Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

観ていない映画について語る(6)

2024年06月30日 06時30分00秒 | Weblog
 「国語教師と女子高生の娘の間に生まれた子供を密かに自分の子供として育ててきた母親の真実。
 両親と同居している22歳のマイカは、最終学期中に大学を退学。彼女は6歳の妹アニャを連れてカナダに逃れたいと考えていた。実はアニャはマイカが16歳の時に生んだ子供で父親はマイカが通っていた学校の国語教師ヴォイテクであった。その学校の校長であったマイカの母エヴァは、その事実が醜聞になることを恐れ、アニャを自分の娘としていたのだった......。

 今回のテーマは、おそらく、モーセの十戒では「汝の父母を敬え」に相当すると思われる。
 如何にもドラマ的な設定だが、私は、これと酷似した状況の実際の事件(少年事件)を受任したことがあるので、リアルなストーリーとして素直に受け容れた。
 ”親子関係の偽装”という状況が生じてしまう前提として、通常は「世間体を最優先する人物」の存在があるのだが、それがまさしくエヴァである。
 彼女は学校の校長という社会的地位にあり、厳格なマッチョ・ママである。
 彼女は、一般の母親のように、マイカに温かい愛情を注いだことはない。
 彼女の夫いわく、
 「(お前は)マイカのことをひとことでも褒めたことがあるか?
 容易に想像できるとおり、マイカはエヴァの愛情に飢えながら育った。
 アニャを身ごもったときもひたすらエヴァから罵倒され、アニャは社会的にはエヴァの娘とされた。
 つまり、マイカはアニャをエヴァに奪われてしまった。
 マイカいわく、
 「ママは、アニャも、母親でいる権利も盗んだ!
 そこでマイカは、アニャと二人でカナダに逃亡しようとして、ヴォイテクの元に逃れるが、彼は頼りにならない。
 マイカとアニャは、彼の元からも逃れ、汽車で逃亡すべく駅へ向かう。
 汽車の出発を待っていたところにエヴァが現れるが、その時アニャは、エヴァに向かって、
 「ママー!」
と叫び、マイカの計画は失敗に終わる。
 やむなくマイカは一人で汽車に乗って去ろうとするが、彼女に向かって叫ぶアニャの、
 「マイカー!」
という声(私は目をこらしてアニャ役の安田世理ちゃんの口の動きを見ていたが、セリフは「マイカー!」で間違いない)は汽車の音でかき消され、マイカには届かない。
 ・・・という印象的なエンディングだが、この物語の構造は、「二重分節」とみると分かりやすい。
 つまり、エヴァ=A、マイカ=B、アニャ=bの設定で、「Aがbを押さえてしまう」という筋立てなのである(カタリーナ、スケープゴート、フィロクテーテース(13))。
 このような場合、Bとしては、「Aに屈服するか、自ら存在を抹消する(potlatch)しかない。」ところ、マイカ=Bは、「逃亡」という形で自ら存在を抹消すること、すなわち potlatch を選択したというわけである。
 もっとも、アニャがマイカのことを一度も「ママ」と呼ばなかったところからすると、二人の間にはそもそも密接な関係が成立しなかったケースと言えなくもなさそうだ。
 ・・・というわけで、まだ観ていない「デカローグ7」の映画版には、
 「アニャが大声で「マイカー!」と呼ぶが列車の騒音でかき消されて聞こえない
シーンが必ず出てくると推測する。
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教え上手

2024年06月29日 06時30分00秒 | Weblog
 【ダン・タイ・ソン&JJジュン・リ・ブイ デュオ】 
シューベルト:『3つの軍隊行進曲』 ~第1番 - アレグロ・ヴィヴァーチェ、ニ長調 
シューベルト :ロンド イ長調 D 951 Op.107 
ショパン:ムーアの民謡の主題による変奏曲 ニ長調 
プーランク:4手ピアノのためのソナタ FP 8 
プーランク:2台のピアノのためのエレジー 
プーランク:奇想曲ハ長調:世俗カンタータ「仮面舞踏会」のフィナーレに基づく 
【ダン・タイ・ソン ソロ】
 J.S.バッハ/ブゾーニ編:トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調 BWV 564 - アダージョ 
ドビュッシー:映像 第1集 水に映る影 ラモー賛歌 動き 
ショパン:夜想曲第21番 ハ短調 遺作 
ショパン:夜想曲第20番 嬰ハ短調 遺作 
ショパン :3つのエコセーズ Op.72-3 
ショパン :タランテラ 変イ長調 Op.43 
ショパン :マズルカ イ短調 Op.17-4 
ショパン :スケルツォ第2番 変ロ短調 Op.31

 ダン・タイソンが愛弟子: JJジュン・リ・ブイを伴って来日ツアーを開催。
 最前列中央やや左よりという絶好の席を確保し、ダン・タイソンの指使いを注視していると、実に理想的な動きをしている。
 特徴的だと思ったのは、

・手首が極めて柔らかく、その位置が強弱に合わせて上下する(手首から先がムチのようにしなる:【ピアノレッスン】ピアノ奏法最重要!柔らかい手首の作り方|テクニック&練習方法解説)。
・フォルテのとき、指は、鍵盤の「底」を真上から/垂直に押さえる([ピアノ演奏のヒント]響くフォルテの弾き方を解説します:6:36付近~)。
・フォルティッシモでは、「鍵盤上の”蚊”を一本指で捕まえて離さないぞ!」という感じの動き。

といったところ。
 こういう風に、素人が見ても模範的な動きが出来るのだから、教え上手とされるのは当然のことだろう。

 「もっとも多く生徒・元生徒が出場していたのは、言わずとしれた1980年のショパンコンクール優勝者(アジア人初)、ダン・タイ・ソン先生です。前回2015年大会でも、第3位のケイト・リウ、第4位のエリック・ルー(後にリーズ国際コンクールで優勝)、第5位のトニー・ヤンの3人の指導に関わっていたことで大きな注目を集めましたが、その後、2018年にオバーリン音楽院、2020年にニュー・イングランド音楽院の教授職に就き、多忙な演奏活動の傍ら、熱心に教育活動にも取り組んでいます。

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愛、あるいは無秩序を包摂する”森”

2024年06月28日 06時30分00秒 | Weblog
 「今回の演奏会で指揮をするのは、東京フィルの名誉音楽監督であるチョン・ミョンフン。彼は、パリに民衆の劇場「オペラ・バスティーユ」が新しく建った 1990年、この劇場の管弦楽団トップとして『トゥランガリーラ交響曲』を最初の演奏会で演奏してもいる。(もう15年前になるけれども)彼が著者のインタビューに答えて、その理由を次のように語ってくれたことを思い出す。「音楽をやっていくうえで私がもっとも大切に思っているのは、たぶん『精神性』という言葉でしか表現できない何ものかなのです。私がバスティーユのこけら落としコンサートにメシアンの作品を選んだのも、メシアンの精神性が新設されたオペラ劇場に息づき、メシアンの精神性がこれからはじまる新たな冒険を助けてくれるようにと願ったからなのです」。なんと美しい言葉だろうか。「『精神性』という言葉でしか表現できない何ものか」、これこそ「トゥランガリーラ」であり、「愛」であり、メシアンの音楽を貫いて流れている力でなくてなんであろう。

 現代音楽の巨匠:オリヴィエ・メシアンの代表作「トゥルンガリーラ交響曲」を聴くのはこれが初めて。
 ちなみに、私が尊敬するコバケン先生は、現代音楽が大嫌いである(再生のための全否定)。
 なので、コバケン先生がこの曲を指揮することは絶対にないだろう。
 他方、今回指揮をするチョン・ミョンフンは、メシアンから
 「〔チョン・ミョンフンの指揮で〕実現された『トゥランガリーラ交響曲』の壮麗なヴァージョンは、〔わたしが楽譜に加えた〕これらの修正を考慮にいれ、私の全要求に答えている。これこそ良いテンポ、良いダイナミクス、真の感情そして真の喜びである。
と絶賛されている。
 この曲の世界初演を指揮したバーンスタインも、日本初演を指揮した小澤征爾も亡き今、チョン氏は、おそらくメシアン指揮者の第一人者ということになるだろう。
 そういう事情もあってか、3階席までほぼ埋まっており、大盛況。
 チョン氏が、「子どものような耳で聴いてみてください。きっと楽しめると思いますよ」というので、私も、虚心坦懐にこの曲を聴いてみた。
 すると・・・。
 熱帯の森の中の、たくさんの動物たちの叫び声がきこえてくるではないか!
 動物たちの中に特に主導的な存在がいるわけではなく、基本的に各自バラバラに自己主張を行っているが、トゥッティの時はなぜか揃って大音声を奏でる。
 いや、動物たちだけではなく、何やら超自然的な存在の声が、私にとってはなじみ深い「森のBGM」のように響いているようである。
 そう、「オンド・マルトノ」の響きである。
 聴いていると、直観的に、「無秩序を内包する森」というイメージが浮かび上がってくるのである。

Robert Markow さんの解説:
"The keyboard department includes a piano part of solo proportions, glockenspiel, celesta, and vibraphone, all of whose combined sounds reproduce approximately the effect of a Ballinese gamelan ensemble"
「鍵盤楽器のグループは、ピアノ独奏部分、グロッケンシュピール、チェレスタとヴィブラフォンを含み、これら全てを併せた音が、バリのガムランのアンサンブルに近い効果を生み出している。」

 なるほど、ガムランをまねようとしたのか。
 道理で熱帯の森の中に入り込んだ気分になるわけだ。 
 メシアンは、この曲で「愛」を描いたというが、そこに現れたのは、私見では”森”だった。
 もちろん、この”森”が暗喩に過ぎず、「この世界」自体を示していることは言うまでもないだろう。
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扉の中、あるいは心の中の深い闇

2024年06月27日 06時30分00秒 | Weblog
プログラムA
ワーグナー:歌劇『さまよえるオランダ人』序曲
Wagner: "Der fliegende Holländer" Overture
ドビュッシー:歌劇『ペレアスとメリザンド』組曲(ラインスドルフ編)
Debussy: “Pelléas et Mélisande“ Suite (arr. Leinsdorf)
バルトーク:歌劇『青ひげ公の城』(演奏会形式・日本語字幕付)
(メゾソプラノ:エリーナ・ガランチャ、バスバリトン:クリスチャン・ヴァン・ホーン)
Bartók: “Bluebeard's Castle” (Concert Performance, with Japanese subtitles)
(Elīna Garanča, mezzo-soprano / Christian Van Horn, bass-baritone)

 METオーケストラの13年ぶりの来日公演。
 コロナ問題で中止となった2年前に予定していたプログラム(公演チラシ)とは全く異なる演目で、意表を突かれた。
 プログラムAの方が私の好みに合っていたのでこちらを選択。
 すると・・・。
 なんとまあ、オケが大編成なこと!
 ステージから溢れんばかりに団員さんが席を占めている。
 昨日のハンガリー・ブダペスト交響楽団の倍近い人数で、昨年のベルリン・フィル並の陣容である(但し、ヴァイオリン第一主義ではなく、各楽器まんべんなく人数が多い印象)。
 予想どおり、ワーグナーにピッタリの響きで、音量が圧倒的である。
 だが、私の最大のお目当ては、後半のバルトーク「青ひげ公の城」。
 Wikipediaにもあるとおり、台本の元となったのはメーテルリンクの戯曲であり、前半2曲目の「『ペレアスとメリザンド』組曲」(メーテルリンク原作)との関係性が分かる。
 さらに、今回の演目のチョイスについて、ヤニック・ネゼ=セガンはこう語る。

 「バルトークがここにいたら同意しないと思いますが、彼はワーグナー、特に『さまよえるオランダ人』に影響を受けたと考えていますので、この2つはよい組み合わせになったと思います。」(公演プログラムp18)

 確かに、二人の主人公が緊迫する会話を交わしながらストーリーが展開するところは共通している。
 興味深かったのはエンディングで、ユディットが7番目の扉の中に消えた後、青ひげが「もうこれで完全に闇の中だ…」といって、暗闇のなかに消えるシーンである。
 青ひげが「知ろうとしてはいけない」と何度も諭したにもかかわらず、ユディットは全ての扉を開けることに固執し、結局7番目の扉を開けて、中に消えてしまう。
 それぞれの扉は青ひげの心の異なる領域を象徴しているようであるが、7番目の扉を除き、いずれも内部は血に塗れている。
 台本を書いたバラージュ・ベーラは、
 「青ひげに限らず、人間は誰しも心の中に深い闇を抱えているが、ふだんは扉によって閉ざされている。他者は、その扉を決して開いてはならない。もし扉を開き、中に入ってしまおうものなら、その世界に引きずり込まれてしまい、二度と外に出ることが出来なくなってしまう。
とでも言いたかったのではないだろうか?
 ちなみに、青ひげのモデルとされるジル・ド・レは、武術に長け、教養も高く、美男で非常に裕福で、敬虔なキリスト教徒だったそうである。
 そんな模範的な人物も、心に深い闇を抱えていたのである。
 ・・・そう言えば、かつて「関西検察エース」と呼ばれ、弁護士となった後「犯罪被害者支援」の仕事をしていたこの人も、心の中に深い闇を抱えていたのだろうか?

 「大阪高検は25日、準強制性交容疑で弁護士、北川健太郎容疑者(64)=京都府=を逮捕した。北川容疑者は元検事。大阪地検のトップをはじめ、西日本の主要ポストを歴任した「関西検察のエース」として知られ、関係者には衝撃が広がった。
 
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勝利の音楽

2024年06月26日 06時30分00秒 | Weblog
ロッシーニ:歌劇《セヴィリアの理髪師》序曲 
リスト:ピアノ協奏曲第1番 変ホ長調 
チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 Op.64

 久しぶりのコバケン先生ということで、最前列やや右寄りの席を早々とゲット(サントリー・ホールの半分以下の値段!)。
 「コバケン先生が振るハンガリーのオケ、新進気鋭のピアニストとの共演」というと、なにやら既視感が湧いてくる。
 調べると、私にとっては、2016年のハンガリー国立フィル来日公演以来のハンガリー・オケのコンサートなのだった。

リスト:交響詩「レ・プレリュード」
リスト:死の舞踏 (ピアノ:牛田智大)
ドヴォルザーク:交響曲 第9番 ホ短調 Op.95「新世界より」

 この時は、コバケン先生は病気のため来日出来なくなったコチシュの代役だった(しばらくしてコチシュは逝去)。
 オケとの息はピッタリだったが、何しろ、コバケン先生はハンガリー国内では大活躍しており、ハンガリー政府から「第十字功労勲章」を授けられているのだ。
 さて、今回のソリストの亀井さんは、コバケン先生との相性は良さげで(この時は指揮者に畏怖していたのか?:曲の生い立ち)、一つ一つの音を明瞭に際立たせる演奏を心がけていたように見受けられた。
 テーマは "articulation" であろう。
 このことは、アンコールの「ラ・カンパネラ」ではより一層はっきりと感じられた。
 メインのチャイ・5番だが、これが稀に見る名演奏。
 コバケン先生は暗譜なのだが、これが素晴らしい指揮で、私が気付いたのは以下のとおり。

各楽章の冒頭で、先陣を切る奏者に「お願いしますよ」と会釈する。
動きは常に1秒先を行き、指でメインの奏者に先出しの合図する。
合図をする奏者の方を向き、きちんとアイコンタクトをする。
クライマックスでは、観客席上方を指さし、「あそこに向けて音を放って!」というジェスチャーをする。

 とりわけ4楽章のラストは、「勝利の音楽」と呼ぶにふさわしい響きであった。
 演奏終了後、コバケン先生はステージ上を歩き回り、団員さん一人一人と握手をしていた。
 一人一人を尊重するという姿勢が何よりも素晴らしく、これだと、団員さんも気持ちよく演奏できるだろう。
 
 
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地雷野としてのハッピーエンド

2024年06月25日 06時30分00秒 | Weblog
 「第3幕ではリューの死で、ある意味終わっている感じがしますが、それをどのようなハッピーエンドにもっていくか、プッチーニはオペラのハッピーエンドに慣れていなかったので(笑)、かなり悩んだと想像できます。『蝶々夫人』ではハッピーエンドではないけれど、一つの解決策を見出すことができました。ところが、『トゥーランドット』では、リューの死後の展開にはかなり悩み、悩んでいるうちに癌で体力がなくなり、ついには亡くなってしまったのです。
 この最後の部分は地雷野なので、あえて踏み込まないでおきますが、アルファーノによる補完版と、アルファーノの版を短縮し、再編纂したトスカニーニ版があります。現代では初演を指揮したトスカニーニ版が取り上げられることがほとんどで、トスカニーニは初演の際にはプッチーニが断筆したところで指揮棒を置いたことが知られています。
 リューの死によってトゥーランドットは背負っていた重荷を下ろしましたが、そこから解き放たれただけでなく、トゥーランドットの心が浄化されました。でも一足飛びにカラフを愛する、といった具合には、そう簡単に移行するとは思えないので、特別な愛の二重唱をプッチーニは考えていたはずです。アルファーノによるオリジナルの補完版はトゥーランドットの心が解けて彼を受け入れるまでを時間をかけて描いています。」(公演プログラムp59「パッパーノが語る『トゥーランドット』」)

 プッチーニが、ワーグナーの「指環」に対抗して、これを乗り超えるような作品を目ざして「トゥーランドット」を作ったという説が正しいとするならば、リューの死は、「ブリュンヒルデの自己犠牲」と同様の意味を持つはずである。
 この点、プッチーニは、リューを実在の人物:ドーリア(彼の小間使い)をモデルとして造型したようだ(ワーグナー病(2))。
 リューの「自己犠牲」から「ハッピーエンド」へと展開させるというのがプッチーニの意図だったようだが、「指環」を見ても分かるように、ここから「ハッピーエンド」に持っていくためには、奇跡とも言うべき展開が必要である。
 ブリュンヒルデの場合、「自己犠牲」は神々に対するあからさまなポトラッチであり、これが成功して神々は炎に包まれる。
 かつ、指環はもとの占有者=ラインの人魚たちに戻るという形で、アクロバット的に(少なくともワーグナーの中では)「ハッピーエンド」が達成された。
 だが、これを真似するのは、絶対に無理である。
 プッチーニの死後に残された未完のテクストを見て、困ったアルファーノは、「結ばれたトゥーランドットとカラフの前を、リューの遺骸を載せた牛車がゆっくりと進んで行く」というエンディングにしたのだが、これを「ハッピーエンド」というのは難しい。
 リューは、神々に対して勝利したブリュンヒルデのように、トゥーランドットとカラフに対しポトラッチによって”勝利した”わけではないし、何よりも大事な「指環」に相当するものが登場しない。
 なので、プッチーニは、”リング”に上がる前にワーグナーに敗れたようなものである。
 ここは、パッパーノが言う通り、この”地雷野”には踏み込まないというのが、正しい姿勢なのかもしれない。
 ちなみに、これ以外にもおかしなセリフが、第3幕の冒頭に出てくる。

大臣たち「名前を!さもなくば血と!
名を秘めた王子「私に何を望もうと?
ピン「貴方が言われよ、何をお望みか!求めるは愛ですかな?
(p64)

 ラストでトゥーランドットが言い当てる王子の呼び名「愛」を、ピンが最初に言い当ててしまっているのである。
 但し、ここでの「愛」は、文脈上、(吉田鋼太郎さん風に言うと)「『恋』ではなくて、『劣情』のほう」である。
 「なんや、言うてしもてるやん!
 なので、ここは「愛」ではなく、たとえば「女たち」(donne)とでもしておくのが良かったのかもしれない。
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6月のポトラッチ・カウント(5)

2024年06月24日 06時30分00秒 | Weblog
 六月大歌舞伎・夜の部の最後の演目は、「魚屋宗五郎」。
 今年は新春浅草歌舞伎でも上演されている(「周辺」からの逆襲(1))。
 浅草歌舞伎では、尾上松也が宗五郎を上手く演じたが、今回は中村獅童が演じるというので、やはり見る価値がありそう。
 だが、私はこの演目が生理的に嫌いで、獅童見たさよりもこの嫌悪感の方がまさり、今回はスキップした。

・宗五郎は江戸の町の魚屋さん。
・酒飲みで貧乏だったが、美人の妹がいる。お蔦(おつた)ちゃん。
・とあるお殿様が妹に惚れてお屋敷に呼ぶ。
・お殿様が宗五郎にもお金をくれたのでそれをもとでに頑張って商売をして、宗五郎も金持ちになる。
・お蔦ちゃんもお殿様とラブラブで暮らす。
・しかしある日お蔦ちゃんが殺されてしまった。ショック、浮気したのだという。
・悲しいけど浮気したのならしかたがない。宗五郎は妹のために禁酒して、奥さんと一緒に悲しんでいる。
・妹の同輩だったという腰元さんがお参りにやってくる。
・このひとが真相をしゃべる。お蔦ちゃんはは浮気なんてしていない。
・お屋敷に悪人がいて、全然バレバレのうそでお蔦ちゃんがが浮気したと言った。
・お殿様は信じてお蔦ちゃんの話も聞かないで斬った。
・怒った宗五郎は感情の持って行き場がなくて酒を飲み始める。どんどん酔っ払う。
・酔ったイキオイでお殿様に文句を言いに飛び出していく。奥さんが追いかける。
・お殿様のお屋敷。町人が酔っ払って暴れたら斬り殺されてもしかたないのだけど、
お蔦ちゃんの兄ちゃんだと気付いたえらい人が話を聞いてくれる。
・いろいろしゃべったら宗五郎は酔っぱらいなので寝てしまう。
・目が覚めたらお屋敷の庭にいる。そばにお殿様がいる。
・酔いがさめた宗五郎はやばい斬られると思ってあわてるが、お殿様はすごく反省している。
・本当にお蔦ちゃんが好きだったのだ。すごく悲しんでいる。 
・お殿様も宗五郎と同じで酒癖が悪い。なかーま。
・酒は控えようと思うと話すお殿様。ふたりでお蔦ちゃんのことを思って悲しむ。 

 作者の河竹黙阿弥は、「酒乱の役を世話物狂言で演じたい」という五代目尾上菊五郎の要請に応じて、この作品を書いたという。
 そこまでは良いが、黙阿弥は、なぜかこれに「お家横領」と「お蔦の惨殺」を付け加え、後味の悪い作品に仕上げてしまった。
 「お家横領」の方は、江戸時代にあってはお約束のスジだが、「お蔦の惨殺」は、歌舞伎で頻出する「自己犠牲」ではなくて、単なる無駄死に(無駄殺され)である。
 なので、現代の日本人が見ると相当な違和感があるはずなのだが、上演当時(明治16(1883)年)の観客は、おそらく違和感なく受け入れたと思われる。
 というのも、歌舞伎や文楽において、「若い女性が、意味もなくただ惨殺される」シーンが頻出するのは、ニーチェ先生も指摘するとおり、「淫欲」(Wollust) を満たす効果があると思われるからである(「共苦」の正体)。
 要するに、観客のサディズムを満足させてくれるわけである(但し、「魚屋宗五郎」では、殺害シーンそのものは演じられないので、この点では中途半端である。)。
 というわけで、「魚屋宗五郎」において、お蔦は意味なく殺されただけなので、ポトラッチ・ポイントはゼロ。
 以上を総合すると、6月のポトラッチ・カウント(と言っても歌舞伎座の歌舞伎とセルリアンタワーの能のみが対象)は、
・「籠太鼓」・・・0.5
・「妹背山婦女庭訓」三笠山御殿 ・・・5.0
・「南総里見八犬伝」円塚山の場・・・5.0
を合計して、10.5(★★★★★★★★★★+0.5)となる。
 先月(51.0)と比べると少な目なのは、やはり、国立劇場の文楽が今月は東京では開催されないことが大きい。
 そういえば、入札不調で難航していた国立劇場の建て替えの話はどうなったのだろうか?
 この調子だと、文楽の愛好家はどんどん減っていくと思うのだが・・・。
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6月のポトラッチ・カウント(4)

2024年06月23日 06時30分00秒 | Weblog
 「寂寞道人肩柳と名乗る修験者が、本郷円塚山にて村人が見守る前で火定に入った。日没とともに人々が帰ると、暗闇の円塚山に信乃の許婚浜路をさらった左母次郎がやってきた。村雨丸すり替えの話を聞かされた浜路は、信乃のために刀を取り戻そうとして殺されてしまう。これを浜路の腹違いの兄が目撃して仇を討つ。それは入定したはずの寂寞道人こと犬山道節だった。ところが村雨丸を手にしたところに額蔵こと犬川荘助が通りかかり、村雨丸をめぐって両雄の格闘となる。

 六月大歌舞伎・夜の部の最初の演目は、「南総里見八犬伝」円塚山の場。
 「八犬伝」も、江戸時代の悪いところをたっぷりと含んだ物語で、テーマは「お家再興」である。
 この円塚山の場でも、ドロドロで血なまぐさいシーンが目玉となっている。
 浜路は犬塚信乃と婚約しているのだが、彼女に横恋慕する左母次郎は浜路を騙して連れ出し、信乃から騙し取った名刀「村雨丸」を種にして意に従わせようとする。
 信乃は、父から「村雨丸」を古河公方足利成氏に献上する役目を託されていたのだが、偽物をつかまされており、このままでは死罪を免れない。
  そこで、左母次郎は、浜路に、
 「「村雨丸」を返してやるから、その代わりに俺の女になれ
と言い寄った。
 つまり、échange を持ちかけたのである。
 ところが、浜路はこれを拒否し、「村雨丸」を奪い返そうとして、左母次郎の返り討ちに遭って肩を斬られてしまう。 
 そこに突如寂寞道人が現れ、なぜか左母次郎は土壇の中へ引きずり込まれる(このあたりの展開は意味不明であり、「馬鹿馬鹿しい限り」という意見も出てきそう。)。
 実は、寂寞道人は浜路の兄で、彼女は兄に「信乃に「村雨丸」を渡して欲しい」と言い遺して息絶える。
 以上のとおり、浜路は、信乃のため命と引き換えに「村雨丸」を奪い返したことから、「南総里見八犬伝」円塚山の場のポトラッチ・ポイントは、5.0:★★★★★。
 次の「山姥」は、中村萬壽襲名披露狂言。
 併せて、五代目中村梅枝の初舞台となるが、実は、中村獅童の長男:陽喜と次男:夏幹の二人にとっても初舞台である。

 「獅童は昨年11月、「十二月大歌舞伎」の取材会で次男・夏幹さんについて、両手の小指が欠損していることを公表した。・・・
 また「アメリカでは“Challenged”って言う言葉があって」神様から挑戦という使命や課題を与えられた人を意味する。障がいがあるがゆえの体験をポジティブに生かそうという考えがある。その言葉に出会い、獅童は「とってもいい言葉だと思ったんです」と話す。

 観ている人は、おそらくみんな気づかないと思う。
 そういえば、脳出血の後遺症を抱えながら舞台に立ち続ける中村福助も、Challenged の一人だろう。
 
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6月のポトラッチ・カウント(3)

2024年06月22日 06時30分00秒 | Weblog
 次の「義経千本桜」時鳥花有里は所作事なので、法学的・社会学的分析の対象外。
 ということで、昼の部・最後の演目へ。

 「ここに登場する主な3人は、杉酒屋の娘お三輪と恋仲の求女、その求女の元へ夜ごと通う橘姫ですが、『妹背山』は大化の改新をモチーフにしているので、実は求女は藤原鎌足の息子、橘姫は鎌足が滅ぼそうとしている入鹿の妹という設定です。
 「すごいのは、すべてがお三輪の目線で描かれているところです。豆腐買にしろ、官女にしろ、お三輪とは話が全然通じない。お三輪も見知らぬ場所に来てパニックになっているので、相手の言うことがわからない。その孤独感、不安感がうまく表現されている。ですから、お三輪がかわいく見えればいいのではないかと思います」 」 
 「鱶七の言うところの“疑着の相”になるわけですが、それを理由にお三輪は命を奪われてしまいます。
 「刺された後に鱶七から、求女は藤原淡海であると聞かされる。そんなことを何も知らないお三輪が、藤原氏と蘇我氏の争いに巻き込まれ、鱶七の説明で納得して死んでいく。その人のためになったといううれしさになるのか、哀れさになるのか…。なさる方によって違うところですよね」 」

 歌舞伎や文楽ではよくある男一人・女二人の三角関係。
 お三輪は、嫉妬に駆られて”疑着の相”となったため、蘇我入鹿(藤原淡海の宿敵)を倒すための「生き血」を得る目的で殺された。
 要するに、お三輪は、恋人である淡海のために殺され、「犠牲」に供された。
 ここがこの演目の最大のポイントである。

 「「疑着の相」というのは、嫉妬に狂ってなった恐ろしい形相のことです。・・・
 「疑着の相」を顕わしたお三輪は殺されるのですが、殺されたお三輪の生き血は、帝位を奪った大悪人"蘇我入鹿(そがのいるか)"を倒すのに重要な役割を果たすのです。
 まことに奇想天外というか、馬鹿馬鹿しい限りなのですが、そこは歌舞伎ですから許してしまいましょう。蘇我入鹿は、母親の胎内に白い牝鹿の生血を与えた験(げん)によって生まれた怪獣なのです。そしてこの霊力を持つ蘇我入鹿を倒すには、爪黒(つまぐろ)の鹿の血汐と、「疑着の相」ある女の生き血を鹿笛に注いでこれを吹くとき、入鹿は超能力を失ない、その虚を狙って入鹿を斬れば殺すことが出来るというものです。

 このあたりは、一般人には絶対に理解出来ない設定であり、”馬鹿馬鹿しい限り”という評は正当である。
 早い話が、作者:近松半二は、「淡海のために犠牲となるお三輪」を描くために、無理やりこのような設定をひねり出したのだろう。
 彼の作品においては、おそらくどのようなストーリー展開も可能であり、何が起きても不思議ではない。
 ・・・ここで私は、現代のある作家のことを思い出した。

 「話のできる猫、未来を見通すカエル、謎の羊、消滅する象。時間移動、パラレルワールドの扉、消える語り手......。
 これを読んで「もっと聞かせて!」と思った人は、きっと村上春樹の小説のファンだろう。逆に、わずかでも現実に起こりそうなことを書いた小説が好きな人なら、僕と同じく、あんなバカバカしくて不合理な話を、この分だと結末もまともではないなと思いながら何百ページも読む気にはならないはずだ。・・・
 僕にとって村上の小説はとても長くて、信じられないこと(悪い意味で)が書かれているだけでなく、偉大な文学が持つ意義や洞察に欠けている。村上の読者は感銘を受けているのだろうが、僕はヤギの口から出てくる「リトル・ピープル」や、月が2つある世界を読むと、そこにどんな意味があるのか知りたくなる。何の意味もないのなら、奇妙さ自体に価値があるとされているわけだ。・・・
 しまいに僕は、村上の物語に入り込めなくなった。何が起きてもおかしくない世界では、いくら物語が展開してもあまり衝撃を受け得ないからだ。物語の重要な場面に差し掛かり、主人公はどうなるのかと頭を悩ませていたら、彼が10年前の世界に飛んでしまったり、突然2000歳のキツネが登場したり......という経験を僕はしたくない。・・・
 村上はジョージ・オーウェルやフランツ・カフカなど他の作家にさりげなく言及する。音楽家についても同じことをよくやっている(ヤナーチェクやコルトレーンなど)。ひいき目に見れば偉大な作家たちへのオマージュだが、シニカルに見れば自分が偉大な先人に近づいたことを暗に伝えようとしたり、彼らの名声を借りようとしたりする行為だ。

 私も、「バカバカしくて不合理な話」の意義を否定するわけではない。
 時にはこういったもので脳のリフレッシュを図る必要もある。
 だが、何百ページも読んで膨大な時間を費やしたり、安くないお金を払って鑑賞したりするというのは、出来ればやりたくない。
 さて、コリン・ジョイスは、「ジョージ・オーウェルやフランツ・カフカなど他の作家」、「ヤナーチェクやコルトレーン」などの音楽家の名前がこの作家の小説に唐突に出て来る理由を、見事に指摘した。
 要するに、こういう行為の根本にあるのは権威主義であり、心理学的に説明すると、防衛機制の一つである「同一化(同一視)」、「取り入れ」である。
 同じことは、「近松」の姓を勝手に名乗った近松半二についても当てはまるだろう。
 ・・・というわけで、「妹背山婦女庭訓」三笠山御殿において、お三輪は淡海を救うためという理由で命を奪われ、”強制ポトラッチ”の犠牲者となったことから、ポトラッチ・ポイントは、5点:★★★★★。
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6月のポトラッチ・カウント(2)

2024年06月21日 06時30分00秒 | Weblog
 「まずは『上州土産百両首』。
 こちらは、アメリカの作家オー・ヘンリーの短編小説をもとに、昭和になってから作られたお芝居です。オー・ヘンリーの小説といえば、『最後の一葉』『賢者の贈り物』など、人と人との心の通い合いが印象的に描かれているイメージ。こちらのお芝居でも、ふたりの登場人物、正太郎と牙次郎という幼馴染同士の関係性がとてもぐっとくるものになっています。小説を読んでいるような感覚で、物語に入り込めるような作品です。
 今回は、正太郎を中村獅童さん、牙次郎を尾上菊之助さんという、歌舞伎以外のドラマや映画でも活躍の場を広げているお二人が演じますが、このお二人の「コンビ」というのは意外と珍しい組み合わせ…!お芝居の化学反応が楽しみです。」

 江戸時代という絶望の社会もなお一筋の光明が存在したことを示す、あるいは錯覚させてくれる作品は、歌舞伎座では昼の部の最初に上演されることが多いという印象である(もっとも、その後の「自己犠牲強要型」の演目によってイヤ~な気分に陥れられるところまでがお約束ではあるが。)。
 この「上州土産百両首」も、そのような佳作の一つである。
 この演目は、一応、O.ヘンリーの「二十年後」(傑作!)の翻案とされている(なので、江戸時代の実話に基づく作品ではない。)。
 だが、友人同士が年を経て同じ場所で落ち合うが、一人は警官でもう一人は犯罪者であるという設定の共通点を除くと、川村花菱によるほぼオリジナル作品といって良いだろう。
 幼馴染みの正太郎と牙次郎は、共に掏摸になっていたが、互いにそのことを知らないまま、抱き着いた相手の財布を摺ってしまう。
 牙次郎は驚くと「あじゃ!」というのが口癖で、何をやってもドジをするので、周囲の人間たちから蔑まれている(これはおそらく知的障がい者という設定ではなかろうか?)。
 正太郎は、その牙次郎のことを一人前に扱い、牙次郎も正太郎を「兄貴」と呼んで慕っていた。
 牙次郎は、盗み取った紙入れの記載から正太郎の住所を探り当て、再会した正太郎に摺った5両を返すとともに、「足を洗って堅気になろう」と語る。
 それを見ていた正太郎の親分:与一は、「お前は堅気になれ。これで縁を切ろう」と述べて別れの水盃を交わすが、与一の弟分の三次はこれが気に食わず、正太郎と牙次郎に向かって塩を撒く。
 与一の家を出た正太郎と牙次郎は、幼い頃よく遊んでいた待乳山聖天の森を訪ね、「ここで別れて地道に働き、十年後の同じ日、同じ時刻に再会しよう」と誓い合う。
 十年後、正太郎は上州舘林の料亭「たつみ」で板前になっていたところ、たまたま江戸から逃れてきた与一と三次が客として訪れ、予期せぬ再会を果たす。
 正太郎は「たつみ」に婿入りする予定だったが、三次は正太郎の過去をネタに婿入りを妨害するぞと強請を行い、正太郎が牙次郎のために貯めた二百両を脅し取る。
 これでキッパリ縁を切ったつもりの正太郎に対し、三次は次の台詞を放つ。
 「金がなくなりゃ、また来るぜ
 これぞ、「échange における無際限の給付義務」である。
 激高した正太郎は三次と揉み合い、料理用の包丁で三次を殺害し、お尋ね者となる。
 他方で牙次郎は、御用聞き(犯罪者を探す職業人):勘次の家で働いており、百両の懸賞が懸かった罪人を捕らえ、賞金を正太郎に捧げようと張り切っている。
 こうした中、約束の時刻が訪れ、牙次郎は待乳山聖天で正太郎と再会するが、正太郎こそ例の罪人であった。
 大勢の捕手が正太郎を捕らえるが、正太郎は、「牙次郎に手柄を立てさせてやって欲しい」と述べる。
 だが、牙次郎は、
 「俺はもう一文も要らないよ
という決め台詞を放ち、仲間には、「縄を解いて自訴(自首)させてやって欲しい」と懇願する。
 これぞ、「échange の拒絶」である。
 この光景を見て心を打たれた勘次は、正太郎の縄を解く。
 正太郎と牙次郎は肩を組んで、自訴するためお役所へ向かって歩き出すところで幕切れとなる。・・・
 以上の次第で、「上州土産百両首」では、正太郎によるポトラッチは牙次郎によって封じられたため、ポトラッチ・ポイントはゼロ。
 
 
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