」と酷似しているように感じる人が多いだろう。
 嫉妬と讒言による三角関係の中でヒロインが犠牲になる点が共通しているからである。
 だが、「ピーア」の方は13世紀の実在の人物がモデルとなっているのに対し、「オテロ」の方は1566年にヴェニスで刊行されたツィンツィオの「百物語」第三篇第七話が出典とされている。
 なので、「ピーア」の方が時代的に先であって、そのオリジナル性は疑いようがないということになるだろう。
 つくづく気の毒な「ピーア」とドニゼッティである。
 というわけで、11月のポトラッチ・カウントは、
・「オイディプス王」・・・15.0
・「コロノスのオイディプス」・・・ゼロ
・「アンティゴネ」・・・マイナス(▲)90.0
・「三人吉三巴白波」大川畑庚申塚の場 ・・・1.0
・「ピーア・ド・トロメイ」 ・・・マイナス(▲)95.0 
となり、以上を合計すると、マイナス(▲)169.0となる。
 何といっても、アンティゴネとピーアという二人の女性の崇高な愛と赦しの偉大さを思い知らされた月であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月のポトラッチ・カウント(8)

2024年11月26日 06時30分00秒 | Weblog
 「ピーアは、ネッロ、ギーノ、ロドリーゴ(彼女の弟)という男たちの世で孤独に生きる、うら若い薄幸の少女のシンボルであるが、こういった境涯は他のオペラ作品の劇作法にも見て取れる。例えば「ルチア」では、主人公ルチアの立ち位置が、兄エンリーコ、恋人エドガルド、助言者で聖職者のライモンド、意に添わぬ花婿アルトゥーロという男たちによって生じる緊迫した関係の中核となり、たった一人で彼らに抗う女性ルチアを真に助ける者は誰一人いないのである。善良なライモンドでさえも、最後にはルチアが望まぬ事態へと彼女を追いやることとなる。
 状況は「ピーア・デ・トロメイ」でも同様で、先のライモンドと同じく、心優しい弟であるロドリーゴも、結局はピーアを救うことが出来ないのである。ピーアという登場人物は、ネッロの独占的愛、ギーノの執着的愛、弟ロドリーゴの純愛という、男たち3人による情愛の真っ只中に立たされる。この悲劇は、ギーノの邪心とネッロの残忍さを発端とし、ピーアを我がものとしたい男二人の私欲に虐げられた彼女に死をもたらすこととなる。」(公演パンフレット:『ピーア・デ・トロメイ2024~演出ノート』p34~35)

 演出家:マルコ・ガンディーニによる見事な分析だが、私はちょっとだけ修正したい。
 それは、ネッロ、ギーノ及びロドリーゴのピーアに対する感情は「愛」と呼ぶに値せず、せいぜい「欲」に過ぎないという点である。
 なぜなら、「愛」はあくまで双方向的なものであるが、これはピーアにしか見出すことが出来ないからである。
 もともと教皇派のイエ出身のピーアと、皇帝派のイエ出身のネッロとは、両派を宥和するための政略結婚によって結ばれた仲だった。
 にもかかわらず、ピーアはネッロのことを真に愛するようになったのである(何と人間が出来ていることか!)。
 だが、ネッロは彼女をひたすら独占しようとし、ギーノは彼女から拒まれて恨みを抱き、ネッロに讒言(ほかの男と不貞している)を行う。
 また、演出家が「純愛」と評したロドリーゴの感情も、実は「教皇派v.s.皇帝派」という対立の枠内から一歩も出ない、自己(イエ、つまり集団)中心的なものであった。
 以上に対して、ピーアは、最後までネッロへの愛を貫き、ギーノの讒言は誤解(弟を間男と勘違い)であることを知って彼を赦し、ネッロを殺そうとするロドリーゴを阻止し、「今こそ平和を実現してほしい」と二人に懇願しながら絶命する。
 こうして、ピーアは、3人を「赦し」によって全的に受け入れ、(双方向的な)「愛」によって平和を実現した。
 以上をまとめると、「ピーア・ド・トロメイ」のポトラッチ・ポイントは、ピーアを讒言によって結果的に死に至らしめたギーノは、その代償として命を失ったので、5.0ポイントと認定。
 だが、ピーアは、「愛」の力によって「教皇派v.s.皇帝派」の対立を始めとする劇中のレシプロシテ原理を見事に叩き切ってくれたので、ポトラッチ・ポイントは、アンティゴネと同点のマイナス(▲)100.0!(11月のポトラッチ・カウント(4))と認定。
 よって、差し引きマイナス(▲)95.0ポイントとなる。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月のポトラッチ・カウント(7)

2024年11月25日 06時30分00秒 | Weblog
 「ダンテ・アリギエーリの『神曲』の煉獄篇・第五歌に歌われたピーアの物語。マレンマのラ・ピエトラ城の城主ネッロの妻ピーアに横恋慕するいとこのギーノは、ピーアに拒まれた仕返しに、彼女が不実を働いているとネッロに告発する。じつは、対立するグエルフィ党に属し囚われていた弟のロドリーゴを、ピーアは助けて逃がしたのだった。男のことを問われても口を閉ざすピーアを、ネッロは牢に閉じ込め殺すよう指示する。ギーノは自分の愛に屈すれば救うとピーアに迫るが、貞節なピーアは彼を拒絶する。グエルフィ党との闘いで深手を負ったギーノが、死の間際にピーアの無実を打ち明ける。毒殺を命じてしまったネッロは、必死にピーアのもとへと走るが空しく息絶える。」 

 先日の二期会公演「連隊の娘」(語りと歌)とセットとなるドニゼッティの悲劇オペラで、こちらは藤原歌劇団の主催である。
 上に引用したのは良くできた要約で感心するが、要するに「悲劇のヒロイン」が3人の男から心身ともに傷つけられるが、最後は「愛」と「赦し」によって天国へと旅立つストーリーである。
 どの作品もそうなのだが、私はドニゼッティと言う人物(及び台本作家のサルヴァトーレ・カンマラーノ)、更には主人公であるピーアの精神的な健全さ・高潔さに感嘆せざるを得ない。
 そのおかげで、「連隊の娘」とは全く違う悲劇的な結末だが、終演後、ある種の”浄福感”に浸ることが出来たのである。
 もちろん、これは、ピーア役の迫田美帆さんを始めとする歌い手の皆さんの熱演があったからなのではあるが。
 ところで、この物語の原典はダンテの「神曲」とされているが、その中にあるピーアに関する記述は、「煉獄編」第5歌末尾の以下のくだりのみである。

思い出して下さいませ、ピーアでございます。
 シエーナで生まれました私をマレンマが死なせました。
 そのわけは私にまず珠の指環を贈って
 私を娶った男が存じているのでございます」(p76)
 
 ちなみに、次の第6歌は全く違う場面に移るので、実質この4行を基にして、ドニゼッティ&カンマラーノは、2時間超のオペラを創り上げたのである。
 何という想像力・創造力!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月のポトラッチ・カウント(6)

2024年11月24日 06時30分00秒 | Weblog
 「大川端庚申塚の場」が面白いのは、前半と後半で主役が入れ替わるところだろう。
 前半の主役は、何と言っても「お嬢吉三」である。

 「そこへお嬢吉三が登場。とせに亀戸への道を聞きます。
 とせは、親切に道案内するが、方向が同じだから一緒にいってあげましょうと二人は連れ立って行きます。その時財布が落ちて、大金を持っていることが知れてしまいます。
 お嬢は、人魂が出たといって、怖がるふりをして、とせに近づき、財布を取ってしまい、川へ突き落します。
  太郎衛門が後ろからとびかかるが、それもかわし、太郎衛門の庚申丸も奪います。
 ここで、有名なセリフを。
月も朧に、白魚の かがりも霞む春の空 冷たい風もほろ酔いに 心持よくうかうかと 浮かれ烏のただ一羽 ねぐらへ帰る川端で 棹のしずくか濡れ手で粟 思いがけなく手にいる百両 ほんに今夜は節分(としこし)か 西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落とし 豆だくさんに一文の 銭と違って金包み
こいつぁ 春から 縁起がいいわぇ』」

 そう、この物語は、基本的に「庚申丸」を持っている人物、そうでなければ百両の金を持っている人物が、その時点における主役なのである。
 では、後半はどうなるだろうか?

 「とそこにお坊吉三が登場。一部始終をみていたお坊。お嬢と百両をよこせ、よこさぬのけんかとなります。
  そこに登場するのが、和尚吉三。二人の仲裁に入り、「百両を自分に渡す代わりに自分の腕を切れ」という和尚に、心意気を感じた二人は和尚と義兄弟の契りを交わすことを申し出、百両は和尚が預かり、3人はかための血盃を交わしてその場を去るのです。

 「自分の腕を切れ」という和尚吉三のポトラッチが成功し、百両は和尚が預かることとなり、結果的にお嬢とお坊の命が救われた。
 ・・・まあ、それは良いとして、本筋のテーマであるはずの「お家再興」はどうなったのだろうか?

 「雪に彩られた本郷火の見櫓。和尚吉三は偽首がばれてすでに召し取られ、木戸はあとの二人を召し取るまで固く閉ざされています。木戸の内と外から人目を忍んでやって来たのはお嬢とお坊ですが、二人が召し取られた時には櫓の太鼓をたたいて木戸を開けるという触書(ふれがき)に気付き、お嬢吉三は櫓に登って太鼓をたたきます。すると木戸が開けられ和尚も捕手から逃れることが出来ました。そこへ八百屋久兵衛が現われ、三人は庚申丸と百両を託してお家再興を願います。さらに追手に迫られた三人は、もはやこれまでと互いに刺し違えて壮絶に果てるのでした。」 

 私の推測では、ラストで三人の吉三が死ぬというくだりで、作者の河竹黙阿弥はすっかり満足してしまい、「お家再興」のテーマはどうでもよくなったのではないかと思われる。
 そうでなければ、こんな雑な終わり方はしない。
 というわけで、「三人吉三巴白波」大川畑庚申塚の場のポトラッチ・ポイントは、和尚吉三による「自分の腕を切れ」による1.0ポイント。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月のポトラッチ・カウント(5)

2024年11月23日 06時30分00秒 | Weblog
 「※舞台機構設備の工事を実施するため、当初の発表から公演名、公演日程、料金を変更いたしました

 十一月の歌舞伎座公演は、ふだんと違う”鑑賞教室”風のこじんまりとした公演となった。
 舞台機構設備が老朽化し、保守工事が必要になったためとのこと。
 そういえば、かつての歌舞伎座では、8月には歌舞伎ではなく「三波春夫ショー」が開催され、メンテ期間となっていたらしいので、今回の十一月公演はこれと似た機能を果たしたのではないかと思われる。
 そういうわけで、大掛かりな舞台装置や大道具などは基本的に使用せず、もっぱら役者が動き回ることで芝居を構成することになる。
 具体的には、最初の「ようこそ歌舞伎座へ」では、スクリーンで幸四郎が歌舞伎座裏側をガイドし、虎之介(若い頃の三波春夫に似ている)が「見えを切る」場面などを解説しながら実演する。
 これは初心者や外国の方にとってはありがたいことだろう。
 メインの演目は、2本目の「三人吉三巴白波」大川端庚申塚の場である。

 「ところで題材の三人吉三とは、三人の吉三郎(きちさぶろう)という意味で、巴白浪の白浪は、既述の白浪五人男と同様、盗人という意味です。
 白浪五人男は5人の盗賊、三人吉三は3人の盗賊のお話なんです。
 さて、あらすじに入ります。冒頭部分ー2人の男が、何やら刀を巡って争っています。
 正直この部分はただ傍観していていただけたらと思います。
 というのも、このお話は、もともとお武家さまのお家騒動が軸になった長いお話の一部でした。

 そう、この演目は、本来は「刀」がカギとなる物語であり、これを押さえておかないと本当は訳が分からなくなる。
 刀鑑定を業とするイエの当主:安森源次兵衛は、将軍家から鑑定のために預かった宝刀・庚申丸を何者かに盗まれてしまい、その咎により「お家断絶」の処分を受けていた。
 要するに、ざっくり言うと、「お家再興」の物語であり、その鍵を握るのが「刀」(庚申丸)ということなのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月のポトラッチ・カウント(4)

2024年11月22日 06時30分00秒 | Weblog
 船岩さんの演出でみごとだと思ったのは、各作品の冒頭シーンの設定である。
・「オイディプス王」・・・揺りかごの中の赤ん坊(オイディプス)とそれをあやす母親(イオカステ)
・「コロノスのオイディプス」・・・車いすに乗った父ないし兄(オイディプス)とそれを介護する娘ないし妹(アンティゴネ)
・「アンティゴネ」・・・二人の兄(エテオクレスとポリュネイケス)の遺骸と、それを見つめる妹(アンティゴネ)
という風に、いきなり静止状態にある「身体」、あるいは「死体」を観客に見せつけるのである。
 これは、「アイアース」、「アンティゴネ」、「コロノスのオイディプス」などにおいて、ソフォクレスが繰り返し取り上げてきた「「埋葬」の意義」というテーマを浮き彫りにするものではないかと感じた。
 ソポクレスには、「身体(corpus)」(の一義性)こそが、人間の自由を保障する切り札だと考えていたフシがみられるのである。
 さて、そうは言っても、船岩さんの脚本が完璧かと言えば、私見では、必ずしもそうではないと思う。
 「アンティゴネ」については、以下の2つを問題点として挙げてみる。

① 「いえ、けして、私は、憎しみを頒けるのではなく、愛を頒けると生れついたもの。」(「ギリシア悲劇2 ソポクレス」ソポクレス著、松平千秋訳p176)
 これは、「愛」こそがアンティゴネを駆動していることを完璧に表現したものであり、劇中最重要のセリフである。
 このセリフが無ければ、この劇は成り立たないと言ってよい。
 ところが、私の記憶が正しいとすれば、今回の演出ではこのセリフは出て来なかったと思う(万一違っていたら、ゴメンナサイ!)。
 もしそうだとしたら、これはちょっと考えられないことである。
 例えて言うならば、「葵上」を歌舞伎化した際、「車争い」のビジュアル表現をオミットしてしまった歌舞伎座(10月のポトラッチ・カウント(6))のようなものではなかろうか?

② 「夫ならば、よしんば死んでしまったにしろ、また代りも見つけられます。また子供にしろ、その人の子をなくしたって、他の人から生みもできましょう。ところが両親ともに、二人ながらあの世へ去ってしまったうえは、もう兄弟というものは、一人だっても生まれるはずがありませんもの。」(前掲p196)
 このセリフも、ひとりひとりの人間の「交換不可能性」を指摘する重要なセリフであるが、今回の演出では、
 「(ポリュネイケスは)かけがえのない家族だから・・・」(記憶に基づく再現なので、不正確かもしれない)
というフレーズになっており、アンティゴネの主張が不鮮明になってしまっている。

 ・・・というわけで、「アンティゴネ」においては、クレオンの誤った政治的決定のために、息子(ハイモン)と妻(エウリュディケー)の2人が自殺したので、この2人のポトラッチ・ポイントは10.0(=5.0×2人)。
 これに対し、アンティゴネは、ポリュネイケスとの(生死を超えた)連帯を築くこと、つまり「愛」を実現するために自らの命を捧げたが、これによってあらゆるポトラッチ及びその根底にあるレシプロシテ原理を完膚なきまでにブチ壊した。
 したがって、彼女のポトラッチ・ポイントはマイナス(▲)100.0!と認定する。
 以上を合計すると、「アンティゴネ」のポトラッチ・ポイントは、マイナス(▲)90.0。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月のポトラッチ・カウント(3)

2024年11月21日 06時30分00秒 | Weblog
 次の演目は「コロノスのオイディプス」。
 おそらく上演頻度は決して高くないはずであり、解釈も難しい作品である。
 一つのヒントは、(私がソポクレスの最高傑作と考える)「フィロクテーテース」にある。

 「Sophokles の死から5年を隔てて401年に初めて上演された遺作 ”Oidipous epi Kolonoi”はこの<二重分節>単位の先験性を結局全て Oidipous に託す。自分とデモクラシーを「Oidipous の死」に同定する。自分の死即ち一個人の死に与えられる意味(それらを捕らえる諸々のパラデイクマが示す屈折)、そして Oideipous の死に<神話>上与えられる意味(同上)、の二つを重ね、それぞれが形成する屈折体(小さな社会構造)にデモクラシーの運命を委ねたのである。
 この作品の Oidipous がほとんど Philoktetes の別名であることは疑い無い。完全に無価値かつ有害な存在として見捨てられ駆逐された、その後に突如勝利の切り札として利用されようとする、その点で両者は全く同じ立場に立つ。」(p315)

 そう、オイディプスも、フィロクテーテースと同様に、「完全に無価値かつ有害な存在」とされながら、「勝利の切り札」ともなるという、アンビヴァレントな存在である。
 両者は、「最後の一人」であり、共通するテーマは「二重分節」である。
 さて、舞台上には三作の中でおそらく一番多くの(主要)人物が登場する。
 オイディプス、アンティゴネ、テセウス、クレオン、ポリュネイケス、イスメネ、ハイモン。
 つまり、当時存在したオイディプス・ファミリーのうちエテオクレスを除く全員が揃っており、オイディプスをいわば奪い合う。
 対立の構図は、ポリュネイケス・クレオンと、アンティゴネ・イスメネというもので、結局後者が勝利する。
 もっとも、アンティゴネ・イスメネがオイディプスを手にするわけではなく、彼は「誰のものでもありえない存在」として、アテナイを永遠に守護することとなる。

 「Oidipous は死の予兆が訪れると直ちに Theseus を呼び寄せる(1457ff.)。Oidipous は Theseus に秘訣を授ける(1518ff.)。死の瞬間に二人だけで秘密の場所に行ってそこに Oidipous が埋葬されるようにする。Theseus はその場所を決して誰にも明かさず、ただ後継者だけに伝えて行く、というのである。確かに、これにより Athenai は絶対に奪われない形で持つことがでくる、がしかしそれは、Oideipous がただ単に誰のものでもないのでなく、誰のものでもありえないようになったことに基づくのである。こうして少なくとも Thebai は決して Athenai を侵略しえないのである。戦争、そして或る種の政治は、全て理論的には Oideipous の奪い合いである。」(前掲p321~322)

 というわけで、「コロノスのオイディプス」にポトラッチは出現しなかったので、ポトラッチ・ポイントはゼロ。
 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする