「国語教師と女子高生の娘の間に生まれた子供を密かに自分の子供として育ててきた母親の真実。
両親と同居している22歳のマイカは、最終学期中に大学を退学。彼女は6歳の妹アニャを連れてカナダに逃れたいと考えていた。実はアニャはマイカが16歳の時に生んだ子供で父親はマイカが通っていた学校の国語教師ヴォイテクであった。その学校の校長であったマイカの母エヴァは、その事実が醜聞になることを恐れ、アニャを自分の娘としていたのだった......。」
両親と同居している22歳のマイカは、最終学期中に大学を退学。彼女は6歳の妹アニャを連れてカナダに逃れたいと考えていた。実はアニャはマイカが16歳の時に生んだ子供で父親はマイカが通っていた学校の国語教師ヴォイテクであった。その学校の校長であったマイカの母エヴァは、その事実が醜聞になることを恐れ、アニャを自分の娘としていたのだった......。」
今回のテーマは、おそらく、モーセの十戒では「汝の父母を敬え」に相当すると思われる。
如何にもドラマ的な設定だが、私は、これと酷似した状況の実際の事件(少年事件)を受任したことがあるので、リアルなストーリーとして素直に受け容れた。
”親子関係の偽装”という状況が生じてしまう前提として、通常は「世間体を最優先する人物」の存在があるのだが、それがまさしくエヴァである。
彼女は学校の校長という社会的地位にあり、厳格なマッチョ・ママである。
彼女は、一般の母親のように、マイカに温かい愛情を注いだことはない。
彼女の夫いわく、
「(お前は)マイカのことをひとことでも褒めたことがあるか?」
容易に想像できるとおり、マイカはエヴァの愛情に飢えながら育った。
アニャを身ごもったときもひたすらエヴァから罵倒され、アニャは社会的にはエヴァの娘とされた。
つまり、マイカはアニャをエヴァに奪われてしまった。
マイカいわく、
「ママは、アニャも、母親でいる権利も盗んだ!」
そこでマイカは、アニャと二人でカナダに逃亡しようとして、ヴォイテクの元に逃れるが、彼は頼りにならない。
マイカとアニャは、彼の元からも逃れ、汽車で逃亡すべく駅へ向かう。
汽車の出発を待っていたところにエヴァが現れるが、その時アニャは、エヴァに向かって、
「ママー!」
と叫び、マイカの計画は失敗に終わる。
やむなくマイカは一人で汽車に乗って去ろうとするが、彼女に向かって叫ぶアニャの、
「マイカー!」
という声(私は目をこらしてアニャ役の安田世理ちゃんの口の動きを見ていたが、セリフは「マイカー!」で間違いない)は汽車の音でかき消され、マイカには届かない。
・・・という印象的なエンディングだが、この物語の構造は、「二重分節」とみると分かりやすい。
つまり、エヴァ=A、マイカ=B、アニャ=bの設定で、「Aがbを押さえてしまう」という筋立てなのである(カタリーナ、スケープゴート、フィロクテーテース(13))。
このような場合、Bとしては、「Aに屈服するか、自ら存在を抹消する(potlatch)しかない。」ところ、マイカ=Bは、「逃亡」という形で自ら存在を抹消すること、すなわち potlatch を選択したというわけである。
もっとも、アニャがマイカのことを一度も「ママ」と呼ばなかったところからすると、二人の間にはそもそも密接な関係が成立しなかったケースと言えなくもなさそうだ。
・・・というわけで、まだ観ていない「デカローグ7」の映画版には、
「アニャが大声で「マイカー!」と呼ぶが列車の騒音でかき消されて聞こえない」
シーンが必ず出てくると推測する。