Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

言葉にならない

2023年06月30日 06時30分00秒 | Weblog
 「今回上演される〈ロイヤル・セレブレーション〉は、創設振付家フレデリック・アシュトンの傑作中篇「田園の出来事」、ジョージ・バランシンの華やかな“ダイヤモンド”(「ジュエルズ」より)ほか、新作2篇を上演。

 ロイヤル・バレエで感心するのは、音楽を非常に大事にするところである。
 さすがにオケ全員を引き連れてくるわけにはいかないが、今回もヴァイオリンとピアノの一流ソリストが登場した。
 おそらく、その演奏だけでチケット代の3分の1くらいの値打ちがありそうだ。
 さて、最も感銘を受けたのは、アシュトンの「田園の出来事」である。
 初っ端からショパンの「「ドン・ジョヴァンニ」の「お手をどうぞ」の主題による変奏曲」で始まり、思わず笑ってしまう。
 オペラから取り入れたこの曲をバレエに使うとは、ちょっと予想できなかったからである(転用の転用か?)。
 また、序盤の「鍵の行方を巡るドタバタ」のくだりが、何だかクリスタル・パイトの The Statement に似ていて意外である。
 アシュトンとパイトの作風はほぼ真逆だと思うのだが、対極にあるものは相通ずるという例の一つだろうか?
 その感を強くしたのは、ラストの場面で、ベリヤエフ(家庭教師)が、泣き崩れるナターリヤに別れの言葉を告げることが出来ず、彼女のスカーフに黙って頬ずりした後、彼女からもらったバラの花びらをそっと地面に置くシーンである。
 「言葉にならない」感情を抱いたとき、人間は、このように静かで単純な、様式化された動作でもってそれを表現することがある。
 これを極限まで進めたのが日本の能だと思うが、アシュトンの物語バレエにも、これに近いものを感じたのである。
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岩波文庫への接近

2023年06月29日 06時30分00秒 | Weblog
 「もともと本を読むのは好きだったので、ギリシャやローマなど、ヨーロッパの人々が基本的に持っている知識の世界を共有したいと願い、哲学書や文学書を読みあさっています。僕もだんだん、岩波文庫に接近してきました(笑)。うわべだけ勉強しても『40年後にどうなるのか』と考えれば、いま10代のうちに基礎をしっかり固めなければならないと思います。まだまだ『西洋の壁』は厚く、文化の違いも存在しますが、様式の違いはあっても根底に共通する人間性、どの人でも持っている人間らしさを理解できれば、こちらの意識も変わるでしょう。ドビュッシーの音の裏側にあるもの、リストが傾倒したダンテの世界などでも、より深く見えてくるものがあるはずです。

 「岩波文庫への接近」を語る森本さんは、「角川ドワンゴ学園N高校」出身なので、「角川文庫」についてももコメントが欲しいというのは俗人の発想だろう。
 池田卓夫氏は「怖れを知らない若者 」と表現したが、私の感想は、「元祖天然素材、ピアノ界の長嶋茂雄」である。
 弾き始める前に結構な時間を使って精神統一をするところは、上原彩子さんに似ている(ちなみに私はこのルーティンが好きである)。
 テクニック満載の演奏だが、体の動きはパワー系のアレクサンドル・カントロフに似ているし、かすかに鼻歌も聴こえる。
 だが、マイクを持って語り始めると、他の誰とも違う独特の世界が広がる。
 決して話し上手とは思えないが、本質をズバズバ突いた発言が続く。
 私なりに要約すると以下のとおり。

ショパンの幻想ポロネーズは、極めて複雑な技法でつくられた曲で、次に弾く曲とは対照的。
ラモーの和声と、父バッハの対位法という全く異なる作曲技法が、子バッハを経てモーツアルトに継承された。
モーツアルトの幻想曲は、数少ない短調の曲の1つであり、途中でドン・ジョヴァンニのモチーフが出て来るところから分かるとおり、深刻な内容を含んだ曲。彼は愛人にメモ(弾き方なども書いてある)と一緒に楽譜を贈ったが、彼の死後、妻が返還を求めたのに対し愛人は拒否。
ブラームスの幻想曲は、当時作曲した他の曲のモチーフを取り入れつつ、原曲とは違い内面を押し出すテーストになっている。
リストのソナタ風幻想曲は、彼がイタリア旅行で得たインスピレーションを基につくった曲。森本さんが学んでいる学校の対岸(コモ湖)がその場所。

 若いピアニストはどういう方向に進むか分かりにくいものだが、森本さんはまさにその典型である。
 さて、どうなるだろうか?
 
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曲の生い立ち

2023年06月28日 06時30分00秒 | Weblog
 (ラフマニノフの交響曲1番)「初演のときにひどいことを言った人たちが、もしもそこまで言わなくて、ある程度でもあの曲の価値を認めてあげていたら、もっとこの曲の生い立ちは変わってきたと思う・・・」(7分47秒付近~)

満を持して完成した交響曲第1番、1897年3月のペテルブルクでの初演は歴史的な失敗に終わった。作品自体に未熟さはあったとしても、その失敗ぶりは不可解なほど。・・・それよりはペテルブルクとモスクワの音楽界の確執が一因 だった可能性ははるかに高い。有り体に言えば、“ライバル都市に移って調子に乗っている若造が、挨拶もなしにペテルブルクに乗り込んでくる”という構図になってしまったのである。楽員のモチベーションは低下、有力者の視線は冷たく、中でも「ロシア五人組」の一員だったキュイは敵意むき出し、「地獄の住人を喜ばせる」というほぼ罵詈雑言の酷評はよく知られる。新進作曲家にとって、作品への正当な批判や演奏の問題はまだしも、自らへの過剰な悪意は想定を超えていたはずで、スランプに陥ったのも無理からぬことだった。

 マエストロ尾高先生が作曲家の精神状態についてコメントしているが、これで冒頭にお兄さんの「イマージュ」を持ってきた理由が分かるような気がする。
 全くの私見だが、「イマージュ」のテーマは、おそらく人間の心の中の「不安」ではないかと思う。
 そして、これがラフマニノフの交響曲1番につながる流れのように思えたのである。
 初演時、「地獄の住人を喜ばせる」というむき出しの敵意に直面したラフマニノフは、心を病んでしまう(ちなみに、私の依頼者には、親族の一言でうつ病になった方がいて、言葉の恐ろしさを痛感している。)。
 しかも、交響曲1番はその後「封印状態」とされ、演奏機会が極めて少なくなるという不幸な”生い立ち”を経験する。
 だが、尾高氏も指摘するとおり、聴いた人の多くは「結構いい曲だ」と思うはずである。
 なぜなら、交響曲1番は、「僕、ラフマニノフ!」という、素直でストレートな自分らしさに溢れた曲だからである。
 さて、亀井さんの協奏曲2番だが、1楽章前半が予想に反する”重い”音の連続である。
 中学生の頃からセシル・リカドの軽い音に馴染んだ私は、ここでやや面食らった。
 私の印象では、1楽章前半はやや緊張があったようだが(この演奏会は3会場で行われ、この日が初回)、すぐにいつもの熱く戯れる気分(「熱く戯れる」気分とテンポの問題)を取り戻したようである。
 幼い頃からコンクール慣れしているアーティストはこのあたりがさすがである。
  
 

 

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傑作の欠点(9)

2023年06月27日 06時30分00秒 | Weblog
 以上を踏まえて、原作テクスト、さらにそれを超えて原作者の真の意図に出来る限り忠実に内容を修正しようとすれば、どうなるだろうか?
 まず、題名が「ラ・トラヴィアータ」(道を誤った女)のままではダメである。
 「道を誤っ」ているのは「世間」なのだから。
 なので、題名は、「イ・トラヴィアーティ」(道を誤った男ども)とすべきである(ただし、私はイタリア語を知らないので、これが男性複数形で合っているかどうか確信が持てない。)。
 次に、「世間」を体現するジェルモンは、最後まで悪役のままとどめおくべきである。
 これこそが、デュマ・フィスが、小説化する際にわざわざ自身の体験を改変した重要なポイントである。
 つまり、「世間」が二人の仲を裂こうとするのである。
 具体的には、ジェルモンは、2幕の前半にだけ登場し、それ以降は登場せず、ヴィオレッタと和解することもない。
 そして、2幕の後半には、ジョン・ノイマイヤー氏が指摘したように、重要人物であるオランプ嬢を登場させ、ヴィオレッタの眼前でアルフレードとイチャつく場面をつくるべきである。
 もちろん、この後二人は別れ、アルフレードとヴィオレッタがよりを戻すところまでがお約束であるが。
 3幕は、原作のままだと救いがないので、改変が必要だろう。
 アルフレードと和解し、ドゥミ・モンド(裏社会)と訣別したヴィオレッタは、「再び生きる」ことを熱望してアルフレードと婚約するが、婚礼の式の直前で死ぬと言う筋がすわりが良いだろう。
 最後に、これが一番重要だが、3幕のラスト(当然ジェルモンは登場せず、二人きりの場面となる)には、このオペラの”ピーク”が来ることになる。
 それは、2幕6景ラスト("疑似ピーク")のヴィオレッタによる独唱”Amami Alfrefo”と同じ旋律で、いまわの際のヴィオレッタを胸に抱えるアルフレードによる独唱(絶唱):
 「お前を愛している、ヴィオレッタよ!
 「お前が愛してくれたよりももっと強く!
である。
 そして、彼が歌い終えた瞬間、ヴィオレッタは事切れるのである。
 これに対し、ワーグナーが、「これは俺の『トリスタンとイゾルデ』のパクリじゃねえか!」とクレームをつけてくるかもしれないが、それには、「アルフレード(ないしデュマ・フィス)はこの後も生きていくのだから、「愛の死」ではない」とでも反論すればよいだろう。
 
 
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傑作の欠点(8)

2023年06月26日 06時30分00秒 | Weblog
 もっとも、「椿姫」には女衒は登場しないし、ヴィオレッタは、見たところ”自由”を謳歌しているようである。
 確かに、「椿姫」には、「ルデンス」(綱引き)におけるような実力による人身の自由の侵害という問題は出てこない。
 だが、ヴィオレッタは本当に”自由”だったのだろうか?

 「19世紀のフランス社会においては、女性の地位が著しく低かった。端的な例が、1804年に成立したナポレオン法典は213条で、「夫は妻を保護する義務を負い、妻は夫に服従する義務を負う」と定めていた。つまり女性は結婚と同時に夫に従属する存在となり、夫の許可なしでは職業に就くことも、法廷に出ることもかなわなかった。既婚女性が自分名義の銀行口座を自由に開設できるようになったのは、なんと1965年になってからである。それでも結婚できればまだよかった。
 結婚する際には、新婦側は持参金を用意する必要があったので、裕福なブルジョワ家庭同士であれば問題がなくても、持参金の用意が困難な家庭の娘は修道院に入ることも多かった。一方、労働者階級に属する女性たちは、生家が貧しいほど低年齢から働いた。彼女たちに許されていた労働は、メイドや洗濯女、お針子、花屋などの店員、あるいはオペラ歌手か女優などにかぎられ、遅くとも10代のはじめには見習いとしてこうした職業に就いたという。ただし賃金は男性の半分以下と、きわめて低かった。
 このため「椿をもつ女」が書かれた前後のパリでは、手っ取り早く稼ぎを得るべく娼婦になる女性が多かったのだ。

 「椿姫」には「女衒」こそ登場しないものの、当時の法制度と社会慣習は女性の自由(とりわけ職業選択の自由と婚姻の自由)を奪っていたのである(私などは、この記事を読んで、一流大学を出たものの就職難のためソープ嬢になった就職氷河期の女子大生たちのことを思い出してしまった。)。
 ヴィオレッタ(ないしマリー)やデュマ・フィスとその母も被害者であり、デュマ・フィスはたまたま男に生まれて文才があったから、自由になることが出来たのだ。
 「クルチザンヌ」にしても、パトロン=金に依存するわけだから真の自由を手に入れたわけではないし、何よりも”ラ・トラヴィアータ”(道を誤った女)として「世間」から差別を受けるのである。
 こうしてみてくると、「椿姫」において、ヴィオレッタを迫害してその自由を奪っているのは、「世間」あるいはその象徴であるジェルモンであり、「世間」あるいはジェルモンこそが、プラウトゥスの喜劇における「女衒」に相当する存在ということが言えるだろう。
 私などは、"Di Provenza il mar, il suol"(「プロヴァンスの海と陸」)を歌うジェルモンの声が、シューベルトの「魔王」の猫なで声のように聴こえて来るのである。
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傑作の欠点(7)

2023年06月25日 06時30分00秒 | Weblog
 「『椿姫』は息子デュマの出世作であり、最大のヒット作だった。そして同時に、私小説的な作品でもあったのだ。小デュマは本当に、娼婦と恋に落ちたのだった。小説と違っていたのは、男性主人公がブルジョワ家庭の大切な跡取りなどではなく、破天荒な父の30人にのぼるとされた愛人たちの、およそ百人といわれる子供のひとり、それも私生児だったことである。
 もうひとつ大きく違うのは、「別れ」の理由だ。ふたりは「世間」を盾にした父親に引き裂かれたのではなく、「金の切れ目が縁の切れ目」で別れたのである。・・・一説によれば、マリー並みの売れっ子高級娼婦は、日本円に換算して年間二億円程度の維持費がかかったという。複数のパトロンがいて当然だ。・・・
 さて、パリに出て来たマリーはしばらく「お針子」として働いていたが、これは彼女のような女たちがつく職業の典型だった。家賃の安い屋根裏部屋に暮らす彼女たちは、汚れが目立たないように灰色(grise)の服を着ていたため、「グリゼット(grisette)」と呼ばれた。・・・
 デュマの小説がヒロインを美化していることは前に触れたが、その理由はおそらく、恋人がモデルだったためだけではない。デュマの母親は「グリゼット」だった。デュマの『椿姫』が彼女たちのような境遇の女性に肩入れしているのは、母親への思いも関係している。デュマは『椿姫』を通して、道を誤った女たちを、その境遇ゆえに蔑む世間を告発したのだった。もっとも、「穢れた場に身を置く清らかな女性を救い出す」というテーマは、十九世紀の男性芸術家たちに好まれたテーマではあったけれど。」(p236~244)

 なるほど。
 だが、「穢れた場に身を置く清らかな女性を救い出す」というテーマについて、イタリアはとんでもなく長い伝統を持つ。
 それこそキリスト教よりも古い、プラウトゥスの喜劇がまさにそれである。

 「翻訳では「女衒」と訳されている、この言葉自体、説明が必要だよね。日本でも戦前までは身売りというものがあったのを知っているかな。貧しい家の娘が売られちゃうということがあって、こういう娘を買ってきて、それを使って商売をする人のことだ。
 ポイントは、この女衒が女たちをまるで家畜みたいに不自由な状態にしておくということだ。・・・
 ところがプレウシディップスという若者が現れた。ローマの喜劇というのは必ずこのパターンなんだけれど、必ず不自由な女性が出てくる、必ずかっこいい若者が出てくる、それで必ずこの二人は恋に落ちる。で、このかっこいい若者には必ず奴隷身分の切れ者の従者がいて、これがいろいろと作戦を立ててこの二人をハッピーエンドに導く。・・・
 彼女のほうは女衒の手に落ちているから、高いお金を払って解放しなければならない。解放して初めて二人は晴れて結婚できる。大概しかし若者はお金を持っていなくって、でもお父さんは金持ちで、頭のいい従者がお父さんを上手く瞞してお金を出させる、という筋書きが多い。」(p173~174)

 プラウトゥスの喜劇「ルデンス」(「綱引き」)についての解説であるが、「椿姫」の解釈においても参考になる。
 いずれも「娼婦の解放(身請け)」がテーマだが、成功例の喜劇である「ルデンス」に対し、「椿姫」は失敗例の悲劇と見るわけである。
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傑作の欠点(6)

2023年06月24日 06時30分00秒 | Weblog
【ジェルモン】
そうです。
天使のように純真な娘を、神はお与えくださった。
もしアルフレードが、家族のもとへ戻ることを拒むのなら、娘が愛し愛される青年は、そこに嫁ぐことになっている、あの約束を拒むのです。
私たちを喜ばせていた約束を、どうか愛のバラを、茨に変えないようにしてください。
貴女の心が、私の願いに抵抗しませんように。

【ヴィオレッタ】
分かりました、しばらくの間アルフレードと離れていましょう・・・
私には辛いことでしょうが・・・でも・・・

【ジェルモン】
いや、私の願いはそうではない。
【ヴィオレッタ】
これ以上何をお求めに?ずいぶん譲歩しましたのに!
【ジェルモン】
それでは不十分なのです。
【ヴィオレッタ】
永遠の別れを、お望みなのですか?
【ジェルモン】
その必要があるのです!
【ヴィオレッタ】
ああ、嫌です絶対に!
ご存じないのですね、どれほど激しい愛情が、私の胸のうちにあるのかを?
私には友人も、身寄りもこの世にはいないということを?
アルフレードが、それらの代わりになると、誓ってくれたことを?
ご存知ではないのですか、私の体が病魔に侵されているのを?
すでに最後の時が近いというのを?
それでもアルフレードと別れろと?
ああ、あまりにも酷い仕打ちです、いっそ死んだほうがましです。
(中略)
【ジェルモン】
その美しさが時と共に消えたとき、早々に倦怠が頭をよぎる、その時どうなるでしょう
考えてください、貴女にとって、安らぎとはならぬでしょう、最高に甘い愛情も!
というのも、天から祝福された結びつきではないからです。 
 
 
 ストーリーの核心とも言うべき見事なセリフの応酬である。
 アルフレードの妹の婚約者は、アルフレードが高級娼婦「クルチザンヌ」 (詳しくは、「ラ・トラヴィアータ」のヴィオレッタはなぜ「うれしいわ!」と言って死んだのか)であると聞いて、婚約を取り消すと言ってきたため、ジェルモンはあの手この手で「アルフレードと別れて欲しい、二人の関係は”天から祝福された結びつきではないから”」とヴィオレッタに迫る。
 ポイントは、ヴィオレッタが「クルチザンヌ」であること(+その経緯)と、彼女が”友人も、身寄りもこの世にはいない”天涯孤独の身であるということである。
 彼女のモデルであるマリー・デュプレシは、ノルマンディーの行商人の娘に生まれ、アル中とDVのせいで妻に逃げられたヤクザな父から妾奉公に出され、最後はパリで八百屋に売り飛ばされた。
 だが天性の美貌を武器にレストラン経営者の愛人になり、さらに貴族に囲われるなどしてクルチザンヌに上り詰めたのである(公演パンフレットの加藤浩子さんの解説)。
 だが、ヴィオレッタ(あるいはマリー・デュプレシ)は、(パトロンはいるものの)天涯孤独の身であり、いわゆる「最後の一人」である。
 そして、アルフレード(あるいはデュマ・フィス)は、もちろん彼女の美貌のゆえでもあるが、「クルチザンヌ」であり「最後の一人」であるがゆえに、ヴィオレッタを愛するようになったのである。
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傑作の欠点(5)

2023年06月23日 06時30分00秒 | Weblog
 ヴィオレッタ「涙を流したかったのよ・・・もう落ち着いたわ・・・
 お分かりでしょう?・・・貴方に微笑んでいるのよ・・・
 私は、あそこ、あのお花のあいだで、いつも貴方のおそばにいるわ。
 私を愛してね、アルフレード、私が貴方を愛しているくらい・・・さようなら。」(p60)

 「音楽上の欠点」というのは、登山に例えて言えば、「”疑似ピーク”があるのに、”ピーク”が見つからない」ということである。
 上に引用した2幕6景ラストの"Amami, Alfredo!"は、別れを決意したヴィオレッタの絶叫であり、”疑似ピーク”である(なので、多くの聴衆が泣くはずである。)。
 これが”疑似ピーク”だというのは、別れの場面であって、”ピーク”にふさわしい「愛の二重唱」ではなく、ヴィオレッタの独唱となっているからである(そもそも、3幕のオペラで、2幕にピークを持ってくるわけがない。)。
 なので、普通のつくり方だと、同じ旋律が3幕でも登場し、今度は「愛の二重唱」となって、本当の”ピーク”を迎える形となるのが自然である。
 こうした”ダブル・ピーク”構成の典型は「トリスタンとイゾルデ」であり、但し「二重唱」→「独唱」というつくりになっている。
 2幕2場の「愛の二重唱」はクライマックス直前で中断され、「寸止め」の”疑似ピーク”で終わる。
 だが、同じ旋律が3幕ラスト:イゾルデの独唱による「穏やかに静かに彼が微笑んで」(イゾルデの愛の死)によって完成し、見事な”ピーク”(というかエンディング)が出現するのである。
 このあたりの”疑似ピーク”と”ピーク”のつくり方は、やはりワーグナーが上手だった。
 ・・・さて、「椿姫」の場合、音楽上の欠点だけでなく、私見では、ストーリー上の欠点も目立つように思う。
 その原因は、原作テキストの読み方にあるようだ。
 
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傑作の欠点(4)

2023年06月22日 06時30分00秒 | Weblog

 コロナ禍のためなかなか実現しなかった本場イタリアのパレルモ・マッシモ劇場の引っ越し公演。
 ベタな演目ではあるが、観る/聴くたびに新たな発見がある。
 ヴィオレッタ役のエルモネラ・ヤオは、高音部で声が揺れる傾向があり、余り私の好みではないのだが、それを上回る”演技力”が光る。
 例えば、1幕ラストのアリアでは、途中で咳き込む演技が入る。
 なるほど、この時点で死の予兆を盛り込んで悲愴なタッチを加えるのは渋い演出である。
 これによって、どうして彼女が、「喜びから喜びへ」という生の頂点において、「消えていく」ことを望まなければならないのかが理解しやすくなる。
 アルフレード役のフランチェスコ・メーリは、理想的な伸びやかな声のテノール歌手で、私が数十年聴き親しんでいるCDのアルフレード・クラウスより聴いていて心地がよい。
 当然のことながら、オーケストラも素晴らしい。
 他の楽団とは使用する楽器が違うのかと疑うくらい、絶妙な音の強弱と澄んだ管楽器の響きが際立つ(ちなみに、(一部の)国内の楽団とヨーロッパの楽団とでは、同じ曲をほぼ同じ席で聴いていても、音量がまるで違ってきこえることすらある。)。
 さて、何回か観る/聴くうちに、「傑作の欠点」が見えてくるものだが、既に指摘したのは、「オランプ嬢」のくだりをヴェルディがまるまるカットした点であるが、今回気付いたのは、音楽上の欠点と、ストーリー上の欠点である。
 
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プロモーション

2023年06月21日 06時30分00秒 | Weblog

 珍しいことに、主催者から割引招待の手紙が来た。
 「ウズベキスタンの若き巨匠」の初めての東京でのリサイタルである。
 わざわざ割引招待の手紙が来たということは、チケットの売れ行きが芳しくなかったということであり、私などは思わず同情して買ってしまうわけだ。
 しかも、こういうリサイタルに限って、滅多にない曲やパフォーマンスを特等席で味わうことが出来るのである(準備期間10日のコンサートでは、最前列で、素晴らしいパフォーマンスを味わうことが出来た)。
 彼の演奏はやはり高水準で、おそらく今後聴く機会はないであろう、ウズベキスタンの作曲家による「古代ブハラの壁」は新鮮だったが、何よりも「夜のガスパール」が抜群にうまく(というか、この曲を完璧に弾ける人に対して、私は恐怖しか感じない)、ブラヴォーという言葉しか出なかった。
 例によって、”ピアノが猛獣のように暴れ出す”シーンを見ることが出来たのである。
 私見では、”メイン・ディッシュ”にプロコフィエフの「≪ロメオとジュリエット≫からの10の小品」を選んだのがイマイチだったように思う。
 この組曲には、なんと、バレエではクライマックスとも言うべき「バルコニーのパ・ドゥ・ドゥ」が入っていないのである。
 これだと、カツ丼のカツ抜きのようなもので、どうしてプロコフィエフがこれをピアノにアレンジしなかったのか理解できない。
 さて、滅多に来日しない、国内知名度の低いアーティストについては、やはりプロモーションが非常に重要である。
 今回の問題点を挙げるとすれば、上に挙げた選曲もあるが、そもそも名前が日本語では発音しづらいので、例えば「アブ」などという風に、呼びやすいニックネームに変える方法も考えられたと思う。
 また、(実際は難しいかもしれないが、)顔見世的に日本のオケと組んで、ベタの「チャイコフスキー1番」あたりをやっておき、会場でチラシを配りまくるという戦略もあるように思う。
 あるいは、他社が行なっているように、5人くらいのピアニストの公演をセット券にして発売するというのもあるだろう。
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